2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

Elv_turumaki_s_3


屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

Elv2

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

Elv_s

・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

【最終版】

Elv0508


・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・萩原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

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2017/05/03

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕

〔その1:駅舎の意匠〕で…

検討したように、屋根の傾斜とか、場合によっては入口上の明り窓の有無の見当を付けるには、まずは、駅舎のサイズ、それに先立って、昭和2年の開業当時の、駅舎敷地の位置と広さが問題になる。

その重要な資料の一つとしては…

東京都公文書館・蔵の

資料種別 公文書_件名_府市
公開件名 土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
文書記号・番号 丑土第4775号
補助件名 停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図
文書年度(和暦) 大正14年~大正14年
文書年度(西暦) 1925年~1925年
起案年月日(和暦) 大正14年7月29日
起案年月日(西暦) 1925年07月29日
記述レベル item
作成組織 東京府
内容注記1 住所地:豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町
内容注記2 関係先名・関係先住所:小田原急行鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000129396,000129397
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16],[D]D895
収録先の名称 地理・土地収用 冊の12,地理・土地収用 冊の13
収録先の請求番号 305.F6.06,305.F6.07
電磁的記録媒体番号 D895-RAM

中の「中原停留場設計平面圖」がある。

_s


これを、反転して抜粋すると(図の下方が略北)、

_rdijs

 駅の西の、今の環状7号道路の原型にあたる、北は堀の内の妙法寺、南は池上の本門寺に通じる主要道「堀之内道*1からの取り付け道路を造り、その突き当りに駅舎が設けられたことがわかる。

 したがって、この世田谷中原の駅舎への入口は、堀之内道の方向、つまり西にあるらしいこと、駅の敷地の南北方向はそれほど広くないことから駅舎が東西方向に建っていたらしいことがわかる。

 上の図面の下方の横断面図を見ると、ホームの幅は15フィート(約4.5メートル≒2間半)なので、敷地の幅は、そのほぼ倍の30フィート(約9メートル≒5間)しかないことになる。

 実際、同じ敷地に戦後建て直された駅舎のサイズからみても、駅舎のサイズがそれほど大きいものでなく、また、敷地の南北方向の幅がそれほど広くはなかったことがわかる(左端やや上の小豆色の屋根が場内跨線橋)。


「明らかにパブリックドメイン」といえる大きな画像が見つからないので、WikiPediaから、とりあえず小さな画像だが転載。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/1e/Odakyu_Setagayadaita_eki_3.jpg

*1 とくに、今の東京西部は南北に通じる道が少なかったこともあり、かつては両寺での大きな法要時には、人の流れが途切れなかったという。

もう一つの資料は…

小田急電鉄・蔵の、世田谷中原駅の「焼け跡」の写真

S20s_2

である。

 この写真の中の、コンクリート製の基礎の残骸をてがかりに、建物の外形のいわゆるアタリを取ってみると

S20s_4

水平方向の赤線のような、駅舎の平面が浮かび上がる。

 つまり、
・駅舎は敷地の南寄りにあって
・写真手前の西側の縦方向の緑線の間が駅舎の入口で
・その奥の東側の約5分の3の範囲に事務室がある。

・入口から入ってすぐ左が改札口で、
・そこから右に折れてホームに向かい
・下りホームへは(先の設計図の断面図からみると) そのまま行くことができるが
・上りホームへは、一旦ゆるい階段を下って、左に曲がって構内横断場を渡り、右手のゆるい階段を昇る

ということになる。

 この配置だと、敷地の南端と駅舎の間が半間(0.9メートル。この時点では敷地の南は道路ではないので、境界ギリギリに駅舎を建てるわけにはゆかないだろう)、駅舎と線路の間の通路を1間半(1.35メートル+1.35メートル=2.7メートル)とみると、駅舎の幅は、5-(0.5+1.5)間の3間(約5.4メートル)程度を取るのがせいぜいといえる。

 先の生方・p.35の喜多見駅復元図の駅舎の幅は、5.4メートルなので、それとほぼ同規模・同一設計か、あるいは1サイズ下、つまり幅4.5メートル程度(おそらく、前ページの鶴巻駅と同規模・同一設計か)と考えられる。

【参考】

Photo
開業直後と思われる「千駄ヶ谷新田」(→小田急本社前→南新宿)
推定幅4.5m(2間半)

ここまでの結果に基づく想像図は 次ページ で。

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戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕

昭和20年7月1日に…

空襲で、世田谷中原、つまり今の世田谷代田の駅舎が焼失している。

 この焼失前の駅舎の写真は、これまで探したがみつからないので(昭和19年に橋上駅に改築された下北沢、さらに昭和38年に鉄骨造の駅舎に改築される前の東北沢の木造時代の駅舎ですらほとんど写真がないので、無理もない面もある)、今回、戦災前の駅舎の姿を推定してみることにした。

実それというのも…

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBパブリッシング(キャンブックス)/2009年・刊

によれば、少なくとも、昭和2年4月1日に小田急の小田原線が開通した当初の駅舎は、かなり、パターン化されていることがわかったからである。

 つまり、同書のp.33には、

「■駅舎建築
 小田急の駅舎建築の変化を概括的に眺めてみると、小田原線開通時に五大停車場(稲田登戸
*1、新原町田、相模厚木*2、大秦野*3、新松田)がマンサード型の大きな駅舎で威容を誇っていた。…その他の駅*3は当時はやりのモルタル造りの建築が多かった。」

とある。

*1 現・向ヶ丘遊園(北口に、唯一、開通時のマンサード型の屋根の駅舎が残っている)
   ブログ「関根要太郎研究室@はこだて
 」中の「小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023
   に、2012年撮影の様々な角度からの写真と、新原町田、新松田の開業当時の写真も掲載されている。
*2 現・本厚木〔表/南口〕
*3 現・秦野
*4 当時の「地方鉄道法」では、おおまかにいえば、信号機またはポイントのあるものを「停車場」、これらがないのを「停留場」といった、以下、ポイントはともかく信号機の有無まで調べるのは、面倒だし、このアーティクルの本筋とは無関係なので、すべて「駅」と呼ぶ。

実際…

同書などに掲載されている昭和2年4月1日の開業時に建築された駅舎の写真を見ると、
・新宿、小田原などのターミナルを除くと
・マンサード屋根の上記5駅舎
 3829p82_s
 大秦野駅〔現・秦野〕
 鉄道ピクトリアル No.829p.82


・木造モルタル造で切り妻の屋根の棟の中央に三角形の明かり窓のあるいわば「標準仕様」
 3829p82_s_3
 鶴巻駅〔現・鶴巻温泉〕 前同

に大別され
これらからはずれる
・特殊タイプとしては、参宮橋(同・p.48。明治神宮の最寄り駅なので「社殿造り」)、座間〔初代〕(同・p.96.現・相武台前。陸軍士官学校の最寄り駅で同校校長などのための貴賓室を備える大型駅舎)程度しか見当たらない。

