2015/08/09

旧・帝國陸軍「九九式飛三号受信機」復旧計画(予備調査篇)

北澤川文化遺産保存の会の…

毎年、山の手空襲のあった5月に開催するのが恒例となった
「戦争体験を聴く会・語る会」
が、平成27年5月23日に開催されました。

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51984924.html

その折…

参加者のお一人のIさんが、展示用に、旧・帝国陸軍の、「隼」こと一式戦闘機にも搭載されていたらしい、九九式飛三号無線機の、受信機を持って来られました。

昔、アマチュア無線でもやっていたら、すぐにも食いついたのでしょうけれど、あいにく、こちらは低周波回路、要するに「オーディオアンプ」しかわからず、そのトランジスタ回路ならある程度見当が付くのですが、当然、この受信機は真空管式に決まっているので、およそ、その中身は「ご縁がない」ものであるため、「戦時中なのに結構ちゃんと造ってるよなぁ」などと外観を観察するにとどまっていました。

数日経って…

私が、この会にお誘いしたMさんから、メールが入りました。
曰く
「戦時中、埼玉の桶川にあった熊谷飛行学校の分校の施設が残っていて、そこでボランティアの解説役をされている方の中に、旧・陸軍の無線の専門家が居られる。一度、無線機を持って行って、復活可能かどうかご相談してみては?」

その結果…

Iさんを含め、総勢4名で、現地にお邪魔したのが、先の

旧・帝國陸軍熊谷飛行学校桶川分教場
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-1f66.html

の顛末だったのです。

当の瀬戸山さんは…

うかがってみると、「超」の付く有能な無縁技術者とはいえ、軍の学校時代でも実務でも、地上用の無線機専門だったとのことで、しきりに恐縮されておられましたが、当方にとっては得るところが多く、とくに有益だったのが、瀬戸山さんの机の上に置いてあった

Dsc04358tc2

「古典的パーツのサンプル」。

一言でいえば、当時は、主要部品の
・抵抗器が「竹輪のような形の巻線抵抗器」
・コンデンサが「キャラメルのような色・形のマイカ(雲母)コンデンサ」
が主流だったことがわかっただけでも大収穫でした。

実は、これらのタイプのパーツなら、今から3分の1世紀以上前になってしまいますが、オーディオアンプのパーツを探して、仕事場を抜け出して通った秋葉原とか、出張の空き時間に駆けつけた大阪の日本橋〔東京のは「にんばし」なのですが、こちらは「にっぽんばし」と訓む〕で、さんざん目にしたものだからです。

    ただし、当時すでに、オーディオアンプ用としては、(真空管式でも)抵抗器は酸化金属皮膜抵抗、
    
金属皮膜抵抗、カーボン抵抗が、コンデンサはフィルムコンデンサ、電解コンデンサ、セラミックコ
    ンデンサが、主流になっていて、マイカコンデンサも、音質面から珍重されてはいたが、形はかつ
    てのものと全く違う「DIP」型というものになっていた

当然、こちらも…

桶川にうかがうまで、手をこまねいていたわけではなくて、

一番肝心なパーツである真空管がUS-6F7(こちらは。ナスのような形のガラス菅に入っていてその一番上にも端子がある) か あるいは、それと同一の回路を金属製の「缶」(いわば「真空缶」)に封入したMC-804であること

804型は、今となっては入手困難らしいが、6F7は、今でも、ちゃんと動作テスト済みのものが、1本たったの1400円で入手できること

その他、大まかなスペックとして

通信距離:100Km(対地上)
周波数:受信1,500-6,700kHz
    ただし、今この受信機にセットされている線輪つまりコイルは
    P1060372s


    「4000~6750KC」(キロサイクル=Khzキロヘルツ)用で
    60mバンド 4750 - 5060kHz
        現在は、国内放送に使用。
    49mバンド 5900 - 6200kHz
        同じく、国内放送・国際放送に使用。
        ラジオNIKKEIが使用。冬に多くの放送局が集中する。
電波形式:A2(変調電信)、A3(電話)
    A2=AM、DSB(両側波)、トーン信号(副搬送波)を使用するモールス符号の送信
    A3=AM、DSBの電話
回路方式:スーパーヘテロダイン方式(MC804Ax5)、高周波1段、中間周波2段、低周波2段
    要するに「普通のラジオ」と違いがない

電源:直流変圧器(24V)
    電車に積んであるMGと同じ原理で、航空機の24V電源で回したモーターで、小型発電機を回
    して、真空管用のヒーター用の5Vと、高圧電源の250Vと600Vを発電する
空中線:固定逆L型

といった程度までは、ネット上の検索でわかっていました。

つまりは、桶川にお訪ねした結果
・最重要部品の一つである真空管は、いまでも入手可能らしいこと
み加えて
・同じく抵抗器やコンデンサも、時間をかければ「同じようなパーツ」は入手できそう
(「機能」だけに着目すれば「同等」のいわゆる「代替品」は、あらかたはあるが、後述のように、それを使ってまで動作させる価値があるかは別問題)
というところまではわかったわけです。

と、いうわけで…

関係者向けに作ったリポートは下記のとおり。

【99式飛3のレストア 手順】

1 もともと正常に動いている可能性がある
(1)この機械は、アメリカ軍も
  「大変コンパクトでよくできている」
  と評価していたようだし

  http://home.f04.itscom.net/nyankiti/ki43-sub5-electronic%20network.htm
  戦後もアマチュア無線機として重用されたらしいので、70年間放置されていたわけではなく、
  この間、それなりにメンテしながら無線機あるいは短波ラジオとして使われていた可能性があ
  る(逆にいうと、その間に、パーツがオリジナルのものから変わっている可能性があるが、真
  空管式の受信機が実用されていた時代なら、秋葉原に行けばオリジナルないしそれに近い
  のパーツは入手できたはず、ともいえる)。

