2021/05/14

廣重の「繪本江戸土産」の「冨士見茶屋」

■歌川廣重の…

作品として、比較的その名前があがることが少ないものに「繪本江戸土産」という絵草子があり、その中の一枚に「冨士見茶屋」がある。

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*これは、冊子だが、一枚刷りは
 https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?14&retresult=page%3DDETAIL%26area%3D2%26comp6%3D1%26cond%3D1%26item6%3DAB%26key6%3D%25E5%25AF%258C%25E5%25A3%25AB%25E8%25A6%258B%25E8%258C%25B6%25E5%25B1%258B%26mv%3D20%26sort%3D1%26target1%3D1%26&num=1989748&ctg=1&area=2&areaimage=1

■この絵をみて…

さして深く考えることもなく、今の目黒駅から目黒不動に向かう、行人坂上の茶屋だと思い込んでいたのだが、よくよく右上のキャプションをみると、しっかり「渋谷尓〔に〕あり」と明記してある。

さすがに、行人坂

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廣重「江戸名勝図会」「行人坂」

を「渋谷」とは言わないだろうし、そもそも、茶屋の敷地の見晴らし(西)方向の地形(とくに擁壁の有無)も樹木の様子も違う。

念のためというか、同じく廣重の描いた別の絵

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廣重「東都坂尽」「目黒行人坂之圖」

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「江戸名所圖會」(行人坂上)「冨士見茶亭」
看板を見ると、ここの「冨士見茶や」は固有名詞のようである

をみると、さらに地形や樹木の差が明瞭である。

■渋谷で…

富士を見晴らせそうな高台といえば、まず思い付くのが、正確には上目黒ではあるが、大山道(厚木街道/玉川通り/国道246号)の大坂上なので、図会を探してみると、時代は下るが、

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「東京名勝圖繪」「上目黒大坂」

ここも西方向の地形はまるで違うし、こちらは街道沿いだけに道幅が広いうえ賑わいが違う。

■この…

リンク先
雑司ヶ谷鬼子母神と富士見茶屋。 [気になるエトセトラ]
によると、冨士見茶屋というのは、固有名詞ではなく、江戸中に数百軒あったのではないかとしていて、廣重も、少なくとももう1軒、雑司ヶ谷の冨士見茶屋を描いている。

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廣重「冨士三十六景」「雑司ケや不二見茶や」
現在の学習院キャンパス内にあった「珍々亭」という茶店の由

 たしかに、江戸やその近郊では、ちょっとした高台で南西方向を見晴らすことができる場所なら、どこでも、富士は見えるのだから

【資料映像】2005年10月地下化前の小田急線東北沢のこ線橋で撮影

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「冨士見茶屋」がいくらあってもおかしくないわけである。

■そのため…

この廣重の「渋谷」の「冨士見茶屋」を見つけるのは結構難しそうだが…いずれにしても、目黒川(支流の、北澤川〔用水〕、空川〔そらかわ〕を含む)の崖線にある坂道の上のはずで、それほど数多くはない

【参考】目黒川左岸、稜線上の景観ポイント例

57

 

うえ、

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊

の、38話 pp.211-212 によれば、

下北沢に現存する森嚴寺の境内にあった「淡島の灸に通う人たちの途中休憩した掛茶屋が、松見坂三田用水脇の富士見茶屋…、宮益坂にあった 」

とされているので、

北沢1丁目の「富士講碑」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com) 参照

・宮益坂上

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「江戸名所圖會」「冨士見坂一本松」
画面左奥が「不しみ坂」こと現在の宮益坂で、解説文によれば「茶亭酒亭あり」とある

ただし、ここも、街道の大山道沿いであるうえ、比較的早い時期から、絵のとおり家屋が立ち並ぶ「渋谷宮益町」と呼ばれる街場として取り扱われ、正徳 3 年(1713)には町奉行の支配下におかれた場所なので、先の大坂上と同様「賑わい」の点でやや齟齬がある

・滝坂道(現・淡島通り)の松見坂上

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「江戸名所圖會」「駒場野」

について、もう少し検討してみたいとところである。

 

【余談】

冒頭の、廣重の「繪本江戸土産」という表題。、浮世絵は、江戸切絵図と並んで、参勤交代で領地に戻る武士や地方の取引先に赴く商人、あるいは、伊勢参りなどの参詣の途中で江戸に立ち寄った旅人などが、文字通り土産として購入したといわれている。

 なにしろ、軽くて嵩張らないので、徒歩を原則とする旅の土産品としては打ってつけなのであるが、さらに、そのような用途には最適なタイプの絵が企画・販売されていたことは興味深い。

 前出の目黒行人坂上を例にとると、江戸自慢双筆三十六興中の

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を挙げることができる。

 この絵は、手前の人物画を三代歌川豊國、背景などを二代歌川廣重が描いていて、どちらも一流絵師による江戸の美人画と江戸から見える富士を描いた風景画という2タイプの絵を1枚買えば一度に手に入る、いわば一石二鳥の「お買い得」な絵になっている。

【追記】

個人的に前々から注目していたのは、おそらく廣重の担当と思える、今まさに行人坂を上りきろうとしている、中年男の供を連れた女性である。

供の男は軽口をたたいている様子だし、軽く懐に手をいれた仕草からみて、商家の女将という堅苦しい雰囲気はない一方、顔つきや服装からみて、いわゆる玄人筋の女性とも思えないので、たとえば繁盛している水茶屋の女将といったところではなかろうか。

いずれにしても、こんな粋な雰囲気の魅力的なお姐さんがウロウロしていることも江戸の魅力といえ、廣重が、あえて豊國の当時の典型的な美人画とは別に、こういった別系統の女性像を描こうとした動機なのかもしれない。

ここまで気付いてしまうと、同じシリーズのほかの絵にも、「廣重好み」あるいは「廣重自慢」の女性が描かれている可能性があるので、折をみて分析してみようかと思う。

 

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2021/02/28

北沢1丁目の「富士講碑」

■かつて…

世田谷区の北沢地区の、ミニコミ紙「きたざわ」に、こんな記事を投稿した。

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記事にあるように、京王井の頭線の池ノ上駅と、小田急線の東北沢駅のほぼ中間の位置に、この

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石碑がある。

碑文を読むと、鈴木金太郎という人が、50回の富士登山を果たしたのを記念・顕彰する石碑らしいことはわかる。

■しかし…

それ以上に、その機縁・由来の類や講中の活動の実態を示すような、史料や伝承がなかなか見つからなかった。

ことに、講中のマーク(惣印・笠印)に、該当するものがなかなか見つからなかったのであるが

「特別展 神社参拝と代参講」〔図録〕世田谷区立郷土資料館/H04・刊

の、p.34に、

「世田谷区では下北沢村、世田谷村、若林村、代田村の講中が山富講」

とあり、若林村の講中の「富士講掛金帳」の画像で、この碑を建立した講中の名前を確認することができた。

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■とはいえ…

それ以上の情報はなかなか現れなかったのだが…

昨年以来、いわば立て続けに、この山富丸平講の活動を示す資料が、渋谷区の旧幡ヶ谷村にあったことが判明した。

ネットオークションに

堀切森之助「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/S53・刊

なる本が出品されていたので、幡ヶ谷は北沢の「すぐ北」にあたることもあって、落札したのだが…

その、p.163に、鉄道の、開通後と、開通前の富士詣のルートが詳細に示され、しかも、旧下北澤村の淡島がその行程上の重要なポイントだったことがわかったのである。

●講中の地域的範囲

富士詣に就いては、幡ヶ谷の属してゐた講は北澤、代田、雑色等の各村を範囲としていた。

下北澤の鈴木金太郎が先達だった山富講と呼ばれていたが、その萱笠の印は、〔〇の中に〕平、または〔^^の下に〕富だった。

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北沢1丁目の石碑の裏面
刻まれている「世話人」の住所は、下北澤のほか、幡ヶ谷、雑色(中野)、代田に及んでいる
しかし、若林村の世話人はいないので、どうやら、この下北澤村を中心とする山冨丸平講と、
若林村周辺の同名の講は、同じ、本部にあたる親講を持つ、支部にあたる枝講なのではないか
と、とりあえずは、思われる。

