2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

Elv_turumaki_s_3


屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

Elv2

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

Elv_s

・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

【最終版】

Elv0508


・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・萩原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

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2017/05/03

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕

〔その1:駅舎の意匠〕で…

検討したように、屋根の傾斜とか、場合によっては入口上の明り窓の有無の見当を付けるには、まずは、駅舎のサイズ、それに先立って、昭和2年の開業当時の、駅舎敷地の位置と広さが問題になる。

その重要な資料の一つとしては…

東京都公文書館・蔵の

資料種別 公文書_件名_府市
公開件名 土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
文書記号・番号 丑土第4775号
補助件名 停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図
文書年度(和暦) 大正14年~大正14年
文書年度(西暦) 1925年~1925年
起案年月日(和暦) 大正14年7月29日
起案年月日(西暦) 1925年07月29日
記述レベル item
作成組織 東京府
内容注記1 住所地:豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町
内容注記2 関係先名・関係先住所:小田原急行鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000129396,000129397
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16],[D]D895
収録先の名称 地理・土地収用 冊の12,地理・土地収用 冊の13
収録先の請求番号 305.F6.06,305.F6.07
電磁的記録媒体番号 D895-RAM

中の「中原停留場設計平面圖」がある。

_s


これを、反転して抜粋すると(図の下方が略北)、

_rdijs

 駅の西の、今の環状7号道路の原型にあたる、北は堀の内の妙法寺、南は池上の本門寺に通じる主要道「堀之内道*1からの取り付け道路を造り、その突き当りに駅舎が設けられたことがわかる。

 したがって、この世田谷中原の駅舎への入口は、堀之内道の方向、つまり西にあるらしいこと、駅の敷地の南北方向はそれほど広くないことから駅舎が東西方向に建っていたらしいことがわかる。

 上の図面の下方の横断面図を見ると、ホームの幅は15フィート(約4.5メートル≒2間半)なので、敷地の幅は、そのほぼ倍の30フィート(約9メートル≒5間)しかないことになる。

 実際、同じ敷地に戦後建て直された駅舎のサイズからみても、駅舎のサイズがそれほど大きいものでなく、また、敷地の南北方向の幅がそれほど広くはなかったことがわかる(左端やや上の小豆色の屋根が場内跨線橋)。


「明らかにパブリックドメイン」といえる大きな画像が見つからないので、WikiPediaから、とりあえず小さな画像だが転載。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/1e/Odakyu_Setagayadaita_eki_3.jpg

*1 とくに、今の東京西部は南北に通じる道が少なかったこともあり、かつては両寺での大きな法要時には、人の流れが途切れなかったという。

もう一つの資料は…

小田急電鉄・蔵の、世田谷中原駅の「焼け跡」の写真

S20s_2

である。

 この写真の中の、コンクリート製の基礎の残骸をてがかりに、建物の外形のいわゆるアタリを取ってみると

S20s_4

水平方向の赤線のような、駅舎の平面が浮かび上がる。

 つまり、
・駅舎は敷地の南寄りにあって
・写真手前の西側の縦方向の緑線の間が駅舎の入口で
・その奥の東側の約5分の3の範囲に事務室がある。

・入口から入ってすぐ左が改札口で、
・そこから右に折れてホームに向かい
・下りホームへは(先の設計図の断面図からみると) そのまま行くことができるが
・上りホームへは、一旦ゆるい階段を下って、左に曲がって構内横断場を渡り、右手のゆるい階段を昇る

ということになる。

 この配置だと、敷地の南端と駅舎の間が半間(0.9メートル。この時点では敷地の南は道路ではないので、境界ギリギリに駅舎を建てるわけにはゆかないだろう)、駅舎と線路の間の通路を1間半(1.35メートル+1.35メートル=2.7メートル)とみると、駅舎の幅は、5-(0.5+1.5)間の3間(約5.4メートル)程度を取るのがせいぜいといえる。

 先の生方・p.35の喜多見駅復元図の駅舎の幅は、5.4メートルなので、それとほぼ同規模・同一設計か、あるいは1サイズ下、つまり幅4.5メートル程度(おそらく、前ページの鶴巻駅と同規模・同一設計か)と考えられる。

【参考】

Photo
開業直後と思われる「千駄ヶ谷新田」(→小田急本社前→南新宿)
推定幅4.5m(2間半)

ここまでの結果に基づく想像図は 次ページ で。

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戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕

昭和20年7月1日に…

空襲で、世田谷中原、つまり今の世田谷代田の駅舎が焼失している。

 この焼失前の駅舎の写真は、これまで探したがみつからないので(昭和19年に橋上駅に改築された下北沢、さらに昭和38年に鉄骨造の駅舎に改築される前の東北沢の木造時代の駅舎ですらほとんど写真がないので、無理もない面もある)、今回、戦災前の駅舎の姿を推定してみることにした。

実それというのも…

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBパブリッシング(キャンブックス)/2009年・刊

によれば、少なくとも、昭和2年4月1日に小田急の小田原線が開通した当初の駅舎は、かなり、パターン化されていることがわかったからである。

 つまり、同書のp.33には、

「■駅舎建築
 小田急の駅舎建築の変化を概括的に眺めてみると、小田原線開通時に五大停車場(稲田登戸
*1、新原町田、相模厚木*2、大秦野*3、新松田)がマンサード型の大きな駅舎で威容を誇っていた。…その他の駅*3は当時はやりのモルタル造りの建築が多かった。」

とある。

*1 現・向ヶ丘遊園(北口に、唯一、開通時のマンサード型の屋根の駅舎が残っている)
   ブログ「関根要太郎研究室@はこだて
 」中の「小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023
   に、2012年撮影の様々な角度からの写真と、新原町田、新松田の開業当時の写真も掲載されている。
*2 現・本厚木〔表/南口〕
*3 現・秦野
*4 当時の「地方鉄道法」では、おおまかにいえば、信号機またはポイントのあるものを「停車場」、これらがないのを「停留場」といった、以下、ポイントはともかく信号機の有無まで調べるのは、面倒だし、このアーティクルの本筋とは無関係なので、すべて「駅」と呼ぶ。

実際…

同書などに掲載されている昭和2年4月1日の開業時に建築された駅舎の写真を見ると、
・新宿、小田原などのターミナルを除くと
・マンサード屋根の上記5駅舎
 3829p82_s
 大秦野駅〔現・秦野〕
 鉄道ピクトリアル No.829p.82


・木造モルタル造で切り妻の屋根の棟の中央に三角形の明かり窓のあるいわば「標準仕様」
 3829p82_s_3
 鶴巻駅〔現・鶴巻温泉〕 前同

に大別され
これらからはずれる
・特殊タイプとしては、参宮橋(同・p.48。明治神宮の最寄り駅なので「社殿造り」)、座間〔初代〕(同・p.96.現・相武台前。陸軍士官学校の最寄り駅で同校校長などのための貴賓室を備える大型駅舎)程度しか見当たらない。

S
相模厚木〔表口〕 土木建築工事畫報 3巻5号30ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

 世田谷中原は、もちろん先の5大駅舎のうちに入っていないし、特殊タイプの駅舎とするほどの特色のある場所ではないので、結局「標準仕様」、つまり上の鶴巻駅と同様の意匠によって設計されていると考えるほかない。

もっとも…

「標準仕様」とはいっても、詳しくみると、構造、意匠、材料、装飾などが共通という意味で、微妙にバリエーションがあることがわかる。

 たとえば
・柿生駅(同・p.84)と伊勢原(同・p.109)は、他の駅舎の入口が建物の棟の方向、つまり建物の妻面にあるのに対し、ここは、棟と直角に屋根を設けて、いわゆる平入りになっているし、
・生田(同・p.78)、新座間(同・p.98。現・座間)も、その方向には屋根がなく庇しかないが、平入りになっており、
・経堂は、妻入りで構造自体には標準型と違いはなさそうだが、妻面の装飾がほかの駅と違っている(後の、改装の可能性はあるが)。

 しかし、もっとも多いバリエーションは、
・駅舎の妻面の幅
・それと関係の深い屋根の勾配
・妻面の駅入り口の上や屋根側面の明かり窓の有無
である。

中でも…

一番わかりやすいのが、屋根の勾配である。

 生方・p.35に、喜多見駅の復元図(西〔事務所側〕面と北〔ホームの反対側〕面の各立面図と平面図)が掲載されているが、その屋根の勾配は10/10、つまり角度でいえば45度になっている。

 しかし、写真で判断する限り、そこまで急勾配のものは、稲田登戸の南口(同・p.74)、相模厚木(同・p.106。現・本厚木)、伊勢原(現・同p.109)くらいで、他はもう少し勾配は緩い。