(2)ゆえに、手を入れる前に、基本的な動作を確認する必要がある
① カバーをはずす
  といっても、マイナス螺子で、固着つまり錆付いている可能性がある。
  今のとちがって、先端の幅が合ったドライバを使い「緩めるときも押し回し」との鉄則に従わな
  いと、頭がつぶれてしまう危険があり、最悪の場合、ドリルで螺子の頭を削らざるを得なくなる。
② 5本の真空管のフィラメントが点ることを確認する
  内部に5本あるはずの真空管については、6F7というガラス管入りの「普通の真空管」と「804-
  A」という金属ケース入りのとの2つの可能性がある。
  本体後部の「低圧」(A電源)端子に、乾電池3本を直列にしたもの(4.95V)をつなぐと、前者
  の場合はガラス越しに点灯が確認できるので、とこかくも「真空管が『死んではいない』」ことが
  確認できる。
  後者の金属ケース入りの場合には、その方法が使えず、ある程度時間が経ってからケースを
  触って熱くなっているか確認するか、真空管をソケットからはずして、乾電池3本と電流計をつ
  ないだものを、ヒーター端子に接続して電流が流れるかどうか見ることになる。
  ただ、これらの真空管の場合、筐体の一番上にも接点があって、そこにも接続用のキャップを
  通じて回路がつながっているが、そのための電線の絶縁被服のゴムまたは合成樹脂が風化
  していて剥がれる危険がある。
  いずれにしても、このとき
  ・「水晶発振子」の位置や周波数(真空管の次というより真空管以上に壊れやすいので)を調
   べ
  ・その他、場違いな新しいタイプのパーツが使われていないかチェックする
③ 真空管が「死んでいれば」
  交換用タマを調達(6F7なら動作確認済みのが1本1400円で入手可能)して差し替える必
  要がある(804は入手難)。
  今のICやトランジスタの回路と違って、ソケットを使っているので、交換は(上記の「キャップ」
  
への配線には注意が必要だが)比較的容易である。
④ 真空管が「死んでいない」か「交換した」ならば
  本格的に、真空管が動作するための高圧直流電源をつないでみることになる。
  この99飛3には、裏面の端子

  P1060376s
  をみると、250Vと600Vの2つの高圧電源(B電源)がつながることになっている。
  ただし、250Vと600Vとは(完全な解析はまだだが)AGCと呼ばれる自動感度調整装置のON
  /OFFで、切り替えているようなので、当面は直流250V(と、ヒーター用5V)の電源を作ればよ
  
いことになる。
  600Vの安全な電源装置を組み立てようとするとかなりのコストがかかるが、250Vなら真空管
  回路としてごく普通の電圧なので、5000円程度で作ることができる。
⑤ 本来は、最初にB電源をつなぐときは、A電源をつないで十分温まってから、スライダックという
  電圧可変のトランスを使って100V程度から徐々に電圧を上げてゆき、異常な匂いや煙さらに
  は発火がないことを確認しながら、250Vにするのが望ましい。
⑥ 一応動作しているようなら、受話器ジャックにレシーバーをつなぐことになるが、今のところ、そ
  の定格負荷抵抗がわからないし、まずないとは思うが最初から大音量がレシーバーから出ると
  耳を傷めるので、最初は、100円ショップのミニ・アンプと同じくミニスピーカーをつなぐとよい。
⑦ 当然アンテナは必要だが、銅線、鉄線など、金属線ならなんでもよいし、どこにどう通しても火事
  になったりする危険はない。
  なお、長さは受信周波数から計算することになるが、おおまかにいって、戦闘機「隼」の操縦席
  の後ろから尾翼までの長さを想定すれば、戦時中のアンテナ線の長さといえるので、大間違い
  はない。
⑧ この状態で、スピーカーからザーといったノイズが出ているなら、深夜にはどこかの放送を受信
  できる可能性が高い(受信する電波の強度が強ければ、かなりいい加減な装置でも受信できて
  しまうようなので)
⑨ いずれにしても、その後は、高周波のしかも真空管の回路に精通している人に調整してもらうの
  が望ましい。
  この受信機は、軍用といっても基本的には短波ラジオなので、1969年代位まで、遠距離受信か
  アマチュア無線に凝っていた人には(当時は、装置を自作するのが原則だったので)可能と思わ
  れる。
  できれば、きちんと動作する調整用の測定器を持っている人にたのむのが望ましい。
⑩ ただし、基本的にこの受信機は。一般的な短波ラジオと機能的に変わりはないので、あえて復
  旧するなら、コンデンサー(マイカ、オイル)や抵抗(巻線型)など、できるだけオリジナルな部品

  を使わないと、あまり意味がないともいえる。
  2・30年前なら秋葉原に行けばかなり旧いパーツが入手できたが、今では、戦後の、いわゆる
  進駐軍の部品もあまり見かけなくなったので、それもなかなか難しい。
                                                         以上

これからは…

あえて、時間とコストをかけてでも、やってみるかどうかが一番の問題です。

上記の問題をクリアできたとしても、その後の大きなネックが
・水晶発振子が壊れていないか
   これがアウトだと、電子回路のプロの知人によれば、「同じようなパーツ」を探
   すのも難しく」(とくに、耐圧)、「ほぼ同一部品」が奇跡的に見つからないと、
   ほぼお手あげのようです

