2017/04/03

代沢芸術祭2017

■昨日…

北沢八幡神社の矢島宮司からうかがったところ、昨年始まった「代沢芸術祭」今年も開催とのこと。

 早速、同社の拝殿前で配布されている(といっても、賽銭箱の奥に置いてある)パンフレットをいただいてきたのですが、昨年よりもさらに拡大・充実しています。

2017s

 これだけの公演

20170001s

が、連休中、ご近所で目白押し。しかも無料。

 どこか遠くに出かけようという気もしなくなりますよね。

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2017/02/19

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ【現地探訪篇】

■平成29年2月18日…

「昭和の暮らし博物館」の講演会の折、懸案だった

大田区久が原のミシャグジのカミ

の現地に行ってみた。

■ここは…

呑川左岸の崖線の直上、ほとんど縁の部分といってよい場所に位置しているばかりでなく、この崖の法面は

遺跡番号 34
ふりがな みなみくがはらにちょうめよこあなぼぐん
遺跡名 南久が原二丁目横穴墓群
所在地 大田区 南久が原二丁目
時代 [古墳時代][奈良時代]
種別 横穴墓
主な遺構/概要 1基
主な出土品 人骨

の包蔵地のようなので、他の「おじゃもじさま」例にたがわず、ここは、まさに、古代の祭祀の場所といってよいのである。

Iseki34
http://tokyo-iseki.jp/map.html

■最寄り駅の…

東急池上線の久が原からも、同じく多摩川線の鵜の木からも、そこそこ距離がある場所だが、大田区の鵜の木特別出張所の北東筋向いなので、比較的見つけやすい。

Dsc07606rs_2
さらに、巨木(ヒバ?)が目印にもなっている

Dsc07600rt_2
2015年秋の写真と較べると鳥居が建替えられていて、
今も大切に祀られていることがわかる

Dsc07589rs

Dsc07590rs

■碑文を読むと…

●正面

Dsc07593rtc

「道饗社詞」と読める(ただし「饗」の左上の「幺」の部分が「歹」)

●右側面

Dsc07597rts

「享保十二未天十二月吉日」と読むほかなさそうである
(なお、享保12年は丁未-ひのとひつじ-年。また、この年は12月に閏月がある)

●左側面
Dsc07599rtc

右「識〓道家中」

中「明治四未年十月廿?四?日建」

左「(判読未了)」

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2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

 

その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

 その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし

・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

 

 

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2016/10/16

講演会余録「代田のダイダラボッチ」の弁天堂

講演会「三土代會の歴史」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-f36c.html

の終わりの質問タイム。

 会のテーマからみて、「ちょっと場違い」にも思え、どうしたものかと考えていたところ、幸い、どなたかから「代田という名前の由来」について質問が出た。

 話が、

  だいだらぼっち https://youtu.be/DQxilyFjqWA
    →旧守山小学校裏の沼地
       →柳田國男 http://www.h7.dion.ne.jp/~musashi/daidarabo.htm
          →石炭殼による埋め立て*

といった具合に、「まるで誂えたように」進んだので、これ幸いと

 「だいだらぼっちの弁天堂」

について質問してみた。

*ただし「地下鉄を掘った土で埋め立てた」との説もある由

お答えいただいたのは…

三土代會最年長、御年90歳という秋元一男さんで…

・守山の裏に弁天様はあった

・そのお使いの白いヘビがいると言われていたが私は見たことない

・あそこには、2方向から水が流れ込み、さらに清水があって池になっていた

【資料映像】

Yanagitadaidara

Web 掲載の図を転用
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/DaidaraBotti.htm

・その清水が冷たすぎるので、池で魚類は活きられなかった

・池から流れ出した水は、今の井の頭線の下北沢と代田(二丁目)の間の下を通って、その下は小田急までずっと田んぼで、そこに流れていた

・田んぼは(上流側から見て)右側だけで、左側に田んぼはなかった

【追記】

守山小学校五十周年編集委員会・編「東京都世田谷区立守山小学校創立五十周年記念誌」同校/昭和56年10月・刊
のp.34に、同校35周年児童文集中の「昭和七年頃の町のようす」と題する地図が掲載されていたので、引用する。

S07

・(池には)夕方になるとトンボを取りに行っていた
 チャン*というトンボを捕まえて竿の先の糸につけて飛ばすとギンヤンマが食らいつくので、それを捕る

*ギンヤンマのメスの俗称らしい

・その当時アメリカのターザンの映画があって、ワイズミューラーというのが演っていた

・私も「ワイズミラー!」と言って(ロープにぶら下がって)池を飛んで渡って遊んでいた

・お堂は大した大きさじゃなかった
 (註:手で示したサイズでは1辺50~60センチくらいか)

・井の頭の弁天さん、あんな感じのお堂だった
 (註:井の頭の弁天堂は大きいので、様式的に整っていた、との意か)