S
相模厚木〔表口〕 土木建築工事畫報 3巻5号30ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

 世田谷中原は、もちろん先の5大駅舎のうちに入っていないし、特殊タイプの駅舎とするほどの特色のある場所ではないので、結局「標準仕様」、つまり上の鶴巻駅と同様の意匠によって設計されていると考えるほかない。

もっとも…

「標準仕様」とはいっても、詳しくみると、構造、意匠、材料、装飾などが共通という意味で、微妙にバリエーションがあることがわかる。

 たとえば
・柿生駅(同・p.84)と伊勢原(同・p.109)は、他の駅舎の入口が建物の棟の方向、つまり建物の妻面にあるのに対し、ここは、棟と直角に屋根を設けて、いわゆる平入りになっているし、
・生田(同・p.78)、新座間(同・p.98。現・座間)も、その方向には屋根がなく庇しかないが、平入りになっており、
・経堂は、妻入りで構造自体には標準型と違いはなさそうだが、妻面の装飾がほかの駅と違っている(後の、改装の可能性はあるが)。

 しかし、もっとも多いバリエーションは、
・駅舎の妻面の幅
・それと関係の深い屋根の勾配
・妻面の駅入り口の上や屋根側面の明かり窓の有無
である。

中でも…

一番わかりやすいのが、屋根の勾配である。

 生方・p.35に、喜多見駅の復元図(西〔事務所側〕面と北〔ホームの反対側〕面の各立面図と平面図)が掲載されているが、その屋根の勾配は10/10、つまり角度でいえば45度になっている。

 しかし、写真で判断する限り、そこまで急勾配のものは、稲田登戸の南口(同・p.74)、相模厚木(同・p.106。現・本厚木)、伊勢原(現・同p.109)くらいで、他はもう少し勾配は緩い。

 屋根の高さ(深さ)が同じなら、妻面の幅が広くなれば勾配は緩くなるので、まずは駅舎のサイズ(妻面の幅)で屋根の勾配が決まるとみてよい。

 ただし、あまり緩いと雨漏りの原因になるので、限界はあって、その場合には屋根を高くする必要があるし、そうなると、入口上の妻面に、半円形を基調にした装飾はあるものの「間が抜ける」ので、入口の庇の上に明かり窓を設けたのではないかと思われる。
(やや異色なのは、稲田登戸の南口(同・p.74)で、おそらくは北口の大型駅舎とのバランスとか、向ヶ丘遊園〔小田急本線と同時開業〕の最寄り駅であるためか、かなり大型の駅舎に見えるが、楽し気な雰囲気を出すためだろうが、傾斜45度の屋根が載っている。)

 つまりは、あまり大型の駅舎でなければ、建物の幅から自ずから屋根の勾配の見当がつき、さらに、入口上の明り窓の有無もあらかた推定できそうである。

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2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕*だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

*[日本鉄道]
というのは、なんとも不思議な成り立ちの鉄道会社です。

 事の起こりは明治0年代。(金持ちは皆、汽車に乗って東京の芝居を見に行ってしまうので)「横浜の芝居小屋が廃れた」といわれるほどの繁盛していた新橋・横浜間の官設鉄道を、岩倉具視を中心とする華族たちが資本を集めて払い下げを受ける計画がもちあがりました。民間が、官営で立ち上げた企業の払い下げを受ける(あるいは釜石の製鉄所のように「押し付けられる」)というのは、当時はしごく普通のことではありましたが、諸般の事情で中止のやむなきに至りました。

 集めてしまった資本は、澁澤榮一の勧めにより、明治12年、東京海上保険会社の設立に使用したのですが、この間に、政府は、鉄道網を充実させる必要が叫ばれながらも国には金がないため*、鉄道官設から、私設鉄道の設立を奨励・助成する方針に転換しました。

 これを受けて、再び岩倉らの後押しで、華族か資本を集めて明治14年に設立したのが、日本鉄道会社です。この鉄道会社、私鉄ではあるものの、建設工事、車両・資材の供給、線路の保守等は政府の鉄道局が行なったという、準官設ともいえる性格を有していたようです。
(参照:「日本産業史 1」有沢広巳・監修/日経文庫497/1994/06/14・刊)

* 明治5年の汐留-横浜間の最初の鉄道もイギリスで国債を発行して資金を賄った。
  今の日本人からみても「よくもまぁ貸したものだ」と思うが、一見もっとギャンブルに見えるのが
 日露戦争の戦費調達のための国債だが、こちらの方は、ロシアの西への進出を食い止めたい
 
イギリス、実際に国債を引き受けたロシアで「いじめられている」ユダヤ人にとって、勝ち負けは
  ともかく、たとえ日本が負けて多少資金が焦げ付いたとしても、ロシアの勢力を多少なりとも削
 
ぐだけでも「まんざら損はない」投資だった可能性がある。
  ちなみに、AIIBに関して、麻生財相が「1日も遅れず、1銭も違わずに返した」といったのが、こ
 のときの国債らしく、本当に戦時中も、中立国経由で、交戦中の英国に向けて返済し続けたら
 
しい。

その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

 その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし

・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

 

 

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2015/12/26

タマデン「渋谷停留場」の変遷

これまでは…

当ブログの「タマデン『伊勢宮河原停留場』」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

の末尾に、参考図として、タマデンの渋谷停留場の図面をいくつかご紹介していたのですが、大正元年の地籍図がみつかったのを機に、ここに再掲・増補することにしました。

大正元年の「地籍図」

 国会図書館の近代デジタルライブラリーに、大正元年の地籍図「東京市及接続郡部地籍地図」があるのを、他の調べものの折に見つけました。

上巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079
下巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080

 その、豊多摩49図「澁谷町大字中澁谷字大和田下」が、明治末期のタマデン澁谷停留場周辺の地図にあたります。

T1tcs

鉄道線が横方向に3条描かれていますが、一番上(西)がタマデン。
その下が省線の山手線、一番下が東京市電。
その下が渋谷川で、右端に暗渠化される前の支流の宇田川が描かれている。

 道玄坂南の専用軌道を下ってきた線路が、大きく右に90度近く曲がった先に旅客用の停留場があり、さらにその先に続く線路が180度曲がった先に砂利の積み下ろし場があったらしいことがわかります。

