2019/11/26

代澤國民学校の疎開列車

■先にお報せしたとおり

ミドリ楽団を率いた、代澤国民学校(昭和19年当時)教諭の浜舘菊雄教諭の
「学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録」太平出版社/1971年・刊
を入手しました。

その疎開児童の帰趨についてはきむらけん先生の4部作中
・鉛筆部隊と特攻隊
・ミドリ楽団物語
で、詳細にわかるのですが、当方の興味は、もともとは、そういった個々の事例ではなく、当時の学童疎開制度というのはどにのようなもので、とくに、関係機関がそのためにどのように連携していたのか、にありました。
(とても、そこまで研究・追求する気力も時間もありませんけど、同じ第2次大戦中、イギリスもドイツのV型ロケットに対応して、子供たちを都市部から郊外に疎開させたとのこと。当時は、日英は、敵対国ですので相互に垂範しあったわけもないので、双方の疎開制度の思想や手法を比較対照して共通項を抽出できれば、この先、たとえば、地域紛争などの場合、国連などで〔はっきり言って、大抵は、大人については、どちらにも「好きにやらせる」ほかない場合が多いので〕、せめて子供たちだけは紛争地域から遠ざける手法として使える可能性もあるのではないかと思っています。)

■代沢国民学校の児童を輸送した列車

そのような観点から、まず、知りたかったのは、代沢小の児童を、新宿から松本まで、いかにできるだけ安全に移動させるために、どのような列車で移動させたのか、にありました。

今回の浜館書でわかったのは、代沢小児童の疎開児童の移動手段は
新宿 昭和19年8月12日 午後11時50分 発 (前掲書p.19)
松本 同年   同月12日 午前10時00分 着 (同  p.30)
の「疎開臨時列車」でした。

そこで、その昭和19年当時の中央線のダイヤ(19年4月1日訂補)
http://cyuouline.la.coocan.jp/page031.html
をみてみると
当時の、新宿発の下りの定期列車の最終旅客列車は
新宿 23時25分発 の403レ列車で 松本 08時35分着
である(但し、0時55分発の八王子から4時22分の甲府着までは、今でいう快速型の運行で停車駅は少ない)*

*なお、すでにこの当時、中央(東)線は、新宿から甲府までは電化されていて、この種の快速運転がし易い状況にあったらしい。ただし、複線化されていたのは新宿・八王子(か浅川〔現・高尾〕)間にとどまっていたようだ。

つまり、臨時疎開列車は、15分先発の定期旅客列車と、いわゆる並行ダイヤであれば、この疎開臨時列車は、08時50分には松本に到着していたはすであり、ごこかで、1時間10分をロスしていたこになる(といっても、直観的には「臨時列車としては、よくその程度で済んだ」と思うのですが、気分で「モノ」を言っても意味がない)ので、その要因を、これから、当時のダイヤをできる限り復原して検討してみました。

2s_20191126084701 

ただし、時刻表からは読みとれない夜行の上り貨物列車との交換(すれちがい)があるので、完全にこのとおりではないでしょうが。

なお、甲府駅の比較的長時間の停車は、機関車の交換(電機->蒸機)のためです。

きむらけん先生のブログ
Web東京荏原都市物語資料館
 中の
下北沢X物語(1267)~「鉛筆部隊」の64年の軌跡
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51462670.html

に、この列車に乗った疎開児童の一人である、立川裕子さんが、北沢の両親に宛てた手紙が引用されているので、この手紙と、前記のダイヤとを照合してみることにしました。

 「ときどき汽車がとまりましたがほとんどとまりません。」

従前、不思議に思っていたのが、この記述でした。
あるいは、貨物列車のダイヤでこの列車を走らせたのかとも思っていたのですが(その場合、編成上、貨車の入替〔切り離しや連結〕の必要がない駅では、列車を停車させず、その先の決められた駅で、反対方向の列車とのすれ違いや、後続の旅客列車に追い抜かれるために、余った時間停車することになる)、今回時刻表をみて理由がわかりました。
先に書いたように、この疎開列車に先行する定期旅客列車である403レは、八王子・甲府間は、今でいう「快速運転」で、大月を発車後は、笹子、塩山、日下部にしか止まりません(とくに、停車と再発車に時間のかかる、スイッチバックの初狩・勝沼は通過)。
疎開列車が、これに少し後れて、いわゆる並行ダイヤで運行されていたとすれば、いわゆる郊外電車に乗りなれている「都会の子」には、なかなか止まらない列車ということになるわけです。

 「私が目をさましたのは四時すぎでした。…だんだん日がさして行くにつれてそこらのけしきがはっきりとして来ました。(こうふ)に着くとうすうすとそこらのけしきがみえました。」

