2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

 

その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

 その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし

・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

 

 

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2015/12/26

タマデン「渋谷停留場」の変遷

これまでは…

当ブログの「タマデン『伊勢宮河原停留場』」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

の末尾に、参考図として、タマデンの渋谷停留場の図面をいくつかご紹介していたのですが、大正元年の地籍図がみつかったのを機に、ここに再掲・増補することにしました。

大正元年の「地籍図」

 国会図書館の近代デジタルライブラリーに、大正元年の地籍図「東京市及接続郡部地籍地図」があるのを、他の調べものの折に見つけました。

上巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079
下巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080

 その、豊多摩49図「澁谷町大字中澁谷字大和田下」が、明治末期のタマデン澁谷停留場周辺の地図にあたります。

T1tcs

鉄道線が横方向に3条描かれていますが、一番上(西)がタマデン。
その下が省線の山手線、一番下が東京市電。
その下が渋谷川で、右端に暗渠化される前の支流の宇田川が描かれている。

 道玄坂南の専用軌道を下ってきた線路が、大きく右に90度近く曲がった先に旅客用の停留場があり、さらにその先に続く線路が180度曲がった先に砂利の積み下ろし場があったらしいことがわかります。

 実は、これまで、世田谷区郷土資料館「玉電」(同館/平成01年12月・刊)p.13のこの

P18
写真。どこから、どう撮ったのか見当が付かなかったのですが、この地籍図からみると

最南端の180度カーブのピークのあたりから、上の地図でいうと時計の2時方向、実方位でいうと同じく10時方向に撮った
(つまり画面奥の小高い場所は、現・井の頭線の渋谷トンネルのある、目黒川と渋谷川の間の台地ということになる)

らしいことがわかりました。

【追記】2016/03/12

白根記念渋谷区郷土博物館:文学館「特別展 『春の小川』の流れた街・渋谷―川が映し出す地域史―」〔図録〕同館/平成20年・刊 p.54に転載されている
大岡昇平「幼年」潮出版社/昭和48年・刊掲載の「大正時代の渋谷駅付近」の図
によれば、この180度カーブの頂点の内側に、略楕円形の「じゃり置場」が描かれている。

【追記】2016/03/16

Aprxm40s

渋谷区教育委員会「渋谷の記憶」同委員会/平成19年・刊p,58に、先の写真の「フル・フレーム版」と思われる写真があった。
右端の鉄骨の構造物は、砂利積み込み用のクレーンのようにも、何かの広告塔のようにも見えるが、何だろうか?

【以下、既出分に増補】

昭和7年の「東京郊外鉄道・渋谷停車場平面図」

現在の京王井の頭線の設計変更申請時の図面です。

収録先

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 8
公開件名 渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
文書記号・番号 申土庶
補助件名 渋谷停車場平面図(新)(旧)
文書年度(和暦) 昭和7年~昭和7年
文書年度(西暦) 1932年~1932年
起案年月日(和暦) 昭和7年9月8日
起案年月日(西暦) 1932年09月08日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
収録先簿冊の資料ID 000137864
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭07-111,[D]D828
16mmMFコマ番号 0197-0278
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の18
収録先の請求番号 316.E8.05
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭07-111(複製)
電磁的記録媒体番号 D828-RAM

中の、東京郊外鉄道が昭和7年に作成した「渋谷停車場平面図」から、

玉電渋谷停留場付近の画像を抜粋して白黒反転した図[下が北]

R
画面上(南)中央に砂利側線
その下の左(東)方向に、省線と東横線を潜り、渋谷川を渡った後、上(南)に向かうのが中目黒線
ハッチングされている東京郊外鉄道の連絡通路を潜り、左(東)から延びてきた東京市電と接続している

砂利受け取り用の市電の電動客車は、ここから玉電に入ったことになる

昭和13年の「玉電ビル」の設計図

土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」

「渋谷駅改良工事」の平面図[上が北]と立面図pp.280・281の接合図

14062642nps

玉電の渋谷停留場が地表から2Fレベル(省線と同レベル)に上がったので、東京市電との連絡線に加え自社の中目黒線とも接続が絶たれたことがわかる。

こちらは、昭和14年3月号掲載の「広域図」

15032758np

前掲・土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」中の、現東急東横店屋上から撮影されたと思われる、工事中の写真

1406p279
手前が東京市電。画面中央奥が帝都線(現・京王井の頭線)渋谷停車場。画面左奥が開通前の東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線の渋谷・新橋間)の渋谷車庫。帝都線と東京高速鉄道の間が玉電。

【以下、随時追記予定】

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2015/11/14

【絶滅危惧種】小田急SEカラー

■小田急の…

前・3000形 元祖SE車

N6501_04t
昭和40年3月 箱根湯本駅

■後の…

国鉄151系(当初20系)

R72002_33c
昭和47年8月 岡山駅

こだま

M6302_17c
昭和39年8月 京都駅

の開発の契機となり

■ひいては…

新幹線
N6501_12ct
昭和40年7月 豊橋駅

の魁となった名車なのですが…

■この「元祖SEカラー」が…

今や、小田急でも、リ・リ・ペイントされたLSE車のそれを残すのみ。

■箱根登山鉄道のも…

Dsc04488s
平成23年8月 大平台駅

新型車の投入で激減してしまいました。

■最後の牙城と思っていた…

小田急タクシーも

Dsc05684s
平成27年11月 下北沢

最近のプリウスのはVSEカラー。

■とうとう…

絶滅危惧種。

何10年もなじんでいたカラリングなので、なんとも、寂しい限りです。

■実は…

SEカラーを残すものが、あと一つあるのですが、これも絶滅危惧種。

資料写真がみつかり次第、追加します

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2015/07/18

タマデン・砧線と砂利

この前の…

アーティクルの タマデン「伊勢宮河原停留場」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

(元ページ)の末尾近くに追記したとおり、

玉川電気鉄道作成の昭和11年3月13日付けの「側線ノ撤去及新設並踏切道ノ位置變更其ノ他二伴フ工事方法一部變更認可申請」

に添付されている図面によれば、この申請によって、廃止される大蔵停留場の側線も、新設されることになっている伊勢宮河原の側線も、どちらも、本線の「山側」(北側)にあることになっています。

、当初の認識としては、砂利を採掘しているのは多摩川の河原なので、側線は、(実際に昭和4年ころの大蔵停留場がそうだったように)本線の川(南)側に設けるのが素直で、そうでなければ側線に停車している貨車に本線を渡って運ばなければならず、その不便は措くとしても、本線の電車の運行にも支障を生じさせかねないので、奇異に感じていたのです。

 その疑問を解明するヒントは、アメリカにありました。

米国の…

テキサス大学図書館の、 

“Army Map Service Topographic Map Series”ライブラリ

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/ 

にある”Japan city plans” 

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/

中の”Setagaya”

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg

(AMSマップ)は、その欄外の解説によれば、アメリカ陸軍地理局が、昭和16年ころまでにわが国の陸地測量部が発行した地図をベースに、主として戦時中の高度約3万フィートからの空中写真偵察の結果を加味して制作された地図なのだそうですが、この地図の砧線沿線を見ると、砧本村と大蔵の停留場のそれぞれ北側には巨大な池が描かれています。