【資料映像】
F100008s
かつて、北沢5-24(玉川上水遊歩道脇)にあった弁天堂。
1辺120cmほどなので、この半分位のサイズということになる


・その凹みは、(笹塚の)桜護謨の石炭殼で埋められたと聞いてはいるが*、当時は代田にいなかったので直接見たわけではない

*「ガラス工場の石炭殼」説もあるようである

驚いたのは…

三土代会の皆さんのお話を総合すると

・今でも年に2、3回は周囲の住宅の水没事故が起こっている

・それも地下駐車場ばかりでなく床上浸水が起こることもある

ということで、

・暗渠化される前の水路の幅は(みぶりから判断すると)90~120センチくらいあった

・それが、ほぼそのまま同じルートで下水道化されたが

・代田側、北沢側、大原側と3方から周囲の水が全部集まってくる場所なので、(大雨のときなどは)町会でパトロールしている

そうである

【追記】

 念のためと思って、

世田谷区建設部土木計画課・編「世田谷区水害記録[第2版](昭和22年~平成3年)」同/平成4年4月・刊

の附図である世田谷区が昭和53年から平成03年までの主な豪雨による区内の浸水概況をまとめたマップを見てみたが、この里俗・ダイダラボッチ川では、昭和43年4月6日の集中豪雨の折に末流部(1筋東の里俗・森厳川との合流点の手前)で浸水が発生しただけ。

Pasedsuigai

 また、都市型水害対策連絡会が平成16年5月(19年改訂)に発行した「城南地区河川流域浸水予想区域図」
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jigyo/river/chusho_seibi/index/menu02-04.html
(平成12年9月の東海豪雨の降雨〔総雨量589㎜、時間最大雨量114㎜〕を基準にしている)をみても、全体としてみれば先の森厳寺川など近隣の河川と比べても、別に突出して水害のリスクが高いわけではない。

 ただ、三土代會の方々のお話にあった西から時計回りに代田、大原、北沢からの水が集中するかつての弁天堂の、やや下流部については、場所によっては最大深さ2m以上の浸水のリスクがあることがわかる。

Jounanrisk

Photo

 しかし、実際の浸水被害は、このような「理論通り」の場所で起こっているわけではない。

 世田谷区がまとめた平成01年から27年までのデータ

浸水概況図及び水害被害記録
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/104/141/557/d00020100_d/fil/mojikirokuh1-h27.pdf
のpp.22-23によれば、代田6丁目のだいだらぼっち川沿いでの家屋への浸水は、ほとんど平成11年以降に生じており、しかもそのあらかたは、先に記した元弁天堂のあたりではなく、もっと下流、井の頭線との交点あたりに集中していることがわかる。

 その理由については、浸水部位を見るとほぼ一目瞭然で、ほとんどが、地下車庫や半地下室へのそれであり、要は「黙っていても水が来る」ところに車庫はまだしも部屋を作ってしまったところにあるのであっって、いわば、家の設計を間違えた結果といってよい。

 このような場所では、過去の経験に基づいて「道路が冠水することを前提にして」道路際に擁壁を積んで内側を盛土することによって、敷地を道路面より高くして浸水被害を回避しているところが多い。

 そのような、いわば「古人の智慧」に思い至ることもなく、盛土を削って道路と同じ高さに家を建てたり、さらに、半地下の車庫や部屋を作れば浸水してあたりまえ。

 実をいえば、我が家もそのような場所で、50年ほど前は、しばしば家の前の「道」が「川」になって、水が引くまで学校から家に戻れないことがあったので(現に、前掲の「城南地区河川流域浸水予想区域図」をみると、我が家の前には、緑や空色程度ならともかく「青」の四角まで飛び交っている)、10年ほど前に家を建て替えたときも、敷地の1.2メートルほどの盛土を削るなどということは、およそ考えもしなかったし、たとえ、そんな「アホなこと」を思いついて実行したとしても、ほとんど「自爆」行為なので、ご近所のだれからも同情してもらえない)。

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世田谷区代田図書館講演会「三土代會の歴史」

2016年10月15日…

世田谷区代田図書館の講演会

「昔の代田」(第2弾)『三土代會の歴史』

S_2

に行ってきた。

「三土代會」

【資料映像】
R8630_01c_2
2007年12月1日の「代田フェスタ」で撮影

というのは…

戦後、代田の始祖とされる「代田七人衆」と呼ばれる7家の末裔を中心に、当初はその菩提寺である円乗院*の檀家で構成された団体で、詳細は

【資料映像】
R3214_17s
同上

を参照。

文中の、多人数で一気に餅を搗きあげる「代田餅搗き」は、これまでマスメディアでもよく取り上げられていただだけでなく、世田谷区の無形民俗文化財(民俗芸能)にも指定されている。

*正式には「代永山円乗院真勝寺」

具体的にどんな「餅搗き」なのかは…

当方が、YouTubeにアップロード済みの、

2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社

https://youtu.be/eYDpt7Y-ZG8

での映像で。

なぜ…

このような餅搗きをするようになったのかというと、その理由は2つあって

その先、半年から1年分の農作業時の昼食にする水餅用に大量に搗く必要
 家族の多い家では、その分大量の餅を作る必要があるので、4俵・5俵(1俵60キログラム)分の餅をできるだけ短時間で搗く必要があった

水田が少ない地域なので、粘り気の少ない陸稲主体の米で搗く必要
 陸稲の米に、雑穀と少量の水稲の米を加えたものに餅の粘り気を出させるため、6人あるいは8人がかりで一気に搗き上げる必要があった

ことから、独特の方法(ただし、全国で唯一無二というわけではない*)が考えられた由。

*新潟県小千谷の5人搗き
  
http://www.city.ojiya.niigata.jp/soshiki/kikakuseisaku/kinetsuki-2012.html
 山形県上山〔上の山〕の8人搗き
  http://www.city.kaminoyama.yamagata.jp/site/kouhoushi/mati-141221.html
 など。