 【追記】https://twitter.com/tfr_bigmosa/status/621520463148134400 に、
       「陸軍の99式飛3号無線電話機は受信機に同調指示管を追加した飛3号改1を経て
        ローカルオシレータに水晶発振子を用いて安定化させた飛3号改2へと置き換えら
        れた。

       とあって、回路図の読み間違えがなかったことが確認できた。
       それにしても「同調指示管」って、多分「マジックアイ」のことで、一般家庭に置いてあ
       るラジオ(かつて、わが家にあった電蓄についていたし、昭和35年ころ叔父が買った
       真空管式レシーバーにもくっついていた)とか、地上用機なら非常に便利なものの、
       飛びながら、しかも大抵は「敵艦発見」とか「これから戦闘に入る」などといったクリテ
       ィカルなときに、
あれを使って「同調をとれ」というのはかなり無茶。

・コイル類が壊れていないか
   ほとんどが、コンデンサとバリコン(容量可変コンデンサ)がコイルと並列に接
   続された高周波増幅用で、最悪「銅線の巻きなおし」しかないようですが、そ
   れに必要な詳しいスペックが、まだ見つかっていません
にあります。

何分70年以上前の機材ですし、作られた時節柄、使われている素材も信頼できるものとはいえず、まさに「何が起こるかわからない」わけですので。

【追記】

久しぶりに検索してみたら…

「飛五」ながら、ものすごいページがヒットしました。

http://detector.xsrv.jp/tag/%E9%A3%9B%EF%BC%95%E5%8F%B7%E5%8F%97%E4%BF%A1%E6%A9%9F

今後、この「先達」の知見を活かさせていただけるかどうか…

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2015/08/07

旧・帝國陸軍無線機(地上用)の諸元

桶川で…

お目にかかった、瀬戸山さんから、同氏が扱われた無線機の諸元(スペック)などをいくつかご教示いただきました。

以下、標記の統一と「読み易さ」のために、いくつか改行や句読点を追加したほかは、ほぼ原文どおりご紹介します。

地1号無線機

本機は半固定地上用無線機で、出力500w(資料では400w)の長距離通信用無線機。
市ヶ谷でシンガポールとの交信し使用した。
交信と言つても目の前にあるのは受信機だけ、送信所は1~2 km離れた場所(不明、教えてもらえなかつた)にあり、その全容を知ることはできなかった。
昭和20年4月から5月末までの2か月間のうち、何回かの交信のみで縁の薄い機材であつた。 :

地2号無線機

対空2号無線機の後継機として川西が開発した無線器で、昭和19年春ごろから通信学校にも装備された。
対空2号に比べて小型軽量に作られていたが、性能は対空2号に及ぶべくもなかつた。
今でいう「信頼性」が大きく劣って、その原因は機体を構成する金属の不良である。
昭和19年ごろには黄銅板のような導電率の高い金属が無くなっていたのか、アルミニウムの鋳物のようなざらざらした感じの板に部品が取り付けてあり、一見して「粗雑な組立て」の印象を受けた。
通電してみると心配した通り接触不良があり、接地不良が浮遊容量を発生させ、果てはコロナ放電まで引き起こす始末で、これらを克服するのに、教育を受けながら故障排除の技術も学んだ機材でもあつた。
市ヶ谷から大阪へ転進してからは終戦まで地2号を使用したが、接触不良には最後まで悩ませられた。
対空2号のような良い金属が使ってあれば、使用価値の高い機材であつただろうにと惜しまれる。

地3号無線機

情報無線機と呼ばれ、地2号と前後して通信学校に装備された様である。
機材は小型軽量に作られ、情報要員が背負って出頂に登つて通信所を開設し、上空を飛ぶ航空機の情報を後方部隊に伝達するための機材と教えられた。
今から考えれば時代遅れの感じがするが、当時は新鋭機であつた。
自分自身で操作したことはない。

対空2号無線機

地上基地と飛行中の航空機との連絡用無線機、出力300w、地上用無線機としても広く使用された。
昭和18年4月、通信学校に入校して同19年7月卒業まで、及び学校付きの助教として後輩指導に至るまで、対空2号と共に歩いた通信人生であった。
最も旧式な機材でありながら、最も信頼性の高い機材であつた。

思いつくままに機材構成をお知らせすると

送信機 1台 送信機箱
    送信機 水晶発振 2段増幅 300w 格納
l号箱 1箱 受信機箱
    受信機×2台 受話器 電源コード等 格納
2号箱 1箱 予備品箱
    真空管 ヒューズ ランプ ブラシ等 格納
3号箱 1箱 空中線箱
    アンテナポール24本 ロープ12本 金具等 格納
4号箱 1箱 固定品箱
    杭6本 5ポンドハンマー ポール基盤等 格納
5号箱 1箱 工具箱
    ペンチ、 ドライバ、スパナ等手工具多数、格納
6号箱 1箱 遠操具箱
    電信機、遠操線、延線用品等 格納
    「遠操」とは、通信所と送信所を結ぶ有線通信回路の事。
     通信所と送信所は通常1Km前後離れていた。

7号箱 1箱 発動機箱
    エンジン、予備品、工具、回転計、比重計等 格納
発動発電機 1台
    空冷単気筒2サイクルエンジン 1kw発電機 3,000rpm
蓄電池 8個
    出力 DC6v 容量 ??Ah