 屋根の高さ(深さ)が同じなら、妻面の幅が広くなれば勾配は緩くなるので、まずは駅舎のサイズ(妻面の幅)で屋根の勾配が決まるとみてよい。

 ただし、あまり緩いと雨漏りの原因になるので、限界はあって、その場合には屋根を高くする必要があるし、そうなると、入口上の妻面に、半円形を基調にした装飾はあるものの「間が抜ける」ので、入口の庇の上に明かり窓を設けたのではないかと思われる。
(やや異色なのは、稲田登戸の南口(同・p.74)で、おそらくは北口の大型駅舎とのバランスとか、向ヶ丘遊園〔小田急本線と同時開業〕の最寄り駅であるためか、かなり大型の駅舎に見えるが、楽し気な雰囲気を出すためだろうが、傾斜45度の屋根が載っている。)

 つまりは、あまり大型の駅舎でなければ、建物の幅から自ずから屋根の勾配の見当がつき、さらに、入口上の明り窓の有無もあらかた推定できそうである。

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2017/04/03

代沢芸術祭2017

■昨日…

北沢八幡神社の矢島宮司からうかがったところ、昨年始まった「代沢芸術祭」今年も開催とのこと。

 早速、同社の拝殿前で配布されている(といっても、賽銭箱の奥に置いてある)パンフレットをいただいてきたのですが、昨年よりもさらに拡大・充実しています。

2017s

 これだけの公演

20170001s

が、連休中、ご近所で目白押し。しかも無料。

 どこか遠くに出かけようという気もしなくなりますよね。

【追記】2017/05/01

今日、豪雨の中、北澤八幡神社神楽殿での「デキシーランドジャズ」の公演に行ってきました。

Dsc07951s

出演メンバーは、早大のニューオルリンズジャズクラブ のOBで、平均年齢70UPの由。

Dsc07946s
つま恋というか、日比谷の野音というか…

Dsc07960s

カレンダーでは平日ですので、聴衆は高齢者があらかた(me too )

Dsc07969s

ですが、なんのかんの言っても、全員戦後世代というか「FEN世代」。

いわば「50年ぶりの学園祭」ノリ

Dsc07994sjpg

で、天候不順の中でも結構盛り上がりました。

Dsc07989s

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2017/02/19

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ【現地探訪篇】

■平成29年2月18日…

「昭和の暮らし博物館」の講演会の折、懸案だった

大田区久が原のミシャグジのカミ

の現地に行ってみた。

■ここは…

呑川左岸の崖線の直上、ほとんど縁の部分といってよい場所に位置しているばかりでなく、この崖の法面は

遺跡番号 34
ふりがな みなみくがはらにちょうめよこあなぼぐん
遺跡名 南久が原二丁目横穴墓群
所在地 大田区 南久が原二丁目
時代 [古墳時代][奈良時代]
種別 横穴墓
主な遺構/概要 1基
主な出土品 人骨

の包蔵地のようなので、他の「おじゃもじさま」例にたがわず、ここは、まさに、古代の祭祀の場所といってよいのである。

Iseki34
http://tokyo-iseki.jp/map.html

■最寄り駅の…

東急池上線の久が原からも、同じく多摩川線の鵜の木からも、そこそこ距離がある場所だが、大田区の鵜の木特別出張所の北東筋向いなので、比較的見つけやすい。

Dsc07606rs_2
さらに、巨木(ヒバ?)が目印にもなっている

Dsc07600rt_2
2015年秋の写真と較べると鳥居が建替えられていて、
今も大切に祀られていることがわかる

Dsc07589rs

Dsc07590rs

■碑文を読むと…

●正面

Dsc07593rtc

「道饗社詞」と読める(ただし「饗」の左上の「幺」の部分が「歹」)

●右側面

Dsc07597rts

「享保十二未天十二月吉日」と読むほかなさそうである
(なお、享保12年は丁未-ひのとひつじ-年。また、この年は12月に閏月がある)

●左側面
Dsc07599rtc

右「識〓道家中」

中「明治四未年十月廿?四?日建」

左「(判読未了)」

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2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕*だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

*[日本鉄道]
というのは、なんとも不思議な成り立ちの鉄道会社です。

 事の起こりは明治0年代。(金持ちは皆、汽車に乗って東京の芝居を見に行ってしまうので)「横浜の芝居小屋が廃れた」といわれるほどの繁盛していた新橋・横浜間の官設鉄道を、岩倉具視を中心とする華族たちが資本を集めて払い下げを受ける計画がもちあがりました。民間が、官営で立ち上げた企業の払い下げを受ける(あるいは釜石の製鉄所のように「押し付けられる」)というのは、当時はしごく普通のことではありましたが、諸般の事情で中止のやむなきに至りました。