上のビデオを撮った…

2012年の折は、いわば「古式」に倣って米に粟を混ぜて搗いた餅が、ふるまわれたが、柳下隆さんの解説によると、戦前や江戸時代の餅を「完全復刻」するのは、実は、以下のようにそう簡単ではない、とのことだった。

そもそも米が違う

 当然のことながら、かつては、買ってきた米を使うわけではなく、自家で収穫した米を使うのだが、代田村の水田は、北沢用水沿いなど面積が限られていて、ほとんどが陸稲で粘り気が少ないので、搗きあげるのに時間がかかり、現在の水稲の米なら1臼5・6分で搗き上がるが、陸稲の米だとその倍の時間がかかる

搗き上がった後の雑穀の状態が違う

 前記のように、当地の餅は、もともとは、陸稲米だけでなく、それにトウモロコシ、粟、稗などの雑穀を加えて、さらに少量の水稲米を加えて搗いていたが、そのころは、長時間搗く、したがって搗く回数が多いので、雑穀(粟、稗を何日も前から水に漬けておく。)、皮が破れて餅の中に混ざりこむが、今は短時間で搗き上がってしまうので、皮が破れず、粒のまま餅の中に残ってしまう

かつてと同じ材料が入手できない
 トウモロコシは干して保存しておいたものを、前日から水に漬けて戻し、皮をはずして使っていたが、今入手できるのは西欧由来の品種のもので、当時使われていた在来種が今では手に入らない

「代田餅搗き唄」は…

 会員の鈴木巌さんから、毎回の餅搗きの冒頭の杵を使って米を捏ねる「こねどり」という作業(ビデオ参照)の時の唄と、全ての餅搗きを終えるときの納の唄をご披露いたいた。

 歌詞カードが資料として配られたので、そのうち、まだ著作権が存続中の平成元年に創られた部分(昭和天皇の崩御を受けて、元唄がすべて「目出度い内容」なので畏れ多い、ということから追加された由。)を除いて転載する(青文字部分がご披露いただいた2番)。

代田三土代會伝承「餅搗き唄」

ノーエ

目出度ナーエ 目出度めでたの若松様よ
庭にやヨーエ 庭にや鶴亀ソレサ五葉の松
松のナーエ 松の下にはお爺とお婆
お爺ナーエ お爺百までわしゃ九十九まで
共にナーエ 共に白髪のソレサはえるまで
共にナーエ 共の白髪はソレサまだおろか
孫にナーエ 孫に白髪のソレサはえるまで
孫のナーエ 孫の白髪はソレサまだおろか
石のナーエ 石の土台のソレサ腐るまで
さあさナーエ さあさ皆様程よく練れた
ねれたナーエ 練れたところでたたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

此の家ナーエ 此の家やかたは目出度いやかた
奥じゃヨーエ 奥じゃ三味ひく中の間じゃ踊る
お台ナーエ お台所じゃおかちんねりを
これはナーエ これは来春ソレサ神供え
神仁ナーエ 神に供えて千両箱つんで
千両ナーエ 千両箱には大黒・恵比寿
恵比寿ナーエ 恵比寿・大黒ソレサ福の神
さあさナーエ さあさ皆様程よく練れた
練れたところでたたこじゃないか ヨイヨイヨイ

富士のナーエ 富士の白雪朝日でとける
とけてナーエ とけて流れて三島に落ちる
三島ナーエ 三島女郎衆が ソレサ化粧の水
女郎がナーエ 女郎が化粧して ソレサ客を待つ

よせばナーエ よせばいいのに舌切雀
ちょいとヨーエ ちょいと舐めたが ソレサ身の因果

本町ナーエ 本町二丁目の糸屋の娘
姉はヨーエ 姉ぼ二十一妹は二十
姉にやヨーエ 姉にや少しも望みはないが
妹ヨーエ 妹ほしさに御りょ願かけて

伊勢ナーエ 伊勢へ七度 熊野へ三度
芝のナーエ 芝の愛宕山ヘ ソレサ月詣り
愛宕ナーエ 愛宕土産に何と何をもろた
笠がナーエ 笠が三階 刀が三腰
笠はナーエ 笠は娘に 刀は婿に
娘ナーエ 娘かぶれりやれ 婿殿さしやれ
さあさナーエ さあさ皆様たたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

沖のナーエ 沖の暗いのに白帆が見える
あれはヨーエ あれは紀伊の国 ソレサ蜜柑船
神田の市場で売られて買われて むかれて食われて
皮はヨーエ 干して刻んで 珍皮とされる

花のナーエ、花の吉原将棋の駒よ 金銀飛車角 桂馬の高飛び
香車ナーエ 香車なければ ソレサ歩がただぬ
揃ろたナーエ 揃ろた揃ろたよ六本の杵が 稲の出穂よりまだよく揃ろた
揃ろたナーエ 揃ろたところででたたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

湯屋のナーエ 湯屋ののれんに松竹梅よ
熱さナーエ 熱さやうめまつ ぬるけりやだけよ ヨイヨイヨイ

曽我のナーエ 曽我のあだうち仁田の四郎は
富士のナーエ 富士の裾野で ソレサひざ枕 ヨイヨイヨイ

押せよナーエ 押せよ押せ押せ 押さなきや行かぬ
押してナーエ 押して木を遣る ソレサいかだ舟

伊勢はナーエ 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ
尾張ナーエ 尾張名古屋は ソレサ城でもつ
内のナーエ 内のしんしょうは ソレサ妻でもつ