 実は、これまで、世田谷区郷土資料館「玉電」(同館/平成01年12月・刊)p.13のこの

P18
写真。どこから、どう撮ったのか見当が付かなかったのですが、この地籍図からみると

最南端の180度カーブのピークのあたりから、上の地図でいうと時計の2時方向、実方位でいうと同じく10時方向に撮った
(つまり画面奥の小高い場所は、現・井の頭線の渋谷トンネルのある、目黒川と渋谷川の間の台地ということになる)

らしいことがわかりました。

【追記】2016/03/12

白根記念渋谷区郷土博物館:文学館「特別展 『春の小川』の流れた街・渋谷―川が映し出す地域史―」〔図録〕同館/平成20年・刊 p.54に転載されている
大岡昇平「幼年」潮出版社/昭和48年・刊掲載の「大正時代の渋谷駅付近」の図
によれば、この180度カーブの頂点の内側に、略楕円形の「じゃり置場」が描かれている。

【追記】2016/03/16

Aprxm40s

渋谷区教育委員会「渋谷の記憶」同委員会/平成19年・刊p,58に、先の写真の「フル・フレーム版」と思われる写真があった。
右端の鉄骨の構造物は、砂利積み込み用のクレーンのようにも、何かの広告塔のようにも見えるが、何だろうか?

【以下、既出分に増補】

昭和7年の「東京郊外鉄道・渋谷停車場平面図」

現在の京王井の頭線の設計変更申請時の図面です。

収録先

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 8
公開件名 渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
文書記号・番号 申土庶
補助件名 渋谷停車場平面図(新)(旧)
文書年度(和暦) 昭和7年~昭和7年
文書年度(西暦) 1932年~1932年
起案年月日(和暦) 昭和7年9月8日
起案年月日(西暦) 1932年09月08日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
収録先簿冊の資料ID 000137864
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭07-111,[D]D828
16mmMFコマ番号 0197-0278
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の18
収録先の請求番号 316.E8.05
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭07-111(複製)
電磁的記録媒体番号 D828-RAM

中の、東京郊外鉄道が昭和7年に作成した「渋谷停車場平面図」から、

玉電渋谷停留場付近の画像を抜粋して白黒反転した図[下が北]

R
画面上(南)中央に砂利側線
その下の左(東)方向に、省線と東横線を潜り、渋谷川を渡った後、上(南)に向かうのが中目黒線
ハッチングされている東京郊外鉄道の連絡通路を潜り、左(東)から延びてきた東京市電と接続している

砂利受け取り用の市電の電動客車は、ここから玉電に入ったことになる

昭和13年の「玉電ビル」の設計図

土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」

「渋谷駅改良工事」の平面図[上が北]と立面図pp.280・281の接合図

14062642nps

玉電の渋谷停留場が地表から2Fレベル(省線と同レベル)に上がったので、東京市電との連絡線に加え自社の中目黒線とも接続が絶たれたことがわかる。

こちらは、昭和14年3月号掲載の「広域図」

15032758np

前掲・土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」中の、現東急東横店屋上から撮影されたと思われる、工事中の写真

1406p279
手前が東京市電。画面中央奥が帝都線(現・京王井の頭線)渋谷停車場。画面左奥が開通前の東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線の渋谷・新橋間)の渋谷車庫。帝都線と東京高速鉄道の間が玉電。

【以下、随時追記予定】

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2015/11/14

【絶滅危惧種】小田急SEカラー

■小田急の…

前・3000形 元祖SE車

N6501_04t
昭和40年3月 箱根湯本駅

■後の…

国鉄151系(当初20系)

R72002_33c
昭和47年8月 岡山駅

こだま

M6302_17c
昭和39年8月 京都駅

の開発の契機となり

■ひいては…

新幹線
N6501_12ct
昭和40年7月 豊橋駅

の魁となった名車なのですが…

■この「元祖SEカラー」が…

今や、小田急でも、リ・リ・ペイントされたLSE車のそれを残すのみ。

■箱根登山鉄道のも…

Dsc04488s
平成23年8月 大平台駅

新型車の投入で激減してしまいました。

■最後の牙城と思っていた…

小田急タクシーも

Dsc05684s
平成27年11月 下北沢

最近のプリウスのはVSEカラー。

■とうとう…

絶滅危惧種。

何10年もなじんでいたカラリングなので、なんとも、寂しい限りです。

■実は…

SEカラーを残すものが、あと一つあるのですが、これも絶滅危惧種。

資料写真がみつかり次第、追加します

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2015/07/18

タマデン・砧線と砂利

この前の…

アーティクルの タマデン「伊勢宮河原停留場」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-3f7b.html

(元ページ)の末尾近くに追記したとおり、

玉川電気鉄道作成の昭和11年3月13日付けの「側線ノ撤去及新設並踏切道ノ位置變更其ノ他二伴フ工事方法一部變更認可申請」

に添付されている図面によれば、この申請によって、廃止される大蔵停留場の側線も、新設されることになっている伊勢宮河原の側線も、どちらも、本線の「山側」(北側)にあることになっています。

、当初の認識としては、砂利を採掘しているのは多摩川の河原なので、側線は、(実際に昭和4年ころの大蔵停留場がそうだったように)本線の川(南)側に設けるのが素直で、そうでなければ側線に停車している貨車に本線を渡って運ばなければならず、その不便は措くとしても、本線の電車の運行にも支障を生じさせかねないので、奇異に感じていたのです。

 その疑問を解明するヒントは、アメリカにありました。

米国の…

テキサス大学図書館の、 

“Army Map Service Topographic Map Series”ライブラリ

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/ 

にある”Japan city plans” 

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/

中の”Setagaya”

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg

(AMSマップ)は、その欄外の解説によれば、アメリカ陸軍地理局が、昭和16年ころまでにわが国の陸地測量部が発行した地図をベースに、主として戦時中の高度約3万フィートからの空中写真偵察の結果を加味して制作された地図なのだそうですが、この地図の砧線沿線を見ると、砧本村と大蔵の停留場のそれぞれ北側には巨大な池が描かれています。

Japancityplan11dijjpg

こういった…

光景には見覚えがあって、10年ほど前、戦時中に父が主計少尉として勤務していた府中の帝国陸軍燃料本部のデータを探すため(同期の方が欲しがっていた由*、府中から調布あたりにかけての、終戦直後に連合軍が撮影した空中写真を国土地理院のWebページで探したときに見つけた、調布あたりの多摩川の河原の穴ぼこだらけの光景にそっくりで、要するに、砂利を掘った穴に、雨水や多摩川の伏流水が溜まっていることを示しているわけです。

Rengoukoku
参考:連合軍撮影の調布付近

*この「同期の方」が書かれた本がわかりました。

 石井正紀「陸軍燃料廠 太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」光人社NF文庫/2003年・刊