Japancityplan11dijjpg

こういった…

光景には見覚えがあって、10年ほど前、戦時中に父が主計少尉として勤務していた府中の帝国陸軍燃料本部のデータを探すため(同期の方が欲しがっていた由*、府中から調布あたりにかけての、終戦直後に連合軍が撮影した空中写真を国土地理院のWebページで探したときに見つけた、調布あたりの多摩川の河原の穴ぼこだらけの光景にそっくりで、要するに、砂利を掘った穴に、雨水や多摩川の伏流水が溜まっていることを示しているわけです。

Rengoukoku
参考:連合軍撮影の調布付近

*この「同期の方」が書かれた本がわかりました。

 石井正紀「陸軍燃料廠 太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」光人社NF文庫/2003年・刊

今さら…

連合軍撮影の空中写真をみても、時期的には、よくて上の地図の元データでしょうから、伊勢宮河原停留場があったとされる戦前の当地の状況を知るには「新し過ぎる」ので

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do

で、旧・帝国陸軍が撮影した空中写真を探してみることにしました。

 その結果見つかった、当地の一番旧い空中写真がこれ

532c273dij
532-C2-73(1941年7月4日撮影)を抜粋して濃度調整

画面中央の…

大蔵停留場の北側の池は、先のAMSマップどおり、北の野川から南の砧線の線路までほぼ掘り尽くした状態にあり、これ以上掘るとすれば、西か東方向に掘り広げるしかな状態であったことがわかります。

 いずれにせよ、昭和10年代になると、砂利の採取は、従来のような多摩川の河原でではなく、主として、規制のない河畔の堤防の外(堤内地)*で行われていたようで、狛江市のWeb中の「多摩川の砂利」というページ
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,575,138,52,html

の末尾にも
「昭和9年頃多摩川での砂利掘りは禁止になり、周囲の田畑の下に埋まった砂利に目が向けられるようになった。

なお「砂利穴」
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,576,138,52,html
も参照

とされていて、先の米国陸軍のAMSマップや帝国陸軍の空中写真はまさにこのことを裏付けているわけです。

S
*堤内地・堤外地の定義は、こちら
 http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/words/04ta/ta-014.html

結局…

この砧線沿線の砂利採取については、以下のような変遷をたどったことになるかと思います。

・ここ、砧線の沿線では、元ページにあるように、大蔵停留場付近では、大規模なホッパーが必要になるほど、線路南の多摩川の河原から大量の砂利が採取され続けたことから河原の砂利も枯渇しはじめた

・そのため、比較的早い時期から線路北の堤内地の砂利を掘削して採取しはじめていた

・そして、昭和9年の規制を機に、採取地が本格的に線路の北側に移転されたが、砂利積込み用の側線が線路南にあるのでは不便なため、昭和10年に側線も線路北側に移動させた

・しかし、そのうち大蔵近辺の砂利は掘り尽くした状態になり(場所によっては。線路の両脇とも池になっている)、徐々に東側に掘り進むうち、伊勢宮河原近辺に側線を設けたほうが効率がよい状態になってきたので、昭和11年には大蔵停留場北側の側線を伊勢宮河原の線路の北側に移転させることになった

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2015/07/13

タマデン「伊勢宮河原停留場」

「伊勢宮河原停留場」とは…

玉電の二子玉川と砧本村とを結んでいた砧線に、かつて存在したといわれる、いわば幻の停留場です。

 「 玉電と郷土の歴史館」

http://setamin.com/street/11507

が、まだお蕎麦屋さん「大勝庵」として営業されていた

【資料映像】
Dsc04285s

2011年 5月 4日にお訪ねしてカレー蕎麦*を食べながら、当時は店主、今は館長の大塚さんから、その探求がいわばライフワークの一つだというお話をうかがいました**

*今度は是非「カレーうどん」をと思っている矢先にお蕎麦屋さんの方はやめてしまわれました。
 これが心残り。

**【参考リンク】二子玉川郷土史会「玉電と砧線」
 
http://kyoudosikai.com/index.php?%E7%8E%89%E9%9B%BB%E3%81%A8%E7%A0%A7%E7%B7%9A

【余談追記】
初めておめにかかったとき、大塚さんから「『撮り鉄』ですか『乗り鉄』ですか」と聞かれました。
どっちも「半端に好き」ではあるので答えに少々困ったのですが、よくよく考えると「これだ」…という意味で「『調べ鉄』です」とお答えしました。

このページ自体も、この
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-66ff.html
ページも、その一環なのですが、ほとんどライフワーク化してしまったのが、これ

「北海道廰殖民軌道
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/Kikigaki/Sokumin1.htm

伊勢宮河原というのは…

二子玉川を基点とする砧線が、中耕地、吉沢の停留場を経て(「大勝庵」さんは、かつての中耕地と吉沢の間にあります)、野川の鉄橋を渡ったあたりから上流の地名です。*

 このあたりからさらに西、多摩川の上流に向かった先の大蔵というところには、多摩川の河原で採取した砂利を貨車に積み込むための側線とホッパーがあったことは、国土地理院の地形図**にも側線が記録されているほか、写真も残っている

Photo
世田谷区立郷土資料館「玉電」同館/平成1年12月・刊p.13

S04_1_10000__
昭和4年測図・昭和5年発行1/10000地形図「二子」の大蔵停留場付近抜粋
赤矢印は、前掲写真の撮影方向(推定)


のですが、伊勢宮河原については、当初調べた段階では

・地形図では、それとおぼしきあたりに、やや大ぶりの建物が描かれているものの、大蔵とちがって側線はない
S04_1_10000___2
同上・後の伊勢宮河原停留場付近抜粋

・玉電発行の路線図には伊勢宮河原停留場が記載されたものが見つかっていない

しかし、
・民間発行の地図には、吉沢と大蔵の両停留場の間にこの停留場が示されているものがある

 Dij2
 「模範大東京全図」文彰堂/S14・発行

 S17_
 「大東京明細地名図」日本統制地図株式会社/S15・刊

という程度の情報しか見つけ出せませんでした。

*この「伊勢宮河原」という地名は、この多摩川左岸(北岸)だけでなく、右岸(南岸)の神奈川県側にもあるらしい。https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=zbmHTM0Dt07M.kxYSALOdRRMQ&hl=en_US&usp=sharing 参照
 同一の地名が、川の両岸にあるという事例は、両伊勢宮河原のある久地もそうだし、等々力をはじめ、こと多摩川に関しては珍しいことではなく、かつて、ある地名が成立した地域が、その後の多摩川の流路の移動によって、川によって分断されたことを意味していて、この「伊勢宮河原」という地名の成立が、多摩川の流路が大きく変わる前の、かなり古い時期に遡ることを示している。
**1万分の1地形図「二子玉川」陸地測量部/昭和5年・刊