此の家ナーエ 此の家やかたは目出度い造り
柱ナーエ 柱金銀で 垂水が銀よ
屋根はナーエ 屋根は黄金で ヤレサ葺積る
奥ぢやナーエ 奥ぢや楽しく中の間で踊る
お台ナーエ お台所ではおかちんねーりよ

戸田のナーエ 戸田の渡しで今朝見た小女
あの小女ナーエ あの小女にやりたいものは
銀のナーエ 銀のかんざし 五尺のかもじ
入れてナーエ 入れて結わせて あとがら見れば
にいさナーエ にいさ泣かせの アリャ投島田

伊豆のナーエ 伊豆の七島 四国で八島
わしのナーエ わしの眼につく つく九の年増
表ナーエ 表向をば茶縞で見せて
今朝もナーエ 今朝も野に出て ヤレサ若菜を摘めば
露でナーエ 露で小つまが皆濡れる

袷ナーエ 袷よくきけみじろやおくみ
つまじやナーエ つまじやー生の苦労する
露でナーエ 露ぢや濡れても ヤレサ心ぢや濡れぬ
つまとナーエ つまと名がつきや濡れもする

遠くナーエ 遠く離れて苦労するよりは
浮気ナーエ 浮気されても側がよい

洗髪ナーエ 洗髪ほど心はとけて
主ヘナーエ 主へまごころ つげの櫛

〔転載省略:上記参照〕

これがナーエ これがこなたの納めの餅よ
釜もナーエ 釜もだいすも 蒸龍もご苦労
今年ナーエ 今年やこれきり ヤレサおなごり惜しや
御縁ナーエ 御縁あるなら また来年も

これがナーエ これがこの家の納めの臼よ
臼もナーエ 臼もだいす
*も蒸寵も杵も
それにナーエ それに続いて手返さんも御苦労
それにナーエ それに続いて板前さんも御苦労
それにナーエ それに続いて皆さんも御苦労
御縁ナーエ 御縁あるなら また来年も
明日はナーエ 明日はどちらでお搗きなさる

*「だいす」〔台す〕は、円形の釜の上に四角い蒸籠を載せるときに、釜の蒸気を蒸篭に送るために必要な、
 
丸穴の空いた四角い板
http://fujitadougu.com/mochi/mochi_kakuseiro.html の末尾参照

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2016/08/07

下北沢今昔写真

〔The Oliver L. Austin Photographic Collection〕

終戦直後の1946-1950の間、アメリカ陸軍の推挙によって、日本の鳥類の調査研究のために来日していたアメリカの鳥類学者の Austin 博士が撮影したカラー写真のうち、下北沢の光景について「今昔写真」をまとめてみました。

ただし、オリジナルの写真については、まだ著作権が残存していると思われますので、

フロリダ大学のサイト
http://128.186.155.80/omeka/
中の該当ページのURLへのリンクを、簡単な説明付きで示し、それに対応する「今写真」を掲載することにしました。

リンク先は、右クリックで「新しいページ/ ウィンドウで開く」で表示すると、今昔対比がやりやすいと思います。リンク先の小さな写真(サムネイル)をクリックすると、大きな、というか巨大な写真が表示されます。

撮影時期は異なるようですが(渋谷区代々木大山町の「官舎」に住んでいたので、何度も来れたはずなので)、

・下北沢駅の北口から北上
・現・一番街の旧本通
  (下北沢成徳のある十字路と、旧・東北沢4号踏切をつなぐ略東西方向の道)
 を東に向かい
・現・一番街の旧栄通を南に向かい
・旧・東北沢6号踏切を渡り
・下北沢駅南口を経て
・南口通り商店街を南下する

というルート順に並べてあります。

註:本ページは、数多くの部分で、作道敬子さん@世田谷邪宗門、米澤邦頼さんの「聞き込み情報」に負っています。

・北口駅前から北方向〔「パン近江屋」=現・カルディのビル〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/781

4
・北口駅前通り〔「近江屋不動産」=現・横浜銀行のビル〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/679

6
・(現・一番街)本通り 宮田家具店
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/691

10
・(現・一番街)本通り〔正面奥が「宮田家具店」〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/759

8

・(現・一番街)本通り「稲毛屋金物店」
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/769

12

・(現・一番街)栄通り最北端・本通り手前
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/645

14

・(現・一番街)栄通り北端・本通り手前
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/761

16

・(現・一番街)栄通り南から4分の1あたりを南方向から
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/747

18

・(現・一番街)栄通り南端(東北沢6号踏切)
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/771

20

・現・オオゼキ~駅南口の小田急線東沿いの道を北方向から〔架線柱は「帝都線」〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/739

22

・下北沢駅南口駅前〔右端の「果実丸万」=現・マクドナルド〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/713

24

・南口通り商店街〔現・DOCOMO・Softbankの間の横道の向かい〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/725

26

・南口通り商店街 〔現・ミスタードーナッツの角〕を北から〔「配給」との解説付き〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/639

28

・「砂場」南隣の八百屋店頭〔イチゴの木箱が懐かしい〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/617