ダイヤの赤縦線のとおり、8月10日前後の甲府での日の出は、午前5時ころ。
盆地ですので、すぐには日が差さないでしょうから、推定される甲府の着時間5時20分(のおそらくやや過ぎ)には、ちょうど「うすうすとそこらのけしきがみえ」る頃合いではないかと思います。

 「着いたのは十時か十一時ごろだと思ひます。」

この点は、濱舘先生の記述から10時と考えてよいでしょう。
引率者の一人でしたので、当然旅程は十分に把握していたはずですし、あるいは、執筆時も、当時のガリ版刷りの旅程表とか日誌を保管していた可能性もあります。

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2019/02/23

【代田連絡線余話】小田急デハ101シリーズの窓配置

■代田連絡線とは…

 

帝都線(現京王井の頭線)の永福町駅北にあった車庫が、昭和20年5月25日、米軍による空襲*を受け、同線の電車のほぼ全てが稼働不能となった。

* 同年3月の「東京大空襲」に対し、こちらは「山の手空襲」と呼ばれている。

急遽、同線に電車を送り込むため、同線の代田二丁目(現新代田)駅と小田急線の世田谷中原(現世田谷代田)駅とを結ぶ線路が下の地図のように敷設された。

Photo_2

■まず…

同線を経由して、同年6月23日に、小田急線から2両の電車、つまり、デハ1206号車とクハ1318号車が帝都線に移されたという*

*山岸庸次郎「過ぎ去りし日々の思ひ出」(鉄道ピクトリアル№432〔33巻9号(1983/9臨増)〕pp.98-103)

■最近…

とある目的から、このうち「デハ1206」の、ある程度精細な写真か図面が必要になった。

 そこで、手許の資料で、この電車の素性を調べてみると、この車両は

  • 小田急開業時に製造された甲号車、つまり、「直通電車」と称する新宿と稲田多摩川(現・登戸)間は経堂のみ停車して小田原に向かう、トイレと手荷物室のついた、デハ(後モハニ)101シリーズ中の106形であり
  • いわゆる大東急統合時に、車番をデハ1201シリーズ中の1206に改名されたものであること
  • デ〔「電動機」のデ〕ハといっても、電動機は井の頭線入線後に装備された*こと

*前掲山岸
もちろん、製造時には電動機付だったのだが、何らかの事情で電装は外されていたたのだろう

などが判明した。

■このシリーズの電車については…

そこそこ写真は遺されているので、外観のあらかたはわかったものの

  • この電車は、トイレと荷物室部分の楕円形の戸袋窓が特徴といえるのであるが、それが車両の新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない
  • 同様にパンタグラフも新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない

という問題があった。

しかも、パンタグラフは新宿寄りに統一されてたらしいことまではわかったが、甲号車の系列中楕円窓の位置は不鮮明な写真のせいもあってまちまちに見え法則性がつかめない※末尾の「追補」参照

 

■ところが…

手持ちの資料中で最も新しいため「これには載っていないだろう」と後回しにしていた
鉄道ピクトリアル№829〔2010年1月臨増〕「【特集】小田急電鉄」号
の中に、デハ106ドンピシャで非常に鮮明な写真が掲載されていたのである。

それが
白土貞夫「絵葉書が描く 昔日の小田急電鉄 箱根登山鉄道」(pp.81-85)
のp.82中段の
「小田原急行鐡道 鶴巻驛」
とのタイトルの絵葉書

3829p82_s_2

で、

  • 開け放されたドアや窓から制服姿の多数の人物が顔を出していること
  • 2両編成中、手前の1両目が紛れもなく甲号車であるデハ106なのに対し、2両目は、新宿と稲田登戸間の近距離輸送用の乙号車つまりデハ1シリーズであること

からみて、開業前の研修時の記念写真を兼ねて撮影されたものと見られる。

■写真からみると…

  • 開通当初、鶴巻(現・鶴巻温泉)駅の駅舎は線路の南側にあったとされているうえ
  • それを措いても、写真の上方やや左に、丹沢大山の特徴のある山影が写り込んでいる

のだから、写真右手が新宿方向であることに疑う余地はない。

 結局、少なくとも、代田連絡線を経由して、最初に帝都線に回送された、小田急線用のデハ1206形は、パンタグラフ、楕円窓ともに新宿寄りに設けられていたことが判明したのである。

■尤も…

大幡哲海「小田急電鉄の車両」JTBキャンブックス鉄道42

のp.83掲載の、故萩原次郎氏が昭和13年3月に世田谷中原(現・世田谷代田)駅で撮影したデハ108形の写真では、パンタグラフは新宿小田原寄りであるが、楕円窓は小田原新宿寄りにある。