【付記】以前いただいていた「ム-4号」についてのコメント。
     お使いになったことはないそうですが、水晶発振子の代用品など興味深いので…

「ム-4無線機」ば興味深く拝見しました。…昭和19年秋ごろから、航空機の編隊間通話用として、通達距離のごく短い無線電話機が開発されたと聞いておりましたが、このような機材のことかもしれません。それにしても受信機の真空管全部を6F7に統一とは、真空管の生産も資材不足に悩まされていた状況が良く解ります。
終戦問際は水晶片も枯渇が激しく、ロッシェル塩 (酒石酸カリナトリウム)製の試作品も使用しましたが、ナトリウムの悲しさで吸湿性は如何とも成しがたく、約半年で吸湿の結果厚さが減少し、発振周波数が変化して使い物になりませんでした。
…陸軍内でも航空通信と地上通信では通信体系の違いから、非常の場合は通じませんでしたとなぜ大きな通信集団として考えなかったのでしょうか。
「日本人の島国根性の現れである」と言われればそれまでですが、陸軍では無線、海軍では無電と名称から違いましたが、使用するモールス信号は同じなのに不合理なことでした。

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2015/07/08

タマデン山下の移動(全面決着篇)

今日…

等々力にいつもの用事があったので、これまたいつもどおり*、上野毛の東京都公文書館に行って、懸案だった資料を見てきました。

* http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/02/post-79ca.html 参照

 その一つが、タマデン山下の移動問題。

 目を付けていた資料が、これ

  資料種別 公文書_件名_府市
  綴込番号 1
  公開件名 運輸開始の件認可(世田谷・下高井戸間)【単線式上路鈑桁図】玉川電気鉄道(株)
  文書記号・番号 丑土
  補助件名 単線式上路鈑桁図
  文書年度(和暦) 大正12年~大正14年
  文書年度(西暦) 1923年~1925年
  起案年月日(和暦) 大正14年5月4日
  起案年月日(西暦) 1925年05月04日
  記述レベル item
  作成組織 東京府
  作成主務課1 土木
  内容注記1 関係先名・関係先住所:玉川電気鉄道(株)
  収録先簿冊の資料ID 000130227
  利用可否 利用可
  公開区分 公開
  資料状態 複製利用
  利用状態 問題なし
  複写コード 複製物から複写可
  検索手段 [16]府大14-094,[D]D896
  16mmMFコマ番号 0006-0127
  収録先の名称 地方鉄道
  収録先の請求番号 306.F8.23
  マイクロフィルムリール番号         府大14-094(複製)
  電磁的記録媒体番号 D896-RAM 

果たして…

資料中の

 玉川電気鉄道株式会社・大正14年1月26日付け

 世田谷線〔上町(旧名世田谷)/下高井戸〕間電気軌道新設工事ノ
 中一部工事方法変更認可申請

という、やたらに長ったらしい名前の文書(以下「変更申請書」)の中の

「…理由書」

という、さらに長ったらしい名前の文書には、

 一 停留場名称変更及新設並ニ廃止
 (ハ)通行多キ主要交通路ニ近接シ且ツ近キ将来ヲモ稽[原文
]査シテ
    松澤村大字松原字山下地内ニ停留場ヲ新設シ「山下」ト称ス
       従テ之ニ近接セル「前田」ヲ廃止シタリ

と書かれていました。

原文は Keiorg、本字はKeijpg

つまり…

タマデン山下の移動(再度の現地調査篇)
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/post-0cf6.html

での推測は7割方当たっていて、やはり当初の計画では、当地の停留場は、仮称・赤堤砦道との交点に設ける予定だったことになります。

 ただし、ハズレの方の3割は、
・ここに設ける予定だった停留場の名前は「山下」ではなくて「前田」だった
・手続きの上では、ですが、「前田」が移動して「山下」になったわけではない
ということです。

Maedastnrv
変更申請書中の「各電車停留場設備図」中の前田停留場部分を抜粋して白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

しかし…

この「前田停留場」は最終的には、用地は買収したものの、作られることはなかったことになります*

*【追記】この下線部分については、柳田國男いうところの「しんみり」と考えてみたところ
     プラットホーム位はできていた可能性があることに思い至りました(ただし未供用)。
     この点については。もう少し情報を集めてから。

 おそらく、着工にあたって、実際に調べてみると、仮称・赤堤砦道は古道ではあるものの、松原停留場のある滝坂道方向から北に向かう道の方が当時は通行量が増えていたうえ、「近キ将来」に小田急が開通すれば、(たとえ小田急が、当初の計画通りに、旧松原宿近くの場所に豪徳寺停留場を設けたとしても*その豪徳寺停留場からの乗降客のうち多くが人通りの多いこの道路に出てくることが予想でき、その乗り換えの便宜がよい現在の山下駅の位置に停留場を置く方が、より多くの集客が見込めると「稽査シ」たのだと思われます。

*タマデン山下の移動(現地調査篇)
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/04/post-c4d4.html
 参照

手続き的には…

変更申請書にも明記されているとおり、当初の計画の「前田停留場」が今の「山下駅」の場所に計画段階で「移動」した、というのは正確ではなくて、集客の見込める場所に「山下停留場」を「新設」することになったので、近くに予定されていた「前田停留場」を作っても無駄になるのでこちらは廃止された、ということになります。

 で、その山下停留場の図面が、これ。

Yamashitarv
変更申請書中の「山下停留場附近平面図」を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 上の図で、横方向に走っているのがタマデンですが、これと直交する線が3本描かれています。

 おそらく、
・画面の一番左の三軒茶屋寄りにあるのが、荏原郡病院につながる道路
・画面中央の「く」の字に曲がっている一番太いものが、北澤用水の本流
・その中間にあるのが、北澤用水から、上流(画面上方向)で分流された周辺の田圃へ用水路