 集めてしまった資本は、澁澤榮一の勧めにより、明治12年、東京海上保険会社の設立し使用したのですが、この間に、政府は、鉄道網を充実させる必要が叫ばれながらも国には金がないため、鉄道官設から、私設鉄道の設立を奨励・助成する方針に転換しました。

 これを受けて、再び岩倉らの後押しで、華族か資本を集めて明治14年に設立したのが、日本鉄道会社です。この鉄道会社、私鉄ではあるものの、建設工事、車両・資材の供給、線路の保守等は政府の鉄道局が行なったという、準官設ともいえる性格を有していたようです。
(参照:「日本産業史 1」有沢広巳・監修/日経文庫497/1994/06/14・刊)

 

その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

 その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし

・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

 

 

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2016/10/16

講演会余録「代田のダイダラボッチ」の弁天堂

講演会「三土代會の歴史」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-f36c.html

の終わりの質問タイム。

 会のテーマからみて、「ちょっと場違い」にも思え、どうしたものかと考えていたところ、幸い、どなたかから「代田という名前の由来」について質問が出た。

 話が、

  だいだらぼっち https://youtu.be/DQxilyFjqWA
    →旧守山小学校裏の沼地
       →柳田國男 http://www.h7.dion.ne.jp/~musashi/daidarabo.htm
          →石炭殼による埋め立て*

といった具合に、「まるで誂えたように」進んだので、これ幸いと

 「だいだらぼっちの弁天堂」

について質問してみた。

*ただし「地下鉄を掘った土で埋め立てた」との説もある由

お答えいただいたのは…

三土代會最年長、御年90歳という秋元一男さんで…

・守山の裏に弁天様はあった

・そのお使いの白いヘビがいると言われていたが私は見たことない

・あそこには、2方向から水が流れ込み、さらに清水があって池になっていた

【資料映像】

Yanagitadaidara

Web 掲載の図を転用
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/DaidaraBotti.htm

・その清水が冷たすぎるので、池で魚類は活きられなかった

・池から流れ出した水は、今の井の頭線の下北沢と代田(二丁目)の間の下を通って、その下は小田急までずっと田んぼで、そこに流れていた

・田んぼは(上流側から見て)右側だけで、左側に田んぼはなかった

【追記】

守山小学校五十周年編集委員会・編「東京都世田谷区立守山小学校創立五十周年記念誌」同校/昭和56年10月・刊
のp.34に、同校35周年児童文集中の「昭和七年頃の町のようす」と題する地図が掲載されていたので、引用する。

S07

・(池には)夕方になるとトンボを取りに行っていた
 チャン*というトンボを捕まえて竿の先の糸につけて飛ばすとギンヤンマが食らいつくので、それを捕る

*ギンヤンマのメスの俗称らしい

・その当時アメリカのターザンの映画があって、ワイズミューラーというのが演っていた

・私も「ワイズミラー!」と言って(ロープにぶら下がって)池を飛んで渡って遊んでいた

・お堂は大した大きさじゃなかった
 (註:手で示したサイズでは1辺50~60センチくらいか)

・井の頭の弁天さん、あんな感じのお堂だった
 (註:井の頭の弁天堂は大きいので、様式的に整っていた、との意か)

【資料映像】
F100008s
かつて、北沢5-24(玉川上水遊歩道脇)にあった弁天堂。
1辺120cmほどなので、この半分位のサイズということになる


・その凹みは、(笹塚の)桜護謨の石炭殼で埋められたと聞いてはいるが*、当時は代田にいなかったので直接見たわけではない

*「ガラス工場の石炭殼」説もあるようである

驚いたのは…

三土代会の皆さんのお話を総合すると

・今でも年に2、3回は周囲の住宅の水没事故が起こっている

・それも地下駐車場ばかりでなく床上浸水が起こることもある

ということで、

・暗渠化される前の水路の幅は(みぶりから判断すると)90~120センチくらいあった

・それが、ほぼそのまま同じルートで下水道化されたが

・代田側、北沢側、大原側と3方から周囲の水が全部集まってくる場所なので、(大雨のときなどは)町会でパトロールしている

そうである

【追記】

 念のためと思って、

世田谷区建設部土木計画課・編「世田谷区水害記録[第2版](昭和22年~平成3年)」同/平成4年4月・刊

の附図である世田谷区が昭和53年から平成03年までの主な豪雨による区内の浸水概況をまとめたマップを見てみたが、この里俗・ダイダラボッチ川では、昭和43年4月6日の集中豪雨の折に末流部(1筋東の里俗・森厳川との合流点の手前)で浸水が発生しただけ。