●行程(鉄道開通前)

白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、前記の萱笠に金剛杖の参拝者は 、幡ヶ谷から甲州街道を府中、八王子、小彿峠、輿瀬の二瀬越えを過ぎて四方津、鳥澤、猿橋、大月と行き、此所から吉田口登山路を登って頂上の浅間神社へ参拝

帰路は御殿場口を下って東海道に出で、藤澤から江之島へ廻って江之島鎌倉を見物。
  おそらくここで
、精進落としを、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をして行ったのではなかろうか

そこから

ルート1:戸塚、神奈川を経て二子玉川へ出る(この行程は日数8日)

ルート2:二の宮で東海道と別れて秦野へ出、大山街道を大山、厚木、長津田を経て二子玉川へ出る(この行程は日数6日)

どちらも、二子玉川の茶亭に各村の第一出迎人が代参者の到着を待合わせて、合流して世田谷を過ぎて北澤の淡島神社前に来て、此所の茶亭で、各村講中からの第二陣の出迎人を交えて小宴を催した後に一行は解散

代参者は、第一、第二出迎人と共に、掛念佛の唱和で村へ送り込まれた

●行程(甲武線(中央線の前身)開通後)

徒歩時代同様に白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、萱笠に金剛杖の参拝者は字内の諸員等に見送られて新宿または中野駅に集合

同駅から乗車して大月駅で下車して吉田口から登頂

帰りは渋谷駅に下車して一行は北澤の淡島神社前の茶亭まで来る

此所で精進落しの別宴を張って参拝團を解散し、此所まで出迎えた各村の議員等と共に、途中比等の講員等が唱和する掛念佛で帰村

■鉄道開通の…

前後にかかわらず、この参拝團は、出身村に帰る前に「北澤の淡島神社前の茶亭

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で、かつては、小宴をはり、鉄道開通後は精進落としのそれなりの規模の宴会を行っているようである。

この「淡島神社前の茶亭」。おそらくは、富士詣の講員のために開かれていたわけではなく、当地の「淡島神社」の別当である森嚴寺が、毎月3の日と8の日に行っていた「淡島の灸」*に参集する人びとを対象に、当地の旧家で世田谷吉良氏の旧家臣といわれる伊東家が営業していたものと思われる。

この、淡島の灸については、近世江戸の2大紀行文作家である、十方庵敬順が「遊歴雑記」、村尾嘉陵が「嘉陵紀行」〔別名「江戸近郊みちしるべ」〕の中で、どちらも好意的とは言い難い紀行文を載せている*のが興味深いのだが、「行ってみてがっかりした」にせよ、江戸ではかなり著名な探訪地だったことは間違いない。

*遊歴雑記 初編 巻之上 第二十七 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/45 

今年文化十一年甲戌三月めづらしく邊鄙の花を尋んと、四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂邊を見めぐり、北澤村を遊行ずるに、實にも人口に風聞する如く森嚴寺の門前には、新たに酒食をひさく家三四軒然も廣々と路傍に建つらね置、遠く来る人は止宿もするよし、いかにもその家や幾座敷となく間廣々と見へたり、人の出這多かる中に、食事をしたゝむる人、酒を酌人、枕せる老夫、待詫て欠する少女、又来るもの歸るもの家ごとに、座せる人、不臥せる人、さながら温泉の湯治場の如し、

 嘉陵紀行 第四編 北澤淡島社   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912956/129

寺の前に酒飯あきなふ家一戸、此外近くにも猶あり、民家ゟ灸ある日ことに路次に出茶屋をまふく、こゝかしこに在、

(文政三年庚辰五月八日遊)

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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/6

【追記】

このほか、淡島社が著名地だったことは

●国立公文書館・蔵「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html

の9ページ目に、天保4(1832)年当時の、玉川上水の代田橋下流にあった代田芥留の図中の遠景、左上隅に、北澤八幡社でも別当の森嚴寺でもなく「淡島社」だけが描かれていること

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●江戸名所圖繪の三巻天璣八冊40コマ目の図

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559047/40

の上部のタイトルが「北澤粟島社」であること(もっとも、こちらには「八まん」として北澤八幡神社、「別当」と題して森嚴寺が描かれてはいるが、どうみても「淡島様」が主役)

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からも了解できる。

 

■明治期になっても…

、この淡島が人々を呼び寄せる場所であったことを示す記述が、やはり、最近入手した

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊

にあった。

●森嚴寺境内にかつてあった富士塚について

淡島富士は(渋谷道玄坂下の)御水の枝講々元で、三軒茶屋の地名の語源となった三軒の茶屋の、田中屋、しがらき、堀江のうち、田中屋の主人新兵衛が願主となって築造した。

この富士の築造に際して、保証人として親講元の吉田平左衛門が新兵衛と連名で下北沢村名主の半蔵に一札を差入れている。

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文政四年己三月とあり、往時の富士塚築山流行時代の所産といえる。

「また当時、この寺に中々の智者があり、築山を利用して、富士の灸と称し、灸点する者が現れた。こん日、富士の灸というのが全国に何カ所あるか知れないが、この森厳寺の灸が富士関係では始めてのことと思われる。この灸が「淡島の灸」として有名になってからも、長くつづいて行なわれている。
    :
この淡島の灸に通う人たちの途中休憩した掛茶屋が、松見坂三田用水脇の富士見茶屋、弘法湯、道玄坂、宮益坂にあった*。」

 同書38話 pp.211-212

*ここにいう掛茶屋の位置が措定できそうな、渋谷宮益坂下から滝坂道の松見坂下あたりにかけての、天保3(1832)年の紀行文があった。
 筆者の名前は不明だが、新編武蔵風土記稿を編纂した、幕府の昌平坂学問所内の地誌取調所所属の地誌取調出役、つまり、現地調査を担当する、いわば「学芸員」だった模様である。