と考えられ、つまり、この周囲では、(自然河川を用水化した場合には、ほぼ必然的にそうなるのですが)この用水路というかこのエリアの田圃の方からみると、北澤用水の本流が排水路(悪水路)の役割を果たしていたことになります。

Plandijrv
線路平面図を抜粋して白黒反転
中央を縦方向(略西から東)に流れる北澤用水の本流の左右に
これから分水した用水路があったことがわかる

Rv
変更申請書中の山下停留場附近を抜き出した縦断面図を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 このような場合、どちらの水路を地図上に水路として描くのかは実はなかなか悩ましいところで(下図参照)、

Witchisditch

地図によって、北澤用水路が山下駅の南にあるように見えたり、北にあるように見えたりするのは、おそらくそのせいではないかと、推測しております。

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2015/07/05

旧・帝國陸軍熊谷飛行学校桶川分教場

とある切っ掛けから…

埼玉県桶川市にある、標記のところに

Dsc04347ss

行ってきました。

目的は…

我々が勝手に「無線機のお医者さん」と呼んでいる、瀬戸山定さん

Dsc04360css
無線機とをチェックしたり…

Dsc04358css_3
回路図を読むときは…
普通にお話しているときとは、全く「目付き」がちがう。

にお目にかかり、お知恵をお借りする*ためです。

*詳細は、そちらの目途が付いてから

 瀬戸山さんは、陸軍の航空学校(後の少年飛行学校(少飛))の14期生。

 パイロットになりたくで志願したものの、適性検査の結果無線担当に選別され、それでも、無線通信士として飛行機に搭乗したり外地に行けると思っていたら(そのつもりで日本刀も調達した由。下の写真右から2枚目)(優秀すぎたらしくて、)半年の繰上げ卒業にあたって学校に助教として残され、その後、市谷の陸軍本部詰めの受信係となり(これ自体、物凄い能力だったことを示しています)、昭和20年5月の山の手空襲で周囲が焼け野原になったので、大阪の八尾に転属し、その後ほどなく終戦を迎えた、という、(当時は、「ヒコーキ乗りとして敵機と命のやりとり」をする気で少飛に入ったご本人としては、イライラがつのっただろうことはよくわかりますけど)あくまで「後から考えれば」ではありますが、幸運*と才能に恵まれた方だったようです。

Dsc04363css
右端は飛行服姿ですが、在学中の体験飛行のときのものとか

*【追記】
突然思い出したことがあったのですが、改めて稿を起こすほどの話とも思えませんので…
今後随時、ここに補足することにしました
  5年ほど前に鬼籍に入った父は、あまり戦時中の話はしなかったのですが(内地にはいたものの、
  それだけに
、昭和20年、3月の東京空襲とか8月の廣島とかの悲惨な状態を視察したり、もう前年
  からこの国に物量上も戦争を続ける能力がないことがわかる部署にいたせいだと思います)、酔っ
  て興が乗ったときに
  「軍隊というのは
(「しんにょう」が付く)『運隊』」
  といっておりました
(詳しく聞いてみると、「ほぼ間違いなく」その通りでした)。
  この瀬戸山さんも、おそらくその一人で、
  そもそもの「選択」として、航空学校
を志願せずに、いわゆる「1銭5厘」で徴兵されれば、ただの「一兵卒」。
  その才能を見出されることもなく、どこでどうなっていたかわかりません。
  その後も「ちょっと違っていたら」の話は沢山あるようです。

ここには…

週末になると、解説のためのボランティアの方々が何人も詰めていて

Dsc04383ss
ボランティアさんの控室は、兵舎東端の下士官室跡

瀬戸山さんもそのお一人なのですが、「小学校に上がるころに、この学校ができた」という地元の方とか、

Dsc04385ss
右端

ご高齢のため引退されてしまったそうですが、特攻機の整備士だった方
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51923073.html 参照)
とか多士済々です。

ここの建物は…

Dsc04381tc

Dsc04373ss
荒川左岸の、(たぶん)自然堤防の台地上に建っている

今後桶川市によって保存修理することが決まっていて、現在そのための地盤や建物の一部の解体しての調査が始まっているとのことですが、屋根や壁の部材を含め、ほとんどが昭和12年に建ったときのままとのこと。

Dsc04389ss
調査のために外壁をとりはずしたと思われる場所にあった筋かい
「K筋かい」と呼ばれるタイプだが、筋かいの木材を横長方向に使っていることとあいまって
本当はこれでは「もともと、まともには利かない」
しかも、おそらく戦後住宅として使うときに、切ってしまっているようですので、もはや筋かい
とはいえませんけど

 個人的は、保存修理の際には部材は可能な限り再利用するのが原則とはいえ、あまりに小綺麗に修理された状態よりも、やれていても「本当のオリジナル」の状態の方が個人的には好きなので、今回は、ちょうどよい頃合のときに見ることができたことになります。

Dsc04380ss
兵舎入り口

Dsc04351ss
兵舎北側の三和土(タタキ)の廊下(東方向から)

Dsc04379ss
同上(西方向から)