The_oliver_l_austincollection_2

[追記]2017/01/04【今】画像を差替え

・南口通り商店街「砂場」南方を南方向から
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/779

32
・南口通り商店街南端付近を北方向から〔画面奥の支柱付きの電柱の場所が膳場青果店〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/745

34

【参照資料】
作道敬子さん@世田谷邪宗門による、膳場家、亀井自転車店、ジーンズIZUMIYA からの収集情報
米澤邦頼さん調達の、昭和37年版住宅地図(住宅協会・刊「北沢三丁目 北部/南部」)
きむらけん先生調達の、昭和9年北澤通商店会編集の地図

【追記】20161217実施のツアー時に配布した「撮影ポイントマップ」

A31b

バーコードは多分使えません

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2016/07/27

代田村のもう一つの「謎」

たまたま…

別の目的のために、コピーしてきた
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編」同区/昭和38年・刊
を眺めていたら、同区の旧家の鏑木家文書の一番末尾
万延元年閏三月の「目黒筋抱屋鋪抱地取調書」の
の、さらに一番末尾近くに
代田村内に「中條中務太輔」なる人物が16350.5坪の抱屋敷
を保有していた旨の記載がありました(p.250)

万延元年といえば…

1860年。

 当時の中條中務太輔〔ちゅうじょう・なかつかさ・たいふ〕さんを探すと、

本名 中条 信礼〔ちゅうじょう のぶのり〕(文化9(1812)年-没年不詳)

という高家旗本で、しかも、文久3(1863)年から慶応4(1868)年まで高家肝煎(要するに、あの「吉良さん」と同じ地位)を勤めたという名家のようです。

しかし…

この抱屋敷。代田村のどこにあったのかv

目黒筋御場繪圖
http://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502
にもそれらしい記載がありませんし、

御府内往還場末其外沿革圖書
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608701
では、代田村は範囲外

ということから、てがかりがないので、国会図書館にある

改場外抱屋鋪寄帳[2](奥付に「天保七年五月改」とある)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/2dijpid/2548039?tocOpened=1
を見てみると、その5コマ目に。代田村内の中條家の抱屋敷の記載がありましたが(慶応元年付けの、貼紙上の記述で、面積も13156坪)、具体的な位置のてがかりはなし。

 もし、中務家のご子孫とか、何かご存知の方は、是非ご一報を。

そういえば…

我が下北澤村にも、その北端近くに「薩摩屋敷」なる小字(小名)名があって、以前どこかで読んだ文献では、慶長のころ、同地に薩摩藩の抱屋敷があった「らしい」とのことでした。

 しかし、その具体的な位置や時期については、まったく確たる史料がありません。

加えて…

今回の調べものの過程で、先に同じく、国会図書館にある

改場外抱屋鋪寄帳[1](奥付に「天保七年八月改」とある)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548038?tocOpened=1
Dij_2
の6コマ目に
「元・【戸田?未判読】肥後守」から「井上【辰?以下未判読】」に、11356坪が慶応3年に譲渡されたこと示すらしい貼紙があったのすが、これにも具体的な位置を示す記載はみあたりません。

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2016/06/07

補助26号線沿革

今現在でも…

そうなのですが、品川駅から、下北沢など「東京の西郊」の地域に車で移動しようとすると、駅前の柘榴坂を上り二本榎を抜けてから桜木通の高輪台に出るまでは、狭い道をすり抜ける必要があります。

 品川駅は港区にあるのですが、本当の品川区にある大井町駅から西郊に抜ける場合もほぼ同じで、昔伯父が住んでいた大井町から北沢に戻るときも、山手通りに出るまでかなり手間取りました。

 この、補助26号はそういった品川区北部の区民(実は、私も大昔はそうだったのですが)には救世主のような道路のようです。

もともと…

このあたりの道路計画は、関東大震災後の東京復興計画が、その後の人口の郊外への移動にともなって拡張された計画の所産なのですが、そのため、この補助26号の線引きができたのは、他の東京の中心部の道路に比べてやや遅れたようです。

 いわゆる民間地図を含めると、ですが、
 大正14年の「最新大東亰地図」には、山手通り(環状6号)と環状7号のルートは、緑色の線で描かれていますが、この補助26号は影も形もありません。

 これが、昭和5年の「東京府荏原郡世田谷町全圖」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142506
になると、この補助26号のルートが点線で表示されていますので、

2654

この道(と、下北沢で騒々しい補助54号)はどうやら昭和の初期に敷設が決まったらしいことがわかります。

 以後、手許の民間発行の地図には、ほぼ例外なく、補助26・54号は点線などで、ルートが示されています。

S08r26
「東京全図」S08(部分)

では…

公的な地図ではどうかというと、土木建築工事画報昭和14年1月号44ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/15-01/15-01-2737.pdf
に掲載されている「東京都市計画道路図」には、

・補助26号の三宿・甲州街道間が、
    東京「市」が将来施工する区間
・補助54号の東大裏・環状7号線間が、
    東京府が昭和14年度までに施工を終えるべき区間

として表示されています。

S12

 このうち、

・補助54号の環6との東大裏交差点-三角橋間は、昭和12-14年ころ拡幅が終わっているようですし、
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaMichi.htm
後半の「昭和天皇行幸説!?」参照)