Pasedsuigai

 また、都市型水害対策連絡会が平成16年5月(19年改訂)に発行した「城南地区河川流域浸水予想区域図」
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jigyo/river/chusho_seibi/index/menu02-04.html
(平成12年9月の東海豪雨の降雨〔総雨量589㎜、時間最大雨量114㎜〕を基準にしている)をみても、全体としてみれば先の森厳寺川など近隣の河川と比べても、別に突出して水害のリスクが高いわけではない。

 ただ、三土代會の方々のお話にあった西から時計回りに代田、大原、北沢からの水が集中するかつての弁天堂の、やや下流部については、場所によっては最大深さ2m以上の浸水のリスクがあることがわかる。

Jounanrisk

Photo

 しかし、実際の浸水被害は、このような「理論通り」の場所で起こっているわけではない。

 世田谷区がまとめた平成01年から27年までのデータ

浸水概況図及び水害被害記録
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/104/141/557/d00020100_d/fil/mojikirokuh1-h27.pdf
のpp.22-23によれば、代田6丁目のだいだらぼっち川沿いでの家屋への浸水は、ほとんど平成11年以降に生じており、しかもそのあらかたは、先に記した元弁天堂のあたりではなく、もっと下流、井の頭線との交点あたりに集中していることがわかる。

 その理由については、浸水部位を見るとほぼ一目瞭然で、ほとんどが、地下車庫や半地下室へのそれであり、要は「黙っていても水が来る」ところに車庫はまだしも部屋を作ってしまったところにあるのであっって、いわば、家の設計を間違えた結果といってよい。

 このような場所では、過去の経験に基づいて「道路が冠水することを前提にして」道路際に擁壁を積んで内側を盛土することによって、敷地を道路面より高くして浸水被害を回避しているところが多い。

 そのような、いわば「古人の智慧」に思い至ることもなく、盛土を削って道路と同じ高さに家を建てたり、さらに、半地下の車庫や部屋を作れば浸水してあたりまえ。

 実をいえば、我が家もそのような場所で、50年ほど前は、しばしば家の前の「道」が「川」になって、水が引くまで学校から家に戻れないことがあったので(現に、前掲の「城南地区河川流域浸水予想区域図」をみると、我が家の前には、緑や空色程度ならともかく「青」の四角まで飛び交っている)、10年ほど前に家を建て替えたときも、敷地の1.2メートルほどの盛土を削るなどということは、およそ考えもしなかったし、たとえ、そんな「アホなこと」を思いついて実行したとしても、ほとんど「自爆」行為なので、ご近所のだれからも同情してもらえない)。

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世田谷区代田図書館講演会「三土代會の歴史」

2016年10月15日…

世田谷区代田図書館の講演会

「昔の代田」(第2弾)『三土代會の歴史』

S_2

に行ってきた。

「三土代會」

【資料映像】
R8630_01c_2
2007年12月1日の「代田フェスタ」で撮影

というのは…

戦後、代田の始祖とされる「代田七人衆」と呼ばれる7家の末裔を中心に、当初はその菩提寺である円乗院*の檀家で構成された団体で、詳細は

【資料映像】
R3214_17s
同上

を参照。

文中の、多人数で一気に餅を搗きあげる「代田餅搗き」は、これまでマスメディアでもよく取り上げられていただだけでなく、世田谷区の無形民俗文化財(民俗芸能)にも指定されている。

*正式には「代永山円乗院真勝寺」

具体的にどんな「餅搗き」なのかは…

当方が、YouTubeにアップロード済みの、

2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社

https://youtu.be/eYDpt7Y-ZG8

での映像で。

なぜ…

このような餅搗きをするようになったのかというと、その理由は2つあって

その先、半年から1年分の農作業時の昼食にする水餅用に大量に搗く必要
 家族の多い家では、その分大量の餅を作る必要があるので、4俵・5俵(1俵60キログラム)分の餅をできるだけ短時間で搗く必要があった

水田が少ない地域なので、粘り気の少ない陸稲主体の米で搗く必要
 陸稲の米に、雑穀と少量の水稲の米を加えたものに餅の粘り気を出させるため、6人あるいは8人がかりで一気に搗き上げる必要があった

ことから、独特の方法(ただし、全国で唯一無二というわけではない*)が考えられた由。

*新潟県小千谷の5人搗き
  
http://www.city.ojiya.niigata.jp/soshiki/kikakuseisaku/kinetsuki-2012.html
 山形県上山〔上の山〕の8人搗き
  http://www.city.kaminoyama.yamagata.jp/site/kouhoushi/mati-141221.html
 など。