さらにネットで探すと…

「ぽこぺん談話室」
http://hpcgi1.nifty.com/sassy/bbs/sassy.cgi?page=250
というBBSの過去ログページ#24
article [10064]に、かなり詳しい情報がみつかり、それを整理すると

昭04,12,19 伊勢宮河原側線設置申請
昭05,01,06 貨物停留場新設申請
昭10,02,09 大蔵停留場位置変更申請
昭11,01,25 側線新設、砧他2停留場設備変更申請
昭12,12,21 砧線工事方法変更申請
昭15,11,04 伊勢宮河原側線撤去申請

ということになります。

 これらの表題は、いわゆる公文書あるいは公用文書の書式に則っているようなので、国(軌道線なので、当時は、鉄道省と内務省の共管)か東京都(おなじく、東京府所管)の公文書館での調査結果と思われ、かなり信憑性が高いと思われます。

【追記】国立公文書館のデータベース https://www.digital.archives.go.jp/ だった
     検索結果の一例

件名 伊勢宮河原貨物停留場新設並工事方法変更の件
階層 行政文書*建設省道路局関係軌道関係軌道・東京都・玉川電気鉄道・(昭3.4.27~昭5.8.28)
請求番号 本館-3C-028-00・昭48建設80800100
件名番号 010
作成部局 内務省土木局道路課
年月日 昭和4年12月19日
文書番号・法令番号 東土第469号・
関連事項 袋NO.5-32~33・袋NO.6-34~43

 加えて、同じBBSの[10045]

記録に依れば、第1号側線、第2号側線の2本があり、その構造は玉川起点0M63C401L(401Lが?)の地点に側線への分岐点(1号分岐)があり、この1号分岐から0M01C641Lの地点に1・2号側線を振り分ける2号分岐。
さらに1号分岐から0M05C493Lで側線が合流、この先0M06C043Lの地点が引上線の終端部となっています。
住所は東京府北多摩郡砧村大字大蔵字伊勢宮河原826番地。

との記事があり、これを、google map に落としてみたのがhttps://www.google.com/maps/d/edit?mid=zMfpKjOsa42A.ksGykuwgGs7k&usp=sharing
です。

ここまでわかった限りでも…

法律上の「定義」のうえでは、この伊勢宮河原に「停留場」があったといえることになります。

 つまり、この当時、砧線は、戦後のような地方鉄道法に基づく「鉄道」ではなく、軌道法に基づく「軌道」でした。

 「軌道」の場合は、「鉄道」とちがって「停車場」「停留場」の区別も、「信号所」という概念もないため、結局、およそ「軌道」上で車両が停留する場所、つまり、 地方鉄道法上の「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ」停車場や停留場(同規程3条)ばかりでなく「信号所」(地方鐵道建設規程23条1号)のように単に「列車交換」する場所あるいは「留置」のための場所も全て「停留場」の範疇にあると解釈するしかないからです。

軌道建設規程 大正12年12月29日 内務、鐵道省令(抜粋)

第二條 車輌ノ運轉ニ常用スル線路ヲ本線路ト謂ヒ其ノ他ノ線路ヲ側線ト謂フ

第三條 道路上其ノ他公衆ノ通行スル場所ニ敷設スル軌道ヲ併用軌道ト謂ヒ其ノ他ノ軌道ヲ新設軌道ト謂フ

第二十一條 軌道カ本線路ヨリ分岐シ又ハ本線路カ鐵道、軌道ト平面交差ヲ爲ス場所ニハ相當ノ保安装置ヲ爲スヘシ新設軌道ノ停留場ニ於ヒテ車両ノ行違ヲ爲スモノニ付亦同シ

【参考】

地方鐵道建設規程 大正8年8月13日 閣令11號(抜粋)

第三條 旅客又ハ荷物ヲ取扱フ爲列車ヲ停止スル箇所ニシテ轉轍機の設備アルモノヲ停車場ト謂ヒ其ノ設備ナキモノヲ停留場ト謂フ

第二十三條 左ノ箇所ニハ特別ノ場合ヲ除クノ外常置信號機ヲ設クルコトヲ要ス但シ閉塞信號機ヲ設クル場合ハ此ノ限リニ在ラス
一 單線ニオイテ行違ヒヲ爲ス停車場又ハ信號所
二 複線ニオケル閉塞區間ノ境界點ニ在ル停車場、停留場又ハ信號所

ところで…

先日、上野毛の東京都公文書館で、
三田用水の関係
玉電の山下停留場関係
など、かねてから気になっていた資料をいくつか入手してきたのですが、その中に、あるいは伊勢宮河原に関連するデータかもしれないと思われた以下のものがありました。

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 22
公開件名 砧線工事方法変更【側線新設附近軌道線路平面図】玉川電気鉄道(株)
文書記号・番号 子土庶
補助件名 軌道線路縦断面図・平面図
文書年度(和暦) 昭和12年~昭和12年
文書年度(西暦) 1937年~1937年
起案年月日(和暦) 大正12年11月19日
起案年月日(西暦) 1923年11月19日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:玉川電気鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000140719
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭12-044,[D]D849
16mmMFコマ番号 0248-0591
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の2の2
収録先の請求番号 320.D1.02
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭12-044(複製)
電磁的記録媒体番号 D849-RAM

 中身は、玉川電気鉄道作成の昭和11年3月13日付けの「側線ノ撤去及新設並踏切道ノ位置變更其ノ他二伴フ工事方法一部變更認可申請」という表題の東京府知事宛ての文書でした。

 公文書館内では時間の制約から、文字の部分をゆっくり読んでいる時間もないので、モニタ画面上で添付されている線路の平面図を見て、もともと、後の伊勢宮河原の側線よりも西に側線があってそれを移転させただけのことかと思っていました。

 入手した資料をスキャナにかけ、前の側線の位置を割り出すため、申請書添付の「第壱号圖其ノ一」という、新旧の側線の位置がわかる比較的広域の図面に、昭和4年測図・昭和5年発行の地形図を重ねてみて、びっくり!

Sjpg
オレンジ色が地形図、背景の黒色が申請書添付の図面
右から4分の1あたりの赤矢印のところが新設されることになる、後の伊勢宮河原停留場

 こに申請で撤去されることになる側線とは、なんと、かつてはタマデンの砂利輸送の主要拠点である大蔵にあった側線(上図の青矢印)だったのです。

 しかし、この申請書の図面の大蔵の側線は、本線から分岐した後、本線と平行して西に進み、再び本線に戻る素直な形態のもので、地形図のホッパーらしい施設をとりまくような線形の側線とはまるで形が違いますし、第一、申請図面の形の側線に、上の写真のようなホッパーを設けることは不可能です。

 つまり、地形図に記載されていて写真にも写されている大蔵停留場の側線とホッパーは、この申請よりも前に撤去され、単純な形の側線に改修されていたことになり、さらに、その改修後の側線もこの申請によって撤去されることになっているわけです。