宮益に出て道元〔宮益の誤〕坂を下り小橋を渡れり、この流れは渋谷の川上にそ、左に水車〔「宮益水車」〕あれとけふは盆の十六日なれハなりわひ休らふならハしにて音もせさりき、田面の緑り深くゝき遠近曇りて日影のうすくなりけれは、暑さを凌よくしハし立休らひて、
  初秋の風に稲葉の露ちりて緑りすゝしき賤か千丁田
上渋谷村の茅屋つゝけるを過て長き坂〔←「道玄坂」〕あり、この半に山を開きて茶店三軒を出せり、新らしくもふけしなり、団扇に松の絵かきしを商ふもありき、池尻村にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北沢村」の誤〕の淡嶋明神の道〔←「滝坂道」〕を鐫[え]れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り、うちミるに己かまゝに身のならされはさそくるしからん、道すから大山・富士なとへ群れ行人をミるにさそ楽しからんと察しぬ、仕へするミは一夜たによそへ宿りぬることもならす、この猿にも同し様なりと思ひやりて、
  つなかれす深山をさそな朝な夕思ひまきるとねにや啼らむ
二町余を過ぎぬるに清き細流あり、土人に聞くに玉川の分水にて烏山・給田の村/\なとより引る用水〔←「三田用水」〕なりと、かく高き処に見るもめさましく激してこれをやらハ、山に有らしむへしと云しもことハりなり、空晴て暑さの損くなり侍るまゝ水をむすひしか、余か影のうつりぬるをミて、
  世にも名の知れぬ計の細流清きこゝろはうつしてそしれ
すこし行て下れる坂あり、上目黒村の入会の地なり、跡の流れより落くる水〔←「三田用水・駒場分水」〕なりき、さまて多からされと瀧をなし音の高くすゝしければ、
  家を出てまた聞なれぬ道の辺に落くる水の音そさやけき
坂の下〔←空川を越す「遠江橋」あたり〕ニ新しき茶店あり、右へ折れ左は田面緑りふかく、少し行て右は駒場野[古ハ駒か原と云しよし]にて[御茶園あつかりにて]荘頭上村氏[左平太]鳥人[おとりミ]山内氏[うち]正助等の官舎あり、高札をたてゝ往還の者松明・火縄・くハへ煙管等をいましむ、この向ひ木立繋ぎ門ハ里長[定右衛門といふ]なり、御狩のとき成らせ給ひてけれ此処其処へ土を盛て埓結ひめくらせり、余も廿年余りあと地誌[ちし]の公事[ごやう]にて都筑郡より帰るさ同僚[とうや]の小笠原氏と来りし事もありしか昔になりぬ、住居ハ其時にも替らす主人ハ如何あらんと思ひやりぬ、
  わくらハに諏〔と〕ひこしことは昔にてその面影もあせぬ木深さ
流れの巾二間もありぬ川に土橋を架し、たもとに水車あれと音もせさりき、池尻村にかゝりぬるかあやしの茅屋に琴の音きこゆ、鄙にハ珍らかなれハ、
  聞にさへ糸も珍らし玉琴のミやひの音ハ鄙にやハにぬ

作者不詳「松の柴折」(世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」東京都世田谷区教育委員会/S60・刊 pp.177-194)

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東京都公文書館 デジタルアーカイブ・蔵の「目黒近傍図 下 (荏原郡馬込領上目黒村)」
https://dasasp03.i-repository.net/il/cont/01/G0000002tokyoarchv01/000/020/000020682.jpg
の抜粋に同じルートをトレースしてみた。

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【参考】

文政3〔1820〕年の宮益御嶽神社(赤矢印)
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956
より

宮益坂~道玄坂~滝坂道 辺り

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道玄坂上~駒場狩場 辺り

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「昭和四十一年五月十七日
  代々木上原、吉田国太郎万にて
  語る古老 鈴木平五郎 明治十八年五月生れ 植木職もとは百姓

   吉田 世田谷の森厳寺、淡島のお灸の客を専門にした「かごや」が新宿の追分と
                 渋谷の宮益にあった。
   加藤 宮益のどこら辺か、坂の上か下か。
   吉田 坂上だ。かまくら道の入口の辺だ。
   鈴木 宮益の上から二子玉川まで、ガタクリ馬車が通っていた。
      中央線の開通する前は、甲州街道を、新宿から八王子まで馬車が通って
                 いた」

        同書31話 p.173

 

【追補】

 この石碑の位置は、かつての「北澤四丁目」のほぼ中心にある。

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現在は、図のほぼ中心の「国旗掲揚所」に並んで、そのすぐ南隣にあるが、かつては、南側の道路を挟んだ向い側にあったようである*

*佐藤敏夫「下北沢通史」同/S61・刊p.133(安野敬一氏S60・談)

 

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2021/02/23

「渋55」『三角バス』路線短縮

■今日…

三田用水のサイフォン遺構を見に、小田急東北沢駅に行ったところ、東急トランシェの東北沢バス停に、看板がかかっていた。

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読んでみると、現在渋谷駅と幡ヶ谷折返所間で運行している、渋55号系統のバスが、令和3年4月1日以降、渋谷駅・東北沢駅間に短縮されるとのこと。

【資料映像】

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駅前に行ってみると、

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停留所のサインボードのフレームがセット済だった。

■この系統は…

かつては、東85系統として、東京駅八重洲南口と京王線幡ヶ谷駅前まで、東急バスと東京都バスによって運行され、朝の通勤時には「満員」表示まで出ることもあった路線。

地方出張の帰りに東京駅からダイレクトに家に戻るのに重宝した路線だったのだが、それが、渋谷駅前・幡ヶ谷折返所間に短縮されて今日に至っていた。

詳しい沿革や経緯は

http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm

を参照。

■考えてみると…

この路線は、もともとは、大正9年に代々木乗合自動車が、渋谷駅前と三角橋間で運行を開始した*(ただし渋谷付近は、上通り経由でなく現・文化村通り経由。なた、遅くも昭和6年までに、おそらく小田急線の開通を見こして、東北沢まで伸長されている)という、かなりの老舗路線なのだが、ある意味で、三角橋から東北沢まで一停留所分長いとはいえ、今回、ほほ、この路線の原初形に戻るともいえる。

*加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土史研究会/S42・刊 p.412(74話末尾)によると

「渋谷町第四区の区会議員をやっていた伊崎捨次郎(滋賀県出身、ふとんや)が、お医者の瀬戸喜重郎らと図って創立した。伊崎は社長で、後の東急バスの渋谷初台線と東北沢幡ヶ谷線の二系統を運営したが…大正十二年九月東横バスに合併した」

また、同 p.572(第95話) によると

(後藤慶太は)「道玄坂下から農大通り(後の栄通り*)を経て幡ヶ谷と初台の間を運転していた瀬戸喜重郎 、伊崎捨次郎 らの代々木自動車を朝倉**からの口ぞいで買収した」

*現「文化村通り」
** 渋谷村/町/区議や、東京府会議長を務めた、朝倉虎治郎

とある。

■鉄道写真の世界での…

言い回しを借りると、葬式鉄ならぬ葬式乗合

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渋谷駅発、幡ヶ谷折返所行

【追記】2021年3月31日最終日

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前回の経験から、シャッタースピードを1/100に落とすことで、バスも行先表示も「止める」ことができた。

 

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幡ヶ谷折返所発、渋谷駅行

【追記】2021/04/23

東北沢駅発、渋谷駅行

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2020/11/17

1964年東京オリンピックの「記念物」

■たまたま…

とある場所の写真を探して、デジカメ写真のライブラリを探していたら、2011年4月16日に撮影した、いわば「1964TOKYO」の記念物の写真が出てきた。

10年近く前に撮影したので、さすがにもう残っていないのではないかと思うが、確か「都06」系統のバスの「広尾病院前」(新橋方面)のバス停で、あまりの懐かしさのために窓から撮った「ゴミ箱」の写真である。

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この「ゴミ箱」、下側の、黒い金属製の支柱と、その上のかなり破損はしているが曲線を使った逆円錐台状のフレームがオリジナル。フレーム上のプラ桶は形も色もオリジナルではなくて、当初は、確か、フレームにきちんとはまり込む、「いわゆるポリバケツ色」だったか、くすんだ黄緑色だったかのポリエチレンのバケツがセットされていた。

1964年の先の東京オリンピックを前に、街中ゴミだらけの東京を、世界に恥ずかしくない街にしよう、というわけで、その2年ほど前だったからか、それこそ東京中にこの「チューリップライン」と名づけられたゴミ箱が立てられたのである。

■たしかに…

この「チューリップライン」の効果かどうかは別にして、あのオリンピックを境に、東京の街が一気にきれいになったことは確かで、その後1980年ころに香港や、1990年ころにブータンの首都ティンプーに行ったとき、ゴミだらけの道路を見て、かえって妙な懐かしさを感じたほどである(逆にいえば、こちらは1960年ころまでの東京の街を知っているわけなので、とてもとても、これらの街を嗤うことなどできなかった道理だし、かえって「これこそ都市なんだよね」という感慨しかなかった)。