上のビデオを撮った…

2012年の折は、いわば「古式」に倣って米に粟を混ぜて搗いた餅が、ふるまわれたが、柳下隆さんの解説によると、戦前や江戸時代の餅を「完全復刻」するのは、実は、以下のようにそう簡単ではない、とのことだった。

そもそも米が違う

 当然のことながら、かつては、買ってきた米を使うわけではなく、自家で収穫した米を使うのだが、代田村の水田は、北沢用水沿いなど面積が限られていて、ほとんどが陸稲で粘り気が少ないので、搗きあげるのに時間がかかり、現在の水稲の米なら1臼5・6分で搗き上がるが、陸稲の米だとその倍の時間がかかる

搗き上がった後の雑穀の状態が違う

 前記のように、当地の餅は、もともとは、陸稲米だけでなく、それにトウモロコシ、粟、稗などの雑穀を加えて、さらに少量の水稲米を加えて搗いていたが、そのころは、長時間搗く、したがって搗く回数が多いので、雑穀(粟、稗を何日も前から水に漬けておく。)、皮が破れて餅の中に混ざりこむが、今は短時間で搗き上がってしまうので、皮が破れず、粒のまま餅の中に残ってしまう

かつてと同じ材料が入手できない
 トウモロコシは干して保存しておいたものを、前日から水に漬けて戻し、皮をはずして使っていたが、今入手できるのは西欧由来の品種のもので、当時使われていた在来種が今では手に入らない

「代田餅搗き唄」は…

 会員の鈴木巌さんから、毎回の餅搗きの冒頭の杵を使って米を捏ねる「こねどり」という作業(ビデオ参照)の時の唄と、全ての餅搗きを終えるときの納の唄をご披露いたいた。

 歌詞カードが資料として配られたので、そのうち、まだ著作権が存続中の平成元年に創られた部分(昭和天皇の崩御を受けて、元唄がすべて「目出度い内容」なので畏れ多い、ということから追加された由。)を除いて転載する(青文字部分がご披露いただいた2番)。

代田三土代會伝承「餅搗き唄」

ノーエ

目出度ナーエ 目出度めでたの若松様よ
庭にやヨーエ 庭にや鶴亀ソレサ五葉の松
松のナーエ 松の下にはお爺とお婆
お爺ナーエ お爺百までわしゃ九十九まで
共にナーエ 共に白髪のソレサはえるまで
共にナーエ 共の白髪はソレサまだおろか
孫にナーエ 孫に白髪のソレサはえるまで
孫のナーエ 孫の白髪はソレサまだおろか
石のナーエ 石の土台のソレサ腐るまで
さあさナーエ さあさ皆様程よく練れた
ねれたナーエ 練れたところでたたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

此の家ナーエ 此の家やかたは目出度いやかた
奥じゃヨーエ 奥じゃ三味ひく中の間じゃ踊る
お台ナーエ お台所じゃおかちんねりを
これはナーエ これは来春ソレサ神供え
神仁ナーエ 神に供えて千両箱つんで
千両ナーエ 千両箱には大黒・恵比寿
恵比寿ナーエ 恵比寿・大黒ソレサ福の神
さあさナーエ さあさ皆様程よく練れた
練れたところでたたこじゃないか ヨイヨイヨイ

富士のナーエ 富士の白雪朝日でとける
とけてナーエ とけて流れて三島に落ちる
三島ナーエ 三島女郎衆が ソレサ化粧の水
女郎がナーエ 女郎が化粧して ソレサ客を待つ

よせばナーエ よせばいいのに舌切雀
ちょいとヨーエ ちょいと舐めたが ソレサ身の因果

本町ナーエ 本町二丁目の糸屋の娘
姉はヨーエ 姉ぼ二十一妹は二十
姉にやヨーエ 姉にや少しも望みはないが
妹ヨーエ 妹ほしさに御りょ願かけて

伊勢ナーエ 伊勢へ七度 熊野へ三度
芝のナーエ 芝の愛宕山ヘ ソレサ月詣り
愛宕ナーエ 愛宕土産に何と何をもろた
笠がナーエ 笠が三階 刀が三腰
笠はナーエ 笠は娘に 刀は婿に
娘ナーエ 娘かぶれりやれ 婿殿さしやれ
さあさナーエ さあさ皆様たたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

沖のナーエ 沖の暗いのに白帆が見える
あれはヨーエ あれは紀伊の国 ソレサ蜜柑船
神田の市場で売られて買われて むかれて食われて
皮はヨーエ 干して刻んで 珍皮とされる

