2018/04/24

「Dr.オースティン展」の今昔ヴィデオの検証結果

■5月6日まで…

九段の昭和館で開催されている、オースティン博士撮影の写真展
「希望を追いかけて」
 http://www.showakan.go.jp/events/kikakuten/index.html

に関連して、同博士撮影の写真によるスライドショー
https://www.youtube.com/watch?v=ZmEixljWQuA&t=
がYouTubeに公開されています。

その冒頭は、下北沢(現在は「代沢」)の北沢八幡神社の祭礼の折とされる写真。

その後半にあたる御神酒所の写真については、まだ検討の資料不足なのですが、前半の「神輿の道路上の巡行」時の写真については、それなりに資料があるので、やや細かく検証してみました。

■この地域…

東の渋谷区大山町は代々木八幡神社の、西の世田谷区代沢の一部と北沢は北沢八幡神社の氏子、この写真については考えにくいものの、少し南東に下った目黒区駒場は同区大橋の氷川神社の氏子と、まず、神輿の特定からして大変なのですが、写真の神輿が、北沢八幡神社の氏子で構成される各睦会の中の最北端にあたる「四五睦」のそれであることは、早大の佐藤教授のグループが、同睦会の関係者から確認を取っているとのことです。

■そうなると…

問題は、ヴィデオの最初の、神輿が画面手前に向かってくる写真

http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/303

で、画面右やや上の道路標示のプレートに「G AVE」とありますので、画面を横方向に横断している道が、現・井の頭通り、当時の呼び方では「水道道路」であることは、ます疑う余地はないので、神輿が巡行している、それに直交している道が、現・都道鮫洲大山線、旧称では駒場道ということになります。

問題は、この写真、駒場道の北方向から撮った写真なのか南方向から撮った写真なのかにありました。

当方のような近隣住民の発想では、この駒場道の、西側の北沢4丁目は当時ともかくも商店が増えつつあった時期、東側は代々木大山町のお屋敷町ですので、画面右に見える商店の列は、通りの西の北沢側にあるように見えるのです。

■しかし…

そう断定しようとする場合のネックは、電柱の列の位置。

上のように解釈すると、電柱の列は駒場道の西側にあったことになるのですが、ヴィデオの次の写真である

http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/284

では、画面右がお屋敷町である代々木大山町側に見え、道路のに沿う電柱の列は駒場道の東側にあることになります。

■と、なると…

この駒場道沿いの電柱の列は、水道道路との交差点のあたりで、道路の西側から、東側に移ったことになるのですが、さすがにそれは考えにくい。

■そんな折…

渋谷区大山町会「渋谷区 大山町誌」同/平成16年5月・刊

の口絵の「山下論助描 往時の我町」のページ下部の「玉川上水 昭和26年8月」(キャプション末尾に「幡谷寄りから大山方面への眺めである」とある)

Photo


によると、電柱の柱列は駒場道の東側に描かれています。

■と、なると

最初の写真は、大山交差点を南方向から撮った写真。つまり、最初の印象に反して、駒場道の東側の大山町側に商店が並び、右側の北沢側はいわば緑豊かだった、と考えざるを得なくなったのです。

そこで、さらにもっと「確実な根拠」がないものかと、先の「大山町誌」を読み返してみると、その「第12回 座談会」の記事中に「井の頭通りの大山町会館側〔註:駒場道の東側〕には…恩田さん…中島洋服店などがありました。」(p.105)との記述があるのが見つかりました。

■はたして…

1枚目の写真をよく見ると、交差点の右側の商店の列の3軒目、神輿の屋根の左奥に「中島洋服店」との袖看板が写っています。

つまり、この1枚目の写真は、大山交差点の南側から北に向かって撮影されたことは、間違いなさそうなのです。

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2018/04/16

「下北沢の戦後アルバム」編集ログ

・フロリダ州立大学蔵のオースティン博士のコレクション中の
 終戦直後の下北沢の写真
・下北沢で生まれ育った飯田勝氏の昭和末期の下北沢のイラスト

を編集した

「下北沢の戦後アルバム」(北沢川文化遺産保存の会/平成30年3月・刊)

Shimokitazawa_after_post_war_for_pr
奥付(左)と表紙(矢印付数字は、写真番号、撮影位置・方向を示す)