■なお…

「ゴミ箱」の写真だけでは、あまりに「愛想無し」なので、我が家にのこる、もう1組の「1964TOKYO」の記念物の、10月24日の閉会式*の入場券とそのカバーの画像も載せておくことにする。

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*閉会式の入場券といっても、その前の「オリンピック最終日の華」。あの、バロン・ニシとウラヌス號の、ロスアンゼルス・オリンピックでの活躍で有名な大賞典障害飛越馬術競技も観戦することができた(カバー裏「4」)。
 もっとも、正面スタンドかバックスタンドならばともかく、人馬一体の迫力を感じるにやや遠すぎたが。

【追記】

コメント欄に、マグノリアさまからご教示いただいた、プラ桶の萌黄色は、このような色

https://www.color-sample.com/colors/149/

 容器の素材のポリエチレンに直接着色していたはずなので、全くこれと同一の色を、最終製品に造り出すのは難しかたっと思いますが、それまでの「ポリ容器」と違った「上品な色」だったように記憶しています。
 そうでなければ、我々悪ガキ中学生の間でも「なんだあの下品な色は。みっともない」と悪評紛々だったはずですので。

 

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2020/08/30

どなたかご教示を「『代田屯』の出典がみつからない」

■すくなくとも…

世田谷区の郷土史レベルで、ではですが

「代田」の一種の起源として

・永禄12年(1569年)の北條分限帳によれば
・北条氏康家臣の垪和又太郎が
・「代田屯」の領主になった

というのが、ほぼ定説で

世田谷区の区報「せたがや」令和2年8月25日号3面
https://www.city.setagaya.lg.jp/static/oshirase20200825/p02_002.html

にもそう書かれています。

■しかし…

1年ほど前から、その出典の調査を開始し、上記の世田谷区の区報を受けて、かなり広汎の調べて直してみても

(いわゆる)北條分限帳の中には、そのような記述は発見できませんでした。

■残るは…

2.5系統あるらしい写本(原本、第一次写本とも近世期に焼失。残るは2次以下の写本とか、そのまたその写本)を順次調べてもみつからず。

余すは最後の1系統を余すだけとなった経過を、当方の

https://daidarabotch.blogspot.com/2020/08/blog-post_29.html

に書いておきました。

■どなたか…

情報をご存じのかたは、コメント欄などで、ぜひご一報を。

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2020/06/05

弦巻村の八幡社は下北澤村の野屋敷稲荷の類例か?

■たまたま…

蛇崩川の水源探しに関連して、弦巻村西部の、蛇崩川を大山道の旧道が渡るあたりを調べる機会がありました。

S_20200605232101 

【参照】

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1nJ1tbikQVLMS_TlLLofTkJudmpTZwby-&usp=sharing

【参考】
世田谷区郷土館・蔵「駒沢町地図」S05 抜粋 ○囲いが「ババ池」★が八幡祠
Sundaishigaku_56_205p6_tc_20200607204401 

高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二) 谷田地帯における中世水田へのアプローチ」
駿台史學56巻pp.205〔1〕~231〔27〕
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/6045
p.210〔6〕「第6図」を抜粋・編集

■この場所の…

橋の名前は「八幡橋」。

確かに、その北東に「八幡社」があったようですが、この社、現代の地図に表示されている例が見当たらなったので、現存しないものと思っていたのです。

■しかし…

家内がこの地図を Face book に投稿したところ、ある方から、同地の八幡社らしき祠の写真の投稿されました。

とはいえ、弦巻村の村社は弦巻神社のはず。

後述のような稲荷社、つまりオイナリサンならともかく、八幡社が村社のほかにあるのは珍しいと思われ、今度はこちらの経緯を調べてみる気になりました。

■東京都公文書館*蔵の…

記録によ

れば、M05当時

1 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 宇佐神社」
2 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 稲荷神社」
3 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 北野神社」

の3社があったようです。

* https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/

■これを…

「新編武蔵風土記稿 巻之四十八荏原郡之十」中の弦巻村の条に記載の4祠*にあてはめると
1は 〔 宇佐〕八幡社
2は 稲荷社2祠のうち「小名本村」にある方
3は 〔北野〕天神社
が相当し、天神社と「同シアタリ」の小名向にあったとされる稲荷社は公文書館の記録には現れません。

* https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/12

【参考】

Photo_20200606063101
国立公文書館・蔵「目黒筋御場繪圖」を抜粋・180度転回
画面右端近くの「天神」の北に「稲荷」が見える

■そして…

この3社は

都公文書館の

「荏原郡 無格社 弦巻村(駒沢村村大字弦巻) 稲荷神社(弦巻神社と改称)」M12
によると

「(八幡神社北野神社稲荷神社を本社に合併し、弦巻神社と改称40年4月5日許可40年5月27日合祀済届)の朱書きあり」

と、M40に合祀され、2の稲荷社の場所の弦巻神社となっています。

ネットで調べてみると、

https://hotokami.jp/area/tokyo/Hkrka/Hkrkata/Dyrkm/125351/buildings/

その境内に1と3は石造の末社として鎮座しているようです。

https://post.hotokami.jp/20200408-044239_j9hx0lIn5D.jpg

【追記】

なお、3の天神社の名残としては、向天神橋という交差点とバス停名、そして小公園名が今に残っている。

■ではなぜ…

弦巻神社に合祀されたはずの八幡社が元と同じような場所に今もあるのか、ということになります。

似たような例は旧下北澤村にもあって、それが「薩摩稲荷」別名「野屋敷稲荷」。

もともとは、同村の北端に近い小名薩摩屋敷/野屋敷にあったのですが、M42に北澤八幡神社に合祀され、同社の境内に結構立派な木造の末社があります*

Dsc02742s__ 


しかし、北沢八幡は同村の南端に近くて「お参りにゆくのが遠くて面倒」などの不満があったようで、元の稲荷社附近に新たに稲荷社を建立し、いわば地域神として、こちらも現存

 Dsc01100sc 

しています**

■同様に…

北沢八幡の境内に末社としてあるほか、世田谷区北沢1丁目にもある同名の祠として「円海稲荷」があります。

  Dsc01121s
北沢一丁目の「円海稲荷」  

ただ、こちらは、明治42年に北沢八幡の合祀されたといわれる「円海稲荷」

Photo_20200623232701

とは起源が違うようで、どうやら当地の旧家であるY家が「屋敷神」として祀っているうち近隣の方々の信仰を集めるようになった結果、「地域神」として祀られるようになったようで、似ているようではあっても、少々違った経過を経ているようです***

* 世田谷区民俗調査団・編「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」世田谷区教育委員会/S53・刊 p.77
**
pp.79-80
*** 同p.80

 この項 三田用水「調査サブノート:旧下北沢村内の祠・野仏」  参照

■とはいえ…

弦巻村の場合、弦巻神社と八幡社の間にそれほどの距離があるとも思えません。

「あるいは」と考えられるのは、

  • 2の稲荷社は同村の小名本村にあり、しかも村の中央部にある
  • そのため、当時の国是だった合祀による神社の整理・統合あたって、いわば村内の人的な力関係や地理的な優位性のため、他の2社が同所に合祀される結果になった
  • しかし、先の風土記稿によれば、八幡社は「古ヘ鶴ケ丘八幡社領ナリシユヘソレラノコトニヨリ此ノ社ヲ建シニヤ」*と、他の2社+1祠に較べて、それなりの由緒の伝わる、いわば「格上」
  • そのため、おそらく「八幡様」を中世期から祀り続けてきた近隣の人たちは気持ちが納まらず、新たに祠を建立し、改めて宇佐八幡を勧進して鎮座させた