 申請書の本文を見ると

「客年十一月七日附戊土庶第一、三〇一號ヲ以テ御認可相受申候大蔵停留場附近ニ於ケル側線ヲ撤去シ吉澤、大蔵両停留場間ニ於ケル伊勢宮河原地内二側線ヲ新設之ニ関聯シテ踏切道ノ位置變更並之ニ伴フ諸工事ヲ施行致度候間御認可被成下度軌道法二十五條及仝法施行規則十一絛ニ模リ關係圖書類相添ヘ此段申請候也」

とあって、この大蔵の新しい方の側線は、どうやら、客年、つまり前年である昭和10年の11月に認可を受けて設置されたばかりだったようなのです。

わずか数ヶ月で…

せっかく作った側線を撤去しなければならない、というのも奇妙に思えるのですが、その理由は、申請書付属の「理由書」の方を読むと大体の見当がつきます。

「大蔵停留場附近ニ於ケル荷主*側ノ砂利及砂ノ採集事業ハ既ニ豫定ノ成果ヲ納メ果シタル趣キ従テ仝所ニ於ケル當會社側線モ其ノ所期セシ目的ヲ達シ今ヤ全ク不要ニ歸シタルヲ以テ今般之ヲ撤去シ新ニ伊勢宮河原地内ニ於テ採掘ヲ開始スル由ニテ荷主側ノ要望ニ〓リ仝所ニ前回仝様貨車輸送ニ必要ナル積込用ノ側線ヲ新設並踏切ヲモ適當ニ變更其ノ他ノ工事を施工セムトス是レ本申請ヲ為ス所以ナリ」

*この荷主とは「秋田屋」という業者であったことが、大塚館長の調査によって判明している。

 要するに、それまで大蔵停留場南方の多摩川で砂利を採取していた「秋田屋」なる業者が、採取可能な砂利を掘り尽したため、採集場所を下流の伊勢宮河原南の河川敷に移動する結果、大蔵の側線が不要となる一方で、伊勢宮河原の砂利積出し用の側線が必要になったということのようです。

 このころ、多摩川での砂利採取については徐々に規制が強化されつつあって、

稲城市ホームページ中「多摩川の砂利採取」
http://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/inagishibunkazai/column/jyarisaikutu.html

には

昭和9年以降は、二子橋より上流、日野橋より下流の地域では高水敷[こうすいじき]での採掘は不許可になり、許されるのは低水敷だけとなりました。

とあり、大蔵での砂利採取も低水敷、つまり河原を除く平常時に水が流れる川道部分に限定された結果(下図参照)、それまでのようなホッパーを必要とするほど大量な砂利採取ができなくなったため、大蔵の側線も規模が縮小され、その後とうとう「大蔵では掘れる砂利は掘り尽し」たので、採取場所を下流の伊勢宮河原に移したのだと思われます。

S
自然河川の断面の概念図。なお、「厳密解」は こちら


この伊勢宮河原の側線が…

認可されたのは、「起案年月日」(申請を受けた官庁側で審査・認可・通知などの処理が完了した日であることが多いから推定すると、昭和11年11月で、申請から8か月も後のことなのですが、ともかくも、

・昭和11年末には、ここに(上記の意味での)停留場ができたこと
・この停留場では、すくなくとも貨物としての砂利の積込みと発送が行われたこと

については、疑う余地がないことになります。

 しかし、この、いわばやっとできた側線

09s

も、冒頭近くにあげた

昭15,11,04 伊勢宮河原側線撤去申請

というデータよれば、使用されたのはわずか4年間ということになります*

*昭和11年に、二子橋から下流での砂利採取が全面的に禁止されているが
 
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00068.html
 ここは、その規制区域から上流なので、このとき禁止されてたのは 高水敷、いわば
「河原」での採取だけなので、この規制と、この側線の廃止とは無関係と思われる。

 なお、前掲「玉電」のp.13には
 「ここ(註:大蔵)には東京市電の電動貨車が直接乗り入れていたが、昭和11年の
    渋谷駅改良工事以後は線路が分断されたため、大蔵や玉川の砂利積み込み施
  設はとり壊された。」
 とあるが、沿線の砂利採取と砂利輸送が終焉を迎えたわけではなく、最終的に、
  砧線の砂利輸送が終了したのは、昭和14年とされており(同p.45)、こちらに従えば
 伊勢宮河原の側線が使われたのは3年間となる。

【追記】2015/07/15
 よくわからなかったのは、
 ・廃止されることになる大蔵の側線も、
 ・新設されることになる伊勢宮河原の側線も、
 本線から多摩川のある南側に分岐しているのでなくて、反対の、いわば「山側」に分岐している
 わけでした。
 その理由が、見えてきたのですが、ここに書くと、あまりに長くなりすぎるので、
 別稿
  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-a846.html

  で。

ここまでは、わかったとはいえ…

大塚館長の関心は、おそらく、この伊勢宮河原が、
・正式に旅客が乗降する停留場だったのか、
あるいは、
・法規上は停留場とはいっても、せいぜい、ここの砂利積込場に働く人たちが事実上乗り降りするだけの場所だったのか、
にあるのだと思います。

 が、この点については、残念ながら未だ未解明の謎のままです

【追記】

(公財)後藤・安田記念東京都市研究所

デジタルアーカイブス 東京関係地図
https://www.timr.or.jp/library/degitalarchives_shinsai.html

を眺めていたら…

記号:OY1-186
名称:「東京市」交通機関網図 附. 私営乗合自動車索引番号
編著:東京市編
縮尺:1:50000
寸法:77.8×75.7cm

https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-40.pdf

に、伊勢宮河原停留場が描画されていることがわかりました。

Mrl10030140

この地図のベースは「どこかで見たことがある」民間発行の地図なのですが、赤い線と丸印、それとおそらくは停留場(あるいは停留所)名は、この「交通網図」のために重ね刷りされています。

つまり、この図の編者である東京市が、この地図に「伊勢河原」を意図的に描画していることになり、ここが、停留場で、しかも旅客を取り扱う場所として官公署である東京市にも認識されていた可能性が高いことを示しています。

【追記】

以下の、増補版が、
「タマデン『澁谷停留場』の変遷」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/12/post-cecc.html
にあります。

【参考図1】

収録先

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 8
公開件名 渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
文書記号・番号 申土庶
補助件名 渋谷停車場平面図(新)(旧)
文書年度(和暦) 昭和7年~昭和7年
文書年度(西暦) 1932年~1932年
起案年月日(和暦) 昭和7年9月8日
起案年月日(西暦) 1932年09月08日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
収録先簿冊の資料ID 000137864
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭07-111,[D]D828
16mmMFコマ番号 0197-0278
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の18
収録先の請求番号 316.E8.05
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭07-111(複製)
電磁的記録媒体番号 D828-RAM

中の、東京郊外鉄道が昭和7年に作成した「渋谷停車場平面図」から、

玉電渋谷停留場付近の画像を抜粋して白黒反転した図[下が北]

R
画面上(南)中央に砂利側線
その下の左(東)方向に、省線と東横線を潜り、渋谷川を渡った後、上(南)に向かうのが中目黒線
ハッチングされている東京郊外鉄道の連絡通路を潜り、左(東)から延びてきた東京市電と接続している