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廊下上部の小屋(屋根)の架構

Dsc04375ss
北西からみた兵舎全景

Dsc04382ss
敷地南東寄りの車庫棟
看板の左奥に、かつて食堂・浴室棟があった

Dsc04392ss
敷地内に3箇所あった防火水槽のうち残存する1つ
「現役」のようで、フェンスの下部に消防用ホースを通す穴が設けられている

【追記】

読売新聞の平成27年8月10日付け夕刊5面の全面を使って
ズームアップ「特攻訓練 思いを継ぐ」
と題して、ここ、熊谷飛行学校桶川分教場が特集されていた。

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2015/06/15

H270620三田用水ツアー・とれいらぁ

北沢川文化遺産保存の会「都市物語を旅する会」

平成27年6月20日「三田用水を巡るⅡ」(第2期第2区間)

についてのお知らせ。

集合場所について

「代官山駅改札前」を予定しておりましたが、何分余りに狭く、まして週末

で混みあうのが必定のため、下図の「緑矢印」つまり正面口を出たあたり

にしたいと思います。

Daikanyamstn
クリックで拡大します

後のルートを考えるとベストは西口なのですが、さらに狭くて無理。

コースについて

当日お配りする、笹塚の取水圦から、「帳簿上」の流末である白金猿町までの地図のうち、当日のコースをカバーする範囲の抜粋です。

UPできる画像サイズの関係で、時計回りに90度回していますので、右が北です。

0506s
クリックで拡大

今回は、昨年の「溝が谷分水」に続き

・猿楽分水を途中まで

・銭瓶窪左岸分水(白金分水)を流末まで

下ります。

では、お楽しみに。

【重要】

資料(カラー版全16ページなので、当日のコピーは無理)の準備の都合上、3日前までに予約が必要です。

予約の連絡先は、下記リンク先の「4」の末尾をご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2015-05-31.html

【追記】2016/06/17

面白ポイントをみつけましたので、水路探検からちょっと15分ほど「寄り道」します。

資料の改訂もできましたので、当日の配布をお楽しみに。

【追記】2016/06/28

その「面白ポイント」は、ここ

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/SxSyounennSansoh.htm#DateatoYumeji

です。

                          きゅれいたぁ 木村

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2015/05/24

東京都民教会の椅子

2015年5月23日に開催された…

北沢川文化遺産保存の会の「戦争体験を聴く会・語る会」の会場は、下北沢西南にある東京都民教会というプロテスタント系の教会の教会堂でした。

初めてお邪魔した堂内は、縦長のスリット状のステンドグラスを通じて光が差し込む、シンプル・モダンな、とても清々しい造りが素晴らしかったのですが…

Dsc03992s

Dsc04107s

個人的事情ではありますが…

何より感激してしまったのは、エントランス・ホールに並べて置かれている、2つの「第三代教会堂のベンチ」。

Dsc04138s

 座った途端に、60年も前の記憶が甦ってしまいました。

幼い頃に…

品川区の大井町に住んでいて、当時通っていた幼稚園は、大井バプテスト教会附属「あけぼの幼稚園」というところなのですが、日曜学校に行って座っていた教会堂の椅子は、これと同じようなニス塗りの木製の椅子でした。

 とくに、座って、丸みを帯びた座面の前端を撫でていると、幼いころの「日曜学校の椅子」と、まさに同じ感触です。

 説明文を読むと、それもそのはず、この椅子は、第二代目の教会堂が、昭和20年5月25日の山の手空襲で焼失し、昭和25年12月17日に再建のうえ献堂された第三代目の教会堂の椅子だったのです。

 つまり、この椅子は、筆者の「日曜学校の椅子」と同世代、というより、驚くことに、その第三代の教会堂が献堂された日は(クリスマスに何とか間に合わせたのでしょうけど)、筆者の誕生日の1日前だったのです。

この「日曜学校の椅子」の…

「そっくりさん」の縁を、懐かしさから、何度も撫でているうち、日曜学校でもらった綺麗な色刷りの小さなカードとか、イースターの卵とか、いろいろと、大昔の記憶が甦ってきてしまいました。

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2015/04/23

タマデン山下の移動(現地調査篇)

「山下1号踏切」に…

2015年4月11日に行ってきました。

Dsc03224s

要するに、前編の「仮称・赤堤砦道」が、旧・タマデン高井戸線とクロスする場所です。

ここから、北、つまり下高井戸方面を見ると
Dsc03230s

踏切に向かって、下り勾配で、浅い切通しの中を線路が下って来ていることが分かります。

今度は、南の現・山下駅方向。低い築堤の上を山下に向かって下っています。

    【追記】
    山下方向への勾配については、続編 参照

Dsc03232s

つまり、この山下1号踏切の前後では、
・北側の切通しと南側の築堤によって、旧・北沢川の河岸段丘の勾配を緩和してクリアし
かつ、それらで
・旧道の「仮称・赤堤砦道」とクロスするこの踏切の位置で、線路と道路の高さを合わせる
ようにしているわけです。

Dsc03227s
ここが、下高井戸周辺史雑記さん も指摘されている、1号踏切横の上り線にある「悩ましい線路脇の空地」
この(今では無意味な)空地があることから、当初はここを山下停留場にする意図で、この土地を買収したのではないかと、考えているわけです。

玉電「山下停留場」と小田急「豪徳寺裏停留場」はどこにあったのか

前編に示した「豪徳寺裏停留場設計平面図」
には、豪徳寺裏停留場から直線的に画面右下つまり北西方向の道路が伸び、その先に略正方形の建物が描かれています。

Oergoutokujiura

そして、この建物は、先の小田急線の工事中の写真の奥の右にある、玉電の山下停留所の駅舎とおぼしき建物と位置が一致しているように見えます。

改めてスキャンした、やや鮮明な写真を載せておきます。Tocross

実は、この図面が含まれている東京都公文書館所蔵の「土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)」の中には、小田急の豪徳寺裏停留場の位置を示す図面が、もう1枚あって、それが
「敷設線路実測平面図」
なのですが、こちらの図面の一部を白黒反転して、「停留場設計平面図」の方を赤線にして重ねてみると