 このデハ101シリーズは、12両全車が日本車両製のようなので、製造会社の違いによるものとも思えないので、唯一の可能性としては、トイレ・手荷物室を、前半のデハ101~106は新宿寄り、後半の同107~112は小田原寄りに設置して、2両で編成を組むときに(原則形だったようである)、前半の車両を新宿寄り、後半の車両を小田原寄りに組み合わせて、トイレ・手荷物室が編成の両端に来るように配慮したとしか考えようがないのではなかろうか。

■追補

 生方・前掲p.52によれば「パンタグラフ台は前後2箇カ所にあったが,パンタは1カ所で101~107…は新宿寄りに,108~112…は小田原寄りに付いていた.」とのことである。

 たしかに、同p.42の写真「東北沢駅のモハニ101形107…」によれば、楕円窓はパンタグラフと同一方向(背景の一面の畑からみて新宿方向と思われる*)にある。

*【参考】

三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 口絵写真
画面左手奥が、昭和2年当時の東北沢停車塲

 



 

 





















 

 

 

 なお、同p.52によれば、楕円窓のガラスは「ダイヤガラス」だったことに加え、同ページに以下のような記述がある。

1936(昭和11)年頃から半室運転室に改造を始めた.最初は長手方向がやや窮屈だったが,後方の窓を500㎜に縮め広げた.次いで1941(昭和16) 年頃からクロスシートのロングシート化,荷物室撤去を,1946(昭和21)年頃から便所の撤去を行った.

 

 

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2017/12/10

タマデン「伊勢宮河原停留場」〔続〕

当ブログの
タマデン「伊勢宮河原停留場」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

〔以下「本編」〕の続編です。

■やはり…

当ブログでお報せしている
世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/11/post-1467.html

に大量の玉電の路線図が展示され、図録にも掲載されている〔pp.068-074〕。

 玉川電鉄発行のものだけでも、その数7枚。いわゆる大東急時代など〔pp.077-079〕のものも2枚。

■これらの…

合計9枚は、電鉄会社自身が発行している、いわば「公式」な地図なのだが

T14~S02図〔p.068〕
S02~S04図〔同上〕
S04~S07図〔p.070〕
S07図    〔p.071〕
S05~S07図〔p.071〕
S10~S13図〔p.072〕
S11~S12図〔同上〕
東京横浜電鉄への合併後の
S13~S14図〔p.077〕
戦後の
S33~S34図〔p.078〕

のいずれにも伊勢宮河原停留場の記載がない。

■しかし…

これも従前から判明していたことだが、いわゆる民間地図には、この伊勢宮河原が記載されているものも多く、図録p.032に、以下のような注釈がある。

「…玉電砧線は、多摩川から採取した砂利の運搬に使われており、伊勢宮河原の左隣にある大蔵停留場に側線を設けて砂利を積み込んでいた。この伊勢宮河原停留場についての詳細は不明であるが、現在確認することのできる申請書類等から、短期間設置されていた砂利積み込み用の駅だったと考えられる。

昭和4年「伊勢宮河原貨物停留所新設並工事方法変更ノ件」、昭和 11 年「側線新設及砧外二停留所設備変更ノ件」(国立公文書館)等により伊勢宮河原貨物停留所の竣工が昭和5年1月であったことがわかる。同停留所の廃止時期は詳らかではないが、停留所から分岐する砂利積込用の引込線撤去工事が昭和 10 年 11 月に認可されている。おそらく引込線が使用されていた期間存在した停留所だったのであろう。」

■と、いうことは…

伊勢宮河原の側線は、

  • 上記の図録の指摘のとおり、昭和5年1月に新設されて10年に撤去され
  • 本編に示した記録のとおり、昭和11年に再び設置されて15年に撤去され

たことになる。

■ここが…

客扱いをする停留場だったならば、上記の各認可歴からみて、

・最初の側線の当時なら、p.071の2葉のうち、下の

「夏の玉川 夏の多摩電車」
(昭和5年6月~7年10月頃)/(発行):玉川電気鉄道株式会社
東京文祥堂印行/寸法:18.2×40.8

Tamadens05
・二度目の側線の当時なら、p.077の

「沿線案内 東横目蒲電車」
(昭和13年~14年3月)
(発行):東京横浜電鉄株式会社
      目黒蒲田電鉄株式会社
寸法:17.1×19.0

Tamadens13


の地図に掲載されていておかしくないのであるから、側線はあくまで貨物、つまり砂利用のそれであり、玉電(あるいは東急)が、ここを旅客用の停留場とは扱っていなかったことは、まず、間違いないと思われる。 