砂利受け取り用の市電の電動客車は、ここから玉電に入ったことになる

【参考図2】

土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」中pp.280・281の接合図

上記の「渋谷駅改良工事」の平面図[上が北]と立面図

14062642nps

玉電の渋谷停留場が地表から2Fレベル(省線と同レベル)に上がったので、東京市電との連絡線に加え自社の中目黒線とも接続が絶たれたことがわかる。

こちらは、昭和14年3月号掲載の「広域図」

15032758np

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2015/07/08

タマデン山下の移動(全面決着篇)

今日…

等々力にいつもの用事があったので、これまたいつもどおり*、上野毛の東京都公文書館に行って、懸案だった資料を見てきました。

* http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/02/post-79ca.html 参照

 その一つが、タマデン山下の移動問題。

 目を付けていた資料が、これ

  資料種別 公文書_件名_府市
  綴込番号 1
  公開件名 運輸開始の件認可(世田谷・下高井戸間)【単線式上路鈑桁図】玉川電気鉄道(株)
  文書記号・番号 丑土
  補助件名 単線式上路鈑桁図
  文書年度(和暦) 大正12年~大正14年
  文書年度(西暦) 1923年~1925年
  起案年月日(和暦) 大正14年5月4日
  起案年月日(西暦) 1925年05月04日
  記述レベル item
  作成組織 東京府
  作成主務課1 土木
  内容注記1 関係先名・関係先住所:玉川電気鉄道(株)
  収録先簿冊の資料ID 000130227
  利用可否 利用可
  公開区分 公開
  資料状態 複製利用
  利用状態 問題なし
  複写コード 複製物から複写可
  検索手段 [16]府大14-094,[D]D896
  16mmMFコマ番号 0006-0127
  収録先の名称 地方鉄道
  収録先の請求番号 306.F8.23
  マイクロフィルムリール番号         府大14-094(複製)
  電磁的記録媒体番号 D896-RAM 

果たして…

資料中の

 玉川電気鉄道株式会社・大正14年1月26日付け

 世田谷線〔上町(旧名世田谷)/下高井戸〕間電気軌道新設工事ノ
 中一部工事方法変更認可申請

という、やたらに長ったらしい名前の文書(以下「変更申請書」)の中の

「…理由書」

という、さらに長ったらしい名前の文書には、

 一 停留場名称変更及新設並ニ廃止
 (ハ)通行多キ主要交通路ニ近接シ且ツ近キ将来ヲモ稽[原文
]査シテ
    松澤村大字松原字山下地内ニ停留場ヲ新設シ「山下」ト称ス
       従テ之ニ近接セル「前田」ヲ廃止シタリ

と書かれていました。

原文は Keiorg、本字はKeijpg

つまり…

タマデン山下の移動(再度の現地調査篇)
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/post-0cf6.html

での推測は7割方当たっていて、やはり当初の計画では、当地の停留場は、仮称・赤堤砦道との交点に設ける予定だったことになります。

 ただし、ハズレの方の3割は、
・ここに設ける予定だった停留場の名前は「山下」ではなくて「前田」だった
・手続きの上では、ですが、「前田」が移動して「山下」になったわけではない
ということです。

Maedastnrv
変更申請書中の「各電車停留場設備図」中の前田停留場部分を抜粋して白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

しかし…

この「前田停留場」は最終的には、用地は買収したものの、作られることはなかったことになります*

*【追記】この下線部分については、柳田國男いうところの「しんみり」と考えてみたところ
     プラットホーム位はできていた可能性があることに思い至りました(ただし未供用)。
     この点については。もう少し情報を集めてから。

 おそらく、着工にあたって、実際に調べてみると、仮称・赤堤砦道は古道ではあるものの、松原停留場のある滝坂道方向から北に向かう道の方が当時は通行量が増えていたうえ、「近キ将来」に小田急が開通すれば、(たとえ小田急が、当初の計画通りに、旧松原宿近くの場所に豪徳寺停留場を設けたとしても*その豪徳寺停留場からの乗降客のうち多くが人通りの多いこの道路に出てくることが予想でき、その乗り換えの便宜がよい現在の山下駅の位置に停留場を置く方が、より多くの集客が見込めると「稽査シ」たのだと思われます。

*タマデン山下の移動(現地調査篇)
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/04/post-c4d4.html
 参照

手続き的には…

変更申請書にも明記されているとおり、当初の計画の「前田停留場」が今の「山下駅」の場所に計画段階で「移動」した、というのは正確ではなくて、集客の見込める場所に「山下停留場」を「新設」することになったので、近くに予定されていた「前田停留場」を作っても無駄になるのでこちらは廃止された、ということになります。

 で、その山下停留場の図面が、これ。

Yamashitarv
変更申請書中の「山下停留場附近平面図」を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 上の図で、横方向に走っているのがタマデンですが、これと直交する線が3本描かれています。

 おそらく、
・画面の一番左の三軒茶屋寄りにあるのが、荏原郡病院につながる道路
・画面中央の「く」の字に曲がっている一番太いものが、北澤用水の本流
・その中間にあるのが、北澤用水から、上流(画面上方向)で分流された周辺の田圃へ用水路

と考えられ、つまり、この周囲では、(自然河川を用水化した場合には、ほぼ必然的にそうなるのですが)この用水路というかこのエリアの田圃の方からみると、北澤用水の本流が排水路(悪水路)の役割を果たしていたことになります。

Plandijrv
線路平面図を抜粋して白黒反転
中央を縦方向(略西から東)に流れる北澤用水の本流の左右に
これから分水した用水路があったことがわかる

Rv
変更申請書中の山下停留場附近を抜き出した縦断面図を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 このような場合、どちらの水路を地図上に水路として描くのかは実はなかなか悩ましいところで(下図参照)、

Witchisditch

地図によって、北澤用水路が山下駅の南にあるように見えたり、北にあるように見えたりするのは、おそらくそのせいではないかと、推測しております。

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2015/05/27

鳥獣戯画@東博+旧「博物館動物園駅」@京成

「東博」こと…

東京国立博物館

Dsc04708st

で開催中の「鳥獣戯画-京都高山寺の至宝-」展

Dsc04703st

に行ってまいりました。

とにかく…

べらぼうな待ち行列の話は、先に行った人たちから聞いてはいたのですが、

・前売り券を買ってしまっていた
・メジャーな、擬人化されたウサギ・カエル・サルが登場する甲巻はともかく
 丙巻や丁巻は、ヘタをするともう生涯みることができないかもしれない

ので、今日思い切ってでかけた次第。

仕事の切りがなかなか付かず…

東博の左奥の平成館にたどりついたのは午後2時ちょっと過ぎ。

 この時点で、入館の待ち時間が20分、甲巻の館内での待ち時間150分!とのこと。

 幸い、乙巻以降は待ち時間なし。甲巻なら、確か小学生のとき、ここの国宝展で見たように思いますし*、メジャーなだけに、今後ともチャンスはあると思うので、とくに丙巻、丁巻がじっくり見れるなら全く問題ありません。