Tocrossplans

「敷設線路実測平面図」の方では、豪徳寺裏停留場中心(左端近くの赤線)が「停留場設計平面図」(中央)のそれよりもはるか東にあることがわかります。

現況、というより、複々線化工事前の豪徳寺駅の位置が「停留場設計平面図」と合致しているところからみて、先に作られたと考えられる「敷設線路実測平面」が作成された時点では、この停留場は、後の豪徳寺駅よりも東の、まさに、松原宿と前田とを結ぶ、仮称「赤堤砦道」に接する集落の中に設けることが予定されていたようなのです。

前編でご説明したように、松原宿から前田を経て中世の世田谷吉良氏の時代の赤堤砦に通じる道は、当地の主要道の一つだったので、小田急が、上記の「敷設線路実測平面」のように「赤堤砦道」近くに停留場を設けることは合理的ですし、前編のとおり玉電の場合も同様のはずなのです。

しかし、上の写真のとおり、

・玉電側も、上の写真から、小田急線の工事中から、すでに「赤堤砦道」ではなく、それより南の小田急の線路のすぐ北に山下停留場を設けていたらしいことがわかりますし、
・小田急は小田急で、「停留場設計平面図」の段階で、従前の計画よりも「豪徳寺裏停留場」を西の玉電との連絡に便利な場所に移動させている

ことになります。

一応の結論

玉電側も、小田急側も、それぞれ「相手」がいなければ、何も好き好んで北沢用水沿いの「ドボドボ」の場所に停留場を作る必要はないので、玉電としては、小田急の計画が明らかになる前の段階では、今の位置に山下停留場を設けようとする道理がなく、小田急側も、玉電が今の位置に山下停留場を設けるので無ければ、後の豪徳寺駅の位置に豪徳寺裏停留場を設けようとはしなかったはずです。

そのため、両社のどちらも当初の計画段階では、集客上有利な「赤堤砦道」に接した位置に停留場を設けるように設計していたものの、

小田急側では、遅くも実際の着工のときまでに、
  これは、先の「停留場設計平面図」から明らか
玉電側も小田急の工事の段階で、というよりも、おそらく小田急開通の3年程前の高井戸線開通時から
  当初の段階で「赤堤砦道」に接して停留場を設けたとすれば、その部分、つまり現山下1号踏切前後
    の線路は、勾配を無くすか、少なくとも、法令上100分の1(10‰)以下の緩い勾配にしたはずです
  が、現況では、北方の稜線から現・山下駅に向かってほぼ均等な勾配となっています。
   
【参考】
  
軌道建設規定〔大正12年12月29日 内務、鉄道省令〕
  第16条2項
  停留場ニ於ケル本線路ノ勾配ハ百分ノ一ヨリ急ナルコトヲ得ス

それぞれ相手の線路に近い場所に停留場を設けるように設計変更していたと考えるのが、一番合理的な推論かと思います。

■「再度の現地調査篇」はこちら

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/post-0cf6.html

オマケ画像

Dsc03220tcs
「世田谷の家」と200形ゆかりのカラリングの300形

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2015/03/29

タマデン山下の移動

昨3月28日…

北沢川緑道と茶沢通りがクロスする橋場橋脇で、北沢川文化遺産保存の会のお花見時恒例の文化地図(今回から、第6版)配りのお手伝いをしてきました。

その折、「古地図の差入れ」があって、これが、大正14年9月15日発行の東京日日新聞付録「最新大東亰地図」*

*とくに明治時代は,中国の「東京」(トンキン)との混同を避けるため、
 
日本の東京については「亰」の字を使うことが多かったようです。

何分1世紀近く前の、あまり紙質のよくない紙なので、裏打ちして保存することになり、その前にデジタル・データ化するためお預かりしてきたのですが…

幸い…

折り目を開かずに見える面に、今の小田急線の豪徳寺駅を中心とする地域が描かれていました。

大正14年の地図なので小田急線は未開通のため、予定線の点線状態。

直前の大正14年5月1日に開通している玉川電気鉄道の高井戸線(現・東急世田谷線)は、実線ですが、問題は山下停留場の位置。

今の山下駅は、北沢川緑道、つまり旧北澤用水の南で、用水と小田急線との間にあるのですが、この地図では、用水の北にあります。

Yamashitastnwide_2

もっとも、この辺りから北の赤堤にかけての地域は、比較的早い時期に区画整理が進み、そのときに用水路も直流化されているので、単順に今の緑道との位置関係だけで判断はできないのですが、かつて、桜上水Confidential さんも巻き込む形で

下高井戸周辺史雑記 で 川俣さんが「山下の移動

について触れておられていたこともあり、この機会に、少し気をいれて考えてみることにしました。

小田急線開通直前の写真では…

Yamashitastnpreodakyu
東京都世田谷区編「世田谷近・現代史」同区/昭和51年9月30日・刊 p.606 より

この写真では、小田急線の築堤と、玉電を跨ぐ跨線橋の橋台はできているものの、橋桁は工事未了の段階ですが、玉電の方は、小田急線に近い位置に待合所(したがってホームも)設けられていたらしいことがわかります。

さらに遡って、小田急線がまだ計画段階で、一部の用地の土地収用が必要だったころの図面を見ると…

Oergoutokujiura
東京都公文書館・蔵
【公開件名】
土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
【収録先の名称】
地理・土地収用 冊の12 , 地理・土地収用 冊の13
【収録先の請求番号】
305.F6.06 , 305.F6.07 
【電磁的記録媒体番号】
D895-RAM
(抜粋)
 