花のナーエ、花の吉原将棋の駒よ 金銀飛車角 桂馬の高飛び
香車ナーエ 香車なければ ソレサ歩がただぬ
揃ろたナーエ 揃ろた揃ろたよ六本の杵が 稲の出穂よりまだよく揃ろた
揃ろたナーエ 揃ろたところででたたこぢゃないか ヨイヨイヨイ

湯屋のナーエ 湯屋ののれんに松竹梅よ
熱さナーエ 熱さやうめまつ ぬるけりやだけよ ヨイヨイヨイ

曽我のナーエ 曽我のあだうち仁田の四郎は
富士のナーエ 富士の裾野で ソレサひざ枕 ヨイヨイヨイ

押せよナーエ 押せよ押せ押せ 押さなきや行かぬ
押してナーエ 押して木を遣る ソレサいかだ舟

伊勢はナーエ 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ
尾張ナーエ 尾張名古屋は ソレサ城でもつ
内のナーエ 内のしんしょうは ソレサ妻でもつ

此の家ナーエ 此の家やかたは目出度い造り
柱ナーエ 柱金銀で 垂水が銀よ
屋根はナーエ 屋根は黄金で ヤレサ葺積る
奥ぢやナーエ 奥ぢや楽しく中の間で踊る
お台ナーエ お台所ではおかちんねーりよ

戸田のナーエ 戸田の渡しで今朝見た小女
あの小女ナーエ あの小女にやりたいものは
銀のナーエ 銀のかんざし 五尺のかもじ
入れてナーエ 入れて結わせて あとがら見れば
にいさナーエ にいさ泣かせの アリャ投島田

伊豆のナーエ 伊豆の七島 四国で八島
わしのナーエ わしの眼につく つく九の年増
表ナーエ 表向をば茶縞で見せて
今朝もナーエ 今朝も野に出て ヤレサ若菜を摘めば
露でナーエ 露で小つまが皆濡れる

袷ナーエ 袷よくきけみじろやおくみ
つまじやナーエ つまじやー生の苦労する
露でナーエ 露ぢや濡れても ヤレサ心ぢや濡れぬ
つまとナーエ つまと名がつきや濡れもする

遠くナーエ 遠く離れて苦労するよりは
浮気ナーエ 浮気されても側がよい

洗髪ナーエ 洗髪ほど心はとけて
主ヘナーエ 主へまごころ つげの櫛

〔転載省略:上記参照〕

これがナーエ これがこなたの納めの餅よ
釜もナーエ 釜もだいすも 蒸龍もご苦労
今年ナーエ 今年やこれきり ヤレサおなごり惜しや
御縁ナーエ 御縁あるなら また来年も

これがナーエ これがこの家の納めの臼よ
臼もナーエ 臼もだいす
*も蒸寵も杵も
それにナーエ それに続いて手返さんも御苦労
それにナーエ それに続いて板前さんも御苦労
それにナーエ それに続いて皆さんも御苦労
御縁ナーエ 御縁あるなら また来年も
明日はナーエ 明日はどちらでお搗きなさる

*「だいす」〔台す〕は、円形の釜の上に四角い蒸籠を載せるときに、釜の蒸気を蒸篭に送るために必要な、
 
丸穴の空いた四角い板
http://fujitadougu.com/mochi/mochi_kakuseiro.html の末尾参照

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2016/08/07

下北沢今昔写真

〔The Oliver L. Austin Photographic Collection〕

終戦直後の1946-1950の間、アメリカ陸軍の推挙によって、日本の鳥類の調査研究のために来日していたアメリカの鳥類学者の Austin 博士が撮影したカラー写真のうち、下北沢の光景について「今昔写真」をまとめてみました。

ただし、オリジナルの写真については、まだ著作権が残存していると思われますので、

フロリダ大学のサイト
http://128.186.155.80/omeka/
中の該当ページのURLへのリンクを、簡単な説明付きで示し、それに対応する「今写真」を掲載することにしました。

リンク先は、右クリックで「新しいページ/ ウィンドウで開く」で表示すると、今昔対比がやりやすいと思います。リンク先の小さな写真(サムネイル)をクリックすると、大きな、というか巨大な写真が表示されます。

撮影時期は異なるようですが(渋谷区代々木大山町の「官舎」に住んでいたので、何度も来れたはずなので)、

・下北沢駅の北口から北上
・現・一番街の旧本通
  (下北沢成徳のある十字路と、旧・東北沢4号踏切をつなぐ略東西方向の道)
 を東に向かい
・現・一番街の旧栄通を南に向かい
・旧・東北沢6号踏切を渡り
・下北沢駅南口を経て
・南口通り商店街を南下する