という可能性も否定できないかと思われるのですが。

* 新編武蔵風土記稿は、幕府の学術研究機関である昌平坂学問所の地理局が文化・文政期(1804~1829年)に編纂した武蔵国の地誌であるが、各村から提出された「書上」をそのまま引き写したものではなく、地誌取調出役という、いわば「学芸員」が現地に赴いて調査してウラ取りをするなどした結果をまとめたもの。
 そのため、現地の伝承なども、鵜呑みにすることなく、その信ぴょう性の評価が記述に現れている。
 
この八幡社についても、文末が「ニヤ」いわば「であろうか」と結ばれていることは「あながち、否定できる話ではない」との評価されたといえるだろう。

 

【追記】

三田義春「世田谷の近代風景慨史〔都市美せたがや叢書3〕」世田谷区企画部都市デザイン室/S61・刊

のp.37に

「弦巻には、本村に實相院と浄光寺(今は世田谷一丁目となる)、向に常在寺と三寺があり、また、本村の西南端の松林中に八幡杜、向の東南端にある松林の南に接して向天神杜、山谷の舌状台地の東先端に稲荷社があったのである。だが、明冶末期に多く行われた神社合祠の例にもれず、稲荷社に八幡・天神両社を合祠して弦巻神社としている。
ちなみに、八幡社はその後故地に邸宅を造った佐野氏が、私祭神として小祠を建立し現存している。

とあった。

 

 

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2020/05/27

リモートワーク・シリーズ[駒場篇]

■今般の…

非常事態宣言下、個人的な散歩はOKですし、実際、その程度は体を動かさないと、なんのかんの言ってもアラセブンの当方は体が萎えてしまいそう。

しかし、単に歩くだけでは何の意味もなく、いわば「文明に益さない」と思われ、歩く以上は「新たな知見」を見つけたい。

■とはいえ…

いずれにしても、行動は近隣に限られ、いかに「智謀の限り」を尽くしても、せいぜい、往路か復路に、ガラガラな時間を狙ったバスか電車を使うのがせいぜいなので、徐々に「ネタ切れ」になってしまいます。

■そんな折…

いわば苦し紛れに思いついたのは、井の頭線の池ノ上から、同線沿いに駒場の国際高校に抜けるルート。

帰路は、駒場東大前駅東で踏切を渡って、

Dsc00886s

 

日本民芸館前を通り(普段なら、東大先端研/生産研前構内を抜けるのですが、現在閉鎖中)、コスモス通り経由で我が家に戻ることになりますが、こちらのルートは結構頻繁に歩いてるのに対し、往路の池ノ上・国際高校ルートは、どう考えても10年近く歩いたことがない。

なにか、大きな変化でもあれば、と思って出掛けたのですが…

■世田谷区から…

目黒区に入った途端に、まっさらな銀色のトラックが目に入りました

Dsc03289s

見れば、野菜の行商屋さんです。

Dsc03290tc

■この…

高級住宅地に何で?と思ったのですが、考えてみると

・高級住宅地だけに住民が高年齢化している

・この地域の近隣には、生鮮3品はもちろんスーパーさらにはコンビニすらない

ので、確かに、行商さんへのニーズがある「ニッチ」な地域なのです。

(仮に、当地に住んでいたとすれば、駒場東大前駅まで歩いて、井の頭線で渋谷に買い物に出てしまうと思います。とくに、改札脇の階段を降りた右の大和田さんはおススメ)

■10年ほど前

田町駅の真向かいにある、都営芝五丁目アパートを通りかかったら、トラックで来ている行商さんをみて「この街中に!?」と少々驚いたのですが、なるほど同じパターンのようですね。

なんだか、このコロナ後、もう少しきめ細かいサービス(例えば、トラックに載せる商品最小限にして、前回訪問時に頼まれた商品の配送に力を入れるとか。訪問時に発注して1週間後の持ってきてくれるなら、2週間前にオーダーする生協より利便性も高い)をする、この種の行商さんが増えるのではないかとも思います。

■もう一つ…

帰路で、コスモス通りに出た途端、この時期には珍しい「焼き芋屋さん」。

Dsc00895s

これも考えてみると、いわば「超高温調理」の食べ物なので、ウィルスの心配なし、ですよね。

 

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2020/04/29

武蔵野會のダイダラボッチと柳田國男のダイダラボッチ

■大正9年1月12日…

柳田國男は、
今の世田谷区代田の「ダイダラボッチ」の後、その南の駒沢方面の「ダイダラボッチ」を探訪している。
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/06/post-141e90.html

その契機は
 柳田の「一目小僧その他」→「ダイダラ坊の足跡」→「一 巨人来往の衝

によれば、代田のダイダラボッチへの探訪について

「 二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいい伝う云々とある。すなわち現在の京王電車線、代田橋の停留所とまさに一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としてははなはだ振わぬものである。しかし村の名の代田は偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。
 私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである。」

と記したうえ、さらに駒澤方面を目指した所以を

「 あの頃発行せられた武蔵野会の雜誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。
それを讀んでいた自分は此の日さらに地圖を辿りつつ、そちらに向って巡禮を續けたのである。」(↓⁺改行は引用者補入)

としている。

■この…

柳田を代田からさらに南の駒沢まで誘った「武蔵野會の雜誌」の記事を調べてみると

同会の機関誌「武蔵野」の
・第2巻第2号(大正8年 7月刊)鈴木堅次郎「駒澤行」   (pp.75-78)
・第2巻第3号(大正8年12月刊)谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」(pp.34-38)
の2編らしいことがわかる。

■「武蔵野會」のダイダラボッチ

これらの記事で紹介されている駒澤方面のダイダラボッチのうち、実際に柳田が訪れた後記の2か所がどれかを調べて見る気になった。


●第2巻第2号(大正8年7月刊)pp.75-78
鈴木堅次郎「駒澤行」

◎包含屬とダイダラボッチと驗地碑
明治大學運動場側の坂道附近には石斧が散見し包含屬がある、…
その先にダイダ窪といふ窪地がある
二三段の地域で最も深いところに池があり、古來灌漑用の水源となってゐる、傳説に曰く此處はダイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を掘り木を伐ると罰が當ると、
蓋し水源保護の爲であらふ。

由來ダイダラボッチの話は巨人傳説として取扱はれてゐるが此の足跡は
荏原郡碑衾村大字衾
より此處を經て
世田谷村大字代田
に飛んで其間隔半里以上ある。
…此の窪地側の鎮守稲荷舎の境内に野澤村創立の碑がある。野澤村は徳川時代に入ってから開墾された村で、元禄八年織田越前守驗地し開墾者たる大森の澤田から來た百姓と葛西から來た野村と云ふ百姓の一字宛をとって村名を付け茲に記念碑として不觀不聴不語の三申塔を建てた*のである。」(前同)

*この元禄8年建立の「三申塔」は、野澤稲荷神社境内北の祠内に現存している由。
 https://setagaya339.net/maturi/a1_setaga1/06_nozawa.htm

 ようやく写真を見つけた
  https://babykids.jp/nozawainari-jinja-setagaya

 
●第2巻第3号(大正8年12月刊)pp.34-38
谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」

「文献に見えてゐるものでは戸田茂睡の「紫の一本」中に見えてゐる代田橋の記事で〔中略〕
會員鈴木堅次郎氏に承はるとそれは今代田の薬師様のある窪地だそうである
又↓
駒澤村上馬引澤、
同じく野沢、
碑衾村谷畑
等にもあるよし鈴木氏から承はつた、
これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古ダイダラボッチの足跡であると傳へてある。」(前同)