 これに加えて、

・三角橋の少し西での、将来の補助54号のルートへの道路の付け替え

のほか、
 補助54号の三角橋交差点南東部分は、どうやら補助26号線との接続工事が間近に予定されていたらしく、長く歩道の工事が行われていませんでした。
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaMichi.htm
の末尾近く参照)

その後…

約4分の3世紀経って、ようやく動き出したのですが、計画当初の道路幅は15m。

On
復興局・編「都市計画道路網図」同/1928・刊(抜粋)
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl0911-OY-1-130-2.pdf

まぁ、このときはまだ帝都線(現・京王井の頭線)はなく、かりにあっても、当時なら踏切で平面交差させればよかったでしょうが、今となっては立体交差にしないと朝夕は間違いなく渋滞必至ですので、交差部の前後で走路幅が多少膨らむのはやむを得ないのかもしれませんが、それにしても

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/26-ac6e.html

のように、幅員33メートルというのはナンセンスでしょう。

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2016/05/21

「代田用水」とは「何ぞや?」

代田用水は存在したのか?

図書館から借りてきた…

世田谷区「世田谷区史料 第3集」同/1960・刊の口絵16図
「品川・烏山・上北沢・代田筋用水村々略絵図」(以下「絵図」)
を眺めていましたら、不可解な記載があるのに気が付きました。

 この図

Daitaditch

は、現在の世田谷区の区域内の玉川上水の分水、つまり、左側の上流部から順次、品川用水、烏山用水、北沢用水の水路と水路沿いの村を示した略図なのですが、それらのさらに下流に「代田用水」なる文字があります。

 また、絵図には、それぞれの分水の分水口が玉川上水沿いに中抜きの長方形で描かれているのですが、その例に従うと、この「代田村水」なるものの分水口は、代田橋の下流、芥留と水番屋

Photo

付近で、上図のように代田橋と芥留等は近接しているので、おそらくは、それらの下流にあったことになります。

 ただし、絵図に描かれているのは分水口だけで、「代田用水」という以上、当然描かれるはずの、そこからの水路(名称から素直に考えれば代田村までの水路)は描かれていません。

 もっとも、それが最初から描かれていなかったかというと別問題で、江戸時代の玉川上水図などにも例がありますが、図面を改訂するときに、従前の記載事項を地色に近い絵の具で塗りつぶして抹消し、必要に応じそこに上書きしている例も多い(顔料系の泥絵の具なので、比較的容易にできる)ので、絵図の「代田村」という文字を囲う長円の線の右上が欠けているとところからみても、その可能性が高いように思われます。

と、いうのは…

烏山用水について、この絵図には分水口らしい四角形が2つ並んで描かれていて、分水口から烏山村までの水路も、その「塗りつぶし+上書き方式」で改訂されている可能性が高く、しかも、そのような分水口の変更については

世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S58・刊

の「烏山川(烏山用水)」の条にある、〔万治2(1697)年〕「樋口は最初烏山村地内に設けられ,1尺四方・長さ9尺の樋を伏せたが,そののち上北沢用水と同じく上高井戸村地内に移され,水口5寸となり,…」(p.77)との史実と合致しているからです。

 ちなみに,「同じく」とある「上北沢用水」についての同書の記述によれば「取水口は,最初上北沢村内牛窪に設けられ,樋口1尺4寸・長さ9尺とあり,天明8年(1788)上高井戸村第六天前に移されて方1尺となり,…」(p.80)とあるのですが、上北沢用水については、この絵図中に分水口が移転された痕跡はありませんので、どうやら、この絵図が作られたのは、その天明8(1788)年以降ということになりそうです。

しかし…

この「代田用水」なる分水について言及したものは、これまで見てきた玉川上水に関する文献に関する限り(つまり、いわゆる「管見の及ぶ限り」-便利ですね、この言葉-ではありますが)見たことがありません。

 そこで、改めて、何か史料はないものかと探してみたところ

国会図書館のデジタルライブラリ中
「玉川上水留」の [87]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423?tocOpened=1

玉川上水堀通代田村下北沢村下馬〔註:「高」の誤〕井戸村分水口起立書抜并御勘定奉行より当時代田村引取無之候ニ付残歩丈ヶ上郷分水口増樋掛合書 但野方堀通村々引取分水口廉書品川用水三田用水分水口御普請一件 文久元酉年六月 御金方
なる文書があることがわかりました。

 読んでみると、といっても何分古文書まして公式文書の原本なら「固い字」で書かれているのでしょうが、この文書のはその写しであることも加わってスラスラ読める道理もなく、とりあえず当面は「読めるところだけ拾い読み」するほかないのですが、どうやら

・明和8(1771)年に、いわば代田村と下北沢村連名の出願により(同18~21コマ)、
 玉川上水に「圦樋長三間内法三寸四方」(同27コマ)
 の代田用水の分水口が設けられた。

その後の経緯・理由については、まだ読み取れないのですが、

・これを文久1(1861)年になって廃止し、
 その分「上北澤村分水口」を「増樋」(つまり、そちらの分水口を拡げた)した(同10コマ)

ということのようです。

 もっとも、この文書の末尾近く(58コマ~)にも、天明5(1785)年の同様の案件の記録があり*、これらの関係はまだ不明なのですが、天明期の案件がそのまま実現されていれば、文久期にあらためて詮議する必要もなかったことや、前述したこの地図の作製時期からみると、天明期のは、いわばアイデアとして出たものの実現はしなかった、と考えるのが素直なように、いまのところ考えています。