というルート順に並べてあります。

註:本ページは、数多くの部分で、作道敬子さん@世田谷邪宗門、米澤邦頼さんの「聞き込み情報」に負っています。

・北口駅前から北方向〔「パン近江屋」=現・カルディのビル〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/781

4
・北口駅前通り〔「近江屋不動産」=現・横浜銀行のビル〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/679

6
・(現・一番街)本通り 宮田家具店
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/691

10
・(現・一番街)本通り〔正面奥が「宮田家具店」〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/759

8

・(現・一番街)本通り「稲毛屋金物店」
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/769

12

・(現・一番街)栄通り最北端・本通り手前
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/645

14

・(現・一番街)栄通り北端・本通り手前
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/761

16

・(現・一番街)栄通り南から4分の1あたりを南方向から
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/747

18

・(現・一番街)栄通り南端(東北沢6号踏切)
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/771

20

・現・オオゼキ~駅南口の小田急線東沿いの道を北方向から〔架線柱は「帝都線」〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/739

22

・下北沢駅南口駅前〔右端の「果実丸万」=現・マクドナルド〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/713

24

・南口通り商店街〔現・DOCOMO・Softbankの間の横道の向かい〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/725

26

・南口通り商店街 〔現・ミスタードーナッツの角〕を北から〔「配給」との解説付き〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/639

28

・「砂場」南隣の八百屋店頭〔イチゴの木箱が懐かしい〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/617

The_oliver_l_austincollection_2

[追記]2017/01/04【今】画像を差替え

・南口通り商店街「砂場」南方を南方向から
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/779

32
・南口通り商店街南端付近を北方向から〔画面奥の支柱付きの電柱の場所が膳場青果店〕
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/745

34

【参照資料】
作道敬子さん@世田谷邪宗門による、膳場家、亀井自転車店、ジーンズIZUMIYA からの収集情報
米澤邦頼さん調達の、昭和37年版住宅地図(住宅協会・刊「北沢三丁目 北部/南部」)
きむらけん先生調達の、昭和9年北澤通商店会編集の地図

【追記】20161217実施のツアー時に配布した「撮影ポイントマップ」

A31b

バーコードは多分使えません

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2016/07/27

代田村のもう一つの「謎」

たまたま…

別の目的のために、コピーしてきた
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編」同区/昭和38年・刊
を眺めていたら、同区の旧家の鏑木家文書の一番末尾
万延元年閏三月の「目黒筋抱屋鋪抱地取調書」の
の、さらに一番末尾近くに
代田村内に「中條中務太輔」なる人物が16350.5坪の抱屋敷
を保有していた旨の記載がありました(p.250)

万延元年といえば…

1860年。

 当時の中條中務太輔〔ちゅうじょう・なかつかさ・たいふ〕さんを探すと、

本名 中条 信礼〔ちゅうじょう のぶのり〕(文化9(1812)年-没年不詳)

という高家旗本で、しかも、文久3(1863)年から慶応4(1868)年まで高家肝煎(要するに、あの「吉良さん」と同じ地位)を勤めたという名家のようです。

しかし…

この抱屋敷。代田村のどこにあったのかv

目黒筋御場繪圖
http://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502
にもそれらしい記載がありませんし、

御府内往還場末其外沿革圖書
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608701
では、代田村は範囲外

ということから、てがかりがないので、国会図書館にある

改場外抱屋鋪寄帳[2](奥付に「天保七年五月改」とある)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/2dijpid/2548039?tocOpened=1
を見てみると、その5コマ目に。代田村内の中條家の抱屋敷の記載がありましたが(慶応元年付けの、貼紙上の記述で、面積も13156坪)、具体的な位置のてがかりはなし。

 もし、中務家のご子孫とか、何かご存知の方は、是非ご一報を。

そういえば…

我が下北澤村にも、その北端近くに「薩摩屋敷」なる小字(小名)名があって、以前どこかで読んだ文献では、慶長のころ、同地に薩摩藩の抱屋敷があった「らしい」とのことでした。

 しかし、その具体的な位置や時期については、まったく確たる史料がありません。

加えて…

今回の調べものの過程で、先に同じく、国会図書館にある

改場外抱屋鋪寄帳[1](奥付に「天保七年八月改」とある)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548038?tocOpened=1
Dij_2
の6コマ目に
「元・【戸田?未判読】肥後守」から「井上【辰?以下未判読】」に、11356坪が慶応3年に譲渡されたこと示すらしい貼紙があったのすが、これにも具体的な位置を示す記載はみあたりません。

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