■まず…

鈴木堅次郎のいうダイダラボッチ【S1】は、

明治大學運動場…先…の窪地で
窪地側に稲荷舎があって
その境内に三申塔がある

ということになると、下図

S1

東京逓信局「東京府荏原郡駒澤村」逓信協会/T14〔2版〕T06〔初版〕・刊〔以下「駒澤郵便地図」〕

https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/kochizu/kubunchizu/choson/komazawa_kmview-zoom.html

のとおり、
駒澤村大字下馬引澤字鶴ヶ窪551番
近辺ということになる。

■次に…
谷川磐雄が、その鈴木から聞いたという
【T1】駒澤村大字上馬引澤
【T2】駒澤村大字野澤
【T3】碑衾村大字衾字谷畑

の3ケ所のダイダラボッチであるが、これがなかなか同定が難しい。

【T3】

は小字まで特定されていて、鈴木の「駒澤行」でも触れられているので、比較的見つけやすい。

T3_yb
東部逓信局「東京府荏原郡j碑衾村」逓信協会/T06・刊〔以下「碑衾郵便地図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl0911-OY-1-54.pdf

碑衾村大字衾字谷畑にある、鶴ヶ窪や代田のダイダラボッチに類似する、ハケ型地形の場所は、同所2585辺り、現在の自由が丘2丁目北端の目黒通り近くにしか見当たらないし、鈴木のいう(鶴ケ窪との)「間隔半里以上」(実際には半里弱であるが)とぼぼ整合している。

【T1】

については、大字上馬引澤〔旧馬引澤村〕内のハケ型地形を何種類かの地図で探しても、どうもそれらしい場所は見つからない。
大字〔旧村〕境のそれらしい地形となると、現駒沢3丁目、駒沢給水塔のすぐ南東の、字阿弥陀丸にハケ型の谷があるものの、ここは旧弦巻村内のようなのである*

T1_yb  
駒澤郵便地図

*東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊:pp.66-67 参照

【T2】
同じような問題は、ここにもあり、駒澤村大字野澤〔旧野澤村〕内を調べてもそれらしい地形が見当たらない。
この場合も、それらしい場所を「あえて」あげれば、先の鶴ケ窪なのではあるが、ここは、大字下馬引澤〔旧下馬引澤〕村の村域である。

■もっとも…
阿弥陀丸も鶴ヶ窪も、それぞれ、上馬引澤、野澤に地続きの隣接した場所にあるうえ、村界が入り組んだ場所でもあり、遠隔地にいる地域研究者ならば上記のような誤解もやむを得ない面がある。

しかし、鈴木は、駒澤生まれで、T06から同町議員(後に東京市会議員)を務めているばかりでなく、上馬(後三軒茶屋町**)43に住んでいた郷土史家でもあるのだから***、むしろ誰よりも旧村界を熟知していたはずであり、誤った情報を、しかも2か所について谷川に教示したとは考えにくい、というか、むしろ「まず有り得ない」のである。

**同「都長は官選か公選か : 六百万市民に問ふ 都長は市民直接選挙」同/S11・刊:奥付
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036595/43

***鈴木堅次郎「東京府改革新論」日本印刷/S03・刊:表紙見返
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097844/2

■柳田國男のダイダラボッチ

代田のダイダラボッチを巡検した後に向かった先の、駒沢の2か所のダイダラボッチについて、柳田は、

【Y1「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中ほどに在った
 是も道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらいの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。
 併し腫のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれて居る。
【Y2「それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でも是から東南へ尚七八町も隔てた雜木林の間であった。
 附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居たから、あるいは既に湮滅したかも知れぬ。
 これは周圍の林地より僅か低い沼地であって、自分が見た時にも早足跡に似た點はちつともなく、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかった。
 さうして物ずきな所謂史蹟保存も、さすがに手を著けては居なかったやうである。」

と記している。

■そのうち

【Y1】つまり、最初の駒沢ダイダラボッチが、先の【S1】の鶴ヶ窪であることは
小学校
   冒頭の郵便地図でもハケの北西に「旭分教場」がある
…と村社の間
   同じく郵便地図で、ハケの南に鳥居マークで、野澤稲荷社が表示されている
   もっとも、柳田が訪れたのは駒澤村成立後なので、その時点での駒澤村々社は駒繋神社で、
   そのT09 時点では村社ではないが、合併前の野澤村ではその村社だった。
   そのため、相応の格式を示す社殿だったと思われる。
にあるといえることから、ほぼ確実と思われる。

■問題は…

【Y2】の、その次に訪れたダイダラボッチである。

・小字の名も道も忘れた
(鶴ヶ窪から)東南へ尚七八町も隔てた
雜木林の間
附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た

とあるうち、②はともかくとして、①と③から、幸いそのあたりについては

M42測T04一修測
M42測T10二修測

の一万分の1地形図「碑文谷」を入手しているので、丁度柳田が当地を訪れた大正9年を挟む時期に該る両図を対比すれば「土工をして居た」場所が特定でき、したがって、その「附近に」あるハケ型地形の場所を見つけることができるのではないかと考え、ここ数年、折に触れて両図を対比しているのだが、未だに見つけ出せていない。

【追記】20/10/18

PhotoShopで両図を重ねて、鶴ケ窪から78町(7~800m)の範囲からさらに1Km程度まで広げて観察してみたが、やはりこの間造成されたらしい場所は見つからなかった。

【追々記】20/10/28

そこで、探す範囲を広げることにしたが、ちょうど鶴ケ窪は図郭の中央のほぼ最上部にあるので、その南東方向の範囲はなかなか広大である。
その際着目したのは、上記③の「文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た 」との記述である。「文化住宅」つまりは農家などではなく、市街地の住民、主として給与生活者の住居用の敷地のための土工をしていたことになる。

しかし、この時期のこの碑文谷図の地域で、今でいう宅地開発をして需要が期待できる場所は極めて限られている。

まず考えられるのは、鉄道沿線、それも駅(停車場、停留場)周辺ではあるが、T10図の下方に描かれている目黒蒲田電鐵(現・東急目黒線)は、T12全通なので、将来に期待するにしても「気が早すぎる」きらいがあるし、実際T10図をみても大岡山や奥沢といった駅の周辺にT04図から全く変化が見られない。

しかし、地図を観察しているうち、図の右下(南東)隅に「目黒競馬場」の西半分が描かれているのを見つけた。
競馬場といえば、近代的な、主に市街地の人々が参集する娯楽施設であり、調べてみると山手線目黒駅から1キロほどの場所で、同駅からの徒歩圏といえる。

そこで、両図の重ね図で、この地域の変化を確認すると、競馬場と、なぜかT04には家屋が当時としては密集していた現目黒区鷹番との間の、清水が、この碑文谷図の右(東)葉の中では、唯一と言ってもよい変化が両図の間に生じていたことがわかった。

 

M42t04_100001__
M42測T04一修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

M42t10_110000__
M42測T10二修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

この場所は

  • 上記のように、鶴ケ窪南東附近で唯一、T04とT10間で変化がみられる場所であること
  • 等高線からみて、この地には南方から代田のそれに類似したY字型の谷が入り込んでいること

現在の東京都目黒区目黒本町1丁目15 の東急バス目黒営業所のあたりには、かつては清水が湧いており*明治時代に、今はやや東に移転しているが、ここに清水稲荷が建立されたという。
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/michi/tobu/shimizuinari.html

*この清水を源流とする川は、「目黒区史資料編」付録の「昭和三七年目黒区地図」によると「六畝川」と呼ばれていたらしい。

S3718k

  • 上図の左下の水路は品川用水であるところ、この用水は玉川上水や三田用水と同様に、台地上の高地の稜線部を流れて(流して)いるので、その両岸にハケ型地形が多くみられ、先の鶴ケ窪も品川用水左岸のハケ型地形なので、柳田がそこから用水沿いにその左右の地形を観察しながら南下したと考えて不合理はないこと
  • ここは目黒競馬場のすぐ西の地域なので、すでに目黒駅からの徒歩圏といえ、この時期に「文化住宅のための土工」〔宅地造成工事〕をしても相応の需要が見込まれたこと