今さら…

連合軍撮影の空中写真をみても、時期的には、よくて上の地図の元データでしょうから、伊勢宮河原停留場があったとされる戦前の当地の状況を知るには「新し過ぎる」ので

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do

で、旧・帝国陸軍が撮影した空中写真を探してみることにしました。

 その結果見つかった、当地の一番旧い空中写真がこれ

532c273dij
532-C2-73(1941年7月4日撮影)を抜粋して濃度調整

画面中央の…

大蔵停留場の北側の池は、先のAMSマップどおり、北の野川から南の砧線の線路までほぼ掘り尽くした状態にあり、これ以上掘るとすれば、西か東方向に掘り広げるしかな状態であったことがわかります。

 いずれにせよ、昭和10年代になると、砂利の採取は、従来のような多摩川の河原でではなく、主として、規制のない河畔の堤防の外(堤内地)*で行われていたようで、狛江市のWeb中の「多摩川の砂利」というページ
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,575,138,52,html

の末尾にも
「昭和9年頃多摩川での砂利掘りは禁止になり、周囲の田畑の下に埋まった砂利に目が向けられるようになった。

なお「砂利穴」
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,576,138,52,html
も参照

とされていて、先の米国陸軍のAMSマップや帝国陸軍の空中写真はまさにこのことを裏付けているわけです。

S
*堤内地・堤外地の定義は、こちら
 http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/words/04ta/ta-014.html

結局…

この砧線沿線の砂利採取については、以下のような変遷をたどったことになるかと思います。

・ここ、砧線の沿線では、元ページにあるように、大蔵停留場付近では、大規模なホッパーが必要になるほど、線路南の多摩川の河原から大量の砂利が採取され続けたことから河原の砂利も枯渇しはじめた

・そのため、比較的早い時期から線路北の堤内地の砂利を掘削して採取しはじめていた

・そして、昭和9年の規制を機に、採取地が本格的に線路の北側に移転されたが、砂利積込み用の側線が線路南にあるのでは不便なため、昭和10年に側線も線路北側に移動させた

・しかし、そのうち大蔵近辺の砂利は掘り尽くした状態になり(場所によっては。線路の両脇とも池になっている)、徐々に東側に掘り進むうち、伊勢宮河原近辺に側線を設けたほうが効率がよい状態になってきたので、昭和11年には大蔵停留場北側の側線を伊勢宮河原の線路の北側に移転させることになった

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2015/07/13

タマデン「伊勢宮河原停留場」

「伊勢宮河原停留場」とは…

玉電の二子玉川と砧本村とを結んでいた砧線に、かつて存在したといわれる、いわば幻の停留場です。

 「 玉電と郷土の歴史館」

http://setamin.com/street/11507

が、まだお蕎麦屋さん「大勝庵」として営業されていた

【資料映像】
Dsc04285s

2011年 5月 4日にお訪ねしてカレー蕎麦*を食べながら、当時は店主、今は館長の大塚さんから、その探求がいわばライフワークの一つだというお話をうかがいました**

*今度は是非「カレーうどん」をと思っている矢先にお蕎麦屋さんの方はやめてしまわれました。
 これが心残り。

**【参考リンク】二子玉川郷土史会「玉電と砧線」
 
http://kyoudosikai.com/index.php?%E7%8E%89%E9%9B%BB%E3%81%A8%E7%A0%A7%E7%B7%9A

【余談追記】
初めておめにかかったとき、大塚さんから「『撮り鉄』ですか『乗り鉄』ですか」と聞かれました。
どっちも「半端に好き」ではあるので答えに少々困ったのですが、よくよく考えると「これだ」…という意味で「『調べ鉄』です」とお答えしました。

このページ自体も、この
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-66ff.html
ページも、その一環なのですが、ほとんどライフワーク化してしまったのが、これ

「北海道廰殖民軌道
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/Kikigaki/Sokumin1.htm

伊勢宮河原というのは…

二子玉川を基点とする砧線が、中耕地、吉沢の停留場を経て(「大勝庵」さんは、かつての中耕地と吉沢の間にあります)、野川の鉄橋を渡ったあたりから上流の地名です。*

 このあたりからさらに西、多摩川の上流に向かった先の大蔵というところには、多摩川の河原で採取した砂利を貨車に積み込むための側線とホッパーがあったことは、国土地理院の地形図**にも側線が記録されているほか、写真も残っている

Photo
世田谷区立郷土資料館「玉電」同館/平成1年12月・刊p.13

S04_1_10000__
昭和4年測図・昭和5年発行1/10000地形図「二子」の大蔵停留場付近抜粋
赤矢印は、前掲写真の撮影方向(推定)


のですが、伊勢宮河原については、当初調べた段階では

・地形図では、それとおぼしきあたりに、やや大ぶりの建物が描かれているものの、大蔵とちがって側線はない
S04_1_10000___2
同上・後の伊勢宮河原停留場付近抜粋

・玉電発行の路線図には伊勢宮河原停留場が記載されたものが見つかっていない

しかし、
・民間発行の地図には、吉沢と大蔵の両停留場の間にこの停留場が示されているものがある

 Dij2
 「模範大東京全図」文彰堂/S14・発行

 S17_
 「大東京明細地名図」日本統制地図株式会社/S15・刊

という程度の情報しか見つけ出せませんでした。

*この「伊勢宮河原」という地名は、この多摩川左岸(北岸)だけでなく、右岸(南岸)の神奈川県側にもあるらしい。https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=zbmHTM0Dt07M.kxYSALOdRRMQ&hl=en_US&usp=sharing 参照
 同一の地名が、川の両岸にあるという事例は、両伊勢宮河原のある久地もそうだし、等々力をはじめ、こと多摩川に関しては珍しいことではなく、かつて、ある地名が成立した地域が、その後の多摩川の流路の移動によって、川によって分断されたことを意味していて、この「伊勢宮河原」という地名の成立が、多摩川の流路が大きく変わる前の、かなり古い時期に遡ることを示している。
**1万分の1地形図「二子玉川」陸地測量部/昭和5年・刊

さらにネットで探すと…

「ぽこぺん談話室」
http://hpcgi1.nifty.com/sassy/bbs/sassy.cgi?page=250
というBBSの過去ログページ#24
article [10064]に、かなり詳しい情報がみつかり、それを整理すると

昭04,12,19 伊勢宮河原側線設置申請
昭05,01,06 貨物停留場新設申請
昭10,02,09 大蔵停留場位置変更申請
昭11,01,25 側線新設、砧他2停留場設備変更申請
昭12,12,21 砧線工事方法変更申請
昭15,11,04 伊勢宮河原側線撤去申請