*1960年の「日本国宝展目録」で確認したところ、ありました(番号26)
 この目録、価格350円で、当時の小学生の「お小遣い」ではとても買えず
  代わりにお気に入りの国宝の絵葉書(1枚10 円か20円
)を何枚か買った覚えがあります
 手許のものは、それから数10年後、近所の古書店の100円コーナーで入手
  それにしても、当時は、こんなゴージャスな特別展でも、それほどには混み合うこともありませんでした
 まして、通常展示のときは、日曜日でもほとんど人のいない展示室がありましたっけ

  【追記】
 
だんだん思い出してきました。
 小学校の3年生から5年生くらいまで、当時東博で、毎月第3日曜日に「少年少女の集い」とい
 う、小中学生向きの考古学や歴史を中心とする講演会があって、ほぼ毎回それに通っていま
 した。
 鶯谷駅よりの裏門からだと、その参加費の何十円だけで東博に入れて、今の平成館北東あ
 たりにあった
講堂での「集い」が昼前に終わると、同じく南西あたりにあった食堂(レストラン
 なんていう雰囲気ではなく、場所柄やや格調のある食堂)で、一緒に行った同級生たちとお昼
 (決まってオムライスとサイダーかソーダ水)を食べ
て、午後からは、東博内を夕方まで遊び
 まわっていました(動物園に回ったのはたしか1回だけ、科学博物館に回ったのも数回程度だ
 ったと記憶しています-お小遣いの都合もありましたし-)。

 慣れた場所だったので、人気のないがらんとした展示室に子供一人でいても、別に薄気味悪
 い心持はしなかったのですが、唯一「近寄りたくない場所が」…
 今の平成館の左手前に「表慶館」という建物が(当然、今でも)ありますが、当時は、入り口を
 入ってすぐ左手前の場所に、
どこぞの古墳に埋葬されていたという「木乃伊」がありました。
 当時「木乃伊」は科学博物館の2階にも展示されていたのですが(乳児とその母親と思しき女
 性との2体)、そちらは、どこか外国出土のもので、茶色に変色しているとはいえ、ともかくも、
 人間の形をしていましたので、見ることにあまり抵抗感はなかったのですが…東博のは、真っ
 黒で、ぼろぼろの、「木乃伊」というより、ただの「死体」。……怖かったなぁ…

  入館待ちも、1時間位炎天下に並ぶのを覚悟していたのですが、並んだ時期がよかったのか、ちょうど木陰で待つこと10分ほどで、館の前に誘導してもらえ、そこで、館内の様子のガイダンスを5分ほど聞いたところで、あっさり入館できました。

 持久戦用に、上野駅でペットボトルを2本調達しておいたのですが、1本の半分も無くなっていませんでした。

 入館してみると、思っていたほど混み合っていません。ほとんどみ~んな、甲巻の待ち行列に並んでしまっているためのようです。

 「高山寺の至宝」が展示されている第1展示室は、遠目で見て気になったものだけ近寄って「拾い見」して、目当ての第2展示室に急ぎ、とにもかくにも、丁巻の展示ケースの「かぶり付き」の列の最後尾に取り付きます(甲巻とその他の巻とでは、列は別ルート)。

 当然、そこから「牛歩」の列。それが幸いして、じっくりと順路に従って「丁巻」「丙巻」「乙巻」と見ることができたのですが、やはり「実物」の迫力はさすがで、とくに気に入ったのは乙巻です。

 「甲巻とちがって『擬人化されて い な い 』」とされてはいて、形は確かにリアルなものの、目つきだけは妙に「人間っぽくて」、なんとなく「人格を感じさせる」 動物たちでした。

当然ながら、館内で写真は…

撮れませんでしたので、印象に残った「話」を一つ。

 丙巻を見ているとき、ペアで来ている女の子の方が「おすすめの猫」「おすすめの猫」と、しきりに男の子を引っ張ってきます。

 私も、鳥獣戯画にネコがいることは、不覚にも知らなかったので、思わず目を皿にしてネコを探しました。

 で、

Photo
館内でタダでもらえる朝日新聞の号外から転載

 女の子の方は「かわいい」「かわいい」を連発していますが、男の子の方は全く「ノッて」いません。

 私も、男の子と同感で「このネコの、どこがかわいいんじゃい!」

【付録】甲巻のネコ

13

23
どっちも、かわいくない。

【追記】
高山寺さんでも、たぶん、ネコは、大切な経典や仏像を齧るネズミを退治する「プロの動物」として飼っていただけで、ペットではなかったので、描写の上でも「冷遇」されているのでしょう、きっと。

たまたま…

タイミングがよかったのか、思ったよりはるかに早く「見るべきモノを見終わった」ので、ついでに、かねてから懸案だった場所に行ってみることにしました。

 それは、東博の敷地の南西隅にある、京成の旧「博物館動物園駅舎」。

Dsc04724s

 この駅、今から50年位前、その現役時代に一度だけ、好奇心で、ここから京成上野まで電車に乗ったことがあるのですが、地下のホーム部分が今でも残っていることは電車の中から確認できるものの、地上部が今ではどうなっているのか、かねてから気になっていた場所だったのです。

 当時は「薄汚れた、ほぼ真っ黒の石の固まり」状態だったのですが、青銅色のプレート

Dsc04716st

に書かれているとおり、「心ある人」が大勢おられたおかげで、 見違える姿になっていました。

 今は「国立」博物館ですが、この駅ができた当時は「帝室」博物館。その敷地の一角に造る駅なのですから、相当に、「気」と「手間」と「お金」を使った「生まれのよい」駅であることは、細かくみるとよくわかります。

Dsc04718s

 それが、戦時中の金属供出などで、

Dsc04717s
2010年にようやく1灯だけ復元された「壁付け照明器具」

お化粧を剥ぎ取られ、戦後の混乱でメンテナンスも行き届かなかったために、50年前には「育ちが悪く」見えていただけだったらしい。

 今こうやって、元の石肌が綺麗に見えるようになった

Dsc04720s

姿をみると、まるで「鉢かづき姫」ですねぇ、これは。

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2015/05/03

タマデン山下の移動(再度の現地調査篇)

先ほど、再び…

Dsc03456s

山下1号踏切に行ってきました。

 goo map の、昭和22年連合軍(米軍)撮影の空中写真を眺めていたら…

Goomaps22dij

どうやら、踏切周囲の線路脇の敷地は、今残っている北側の上り線東脇だけでなく、かつては、南側の両脇にもあったらしいことがわかったのと、

あわせて…

下高井戸方の勾配調整で、果たして、この1号踏切の場所に停留場を作ることが可能だったかを確かめてみたい、という魂胆からでした。

 しかし、小田急豪徳寺駅を降りて、山下駅に行って、北側の踏切から下高井戸方向をみても、見渡す限り線路脇の勾配標識が「ない」!