結構あちらこちらで「いつごろから始まったプロジェクトなのか」とのご質問があり、毎回思い出しながらお答えするのも面倒なので、今日の出張の往復の新幹線の中で、ダウンロードした画像やメールのタイムスタンプを基に、編集ログのデータをまとめました。

焼け遺ったまち 戦後の下北沢アルバム(以下「アルバム」)編集ログデータ

凡例:「会」    =北沢川文化遺産保存の会< http://blog.livedoor.jp/rail777 >
      「邪宗門」=世田谷邪宗門<
http://jashumon-setagaya.la.coocan.jp >
      「FSU」  =フロリダ州立大学<
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka> 

16/05/27ころ 会の米澤邦頼氏がオースティン・ライブラリ
                    http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/browse?collection=1
         中に”shimokitazawa“の写真なるものがあることををSNSを通じて探知
         
【参照】東京新聞18(H30)/04/25朝刊28面参照

16/06/17ころ 米澤氏が、当時同定されていた下北沢関連写真8枚などを、
         会の事務局であり集会所でもある邪宗門に届ける
         
【参照】https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1_mDAHet9kv1Pu78S29LNXtBxwNM&usp=sharing

16/07/27・28 第1回悉皆調査(この時点で、写真07/09/10/16/17を除く13枚発掘)
16/08/04・05 第2回悉皆調査(写真10/16/17を発掘)
16/08/01      会の作道敬子さんの調査結果を加え、既知の16枚の位置・方向特定
16/08/06      会の第2回研究大会で「下北沢今昔写真」のプレゼンテーション実施
                   http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52025207.html
         
【参照】http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/08/post-9fe0.html

16/12/17      会の第123回「都市物語を旅する会」定例ツアーとして
          「下北沢の終戦直後(1946~1950)のカラー写真跡を歩く」を実施
         http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52034828.html
         http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52034893.html
         http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52035073.html

16/12/24ころ 邪宗門に、米国の Nakada 氏から下北沢他の写真が郵便で届く
         
【参照】http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/the-nakada-family

16/12/26      ネット上で発見した Nakada 夫人のアドレス宛メール発信【無反応】
17/02/20      FSU宛て、ライブラリの連絡フォームより照会文発送
                                 【受信確認メール後無反応】
17/10/17      NHKのディレクターの方よりご教示を受けた、FSUのキュレーターの

          Dr. Annika Culver のアドレス宛てダイレクトに照会文を発信
17/10/17      Dr. Annika Culver より”Image Permission and Use Agreement” form
                   が添付された了承の返信を受領
17/10/21      Dr.Culverのメールを受け、「あわてて」最初の割付素案作成
17/11/05      第3回悉皆調査(写真07/09を発掘)

17/11/14      飯田作品の編集用のデータをpdfファイルで入手
17/11/19      邪宗門で編集会議開催
         http://livedoor.blogimg.jp/rail777/imgs/9/b/9bbb08f0.jpg

18/01/31      飯田作品の高解像度データをtiffファイルで入手
18/02/15      印刷初校
18/02/15・16 第4回悉皆調査(「出土物」なし)
18/03/02      FSU宛て、“Image Permission and Use Agreement” formに、必要事項
         を補入して発送
18/03/15      校了
18/03/23      印刷完了
18/03/24      会により、北沢川緑道で初配布
         http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52065424.html

18/03/27      FSU宛てアルバム5部(許諾条件では2部)を発送
18/04/11      FSUよりアルバムの受領通知受信

                         by キュレイタァ/エディタァ きむらたかし

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2018/04/15

ギャラリートーク「オースティン・コレクションでの試み 写真のはたらきを考える」

■昨晩…

早稲田大学の佐藤教授のお誘いで

赤坂のギャラリー&カフェ「Tokyo Little house」
http://littlehouse.tokyo/
で、午後7時から開催された

ギャラリートーク「オースティン・コレクションでの試み 写真のはたらきを考える」

に行ってきました。

■4人の論客…

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左から、古本隆男さん、佐藤洋一教授、米野雅之さん、衣川太一さん