ということになります。

 これらの表題は、いわゆる公文書あるいは公用文書の書式に則っているようなので、国(軌道線なので、当時は、鉄道省と内務省の共管)か東京都(おなじく、東京府所管)の公文書館での調査結果と思われ、かなり信憑性が高いと思われます。

【追記】国立公文書館のデータベース https://www.digital.archives.go.jp/ だった
     検索結果の一例

件名 伊勢宮河原貨物停留場新設並工事方法変更の件
階層 行政文書*建設省道路局関係軌道関係軌道・東京都・玉川電気鉄道・(昭3.4.27~昭5.8.28)
請求番号 本館-3C-028-00・昭48建設80800100
件名番号 010
作成部局 内務省土木局道路課
年月日 昭和4年12月19日
文書番号・法令番号 東土第469号・
関連事項 袋NO.5-32~33・袋NO.6-34~43

 加えて、同じBBSの[10045]

記録に依れば、第1号側線、第2号側線の2本があり、その構造は玉川起点0M63C401L(401Lが?)の地点に側線への分岐点(1号分岐)があり、この1号分岐から0M01C641Lの地点に1・2号側線を振り分ける2号分岐。
さらに1号分岐から0M05C493Lで側線が合流、この先0M06C043Lの地点が引上線の終端部となっています。
住所は東京府北多摩郡砧村大字大蔵字伊勢宮河原826番地。

との記事があり、これを、google map に落としてみたのがhttps://www.google.com/maps/d/edit?mid=zMfpKjOsa42A.ksGykuwgGs7k&usp=sharing
です。

ここまでわかった限りでも…

法律上の「定義」のうえでは、この伊勢宮河原に「停留場」があったといえることになります。

 つまり、この当時、砧線は、戦後のような地方鉄道法に基づく「鉄道」ではなく、軌道法に基づく「軌道」でした。

 「軌道」の場合は、「鉄道」とちがって「停車場」「停留場」の区別も、「信号所」という概念もないため、結局、およそ「軌道」上で車両が停留する場所、つまり、 地方鉄道法上の「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ」停車場や停留場(同規程3条)ばかりでなく「信号所」(地方鐵道建設規程23条1号)のように単に「列車交換」する場所あるいは「留置」のための場所も全て「停留場」の範疇にあると解釈するしかないからです。

軌道建設規程 大正12年12月29日 内務、鐵道省令(抜粋)

第二條 車輌ノ運轉ニ常用スル線路ヲ本線路ト謂ヒ其ノ他ノ線路ヲ側線ト謂フ

第三條 道路上其ノ他公衆ノ通行スル場所ニ敷設スル軌道ヲ併用軌道ト謂ヒ其ノ他ノ軌道ヲ新設軌道ト謂フ

第二十一條 軌道カ本線路ヨリ分岐シ又ハ本線路カ鐵道、軌道ト平面交差ヲ爲ス場所ニハ相當ノ保安装置ヲ爲スヘシ新設軌道ノ停留場ニ於ヒテ車両ノ行違ヲ爲スモノニ付亦同シ

【参考】

地方鐵道建設規程 大正8年8月13日 閣令11號(抜粋)

第三條 旅客又ハ荷物ヲ取扱フ爲列車ヲ停止スル箇所ニシテ轉轍機の設備アルモノヲ停車場ト謂ヒ其ノ設備ナキモノヲ停留場ト謂フ

第二十三條 左ノ箇所ニハ特別ノ場合ヲ除クノ外常置信號機ヲ設クルコトヲ要ス但シ閉塞信號機ヲ設クル場合ハ此ノ限リニ在ラス
一 單線ニオイテ行違ヒヲ爲ス停車場又ハ信號所
二 複線ニオケル閉塞區間ノ境界點ニ在ル停車場、停留場又ハ信號所

ところで…

先日、上野毛の東京都公文書館で、
三田用水の関係
玉電の山下停留場関係
など、かねてから気になっていた資料をいくつか入手してきたのですが、その中に、あるいは伊勢宮河原に関連するデータかもしれないと思われた以下のものがありました。

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 22
公開件名 砧線工事方法変更【側線新設附近軌道線路平面図】玉川電気鉄道(株)
文書記号・番号 子土庶
補助件名 軌道線路縦断面図・平面図
文書年度(和暦) 昭和12年~昭和12年
文書年度(西暦) 1937年~1937年
起案年月日(和暦) 大正12年11月19日
起案年月日(西暦) 1923年11月19日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:玉川電気鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000140719
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭12-044,[D]D849
16mmMFコマ番号 0248-0591
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の2の2
収録先の請求番号 320.D1.02
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭12-044(複製)
電磁的記録媒体番号 D849-RAM

 中身は、玉川電気鉄道作成の昭和11年3月13日付けの「側線ノ撤去及新設並踏切道ノ位置變更其ノ他二伴フ工事方法一部變更認可申請」という表題の東京府知事宛ての文書でした。

 公文書館内では時間の制約から、文字の部分をゆっくり読んでいる時間もないので、モニタ画面上で添付されている線路の平面図を見て、もともと、後の伊勢宮河原の側線よりも西に側線があってそれを移転させただけのことかと思っていました。

 入手した資料をスキャナにかけ、前の側線の位置を割り出すため、申請書添付の「第壱号圖其ノ一」という、新旧の側線の位置がわかる比較的広域の図面に、昭和4年測図・昭和5年発行の地形図を重ねてみて、びっくり!

Sjpg
オレンジ色が地形図、背景の黒色が申請書添付の図面
右から4分の1あたりの赤矢印のところが新設されることになる、後の伊勢宮河原停留場

 こに申請で撤去されることになる側線とは、なんと、かつてはタマデンの砂利輸送の主要拠点である大蔵にあった側線(上図の青矢印)だったのです。

 しかし、この申請書の図面の大蔵の側線は、本線から分岐した後、本線と平行して西に進み、再び本線に戻る素直な形態のもので、地形図のホッパーらしい施設をとりまくような線形の側線とはまるで形が違いますし、第一、申請図面の形の側線に、上の写真のようなホッパーを設けることは不可能です。

 つまり、地形図に記載されていて写真にも写されている大蔵停留場の側線とホッパーは、この申請よりも前に撤去され、単純な形の側線に改修されていたことになり、さらに、その改修後の側線もこの申請によって撤去されることになっているわけです。

 申請書の本文を見ると

「客年十一月七日附戊土庶第一、三〇一號ヲ以テ御認可相受申候大蔵停留場附近ニ於ケル側線ヲ撤去シ吉澤、大蔵両停留場間ニ於ケル伊勢宮河原地内二側線ヲ新設之ニ関聯シテ踏切道ノ位置變更並之ニ伴フ諸工事ヲ施行致度候間御認可被成下度軌道法二十五條及仝法施行規則十一絛ニ模リ關係圖書類相添ヘ此段申請候也」