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2017/11/20

高崎の川魚鮨で、かつての立川駅の駅弁を思い出した

■先日…

お誘いを受けて、6年ぶりに仕事上の先輩の新潟県南魚沼市にあるセカンドハウスにお邪魔した。

 帰路は、かつての雪国の風物の一つ「雁木」をわざわざ復活したという塩沢に立ち寄ることがすんなり決まったものの、往路がなかなか決まらない。

 結局、ほぼ3分の1世紀ぶりに、在来線の清水トンネル経由で、上越国境を越えることにした。

Dsc08343t

■新幹線を…

高崎で降りて、上越(在来)線の水上行きに乗換える。

 ちょうど、昼時でもあり、まずは昼食を確保すべく、乗換通路の弁当売場へ。

■「だるま弁当」では…

あまりに芸がなさすぎるので、今まで食べたことのないものを、ということでチョイスしたのが…

上州の清流で育てた 川魚鮨」*

153s

*ラベルにあるギンヒカリなる魚

 _ 何かと思って調べてみたら、3年生育させた、群馬県ご自慢のニジマスの由。
 
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000010726.html

 まぁ、それだけでも正解だったようである。

■しかし…

高崎発水上行きの3輌編成の電車は、全席ロング・シート。しかも、渋川までは週末のせいか座席がほぼ全部塞がっている状態で、とても弁当を食べるシテュエーションではなく、ようやく、箱を開くことができたのは、終着の水上で、長岡行きに乗換えてからになった。

 うまい具合に、水上駅のこ線橋に近い席に座っていたために、長岡行の2輌の各半分ほどあるクロス・シートを確保して

Dsc08327c
撮った写真がこれ。

Dsc08323s       左の赤がギンヒカリ、右の白がイワナ

 ごく普通の魚の押しずしではあるが、なにより川魚のそれというのがうれしい。

■食べてみると…

駅弁なので仕方ないことながらやや酢が強すぎるものの、川魚らしい味の癖がそこそこは残っていて(したがって、川魚が苦手の方にはお奨めできない)、かつて、仕事で拝島方面に行った帰りに、必ずといってよいほど買って帰った、今はなき、立川駅の鮎ずし、鱒(といっても、イワナが多かったように記憶している)ずし

19720203p209dij_2         交通公社時刻表1972年2・3月号p.209

を、懐かしく思いだしてしまった。

【追記】

NHKの「熱中時間」にも出演された「定ちゃん」の「駅弁の」小窓」のこの
http://ekibento.jp/ben-nos-east.htm
ページによると、立川市柴崎町の中村屋というお店で作っていたようです。
多摩川のアユ、奥多摩のヤマメやイワナを活かした姿寿司でした。

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2017/10/18

特別展「渋谷駅の形成と大山街道」

[標記の特別展が…]

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 で
平成29年10月28日(土)~平成30年1月21日(日)
開催されます。
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/edu/koza/12kyodo/tenrankaishousai.html#15

チラシの表側の画像は、ポスターにもなっているので、随所で目にする機会も多いかと思いますので、ここでは、裏面の画像を

S

展示物のご提供(何かは見てのお楽しみ)など、少しばかりお手伝いさせていただいた折に聞き及んだところによると、当地つまり西隣の世田谷区東北部、とりわけ帝都線や玉電沿線の住民にとっての見所は…

・明治18年に日本鉄道品川線(現・山手線)開通時に、今の湘
 南新宿ラインの渋谷駅(俗称・南渋谷駅)のところに、渋谷
 駅が開業して以来の変遷を、とくに大山街道を走った玉電や
 市/都電の停留場との関連を含めて示す展示

 *この日本鉄道品川線の

 当初の計画ルートについては、当ブログの
 「原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?」
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/11/post-8ab0.html

 をご参照ください。

そして
・昭和39年のオリンピックを前に、首都高速3号線工事の進む
 東口駅前を中心に再現したジオラマ(上記チラシの左側中央参照)
  このジオラマ、かつて、東急プラザの閉館直前の展覧会
  で見たのですが、ヤジロベエ式の首都高3号線の橋桁工
  事、東横百貨店屋上の遊戯施設、工事中の東口周辺の道
  路の「ヤレ」た路面、など感動モノでした(写真は、そ
  の折のもの)

Dsc02795s_3

Dsc02789s_25000形、7000形はいわば定番ですが、5200形(1編成しかない)がさりげなくいるのは感動もの。

・渋谷駅からハチ公バスが使えるので、交通費低廉
・60歳以上入館無料(要証明資料提示)
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kyodo/index.html
なので、

とくに「アラ・シックス」以上の年代の方は

ローコストで「青春の想ひ出」に浸れます。

是非お運びを。

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2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

 

Elv_turumaki_s_3

屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

 

Elv_s

・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

 

【最終版】

 

 

 

Elv0508
・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

 

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・荻原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

 ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

 結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

 戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

 これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

 考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

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2017/05/03

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕

〔その1:駅舎の意匠〕で…

検討したように、屋根の傾斜とか、場合によっては入口上の明り窓の有無の見当を付けるには、まずは、駅舎のサイズ、それに先立って、昭和2年の開業当時の、駅舎敷地の位置と広さが問題になる。