*おりしも天明の大飢饉の最中であり、水があっても収量が上がらないので水料米の負担に耐えられなくなったた可能性がある。

 いずれにせよ、先の、絵図にある代田分水の「水路のない分水口」は、この文書の経緯を反映しているのではないかと思われます。

代田用水はどこを流れていたのか

この…

「一時は実在したことが確からしい」代田用水。

 次に問題になるのは、どこをどう流れていたかにあります。

 実は、玉川上水の分水といっても2つのタイプがあって、

・その一つは、玉川上水と同様に、台地の稜線の上を流れるタイプ
  典型が、千川上水と三田用水。それと、かなり無理はしていますが絵図中の品川用水

・もう一つは、自然河川、したがって台地の中の谷につなげるタイプ
  典型が、絵図中にもある、烏山用水と(上)北澤用水

で、より遠くまで水を送るには前者が理想ですが、それには、もともとそれを可能とするような地形に恵まれていなければなりません。

あえて…

根拠を挙げ*、さらにそのまた根拠を挙げだすと、えらく長ったらしい話になることが分かったので、結論をいえば、この代田用水は、下図

Photo_3


のように、北沢川((上)北澤用水)の支流の一つ。里俗(「現地での俗称」という意味。以下同じ)・森厳寺川のそのまた支流の里俗・だいだらぼっち川の谷頭につながっていた可能性が一番高いと思われます。

*「あえて」一次的な根拠を挙げれば
・地形的にみて、玉川上水から南に水を流せば、ほどなく北沢川((上)北澤用水)に落ちるので、
長距離の送水は必要ない
・あえて稜線上を流そうとすると、西の世田谷区村飛地の羽根木との境界の「堀の内道」か、東
 の下北澤村との境界の「里俗・鎌倉道」に沿って水路を拓く必要があるが、そのような痕跡が
  ない
・加えて、その稜線上の水路から、水田を設けることが唯一可能な「だいだらぼっち川」までの分
 水路がいくつか必要だが、その痕跡もない
・そもそも、「だいだらぼっち川」沿いの、明治期の地租改正時の地番割をみても、そのような本格
 的な用水路を必要とするほどの水田はなく、「だいだらぼっち川」の堰上げによる灌漑で対応で
 
きる程度の水田の面積と考えられる

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2016/03/27

「ムダ堀」考 Part.2

かつて…

「下高井戸周辺史雑記」→「ムダ堀は武蔵村山に通じるか?」

http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20120705235746 で、採り上げていただいた当方のメール(急いで打ったメールなので、その原文の誤字を少々校正すると)

「かねてから、興味はあったものの、そもそも江戸を目指していたはずの玉川上水の掘りそこないと考えるのは、わざわざ元の多摩川に近づいてゆくルートをとったのが不可解であることから、棚上げにしておりました。
 ただ、あのあたりには、府中用水があり、先日、玉川上水に、狭山丘陵の池から助水していたこと、そして、その助水路は、狭山から多摩川への自然河川を分断したもの、との記述に出会い、この分断された自然河川の流末が、かのムダ堀あたりになるのではないかと思いいたり、調べてみると、ありました。
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/8d0f0ce344294b496cfca80536dbe09c
 この矢川、狭山が丘からの本来の水を玉川上水に横取りされた後は、上水から下流、とくに、矢川からの用水ととりあえず考えられるムダ堀については、ロクに水も流れていないのに、あるいは、流れている水量の割には、やたらに深くて広い掘割が残されたことになります。
 後の世の人からみれば、矢川本流を含めて、川が削った掘割とは思えず、また、だいだらぼっちの伝承もない以上は、人が掘ったが結局使われなくなった掘割と考えるのが、最も合理的な解釈だったと思われます。」

というものでした。

問題は…

●そもそも「ムダ堀」に府中用水を経由してあるいは直接に多摩川の水が届くのか
●「ムダ堀」は玉川上水、つまり、四谷大木戸とは限らないとしても江戸府内までの
 上水道になり得たか
の2点に整理することができるでしょう。

 前者が不可能なら、後者を検討する必要は全くないことになります。とくに、滝神社北方の巨大な掘割に常時水が流れていた形跡がない(深澤覚書pp.70/82)というのが気になるところです。

最初の問題については…

 明治の地籍図によれば堀の西端が達しているらしい(深澤覚書p.75)八幡下では、段丘下面の標高は42メートル程度まで低下してしまい(高橋「多摩川低地の地形と府中用水」〔以下「高橋用水」〕p.45「図1」)、ここから、堀の底面の標高が44.4メートルという(深澤覚書p.81)滝神社北方の溝まで水を上げるのは現況の地形では難しいことになります*。

*もっとも、多摩川は暴れ川で、昔から氾濫を繰り返しているので、あるいは、ムダ堀開鑿当時は
 段丘下面は、もっと高い位置にあったのかもしれないが、そういってみても確認のしようがなく、
 ここでは考えないことにする。

 しかし、段丘上の立川面と呼ばれる台地面も、多摩川も、全体に西から東に向かってダラ下がりになっているのですから、この八幡下から上流に遡ってゆけば、どこかに、下図のような崖線にほぼ沿う形で段丘上面まで水を流せる水路の始点となりうる場所があるはずです。