とあって、この大蔵の新しい方の側線は、どうやら、客年、つまり前年である昭和10年の11月に認可を受けて設置されたばかりだったようなのです。

わずか数ヶ月で…

せっかく作った側線を撤去しなければならない、というのも奇妙に思えるのですが、その理由は、申請書付属の「理由書」の方を読むと大体の見当がつきます。

「大蔵停留場附近ニ於ケル荷主*側ノ砂利及砂ノ採集事業ハ既ニ豫定ノ成果ヲ納メ果シタル趣キ従テ仝所ニ於ケル當會社側線モ其ノ所期セシ目的ヲ達シ今ヤ全ク不要ニ歸シタルヲ以テ今般之ヲ撤去シ新ニ伊勢宮河原地内ニ於テ採掘ヲ開始スル由ニテ荷主側ノ要望ニ〓リ仝所ニ前回仝様貨車輸送ニ必要ナル積込用ノ側線ヲ新設並踏切ヲモ適當ニ變更其ノ他ノ工事を施工セムトス是レ本申請ヲ為ス所以ナリ」

*この荷主とは「秋田屋」という業者であったことが、大塚館長の調査によって判明している。

 要するに、それまで大蔵停留場南方の多摩川で砂利を採取していた「秋田屋」なる業者が、採取可能な砂利を掘り尽したため、採集場所を下流の伊勢宮河原南の河川敷に移動する結果、大蔵の側線が不要となる一方で、伊勢宮河原の砂利積出し用の側線が必要になったということのようです。

 このころ、多摩川での砂利採取については徐々に規制が強化されつつあって、

稲城市ホームページ中「多摩川の砂利採取」
http://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/inagishibunkazai/column/jyarisaikutu.html

には

昭和9年以降は、二子橋より上流、日野橋より下流の地域では高水敷[こうすいじき]での採掘は不許可になり、許されるのは低水敷だけとなりました。

とあり、大蔵での砂利採取も低水敷、つまり河原を除く平常時に水が流れる川道部分に限定された結果(下図参照)、それまでのようなホッパーを必要とするほど大量な砂利採取ができなくなったため、大蔵の側線も規模が縮小され、その後とうとう「大蔵では掘れる砂利は掘り尽し」たので、採取場所を下流の伊勢宮河原に移したのだと思われます。

S
自然河川の断面の概念図。なお、「厳密解」は こちら


この伊勢宮河原の側線が…

認可されたのは、「起案年月日」(申請を受けた官庁側で審査・認可・通知などの処理が完了した日であることが多いから推定すると、昭和11年11月で、申請から8か月も後のことなのですが、ともかくも、

・昭和11年末には、ここに(上記の意味での)停留場ができたこと
・この停留場では、すくなくとも貨物としての砂利の積込みと発送が行われたこと

については、疑う余地がないことになります。

 しかし、この、いわばやっとできた側線

09s

も、冒頭近くにあげた

昭15,11,04 伊勢宮河原側線撤去申請

というデータよれば、使用されたのはわずか4年間ということになります*

*昭和11年に、二子橋から下流での砂利採取が全面的に禁止されているが
 
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00068.html
 ここは、その規制区域から上流なので、このとき禁止されてたのは 高水敷、いわば
「河原」での採取だけなので、この規制と、この側線の廃止とは無関係と思われる。

 なお、前掲「玉電」のp.13には
 「ここ(註:大蔵)には東京市電の電動貨車が直接乗り入れていたが、昭和11年の
    渋谷駅改良工事以後は線路が分断されたため、大蔵や玉川の砂利積み込み施
  設はとり壊された。」
 とあるが、沿線の砂利採取と砂利輸送が終焉を迎えたわけではなく、最終的に、
  砧線の砂利輸送が終了したのは、昭和14年とされており(同p.45)、こちらに従えば
 伊勢宮河原の側線が使われたのは3年間となる。

【追記】2015/07/15
 よくわからなかったのは、
 ・廃止されることになる大蔵の側線も、
 ・新設されることになる伊勢宮河原の側線も、
 本線から多摩川のある南側に分岐しているのでなくて、反対の、いわば「山側」に分岐している
 わけでした。
 その理由が、見えてきたのですが、ここに書くと、あまりに長くなりすぎるので、
 別稿
  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-a846.html

  で。

ここまでは、わかったとはいえ…

大塚館長の関心は、おそらく、この伊勢宮河原が、
・正式に旅客が乗降する停留場だったのか、
あるいは、
・法規上は停留場とはいっても、せいぜい、ここの砂利積込場に働く人たちが事実上乗り降りするだけの場所だったのか、
にあるのだと思います。

 が、この点については、残念ながら未だ未解明の謎のままです

【追記】

(公財)後藤・安田記念東京都市研究所

デジタルアーカイブス 東京関係地図
https://www.timr.or.jp/library/degitalarchives_shinsai.html

を眺めていたら…

記号:OY1-186
名称:「東京市」交通機関網図 附. 私営乗合自動車索引番号
編著:東京市編
縮尺:1:50000
寸法:77.8×75.7cm

https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-40.pdf

に、伊勢宮河原停留場が描画されていることがわかりました。

Mrl10030140

この地図のベースは「どこかで見たことがある」民間発行の地図なのですが、赤い線と丸印、それとおそらくは停留場(あるいは停留所)名は、この「交通網図」のために重ね刷りされています。

つまり、この図の編者である東京市が、この地図に「伊勢河原」を意図的に描画していることになり、ここが、停留場で、しかも旅客を取り扱う場所として官公署である東京市にも認識されていた可能性が高いことを示しています。

【追記】

以下の、増補版が、
「タマデン『澁谷停留場』の変遷」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/12/post-cecc.html
にあります。

【参考図1】

収録先

資料種別 公文書_件名_府市
綴込番号 8
公開件名 渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
文書記号・番号 申土庶
補助件名 渋谷停車場平面図(新)(旧)
文書年度(和暦) 昭和7年~昭和7年
文書年度(西暦) 1932年~1932年
起案年月日(和暦) 昭和7年9月8日
起案年月日(西暦) 1932年09月08日
記述レベル item
作成組織 東京府
作成主務課1 土木庶務課
内容注記1 関係先名・関係先住所:東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)
収録先簿冊の資料ID 000137864
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16]府昭07-111,[D]D828
16mmMFコマ番号 0197-0278
収録先の名称 鉄道・軌道・索道・自動車道路 冊の18
収録先の請求番号 316.E8.05
マイクロフィルムリール番号 16mm 府昭07-111(複製)
電磁的記録媒体番号 D828-RAM

中の、東京郊外鉄道が昭和7年に作成した「渋谷停車場平面図」から、

玉電渋谷停留場付近の画像を抜粋して白黒反転した図[下が北]