それぞれの、ノウハウをフルに駆使した、写真(はいうに及ばず、そのスライドマウントまで by 衣川さん)の解析方法とその意義についての解説に加え、会場の参加者からの解説やコメントも多岐にわたって盛沢山で、まだ、頭の整理がついていません。

とても、ここに簡単にまとめられるものではありませんし、そもそも、そのすべてをここで取りあげるべきものとも思えませんので(とはいえ、連合国軍専用鉄道客車の形式番号・記号
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/1141 の読み方は非常に有益でした)
、今回は、このブログの既存の記事とも関連が深く、そのため「聞きながら目からウロコ」だった、古本さんの「博士の車」の解析を中心にレポートすることにします。

■古本さんは…

元オフロード系自動車雑誌の編集者であることから、その知識と興味をフル動員して、ライブラリ中にしばしば登場する、オースティン博士の「赤いジープ」について

・車種 米国ウイリスオーバーランド車製「CJ2A」の
      前期型 前面ガラスが2枚組のため中央に細いフロントピラーがある
           (後期型は1枚ガラス)
     の
      民生型 スペアタイヤが右後側面に付いている(軍用は後方背面)
            ヘッドライトが大きめ
                         (軍用は民生用より小径
                          【参考】http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/1127
                   〔左右反転〕フロントウィンドウ下に、いわゆる”1 st, team”のエンブレムが
                   が見える。)

・塗色 推定「ハーヴァード・レッド」
     博士の出身校にちなんで、数ある(赤だけでも3・4種ある)塗色オプション中の
           この「名前」の色を選んだのではないか、とのこと

を解析したのに加え、取り付けられているGHQのナンバープレートについて、2タイプ

・白地に黒文字
・黒?地に黄文字

あって、前者は1946~1948年の間に使われ、後者は1949年に使われていたことを解明しています。

■2種類のプレートのうち…

コレクション中の下北沢を撮影した

下北沢今昔写真+『戦後の下北沢アルバム』の正誤表と編集後記
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/08/post-9fe0.html

中の18枚の写真(以下「下北沢シリーズ」という)中には前者のタイプはありませんが、後者については

02 北口駅前通り〔「近江屋不動産」=現・横浜銀行のビル〕
  http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/679

05 (現・一番街)本通り「稲毛屋金物店」
  http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/769

06 (現・一番街)栄通り最北端・本通り手前
  http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/645

の3枚の写真に写り込んでいる博士のジープに取り付けられています。

■ということは…

この3枚については、ほぼ(と、いうのは物理的に付け外しが必要なので、一定の移行期間というか猶予期間があるはずなので)1949(昭和24)年に撮られたことになるのですが、この年は、下記のリンク先のとおり、博士のカメラがライカからキヤノンに変わった時期とも重なります。

この3枚は、時期的にみても、また、

  Dr.Austin のカメラについての仮説
  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/04/draustin-e472.html

末尾で指摘したような「色乗りのよい」方の写真といえることから、キヤノンIIb+セレナー50/1.9で撮られた可能性が高いと思われます。

■余談1:オースティン博士のジープの色

・「どの赤」かはさておいて、「なぜ赤」なのか。

 コレクション中の写真をみても、エリザベス夫人を含め、オースティン一家が特に赤い色を好んでいた形跡はありません。

 一方、博士は、日本に、GHQの「天然資源局野生動物課」の課長として赴任しており、自身も動物(鳥類)学者でもあるので、公務の調査や自身の研究のために、このジープで日本の山野に分け入ることを当然想定していたはずです。

 ところで、ハンターは、他のハンターから獲物の動物と見誤られて誤射されるのを防ぐために、赤など自然界では存在しないような派手な色味をものを身に着けることが多いのです。

 また、いかに連合国側が周到に日本の占領政策を事前研究していたとしても、博士の赴任当時、日本の狩猟事情について詳細に分析していたとは思えませんし、まして、日本のハンターの技量について具体的なデータがあったとも思えません。

 博士にしてみれば、そのような状況下での安全策として(軍用色の「オリーブドラブ」は迷彩色とうか保護色なので「危なすぎる」ため論外)、数10色あったうちの赤系統の色を選んだのではないでしょうか。