Dsc03433s
これまで、過去の資料映像をいくらあさっても、勾配標識が写りこんでいるのはみつからなかったのですが、みつからなかったのも当たり前)

 こうなると、線路際を見つかるまで歩くほかないのですが、なかなか現れてくれません。

やっとあったのが…

なんと、問題の1号踏切のすぐ脇

Dsc03448s

30.3パーミルという、見た目に違わぬ、なかなかの勾配です。

 しかし、問題は、その裏側の標識板で、どうみても、真横を向いてる…

裏を見ると、

Dsc03450s

まさかの「L(evel)」

つまりここから山下駅方向は勾配なし。

 こちらは山下駅から、坂道を登ってきたので、当然線路もそこそこの勾配があると思っていたのですが…思い込みというのは恐ろしい。

 要するに、タマデンは、ここから南側の北澤川(用水)の谷底を築堤で水平に越えているわけで、このことは、ここから南の少なくとも小田急の築堤のあたりまでなら、どこにでも停留場が作れたことを意味しています。

 また、踏切北の上り線脇の空地のところでも、北側の勾配を少しだけ急にすれば、ここにホームを作ることは可能だったことになります。

 前編のとおり、10パーミル以下の勾配にすれば停留場を作れるのですし、その場合、そこから北の勾配は急になってしまいますが、何分、タマデンの本線ですら、渋谷から道玄坂上停留場まで、車庫のあった大橋から大坂上停留場までは、どちらの勾配も40パーミルもあったのですから*、ここでは勾配を今より急にする余裕が十分あったことになります。

*東京都公文書館蔵
  「道玄坂上大坂下氷川前間軌道工事方法変更【横断排水渠設計図】玉川電気鉄道(株)」
 (収録先の名称:鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の31の1/綴込番号:5/
  収録先の請求番号:318.A5.10[D844-])

昭和22年までは…

踏切南側左右の土地が「空地」だったことは先の空中写真から明らかですが、念のため、境界標を確認してみることにしました。

 その材質や大きさ、上部の刻印などから、打たれた、いいかえれば、その境界が決まった時期、そこまでゆかなくても、その前後関係がわかることもあるからです。

 果たして、

・踏切北、下り線西の、線路敷の境界が当初から動いていない可能性が高い場所

Dsc03451s

 太いコンクリート製の境界標で、上部の刻印は「十文字」
(おそらく、今回見た4本中では一番旧い)

・踏切北、上り線東の、「悩ましい空地」と東隣の三井生命との境界

Dsc03452s

 太いコンクリート製で、上部の刻印は「矢印」
(おそらく、4本中2番目に旧く、比較的早い時期に買い足した場所と想像される)

・踏切南東隅

Dsc03453s

 細いコンクリート製で、上部の刻印は崩れて不詳

・踏切南、線路敷西側道路山下駅寄り

Dsc03444s

 細いコンクリート製で、上部の刻印は崩れて不詳

 このことから、踏切南側の線路の東西にあった空地は、たまたま昭和22年当時まで空地として残っていた、」というわけではなくで、タマデン側が、何らかの目的で取得して戦後まで使わずに保有していたのを、いわば軌道敷から「切り分けて」、世田谷区(線路西側)や一般人に譲渡した可能性が高いと思われます。

結論としては…

今回の調査結果からみても、当初は、ここ、つまり現在の山下1号踏切のある仮称・赤堤砦道の場所に山下停留場を作ろうとしていた可能性は、より高まったといえそうです。

 たとえば、踏切をはさんで3方向に土地があったのですから、停留場の管理上の便宜からいえば、踏切南側に対向式のホーム(当初は1両分の長さがあれば済んだはずですし)を設け、踏切北東の現在の三井生命脇の部分に、留置線を作るという使い方が想定できます。

「最終決着篇」は、こちら

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-66ff.html

今回のオマケ画像

 山下1号踏切北西の線路敷に安置されている馬頭観音

Dsc03442s

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2015/04/23

タマデン山下の移動(現地調査篇)

「山下1号踏切」に…

2015年4月11日に行ってきました。

Dsc03224s

要するに、前編の「仮称・赤堤砦道」が、旧・タマデン高井戸線とクロスする場所です。

ここから、北、つまり下高井戸方面を見ると
Dsc03230s

踏切に向かって、下り勾配で、浅い切通しの中を線路が下って来ていることが分かります。

今度は、南の現・山下駅方向。低い築堤の上を山下に向かって下っています。

    【追記】
    山下方向への勾配については、続編 参照

Dsc03232s

つまり、この山下1号踏切の前後では、
・北側の切通しと南側の築堤によって、旧・北沢川の河岸段丘の勾配を緩和してクリアし
かつ、それらで
・旧道の「仮称・赤堤砦道」とクロスするこの踏切の位置で、線路と道路の高さを合わせる
ようにしているわけです。

Dsc03227s
ここが、下高井戸周辺史雑記さん も指摘されている、1号踏切横の上り線にある「悩ましい線路脇の空地」
この(今では無意味な)空地があることから、当初はここを山下停留場にする意図で、この土地を買収したのではないかと、考えているわけです。

玉電「山下停留場」と小田急「豪徳寺裏停留場」はどこにあったのか

前編に示した「豪徳寺裏停留場設計平面図」
には、豪徳寺裏停留場から直線的に画面右下つまり北西方向の道路が伸び、その先に略正方形の建物が描かれています。

Oergoutokujiura

そして、この建物は、先の小田急線の工事中の写真の奥の右にある、玉電の山下停留所の駅舎とおぼしき建物と位置が一致しているように見えます。

改めてスキャンした、やや鮮明な写真を載せておきます。Tocross

実は、この図面が含まれている東京都公文書館所蔵の「土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)」の中には、小田急の豪徳寺裏停留場の位置を示す図面が、もう1枚あって、それが
「敷設線路実測平面図」
なのですが、こちらの図面の一部を白黒反転して、「停留場設計平面図」の方を赤線にして重ねてみると

Tocrossplans

「敷設線路実測平面図」の方では、豪徳寺裏停留場中心(左端近くの赤線)が「停留場設計平面図」(中央)のそれよりもはるか東にあることがわかります。

現況、というより、複々線化工事前の豪徳寺駅の位置が「停留場設計平面図」と合致しているところからみて、先に作られたと考えられる「敷設線路実測平面」が作成された時点では、この停留場は、後の豪徳寺駅よりも東の、まさに、松原宿と前田とを結ぶ、仮称「赤堤砦道」に接する集落の中に設けることが予定されていたようなのです。

前編でご説明したように、松原宿から前田を経て中世の世田谷吉良氏の時代の赤堤砦に通じる道は、当地の主要道の一つだったので、小田急が、上記の「敷設線路実測平面」のように「赤堤砦道」近くに停留場を設けることは合理的ですし、前編のとおり玉電の場合も同様のはずなのです。

しかし、上の写真のとおり、

・玉電側も、上の写真から、小田急線の工事中から、すでに「赤堤砦道」ではなく、それより南の小田急の線路のすぐ北に山下停留場を設けていたらしいことがわかりますし、
・小田急は小田急で、「停留場設計平面図」の段階で、従前の計画よりも「豪徳寺裏停留場」を西の玉電との連絡に便利な場所に移動させている