R
画面上(南)中央に砂利側線
その下の左(東)方向に、省線と東横線を潜り、渋谷川を渡った後、上(南)に向かうのが中目黒線
ハッチングされている東京郊外鉄道の連絡通路を潜り、左(東)から延びてきた東京市電と接続している

砂利受け取り用の市電の電動客車は、ここから玉電に入ったことになる

【参考図2】

土木建築工事画報 昭和13年6月号「玉電ビル基礎工事」中pp.280・281の接合図

上記の「渋谷駅改良工事」の平面図[上が北]と立面図

14062642nps

玉電の渋谷停留場が地表から2Fレベル(省線と同レベル)に上がったので、東京市電との連絡線に加え自社の中目黒線とも接続が絶たれたことがわかる。

こちらは、昭和14年3月号掲載の「広域図」

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2015/07/08

タマデン山下の移動(全面決着篇)

今日…

等々力にいつもの用事があったので、これまたいつもどおり*、上野毛の東京都公文書館に行って、懸案だった資料を見てきました。

* http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/02/post-79ca.html 参照

 その一つが、タマデン山下の移動問題。

 目を付けていた資料が、これ

  資料種別 公文書_件名_府市
  綴込番号 1
  公開件名 運輸開始の件認可(世田谷・下高井戸間)【単線式上路鈑桁図】玉川電気鉄道(株)
  文書記号・番号 丑土
  補助件名 単線式上路鈑桁図
  文書年度(和暦) 大正12年~大正14年
  文書年度(西暦) 1923年~1925年
  起案年月日(和暦) 大正14年5月4日
  起案年月日(西暦) 1925年05月04日
  記述レベル item
  作成組織 東京府
  作成主務課1 土木
  内容注記1 関係先名・関係先住所:玉川電気鉄道(株)
  収録先簿冊の資料ID 000130227
  利用可否 利用可
  公開区分 公開
  資料状態 複製利用
  利用状態 問題なし
  複写コード 複製物から複写可
  検索手段 [16]府大14-094,[D]D896
  16mmMFコマ番号 0006-0127
  収録先の名称 地方鉄道
  収録先の請求番号 306.F8.23
  マイクロフィルムリール番号         府大14-094(複製)
  電磁的記録媒体番号 D896-RAM 

果たして…

資料中の

 玉川電気鉄道株式会社・大正14年1月26日付け

 世田谷線〔上町(旧名世田谷)/下高井戸〕間電気軌道新設工事ノ
 中一部工事方法変更認可申請

という、やたらに長ったらしい名前の文書(以下「変更申請書」)の中の

「…理由書」

という、さらに長ったらしい名前の文書には、

 一 停留場名称変更及新設並ニ廃止
 (ハ)通行多キ主要交通路ニ近接シ且ツ近キ将来ヲモ稽[原文
]査シテ
    松澤村大字松原字山下地内ニ停留場ヲ新設シ「山下」ト称ス
       従テ之ニ近接セル「前田」ヲ廃止シタリ

と書かれていました。

原文は Keiorg、本字はKeijpg

つまり…

タマデン山下の移動(再度の現地調査篇)
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/post-0cf6.html

での推測は7割方当たっていて、やはり当初の計画では、当地の停留場は、仮称・赤堤砦道との交点に設ける予定だったことになります。

 ただし、ハズレの方の3割は、
・ここに設ける予定だった停留場の名前は「山下」ではなくて「前田」だった
・手続きの上では、ですが、「前田」が移動して「山下」になったわけではない
ということです。

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変更申請書中の「各電車停留場設備図」中の前田停留場部分を抜粋して白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

しかし…

この「前田停留場」は最終的には、用地は買収したものの、作られることはなかったことになります*

*【追記】この下線部分については、柳田國男いうところの「しんみり」と考えてみたところ
     プラットホーム位はできていた可能性があることに思い至りました(ただし未供用)。
     この点については。もう少し情報を集めてから。

 おそらく、着工にあたって、実際に調べてみると、仮称・赤堤砦道は古道ではあるものの、松原停留場のある滝坂道方向から北に向かう道の方が当時は通行量が増えていたうえ、「近キ将来」に小田急が開通すれば、(たとえ小田急が、当初の計画通りに、旧松原宿近くの場所に豪徳寺停留場を設けたとしても*その豪徳寺停留場からの乗降客のうち多くが人通りの多いこの道路に出てくることが予想でき、その乗り換えの便宜がよい現在の山下駅の位置に停留場を置く方が、より多くの集客が見込めると「稽査シ」たのだと思われます。

*タマデン山下の移動(現地調査篇)
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/04/post-c4d4.html
 参照

手続き的には…

変更申請書にも明記されているとおり、当初の計画の「前田停留場」が今の「山下駅」の場所に計画段階で「移動」した、というのは正確ではなくて、集客の見込める場所に「山下停留場」を「新設」することになったので、近くに予定されていた「前田停留場」を作っても無駄になるのでこちらは廃止された、ということになります。

 で、その山下停留場の図面が、これ。

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変更申請書中の「山下停留場附近平面図」を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 上の図で、横方向に走っているのがタマデンですが、これと直交する線が3本描かれています。

 おそらく、
・画面の一番左の三軒茶屋寄りにあるのが、荏原郡病院につながる道路
・画面中央の「く」の字に曲がっている一番太いものが、北澤用水の本流
・その中間にあるのが、北澤用水から、上流(画面上方向)で分流された周辺の田圃へ用水路

と考えられ、つまり、この周囲では、(自然河川を用水化した場合には、ほぼ必然的にそうなるのですが)この用水路というかこのエリアの田圃の方からみると、北澤用水の本流が排水路(悪水路)の役割を果たしていたことになります。

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線路平面図を抜粋して白黒反転
中央を縦方向(略西から東)に流れる北澤用水の本流の左右に
これから分水した用水路があったことがわかる

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変更申請書中の山下停留場附近を抜き出した縦断面図を白黒反転
左側が三軒茶屋、右側が下高井戸方向

 このような場合、どちらの水路を地図上に水路として描くのかは実はなかなか悩ましいところで(下図参照)、

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地図によって、北澤用水路が山下駅の南にあるように見えたり、北にあるように見えたりするのは、おそらくそのせいではないかと、推測しております。

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2015/05/27

鳥獣戯画@東博+旧「博物館動物園駅」@京成

「東博」こと…

東京国立博物館

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で開催中の「鳥獣戯画-京都高山寺の至宝-」展

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に行ってまいりました。

とにかく…

べらぼうな待ち行列の話は、先に行った人たちから聞いてはいたのですが、

・前売り券を買ってしまっていた
・メジャーな、擬人化されたウサギ・カエル・サルが登場する甲巻はともかく
 丙巻や丁巻は、ヘタをするともう生涯みることができないかもしれない