Photo

 ところで、 府中近辺については「府中領総図」という古地図があり、

Body
「府中領総図」下が北

この地図によれば、ムダ堀と考えられる溝は、滝神社の北をかすめて、崖線に沿って西に延び、八幡神社を過ぎて、六所宮(現・大國魂神社)南東に達していて、しかも、(上の複製写真では判読できないが)ここに「堀形此処二止ル」との注記があるとのことです(深澤覚書pp.72/75)

 同覚書では、ここの標高が46メートルであることから(同p.46)、ムダ堀への通水可能と結論しているのですが、用水の水を地表に流すわけにはゆかないのですから、通常は溝を掘らなければならず、一連の発掘結果で最も小規模といえる1234調査地点の上幅4メートル、深さ1.4メートル程度の水路(同p.76)は最低限掘削する必要があると思われます。

 この大國魂神社南端と滝神社北方との距離は約2キロメートル。一方、玉川上水の平均勾配は(43Km/92m×1000)=2パーミル(1/1000)なので、これに従うと必要高低差は4m。

 44.4m(ムダ堀標高)+4m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒49.8m

 また、勾配を、ほぼ最低限とみられる、六郷用水の平均勾配0.6パーミルにすると、必要高低差1.2m

 44.4m(ムダ堀標高)+1.2m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒47.0m

ですので、この取水口の標高は、できれば、50メートル程度は欲しく、少なくとも47mは必要ということになります。このうち標高47mのポイントを地形図上で探すと、下図左端近く、水路「K-FM-1」と、坂道「S-12」の交点で

Photo_2

現・大國魂神社の南端付近となります。

 つまり、ここから、府中用水の、図中「K-FM-1」の水路から分水し段丘下面からの相対的な高さを徐々にかせぎながら、滝神社付近で、完全に段丘上面に水を載せれば、ムダ堀に府中用水、ひいては、多摩川の水がなんとか届くことになります。

とはいっても…

これは、物理的にいえば、での話。

 とくに問題と思えるのが、図中赤枠付きの黄色い矢印で示した、おろらく崖(ハケ)からの湧水が削ったと思われる、浅い谷津です。

 単に、ここをクリアするだけのことなら、必要な標高を保ちながら谷頭方向に水路を迂回させればよく、現に玉川上水の笹塚付近では、目黒川支流の北沢川の支流を北に迂回して避け、次いで神田川の支流を南に迂回して避けていることから見て、とりわけて難しいこととは思えません。

 むしろ、コトは「人的・社会的な問題」で、農地を開く順番からすれば、この水路を作る当時、すでにこれらの湧水は、崖線下面の農地の灌漑用水として使っている人たちがいたはずですし*、さらに、この谷に堤を築いて溜井にしていた可能性もあります**

図中「K-FM-2」は、「こっちだいしょう」あるいは「天神川」といって、それらの湧水を集める
 水路だったようです(旧名調査p.36)

**関東とりわけ荏原郡の農地の灌漑に、かつては、溜井が大きな役割を担っていたことについては
   高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ- 」
 <https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6045/1/sundaishigaku_56_205.pdf>
  参照

 灌漑用の水利は、古来、第1に「古田優先」、次いで「上流優位」ですので***、既存の水利の利用者を無視して、水路を分断したり、溜井を無くしたりすることはできなかったはずなのです。

***川尻裕一郎
  「2. 水のある風景」<http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/02.html>〔古田優先〕

  「3.上流優先(優位)と境界」<
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/03.html> 〔上流優位〕

 さて、この問題を、どのように調整したのでしょうね。

3月10日に…

見に行ったのは、上図でいえば左端近く、「崖を昇る水路」を通すとすると、一番面倒になりそうな、大國魂神社南東の、やや広い谷津の部分です。

 実は、ここは、神社の境内地の東を通る道路から、神社の深い神林を見ることができそうなので、1月にも行ってみた場所なのです。

 が、当時はムダ堀との関連には、全く気が回らなかったので、神林の反対側の谷津については、全くノーチェックだったのです。

Dsc06180st
神社南東の谷津にある府中宮町三丁目アパートの案内板
地図右(南)の公園を含めると、ほぼ、問題の谷津の全域を占めている

Dsc06202s
アパート群の南東から撮影
奥が神社の神林
小さいが扇状地状の地形だったらしい

Dsc06184s
神社境内東の道(上図S-14)
地獄坂と呼ばれている

Dsc06186s
地獄坂の由来
階段を下りると妙光院の墓地の北側に行き着く

Dsc06188s
妙光院から神社方向を撮影
神社境内の台地が舌状に張り出している様子がわかる

Dsc06190s
妙光院南を西から東に流れる水路
ほぼ、上図「K-FM-1」の府中用水の赤丸で示した
地表面の標高47mポイントから東側方向

Dsc06200s
妙光院東側の南北方向の水路跡
上図の「K-FM-2」

Dsc06199s
上の写真とほぼ同位置から東方向を撮影
府中用水分水の「K-FM-2」水路は、問題の谷津東で
方向を変え、崖線に並行して東方向に流れる

Dsc06201s
谷津東側道路から東方向の崖線
ここだけでも、相当な高度差がある
前記「府中領総図」にいう「堀形此処二止ル」の「此処」は
ほぼこの地点(もう少し南かもしれないが)と思われる
                                              -続く-

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