その重要な資料の一つとしては…

東京都公文書館・蔵の

資料種別 公文書_件名_府市
公開件名 土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
文書記号・番号 丑土第4775号
補助件名 停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図
文書年度(和暦) 大正14年~大正14年
文書年度(西暦) 1925年~1925年
起案年月日(和暦) 大正14年7月29日
起案年月日(西暦) 1925年07月29日
記述レベル item
作成組織 東京府
内容注記1 住所地:豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町
内容注記2 関係先名・関係先住所:小田原急行鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000129396,000129397
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16],[D]D895
収録先の名称 地理・土地収用 冊の12,地理・土地収用 冊の13
収録先の請求番号 305.F6.06,305.F6.07
電磁的記録媒体番号 D895-RAM

中の「中原停留場設計平面圖」がある。

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これを、反転して抜粋すると(図の下方が略北)、

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 駅の西の、今の環状7号道路の原型にあたる、北は堀の内の妙法寺、南は池上の本門寺に通じる主要道「堀之内道*1からの取り付け道路を造り、その突き当りに駅舎が設けられたことがわかる。

 したがって、この世田谷中原の駅舎への入口は、堀之内道の方向、つまり西にあるらしいこと、駅の敷地の南北方向はそれほど広くないことから駅舎が東西方向に建っていたらしいことがわかる。

 上の図面の下方の横断面図を見ると、ホームの幅は15フィート(約4.5メートル≒2間半)なので、敷地の幅は、そのほぼ倍の30フィート(約9メートル≒5間)しかないことになる。

 実際、同じ敷地に戦後建て直された駅舎のサイズからみても、駅舎のサイズがそれほど大きいものでなく、また、敷地の南北方向の幅がそれほど広くはなかったことがわかる(左端やや上の小豆色の屋根が場内跨線橋)。


「明らかにパブリックドメイン」といえる大きな画像が見つからないので、WikiPediaから、とりあえず小さな画像だが転載。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/1e/Odakyu_Setagayadaita_eki_3.jpg

*1 とくに、今の東京西部は南北に通じる道が少なかったこともあり、かつては両寺での大きな法要時には、人の流れが途切れなかったという。

もう一つの資料は…

小田急電鉄・蔵の、世田谷中原駅の「焼け跡」の写真

S20s_2

である。

 この写真の中の、コンクリート製の基礎の残骸をてがかりに、建物の外形のいわゆるアタリを取ってみると

S20s_4

水平方向の赤線のような、駅舎の平面が浮かび上がる。

 つまり、
・駅舎は敷地の南寄りにあって
・写真手前の西側の縦方向の緑線の間が駅舎の入口で
・その奥の東側の約5分の3の範囲に事務室がある。

・入口から入ってすぐ左が改札口で、
・そこから右に折れてホームに向かい
・下りホームへは(先の設計図の断面図からみると) そのまま行くことができるが
・上りホームへは、一旦ゆるい階段を下って、左に曲がって構内横断場を渡り、右手のゆるい階段を昇る

ということになる。

 この配置だと、敷地の南端と駅舎の間が半間(0.9メートル。この時点では敷地の南は道路ではないので、境界ギリギリに駅舎を建てるわけにはゆかないだろう)、駅舎と線路の間の通路を1間半(1.35メートル+1.35メートル=2.7メートル)とみると、駅舎の幅は、5-(0.5+1.5)間の3間(約5.4メートル)程度を取るのがせいぜいといえる。

 先の生方・p.35の喜多見駅復元図の駅舎の幅は、5.4メートルなので、それとほぼ同規模・同一設計か、あるいは1サイズ下、つまり幅4.5メートル程度(おそらく、前ページの鶴巻駅と同規模・同一設計か)と考えられる。

【参考】

Photo
開業直後と思われる「千駄ヶ谷新田」(→小田急本社前→南新宿)
推定幅4.5m(2間半)

ここまでの結果に基づく想像図は 次ページ で。

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戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕

昭和20年7月1日に…

空襲で、世田谷中原、つまり今の世田谷代田の駅舎が焼失している。

 この焼失前の駅舎の写真は、これまで探したがみつからないので(昭和19年に橋上駅に改築された下北沢、さらに昭和38年に鉄骨造の駅舎に改築される前の東北沢の木造時代の駅舎ですらほとんど写真がないので、無理もない面もある)、今回、戦災前の駅舎の姿を推定してみることにした。