ので、今日思い切ってでかけた次第。

仕事の切りがなかなか付かず…

東博の左奥の平成館にたどりついたのは午後2時ちょっと過ぎ。

 この時点で、入館の待ち時間が20分、甲巻の館内での待ち時間150分!とのこと。

 幸い、乙巻以降は待ち時間なし。甲巻なら、確か小学生のとき、ここの国宝展で見たように思いますし*、メジャーなだけに、今後ともチャンスはあると思うので、とくに丙巻、丁巻がじっくり見れるなら全く問題ありません。

*1960年の「日本国宝展目録」で確認したところ、ありました(番号26)
 この目録、価格350円で、当時の小学生の「お小遣い」ではとても買えず
  代わりにお気に入りの国宝の絵葉書(1枚10 円か20円
)を何枚か買った覚えがあります
 手許のものは、それから数10年後、近所の古書店の100円コーナーで入手
  それにしても、当時は、こんなゴージャスな特別展でも、それほどには混み合うこともありませんでした
 まして、通常展示のときは、日曜日でもほとんど人のいない展示室がありましたっけ

  【追記】
 
だんだん思い出してきました。
 小学校の3年生から5年生くらいまで、当時東博で、毎月第3日曜日に「少年少女の集い」とい
 う、小中学生向きの考古学や歴史を中心とする講演会があって、ほぼ毎回それに通っていま
 した。
 鶯谷駅よりの裏門からだと、その参加費の何十円だけで東博に入れて、今の平成館北東あ
 たりにあった
講堂での「集い」が昼前に終わると、同じく南西あたりにあった食堂(レストラン
 なんていう雰囲気ではなく、場所柄やや格調のある食堂)で、一緒に行った同級生たちとお昼
 (決まってオムライスとサイダーかソーダ水)を食べ
て、午後からは、東博内を夕方まで遊び
 まわっていました(動物園に回ったのはたしか1回だけ、科学博物館に回ったのも数回程度だ
 ったと記憶しています-お小遣いの都合もありましたし-)。

 慣れた場所だったので、人気のないがらんとした展示室に子供一人でいても、別に薄気味悪
 い心持はしなかったのですが、唯一「近寄りたくない場所が」…
 今の平成館の左手前に「表慶館」という建物が(当然、今でも)ありますが、当時は、入り口を
 入ってすぐ左手前の場所に、
どこぞの古墳に埋葬されていたという「木乃伊」がありました。
 当時「木乃伊」は科学博物館の2階にも展示されていたのですが(乳児とその母親と思しき女
 性との2体)、そちらは、どこか外国出土のもので、茶色に変色しているとはいえ、ともかくも、
 人間の形をしていましたので、見ることにあまり抵抗感はなかったのですが…東博のは、真っ
 黒で、ぼろぼろの、「木乃伊」というより、ただの「死体」。……怖かったなぁ…

  入館待ちも、1時間位炎天下に並ぶのを覚悟していたのですが、並んだ時期がよかったのか、ちょうど木陰で待つこと10分ほどで、館の前に誘導してもらえ、そこで、館内の様子のガイダンスを5分ほど聞いたところで、あっさり入館できました。

 持久戦用に、上野駅でペットボトルを2本調達しておいたのですが、1本の半分も無くなっていませんでした。

 入館してみると、思っていたほど混み合っていません。ほとんどみ~んな、甲巻の待ち行列に並んでしまっているためのようです。

 「高山寺の至宝」が展示されている第1展示室は、遠目で見て気になったものだけ近寄って「拾い見」して、目当ての第2展示室に急ぎ、とにもかくにも、丁巻の展示ケースの「かぶり付き」の列の最後尾に取り付きます(甲巻とその他の巻とでは、列は別ルート)。

 当然、そこから「牛歩」の列。それが幸いして、じっくりと順路に従って「丁巻」「丙巻」「乙巻」と見ることができたのですが、やはり「実物」の迫力はさすがで、とくに気に入ったのは乙巻です。

 「甲巻とちがって『擬人化されて い な い 』」とされてはいて、形は確かにリアルなものの、目つきだけは妙に「人間っぽくて」、なんとなく「人格を感じさせる」 動物たちでした。

当然ながら、館内で写真は…

撮れませんでしたので、印象に残った「話」を一つ。

 丙巻を見ているとき、ペアで来ている女の子の方が「おすすめの猫」「おすすめの猫」と、しきりに男の子を引っ張ってきます。

 私も、鳥獣戯画にネコがいることは、不覚にも知らなかったので、思わず目を皿にしてネコを探しました。

 で、

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館内でタダでもらえる朝日新聞の号外から転載

 女の子の方は「かわいい」「かわいい」を連発していますが、男の子の方は全く「ノッて」いません。

 私も、男の子と同感で「このネコの、どこがかわいいんじゃい!」

【付録】甲巻のネコ

13

23
どっちも、かわいくない。

【追記】
高山寺さんでも、たぶん、ネコは、大切な経典や仏像を齧るネズミを退治する「プロの動物」として飼っていただけで、ペットではなかったので、描写の上でも「冷遇」されているのでしょう、きっと。

たまたま…

タイミングがよかったのか、思ったよりはるかに早く「見るべきモノを見終わった」ので、ついでに、かねてから懸案だった場所に行ってみることにしました。

 それは、東博の敷地の南西隅にある、京成の旧「博物館動物園駅舎」。

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 この駅、今から50年位前、その現役時代に一度だけ、好奇心で、ここから京成上野まで電車に乗ったことがあるのですが、地下のホーム部分が今でも残っていることは電車の中から確認できるものの、地上部が今ではどうなっているのか、かねてから気になっていた場所だったのです。

 当時は「薄汚れた、ほぼ真っ黒の石の固まり」状態だったのですが、青銅色のプレート

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に書かれているとおり、「心ある人」が大勢おられたおかげで、 見違える姿になっていました。

 今は「国立」博物館ですが、この駅ができた当時は「帝室」博物館。その敷地の一角に造る駅なのですから、相当に、「気」と「手間」と「お金」を使った「生まれのよい」駅であることは、細かくみるとよくわかります。

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 それが、戦時中の金属供出などで、

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2010年にようやく1灯だけ復元された「壁付け照明器具」

お化粧を剥ぎ取られ、戦後の混乱でメンテナンスも行き届かなかったために、50年前には「育ちが悪く」見えていただけだったらしい。

 今こうやって、元の石肌が綺麗に見えるようになった

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姿をみると、まるで「鉢かづき姫」ですねぇ、これは。

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