からみて、鶴ケ窪から約2キロ半の距離はあるが、ちりあえずは柳田のみた、ダイダラボッチ【Y2】の唯一の候補地ということになる。

 

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2020/01/25

入間の「武蔵野」

  ■先日、たまたま…

久しぶりに、之潮のWeb
http://collegio.jp/?p=1094を覗いてみたら

国木田獨歩が「武藏埜」

Photo_20200126141101 
書籍の画像は、(財)日本近代文学館・刊の覆刻版による

の中で引用した地図が、

文政期の

東都近郊図
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542726/2

とのことだった。

■その根拠は…

近郊圖の左上の下図の部分
Dij2
と、

獨歩の「武蔵野」の冒頭の

「『武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり』と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。」

とが整合していることや、

それに続く、小手指原の記述については、さらに整合している

Dij3 P1 

ところにあるらしい。
(なお、原典は、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888366/4

 之潮の芳賀社長が指摘しているように、江戸期の、江戸府外というか江戸近郊の地図というのは、非常に限られているので、言われて「納得。あっ、そうか!」だった。

■ところで…

この「東都近郊圖」。「大榎アリ 十抱余」とか「古城跡」といった記述からみて、明らかにこれは、文政期の「観光地図」。

そこに「武蔵野」と書かれているので、「この辺りにゆけば、武蔵野の俤を感じることができますよ」との趣旨かと思われたので、逆に言えば、文政期に江戸の人たちが「武蔵野」をどのようなイメージで捉えていたかがわかるのではないか?とのことから、まずは、大体のポイントを割り出してみた。

今でも地名を見つけることのできる、図の左寄りの「堀兼」

  参照:〔田山花袋「東京近郊1日の行楽」より〕

から、右寄りの「龜窪」(亀久保)に向かって80%位の場所の模様で、今の、東武東上線上福岡駅の南西にあたるらしいことがわかった。

しかし、この辺りを明治初期の「迅速測図」でみると、獨歩が愛好したナラなどの落葉広葉樹林がある反面、古典で詠われた見渡す限りススキといった原野を連想させる畑もあり、獨歩型の武蔵野なのか、古典型の武蔵野なのか、判定不可能。

Photo_20200130103001 
「今昔マップ3」の迅速測図に補入

■そこで…

この地、旧龜窪村の生い立ち、とりわけ新田開発によって原野が農地に変遷した時期を調べようと、新編武蔵風土記稿の巻之一六四 入間郡之九 の同村の記述
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764002/75
を見てびっくり。

ほぼ、冒頭ノッケに「武蔵野」との見出しがある。

読んでみると…

村ノ西南ニツゝキタル地ナリ 其野ノ廣サハ大様東西ノ徑リ十五町南北八許ニ乄〔シテ〕南ノ方上富村ニ限リ北ハ當村及ヒ下赤坂村ニサカヒ東モ當村ニテ西ハ下富村及ヘリ 此地ハ當村ノ百姓正左衛門カ家ニテ預リ野錢トイヘルモノヲモ納メ叉河越城へ年コトニ薪萱料ヲモ納ムトイヘリ…
貞享年中…頃ヨリ殘リシ武蔵野ノ限リハソノ四邊ヘ松ノ並木ヲ植テ境トセシトテ今モシカリナリ サレト古ニ比スレハ百分ノ一トモ云ヘケレト カカル名高キ所ノソツカニモ存シテ今見ルコトヲウルハ當國ニトリテ美事トモ云ヘケレハ ソノサマヲ圖シテコゝニノセヌ

由(適宜スペース挿入)

Photo_20201220013501
上記の、武蔵野「ノサマ」ノ圖

■要するに…

この「近郊圖」にポイントされていたのは、当初誤解していたような「かつての武蔵野を彷彿とさせる地域の中心」というのではなく、この龜窪村内の「小名」、つまり、入間郡の「武蔵野」は固有名詞だったのであるが、この挿絵を見る限り、獨歩型の落葉広葉樹林は見当たらないので、この文政期の人々が描いていた武蔵野のイメージは、古典型のそれであることがわかる。

【追記】この分析が的外れでなかったことが
    山根ますみ 外「武蔵野のイメージとその変化要因についての考察」
    造園雑誌53巻5号(1990)pp.215-220
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/53/5/53_5_215/_pdf/-char/ja
   
(とくに、p.216)で、確認できた。

考えてみれば、以下の柳田國男の指摘のとおり、この時代、燃料といえば、専らクヌギやナラの薪なのであり、とりわけ江戸の近郊では、江戸市街の需要に応えるために、自足のために必要なそれ*をはるかに超える広さの落葉広葉樹林があったのであるから、それらは、ごく当たり前の「珍しくもなんともない」事物だったのだから、それで当然だろう。

* 只木良也「雑木林の仕組みと働き」森林科学21巻(1997)pp.31-35
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsk/18/0/18_KJ00001916168/_pdf/-char/ja
 によれば、畑地を維持する堆肥を得るには、その倍以上の面積の落葉広葉樹林が必要だったという
 (同p.16)

 武蔵野の昔
                  一
 近年の所謂武蔵野趣味は、自分の知る限りに於ては故人國木田獨歩君を以て元祖と爲すべきものである。國本田君は今から二十一年程前、澁谷の停車場から少し西北へ入った處の丘の陰に住んで居て、閑さへあれば東京と反對の方向へばかり散歩をして居った。勿論其時分にはあの邊にも御影石の門の別荘などは無く、叉「たばこ」と書いた紅い看板なども無かったが、しかも住民の多數は市街に由って生計を立て、寄ると障るとの立話も東京の事ぱかりであったのに、同君は其方はさまで頓着をせず、大根畠の先の薄原や、其横手の楢の林などを非常に懐しがり、其林の中に百舌の聾や風の音を聞き、叉其樹の間から甲州境の山々の雪の風情を見出した。さうして有名な話上手を以て、昔の事を愛する友人たちを感動させ、到頭みんなを散歩好きの武蔵野好きにしてしまったのである。
 國水田君はこの中澁谷の宇田川から十町も出て見れば、もう古今集や太平記の中の武蔵野が横はって居るやうによく話し、叉自分もさう信じて居たらしいが、今になって見ると、彼はやはり享保元文の江戸人の、武蔵野観の傅統を帯びたものであった。
 江戸時代の地理學者の珍重した參考書は、古い所では更科日記、中古の紀行では道興准后の廻國雑記などであった。成程此等の本の或部分は、殆ど江戸に居て書いたかと思ふほど江戸中心であった。さうして都會人は概して草鞋が不得手であった爲に、あらゆる武蔵國の名所を出来るだけ江戸近くに取寄せて樂しまうとし、それに便写を供する人のの説を喜んで聴いた。所謂言問の渡附近の猫の額ほどの區域へ、隅田川關係の一切の奮蹟をぶち込んだのも決して近頃の事で無い。名所が少ないと誠に歌が詠みにくい。さうして江戸には大に和歌が流行して居たのである。
 斯う云ふ心持の人の隨筆類を、我々はいつの間にか色々讀んで居たのである。其上一歩都門を出づれば即ち武蔵野だと云ふ思想は、今の人に取っても決して不愉快なもので無かった。八犬傅が江戸で高評を博したと云ふやうな社會心理は、今日迄も績いて存在する。
 國木田氏が愛して居た村境の楢の木林なども、實は近世の人作であって、武蔵野の残影では無かったのである。澁谷邊から西北へ二里も出ると、それが名物四谷丸太の杉林と代って居る。杉林は特に人家に近く立って綿密な管理法が施してあるから、誰が見ても古い天然状態と誤ることは無い。楢林もそれと同じで、江戸の燃料は伊豆の大島から船で喚ぶ程の需要が有ったから、近在の農家では計算上屡々畠に拓くよりも、薪山を立てゝ置くのを有利としたのである。薄山なども草屋根を葺く爲に残して置いたものでも無く、事に由ったら八月御月見の晩の用に、市中へ賣りに出るしろ物であったかも知れぬ。
 しかしながら自分等は斯う考へるが爲に、この武蔵野に對する情趣を些しでも害せられては居らぬ。名所でも舊蹟でも無い海近い曠野が、此様に著しく變って行くことは、それが既に新しい興味である上に、なほ故人の詩を醸した自然だと云ふ記憶がある。唯どうしても氣になるのは當節の頻りに研究々々と云ふ人たちが、さも/\東京の武蔵野と言はぬばかりに、此邊を中心にした江戸式の心持で話をすることが、如何にも裏門から覗いてあゝ結構な御住居と言ふやうに感ぜられることである。
 そんなのは只武蔵野趣味と言ふが宜しい。武蔵野研究と云ふ事は是からの仕事である。それには今些し昔の心特になって物を見ねばならぬ。