実それというのも…

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBパブリッシング(キャンブックス)/2009年・刊

によれば、少なくとも、昭和2年4月1日に小田急の小田原線が開通した当初の駅舎は、かなり、パターン化されていることがわかったからである。

 つまり、同書のp.33には、

「■駅舎建築
 小田急の駅舎建築の変化を概括的に眺めてみると、小田原線開通時に五大停車場(稲田登戸
*1、新原町田、相模厚木*2、大秦野*3、新松田)がマンサード型の大きな駅舎で威容を誇っていた。…その他の駅*3は当時はやりのモルタル造りの建築が多かった。」

とある。

*1 現・向ヶ丘遊園(北口に、唯一、開通時のマンサード型の屋根の駅舎が残っている)
   ブログ「関根要太郎研究室@はこだて
 」中の「小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

   に、2012年撮影の様々な角度からの写真と、新原町田、新松田の開業当時の写真も掲載されている。
*2 現・本厚木〔表/南口〕
*3 現・秦野
*4 当時の「地方鉄道法」では、おおまかにいえば、信号機またはポイントのあるものを「停車場」、これらがないのを「停留場」といった、以下、ポイントはともかく信号機の有無まで調べるのは、面倒だし、このアーティクルの本筋とは無関係なので、すべて「駅」と呼ぶ。

実際…

同書などに掲載されている昭和2年4月1日の開業時に建築された駅舎の写真を見ると、
・新宿、小田原などのターミナルを除くと
・マンサード屋根の上記5駅舎
 3829p82_s
 大秦野駅〔現・秦野〕
 鉄道ピクトリアル No.829p.82


・木造モルタル造で切り妻の屋根の棟の中央に三角形の明かり窓のあるいわば「標準仕様」
 3829p82_s_3
 鶴巻駅〔現・鶴巻温泉〕 前同

に大別され
これらからはずれる
・特殊タイプとしては、参宮橋(同・p.48。明治神宮の最寄り駅なので「社殿造り」)、座間〔初代〕(同・p.96.現・相武台前。陸軍士官学校の最寄り駅で同校校長などのための貴賓室を備える大型駅舎)程度しか見当たらない。

S
相模厚木〔表口〕 土木建築工事畫報 3巻5号30ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

 世田谷中原は、もちろん先の5大駅舎のうちに入っていないし、特殊タイプの駅舎とするほどの特色のある場所ではないので、結局「標準仕様」、つまり上の鶴巻駅と同様の意匠によって設計されていると考えるほかない。

もっとも…

「標準仕様」とはいっても、詳しくみると、構造、意匠、材料、装飾などが共通という意味で、微妙にバリエーションがあることがわかる。

 たとえば
・柿生駅(同・p.84)と伊勢原(同・p.109)は、他の駅舎の入口が建物の棟の方向、つまり建物の妻面にあるのに対し、ここは、棟と直角に屋根を設けて、いわゆる平入りになっているし、
・生田(同・p.78)、新座間(同・p.98。現・座間)も、その方向には屋根がなく庇しかないが、平入りになっており、
・経堂は、妻入りで構造自体には標準型と違いはなさそうだが、妻面の装飾がほかの駅と違っている(後の、改装の可能性はあるが)。

 しかし、もっとも多いバリエーションは、
・駅舎の妻面の幅
・それと関係の深い屋根の勾配
・妻面の駅入り口の上や屋根側面の明かり窓の有無
である。

中でも…

一番わかりやすいのが、屋根の勾配である。

 生方・p.35に、喜多見駅の復元図(西〔事務所側〕面と北〔ホームの反対側〕面の各立面図と平面図)が掲載されているが(なお、同p.68)、その屋根の勾配は10/10、つまり角度でいえば45度になっている。

 しかし、写真で判断する限り、そこまで急勾配のものは、稲田登戸の南口(同・p.74)、相模厚木(同p.106。現・本厚木)、伊勢原(現・同p.109)くらいで、他はもう少し勾配は緩い。

【追記】

S11s
昭和11年ころの成城学園前駅(喜多見とほぼ同規模・同一意匠と思われる)
(世田谷美術館「田園と住まい展」〔図録〕同館/1989・刊 p.65)
この後、学園の生徒の安全のため橋上駅舎となった(生方p.66参照)


 屋根の高さ(深さ)が同じなら、妻面の幅が広くなれば勾配は緩くなるので、まずは駅舎のサイズ(妻面の幅)で屋根の勾配が決まるとみてよい。

 ただし、あまり緩いと雨漏りの原因になるので、限界はあって、その場合には屋根を高くする必要があるし、そうなると、入口上の妻面に、半円形を基調にした装飾はあるものの「間が抜ける」ので、入口の庇の上に明かり窓を設けたのではないかと思われる。
(やや異色なのは、稲田登戸の南口(同・p.74)で、おそらくは北口の大型駅舎とのバランスとか、向ヶ丘遊園〔小田急本線と同時開業〕の最寄り駅であるためか、かなり大型の駅舎に見えるが、楽し気な雰囲気を出すためだろうが、傾斜45度の屋根が載っている。)