ことになります。

一応の結論

玉電側も、小田急側も、それぞれ「相手」がいなければ、何も好き好んで北沢用水沿いの「ドボドボ」の場所に停留場を作る必要はないので、玉電としては、小田急の計画が明らかになる前の段階では、今の位置に山下停留場を設けようとする道理がなく、小田急側も、玉電が今の位置に山下停留場を設けるので無ければ、後の豪徳寺駅の位置に豪徳寺裏停留場を設けようとはしなかったはずです。

そのため、両社のどちらも当初の計画段階では、集客上有利な「赤堤砦道」に接した位置に停留場を設けるように設計していたものの、

小田急側では、遅くも実際の着工のときまでに、
  これは、先の「停留場設計平面図」から明らか
玉電側も小田急の工事の段階で、というよりも、おそらく小田急開通の3年程前の高井戸線開通時から
  当初の段階で「赤堤砦道」に接して停留場を設けたとすれば、その部分、つまり現山下1号踏切前後
    の線路は、勾配を無くすか、少なくとも、法令上100分の1(10‰)以下の緩い勾配にしたはずです
  が、現況では、北方の稜線から現・山下駅に向かってほぼ均等な勾配となっています。
   
【参考】
  
軌道建設規定〔大正12年12月29日 内務、鉄道省令〕
  第16条2項
  停留場ニ於ケル本線路ノ勾配ハ百分ノ一ヨリ急ナルコトヲ得ス

それぞれ相手の線路に近い場所に停留場を設けるように設計変更していたと考えるのが、一番合理的な推論かと思います。

■「再度の現地調査篇」はこちら

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/post-0cf6.html

オマケ画像

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「世田谷の家」と200形ゆかりのカラリングの300形

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2015/03/29

タマデン山下の移動

昨3月28日…

北沢川緑道と茶沢通りがクロスする橋場橋脇で、北沢川文化遺産保存の会のお花見時恒例の文化地図(今回から、第6版)配りのお手伝いをしてきました。

その折、「古地図の差入れ」があって、これが、大正14年9月15日発行の東京日日新聞付録「最新大東亰地図」*

*とくに明治時代は,中国の「東京」(トンキン)との混同を避けるため、
 
日本の東京については「亰」の字を使うことが多かったようです。

何分1世紀近く前の、あまり紙質のよくない紙なので、裏打ちして保存することになり、その前にデジタル・データ化するためお預かりしてきたのですが…

幸い…

折り目を開かずに見える面に、今の小田急線の豪徳寺駅を中心とする地域が描かれていました。

大正14年の地図なので小田急線は未開通のため、予定線の点線状態。

直前の大正14年5月1日に開通している玉川電気鉄道の高井戸線(現・東急世田谷線)は、実線ですが、問題は山下停留場の位置。

今の山下駅は、北沢川緑道、つまり旧北澤用水の南で、用水と小田急線との間にあるのですが、この地図では、用水の北にあります。

Yamashitastnwide_2

もっとも、この辺りから北の赤堤にかけての地域は、比較的早い時期に区画整理が進み、そのときに用水路も直流化されているので、単順に今の緑道との位置関係だけで判断はできないのですが、かつて、桜上水Confidential さんも巻き込む形で

下高井戸周辺史雑記 で 川俣さんが「山下の移動

について触れておられていたこともあり、この機会に、少し気をいれて考えてみることにしました。

小田急線開通直前の写真では…

Yamashitastnpreodakyu
東京都世田谷区編「世田谷近・現代史」同区/昭和51年9月30日・刊 p.606 より

この写真では、小田急線の築堤と、玉電を跨ぐ跨線橋の橋台はできているものの、橋桁は工事未了の段階ですが、玉電の方は、小田急線に近い位置に待合所(したがってホームも)設けられていたらしいことがわかります。

さらに遡って、小田急線がまだ計画段階で、一部の用地の土地収用が必要だったころの図面を見ると…

Oergoutokujiura
東京都公文書館・蔵
【公開件名】
土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
【収録先の名称】
地理・土地収用 冊の12 , 地理・土地収用 冊の13
【収録先の請求番号】
305.F6.06 , 305.F6.07 
【電磁的記録媒体番号】
D895-RAM
(抜粋)
 

玉電の線路まで将来の接続を考慮した取り付け道路らしきものが見えます。

しかし、玉電の当初の計画時に、影も形もなかったはずの小田急との接続を考慮するはずはありませんし、それをおいても、とくに必要があれば別ですが、今のような北澤用水のいわば谷底に停留場を作るというのも、どうも不自然です*

*たとえば、豪徳寺前停留場は、谷底ですが、これはお寺への参詣客への便宜のためでしょう
 これに対し、今の宮ノ坂駅は烏山用水の谷底ですが、旧・宮の坂停留場は、北澤・烏山両用
 水の間の高台にあります(下図参照)。

【資料映像】
Yamashitanorth
現・山下駅から北方向を撮影
列車右の木のある部分が、旧・北澤用水

【資料映像】
Yamashitaeast
線路東側の旧・北澤用水

【資料映像】
Yamashitawest
こちらは、線路の西側
区画整理+緑道整備で、元農業用水跡とはとても思えない

「用水」といっても、北澤用水は、自然の川に玉川上水の水を注ぎ込んでいるので、
用水路は低い場所を流れています。
そのため、山下駅から北を見ると、かなりの急勾配を列車が下りてくるのが解ります。

【資料映像】
Yamashitanorth2
【追記】
正面の「三井生命」の手前が、次の「現地調査編」で採り上げる「山下1号踏切」

そこで…

先の地図を細かくみてみると…

Yamashitastncup

どうやら、この山下停留場は、地図の「前田」と「新井」を結ぶ道路にからめて位置決めされたように見えます。

そのつもりでよく見ると、少なくとも、この高井戸線に関する限り、停留場は、松蔭神社前、世田谷、上町、宮の坂など、この地図上で太く描かれている道路、ということは、近世(あるいは中世)以来の、この地域の主要道との交点に設けられていることが多いことがわかります。

これは、考えてみれば当たり前で、そのような道であれば人通りも多く、うまくすれば沿道に街場も発達しているはずで、当然多くの乗客を見込めるからです。

とくに、山下の一つ南の、旧・宮の坂停留場は、「中世の甲州道中」といわれている、府中道あるいは滝坂道と呼ばれる世田谷の「古道中の古道」との交点に設けられています。

【資料映像】
Exmiyanosakastn
旧・宮の坂停留場(下り線)側を北方向から撮影
画面手前を左右に走るのが滝坂道
道路が踏切の向こうの手前側で広がっている部分がホームの場所といわれる。


その観点からみると、小田急との接続を想定しなければ、この山下停留場も、先ほどの前田-新井間の道との交点に設ける方が合理的ですし、この道自体、その東、中世の世田谷吉良氏の時代には宿場か間違っても街場があったことがほぼ確実な松原宿で、先の滝坂道と分岐して、吉良氏の出城の一つである赤堤砦に通じる道なのですから、

Yamashitamap
なおさら、といえるでしょう。

「現地調査篇」はこちら

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/04/post-c4d4.html

                                             -続く-

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