玉電の線路まで将来の接続を考慮した取り付け道路らしきものが見えます。

しかし、玉電の当初の計画時に、影も形もなかったはずの小田急との接続を考慮するはずはありませんし、それをおいても、とくに必要があれば別ですが、今のような北澤用水のいわば谷底に停留場を作るというのも、どうも不自然です*

*たとえば、豪徳寺前停留場は、谷底ですが、これはお寺への参詣客への便宜のためでしょう
 これに対し、今の宮ノ坂駅は烏山用水の谷底ですが、旧・宮の坂停留場は、北澤・烏山両用
 水の間の高台にあります(下図参照)。

【資料映像】
Yamashitanorth
現・山下駅から北方向を撮影
列車右の木のある部分が、旧・北澤用水

【資料映像】
Yamashitaeast
線路東側の旧・北澤用水

【資料映像】
Yamashitawest
こちらは、線路の西側
区画整理+緑道整備で、元農業用水跡とはとても思えない

「用水」といっても、北澤用水は、自然の川に玉川上水の水を注ぎ込んでいるので、
用水路は低い場所を流れています。
そのため、山下駅から北を見ると、かなりの急勾配を列車が下りてくるのが解ります。

【資料映像】
Yamashitanorth2
【追記】
正面の「三井生命」の手前が、次の「現地調査編」で採り上げる「山下1号踏切」

そこで…

先の地図を細かくみてみると…

Yamashitastncup

どうやら、この山下停留場は、地図の「前田」と「新井」を結ぶ道路にからめて位置決めされたように見えます。

そのつもりでよく見ると、少なくとも、この高井戸線に関する限り、停留場は、松蔭神社前、世田谷、上町、宮の坂など、この地図上で太く描かれている道路、ということは、近世(あるいは中世)以来の、この地域の主要道との交点に設けられていることが多いことがわかります。

これは、考えてみれば当たり前で、そのような道であれば人通りも多く、うまくすれば沿道に街場も発達しているはずで、当然多くの乗客を見込めるからです。

とくに、山下の一つ南の、旧・宮の坂停留場は、「中世の甲州道中」といわれている、府中道あるいは滝坂道と呼ばれる世田谷の「古道中の古道」との交点に設けられています。

【資料映像】
Exmiyanosakastn
旧・宮の坂停留場(下り線)側を北方向から撮影
画面手前を左右に走るのが滝坂道
道路が踏切の向こうの手前側で広がっている部分がホームの場所といわれる。


その観点からみると、小田急との接続を想定しなければ、この山下停留場も、先ほどの前田-新井間の道との交点に設ける方が合理的ですし、この道自体、その東、中世の世田谷吉良氏の時代には宿場か間違っても街場があったことがほぼ確実な松原宿で、先の滝坂道と分岐して、吉良氏の出城の一つである赤堤砦に通じる道なのですから、

Yamashitamap
なおさら、といえるでしょう。

「現地調査篇」はこちら

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/04/post-c4d4.html

                                             -続く-

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2014/08/25

Re:Web東京荏原都市物語資料館::下北沢X新聞(2629)~疎開学童音楽バンド物語4~

[学童疎開の動画画像]

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51954800.html

に関連して、その文中の「みどりバンド」の映像がないかと探しているうち、戦時中の学童疎開について、かなりの量の映像がネット上にあることがわかりましたので、まずは、そのご報告。

■世田谷区の梅ヶ丘駅北にある肢体不自由児のための学校「光明学園」(こうめいがくえん)の戦時中の学童疎開を取り上げた番組です。

この学校とその学童疎開については、手持の本で知っていたのですが、最近、こんな放送があったとは知りませんでした。
モロ著作権法違反のアップロードですので、ご興味がありましたら最優先で。

NHK2014 肢体不自由児の学童疎開 1/4 差別と戦った校長・教員
http://youtu.be/5oN4NAb4uik

NHK2014 肢体不自由児の学童疎開 1/4 差別と戦った校長・教員
http://youtu.be/gSBnIrGLQPU

NHK2014 肢体不自由児の学童疎開 3/4 差別と戦った校長・教員
http://youtu.be/I6Zb1LOltws

NHK2014 肢体不自由児の学童疎開 3/4 差別と戦った校長・教員
http://youtu.be/zTi9ZGqmd_0

■長谷戸というと多分渋谷区の国民学校児童の、静岡への疎開の記録。
時期や撮り方からみて、当時の日本ニュース社の映像と思いますが、世田谷区の児童とほぼ同一境遇という意味で、必見でしょう。

東京都長谷戸国民学校疎開学寮生活 其の1
http://youtu.be/wG80B34u1Mo

東京都長谷戸国民学校疎開学寮生活 其の2
http://youtu.be/8t_dz4rQXtQ

■これは何かのテレビ番組らしいのですが、学童疎開のシーンがあります。
まだ後編が見つかりません。見つけた方は、ここにご報告を。

『戦争のなかのこどもたち』 前編
http://youtu.be/v5aUx9gNM7Q

【余談】
従前から気になっていたのが、この映像の終わり近く。
連合軍が、多分東京に進駐してゆく道路脇を日本兵が警備していますが、日本兵は小銃を持っています。
と、いうことは、連合軍側も、旧日本軍の統率能力を、それなりに信用していたことを示していると思います。

終戦直後の農村風景 .
http://youtu.be/glm6fNlTs0A

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