 つまりは、あまり大型の駅舎でなければ、建物の幅から自ずから屋根の勾配の見当がつき、さらに、入口上の明り窓の有無もあらかた推定できそうである。

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2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕*だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

*[日本鉄道]
というのは、なんとも不思議な成り立ちの鉄道会社です。

 事の起こりは明治0年代。(金持ちは皆、汽車に乗って東京の芝居を見に行ってしまうので)「横浜の芝居小屋が廃れた」といわれるほどの繁盛していた新橋・横浜間の官設鉄道を、岩倉具視を中心とする華族たちが資本を集めて払い下げを受ける計画がもちあがりました。民間が、官営で立ち上げた企業の払い下げを受ける(あるいは釜石の製鉄所のように「押し付けられる」)というのは、当時はしごく普通のことではありましたが、諸般の事情で中止のやむなきに至りました。

 集めてしまった資本は、澁澤榮一の勧めにより、明治12年、東京海上保険会社の設立に使用したのですが、この間に、政府は、鉄道網を充実させる必要が叫ばれながらも国には金がないため*、鉄道官設から、私設鉄道の設立を奨励・助成する方針に転換しました。

 これを受けて、再び岩倉らの後押しで、華族か資本を集めて明治14年に設立したのが、日本鉄道会社です。この鉄道会社、私鉄ではあるものの、建設工事、車両・資材の供給、線路の保守等は政府の鉄道局が行なったという、準官設ともいえる性格を有していたようです。
(参照:「日本産業史 1」有沢広巳・監修/日経文庫497/1994/06/14・刊)

* 明治5年の汐留-横浜間の最初の鉄道もイギリスで国債を発行して資金を賄った。
 
今の日本人からみても「よくもまぁ貸したものだ」と思うが、一見もっとギャンブルに見えるのが
 
日露戦争の戦費調達のための国債だが、こちらの方は、ロシアの西への進出を食い止めたい
 
イギリスや、実際に国債を引き受けた、ロシアで「いじめられていた」ユダヤ人にとって、勝ち負
 
けはともかく、たとえ日本が負けて多少資金が焦げ付いたとしても、ロシアの勢力を多少なりと
 も削
ぐだけでも「まんざら損はない」投資だった可能性がある。
  ちなみに、AIIBに関して、麻生財相が「1日も遅れず、1銭も違わずに返した」といったのが、こ
 のときの国債らしく、本当に戦時中も、中立国経由で、交戦中の英国に向けて返済し続けたら
 
しい。

 その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし
・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

【追記】

 この日本鉄道の原計画ルートを、いわば「聞き込んでそのまま落としてしまった」と思われる地図を見つけた。

 それが、日文研のデータベースにある

 「東京全図」〔(押紙)東京全図児玉又七明治十九年〕

 なる地図で、
 目黒ステーションは、
 目黒不動のほぼ門前にある
Photo
 ところが、次のステーションは、新宿で
Photo_2
 澁谷にステーションはない
Photo_3                  宮益橋のところで渋谷川を渡ることになっている

 で、先に検討した、渋谷川と目黒川の間の稜線を越える場所については…

 予想どおり、金王八幡から西に向かう「カマクラミチ」と、広尾町から北西に向かう「セタガヤミチ」、そして三田用水の交点、つまりは「槍が崎」のやや北ということになる。

Photo_2
〔参考図澁谷宮益金王邉圖」の右上部分を反時計回りに90度転回

L90c

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2015/12/26

タマデン「渋谷停留場」の変遷

これまでは…

 

当ブログの「タマデン『伊勢宮河原停留場』」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

の末尾に、参考図として、タマデンの渋谷停留場の図面をいくつかご紹介していたのですが、大正元年の地籍図がみつかったのを機に、ここに再掲・増補することにしました。

大正元年の「地籍図」

 国会図書館の近代デジタルライブラリーに、大正元年の地籍図「東京市及接続郡部地籍地図」があるのを、他の調べものの折に見つけました。

上巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079
下巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080

 その、豊多摩49図「澁谷町大字中澁谷字大和田下」が、明治末期のタマデン澁谷停留場周辺の地図にあたります。

 

T1tcs

鉄道線が横方向に3条描かれていますが、一番上(西)がタマデン。
その下が省線の山手線、一番下が東京市電。
その下が渋谷川で、右端に暗渠化される前の支流の宇田川が描かれている。

 道玄坂南の専用軌道を下ってきた線路が、大きく右に90度近く曲がった先に旅客用の停留場があり、さらにその先に続く線路が180度曲がった先に砂利の積み下ろし場があったらしいことがわかります。