(「豆の葉と太陽」「武蔵野の昔」 定本2巻pp.333-334/全集〔文庫版〕2巻pp.431-433/初出:「登高行」T08-09

■因みに…

先の風土記稿の挿絵には、富士が描かれている。

ここは現・「ふじ」み野市、すぐ南に「富士」見市のある地域である。

【追記】

■ここまで…

文政期の江戸の人々にこの地が意識されていたのなら、あるいは今でも当地にこの「武蔵野」という地名が遺っているのではないか、と思いついて、先述の「今昔マップ3」で検索してみた。

 果たして、国土地理院の、昭和42年改測 1/25000「与野」図以降、最新図まで、延べ4箇所に「武蔵野」という地名が表記されていた。

 前掲の迅速測図に、大略の位置を白点で示してあるが、西寄りの2点のあたりは、ふじみ野市の「富士山ビュースポット」の一つになっている。
 https://www.santome.jp/wp-content/themes/santome/download/fujimino_panf.pdf


 「入間の武蔵野」は今でも遺っているのである。

 

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2019/11/26

代澤國民学校の疎開列車

■先にお報せしたとおり

ミドリ楽団を率いた、代澤国民学校(昭和19年当時)教諭の浜舘菊雄教諭の
「学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録」太平出版社/1971年・刊
を入手しました。

その疎開児童の帰趨についてはきむらけん先生の4部作中
・鉛筆部隊と特攻隊
・ミドリ楽団物語
で、詳細にわかるのですが、当方の興味は、もともとは、そういった個々の事例ではなく、当時の学童疎開制度というのはどにのようなもので、とくに、関係機関がそのためにどのように連携していたのか、にありました。
(とても、そこまで研究・追求する気力も時間もありませんけど、同じ第2次大戦中、イギリスもドイツのV型ロケットに対応して、子供たちを都市部から郊外に疎開させたとのこと。当時は、日英は、敵対国ですので相互に垂範しあったわけもないので、双方の疎開制度の思想や手法を比較対照して共通項を抽出できれば、この先、たとえば、地域紛争などの場合、国連などで〔はっきり言って、大抵は、大人については、どちらにも「好きにやらせる」ほかない場合が多いので〕、せめて子供たちだけは紛争地域から遠ざける手法として使える可能性もあるのではないかと思っています。)

■代沢国民学校の児童を輸送した列車

そのような観点から、まず、知りたかったのは、代沢小の児童を、新宿から松本まで、いかにできるだけ安全に移動させるために、どのような列車で移動させたのか、にありました。

今回の浜館書でわかったのは、代沢小児童の疎開児童の移動手段は
新宿 昭和19年8月12日 午後11時50分 発 (前掲書p.19)
松本 同年   同月12日 午前10時00分 着 (同  p.30)
の「疎開臨時列車」でした。

そこで、その昭和19年当時の中央線のダイヤ(19年4月1日訂補)
http://cyuouline.la.coocan.jp/page031.html
をみてみると
当時の、新宿発の下りの定期列車の最終旅客列車は
新宿 23時25分発 の403レ列車で 松本 08時35分着
である(但し、0時55分発の八王子から4時22分の甲府着までは、今でいう快速型の運行で停車駅は少ない)*

*なお、すでにこの当時、中央(東)線は、新宿から甲府までは電化されていて、この種の快速運転がし易い状況にあったらしい。ただし、複線化されていたのは新宿・八王子(か浅川〔現・高尾〕)間にとどまっていたようだ。

つまり、臨時疎開列車は、15分先発の定期旅客列車と、いわゆる並行ダイヤであれば、この疎開臨時列車は、08時50分には松本に到着していたはすであり、ごこかで、1時間10分をロスしていたこになる(といっても、直観的には「臨時列車としては、よくその程度で済んだ」と思うのですが、気分で「モノ」を言っても意味がない)ので、その要因を、これから、当時のダイヤをできる限り復原して検討してみました。

2s_20191126084701 

ただし、時刻表からは読みとれない夜行の上り貨物列車との交換(すれちがい)があるので、完全にこのとおりではないでしょうが。

なお、甲府駅の比較的長時間の停車は、機関車の交換(電機->蒸機)のためです。

きむらけん先生のブログ
Web東京荏原都市物語資料館
 中の
下北沢X物語(1267)~「鉛筆部隊」の64年の軌跡
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51462670.html

に、この列車に乗った疎開児童の一人である、立川裕子さんが、北沢の両親に宛てた手紙が引用されているので、この手紙と、前記のダイヤとを照合してみることにしました。

 「ときどき汽車がとまりましたがほとんどとまりません。」

従前、不思議に思っていたのが、この記述でした。
あるいは、貨物列車のダイヤでこの列車を走らせたのかとも思っていたのですが(その場合、編成上、貨車の入替〔切り離しや連結〕の必要がない駅では、列車を停車させず、その先の決められた駅で、反対方向の列車とのすれ違いや、後続の旅客列車に追い抜かれるために、余った時間停車することになる)、今回時刻表をみて理由がわかりました。
先に書いたように、この疎開列車に先行する定期旅客列車である403レは、八王子・甲府間は、今でいう「快速運転」で、大月を発車後は、笹子、塩山、日下部にしか止まりません(とくに、停車と再発車に時間のかかる、スイッチバックの初狩・勝沼は通過)。
疎開列車が、これに少し後れて、いわゆる並行ダイヤで運行されていたとすれば、いわゆる郊外電車に乗りなれている「都会の子」には、なかなか止まらない列車ということになるわけです。

 「私が目をさましたのは四時すぎでした。…だんだん日がさして行くにつれてそこらのけしきがはっきりとして来ました。(こうふ)に着くとうすうすとそこらのけしきがみえました。」

ダイヤの赤縦線のとおり、8月10日前後の甲府での日の出は、午前5時ころ。
盆地ですので、すぐには日が差さないでしょうから、推定される甲府の着時間5時20分(のおそらくやや過ぎ)には、ちょうど「うすうすとそこらのけしきがみえ」る頃合いではないかと思います。

 「着いたのは十時か十一時ごろだと思ひます。」

この点は、濱舘先生の記述から10時と考えてよいでしょう。
引率者の一人でしたので、当然旅程は十分に把握していたはずですし、あるいは、執筆時も、当時のガリ版刷りの旅程表とか日誌を保管していた可能性もあります。

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