 実は、これまで、世田谷区郷土資料館「玉電」(同館/平成01年12月・刊)p.13のこの

P18
写真。どこから、どう撮ったのか見当が付かなかったのですが、この地籍図からみると

【訂正】

最南端の180度カーブのピークのあたりから、上の地図でいうと時計の2時方向、実方位でいうと同じく10時方向に撮った
(つまり画面奥の小高い場所は、現・井の頭線の渋谷トンネルのある、目黒川と渋谷川の間の台地ということになる)

後述の、

白根記念渋谷区郷土博物館:文学館の田原学芸員にご教示いただいたのだが…

写真左端奥の細長い屋根は、現在の澁谷ヒカリエ北西隅の場所にあった澁谷小学校(下記T05地形図参照)。

従って、この写真は、先の地籍図に見える最初の90度のカーブのあたりから、東(図の下)方向を撮ったことになる。

らしいことがわかりました。

【追記】2016/03/12

白根記念渋谷区郷土博物館:文学館「特別展 『春の小川』の流れた街・渋谷―川が映し出す地域史―」〔図録〕同館/平成20年・刊 p.54に転載されている
大岡昇平「幼年」潮出版社/昭和48年・刊掲載の「大正時代の渋谷駅付近」の図
によれば、この180度カーブの頂点の内側に、略楕円形の「じゃり置場」が描かれている。

【追記】2016/03/16

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渋谷区教育委員会「渋谷の記憶」同委員会/平成19年・刊p,58に、先の写真の「フル・フレーム版」と思われる写真があった。
右端の鉄骨の構造物は、砂利積み込み用のクレーンのようにも、何かの広告塔のようにも見えるが、何だろうか?

【以下、既出分に増補】

大正5年の地形図

M42測T05修測1/10000地形図「三田」
M42t06__

によれば

この時点までに、道玄坂上方向から斜面を下りきったあたりに「坂下」停留場があり、そこから、南に延びた線路の先端、山手線のしぶや駅北西にタマデンの渋谷停留場が設けられている。

その旧版のM42測図では、この「坂下」の場所が「志ぶや」とされており、この6年ほどの間に、山手線との乗り換えの便宜をはかるため、線路を南に延長して、新たな「澁谷」停留所を設けたらしい。

接続の便宜という意味では、この間に、坂下南東の側線が既存の山手線からの側線に並行する形で新設されており、両側線の先端あたりで、砂利などの貨物の積み替えが行われていたと思われる。

■この状態は…

大正9年の

・山手線の高架化と渋谷駅の現在の位置への移転
・東京市電の渋谷駅西口への伸長
・タマデンの天現寺橋方面への伸長

M42測T10修測2T12鉄補1/10000地形図「三田」
T102t12__

まで、続くことになる

昭和7年の「東京郊外鉄道・渋谷停車場平面図」

現在の京王井の頭線の設計変更申請時の図面です。

収録先

 

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 8
公開件名 渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
文書記号・番号 申土庶
補助件名 渋谷停車場平面図(新)(旧)
文書年度(和暦) 昭和7年~昭和7年
文書年度(西暦) 1932年~1932年
起案年月日(和暦) 昭和7年9月8日
起案年月日(西暦) 1932年09月08日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
収録先簿冊の資料ID 000137864
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭07-111,[D]D828
16mmMFコマ番号 0197-0278
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の18
収録先の請求番号 316.E8.05
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭07-111(複製)
電磁的記録媒体番号 D828-RAM

 

中の、東京郊外鉄道が昭和7年に作成した「渋谷停車場平面図」から、

 

玉電渋谷停留場付近の画像を抜粋して白黒反転した図[下が北]

 

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画面上(南)中央に砂利側線
その下の左(東)方向に、省線と東横線を潜り、渋谷川を渡った後、上(南)に向かうのが中目黒線
ハッチングされている東京郊外鉄道の連絡通路を潜り、左(東)から延びてきた東京市電と接続している

砂利受け取り用の市電の電動客車は、ここから玉電に入ったことになる

 

昭和13年の「玉電ビル」の設計図

 

土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」

 

「渋谷駅改良工事」の平面図[上が北]と立面図pp.280・281の接合図

 

14062642nps

 

玉電の渋谷停留場が地表から2Fレベル(省線と同レベル)に上がったので、東京市電との連絡線に加え自社の中目黒線とも接続が絶たれたことがわかる。

 

こちらは、昭和14年3月号掲載の「広域図」

 

15032758np

 

前掲・土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」中の、現東急東横店屋上から撮影されたと思われる、工事中の写真

 

1406p279
手前が東京市電。画面中央奥が帝都線(現・京王井の頭線)渋谷停車場。画面左奥が開通前の東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線の渋谷・新橋間)の渋谷車庫。帝都線と東京高速鉄道の間が玉電。

 

【以下、随時追記予定】

 

 

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