【追記】

解説文がないので、断定はできないのだが

http://www.flickriver.com/photos/jpl3k/3793457935/#large

によると"1946"年当時の"civilian"(民生)型の色は、戦後まもないため、選択肢が5色に限られ、そのうち赤系統は"Herverd red"1色だけだった可能性がある。

https://www.thecj2apage.com/forums/gray-paint-what-is-it_topic14647.html によれば、年を追うごとにヴァリエーションが増えていったようである)

その5色のなかで、上に述べた「安全色」といえるのは、"Herverd red"だけだろう。

■余談2:下北沢シリーズの「評価」

 つい先日あっけなく、結論にたどりついてしまった

世田谷区内の Dr.Austin の写真をさらに1枚特定
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/04/draustin-263e.html

の「山下温泉」についてコメントを求められたので、発掘経過についてご報告させていただいただくのに併せて、オースティン写真に対する当方の評価について、概略以下のようなお話をさせていただきました。

 下北沢シリーズに限っての話かもしれないが、写されているのは、当時「『当たり前』で日常的すぎ」て、日本人がまずレンズを向けなかった光景で、外国人だから撮った写真といえる。

 また、博士が本業で撮っていた写真は(コレクション中にも何枚かその系統のものがあるが)「学術写真」といえ、下北沢シリーズの写真も、同様に対象との間にある程度の距離感を置いて(客観性を維持して)撮っているようだ。

 もちろん、木村伊兵衛も日常的な光景を撮ってはいるが、彼が撮ると(どうしても)「ドラマ」になってしまう。

 しかし、そのような「ドラマ性」は、写真を「テクストとして読む」ときには、かえって障害になる。

 その意味で、博士の写真の「非ドラマ」性は貴重だと思う。

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2018/04/11

世田谷区内の Dr.Austin の写真をさらに1枚特定

■タイトル…

"Yamashita hot spring"

とのオースティン博士の写真。
http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/585
(左右反転)

(反転後の-以下同じ-)写真左側の花輪に
左の贈呈先に「山下温泉さん
右の贈呈元に「世田谷若代湯田邉 ゟ」
とあることから、世田谷区内の銭湯の開店時の写真と、かねてから見当は付けていたのですが…。

「山下」という場所は、近隣でも旧下代田(現・代沢)と豪徳寺の2か所あることもあって、なかなか位置が特定できませんでした。

■そんな中で…

贈呈元の方の「若代」については、淡島通り(というより、むしろ旧・滝坂道)と堀之内道(略・環状7号)との交点から西方向に「若代商和会」なる商店会があることがわかりました。

Photo_2
世田谷区産業政策部商業課「世田谷区商店街マップ」同・刊/平成25年3月1日現在
より「若代商和会」部分を抜粋

つまり、「若」林から「代」田にまたがる地域であることから、この名前があるようです。

そして、昭和11年の地形社図でこの付近をみると、荏原小学校(現・若林小学校)の北西に銭湯記号があり、

Photo
植野録夫「大東京區分圖 三十五區之内 世田谷區詳細圖」東京地形社/推定S11・刊
の抜粋に補入

まさに、若代商店街の範囲にあることから、どうやら、これが「若代湯」らしいことがわかりました。

■肝心の…

「山下温泉」についても、これまで難航していた割には今朝になって「あっけなく」判明。

https://全国法人データベース.com/companies/1010902015597

によって、「有限会社山下温泉」なる会社が、世田谷区代田に法人登記されていることがわかり、同ページのデータをよく見ると、この会社、2017年9月26日に
 東京都世田谷区豪徳寺1丁目46番16号
から、本店が移転していたことになっており、この旧本店所在地を検索してみてびっくり。

Street view の写真に「羽毛・羊毛ふとん」のお店「越後屋」さんが写っています。

Yamashitahotspringatgoutokuji
google での検索結果の一部

https://goo.gl/maps/vRGmLGWni9n

■この…

「越後屋」なる屋号。冒頭のオースティン写真の山下温泉の右隣の建物の壁をみると
「夜具ふとん」
「〓後屋」
と読み取れるのですから、まず、冒頭のオースティン写真は、この場所で撮られたことに疑う余地はありません。

■しかし…

今でさえ主要道路から外れていて行きにくく、当方のような世田谷の住民でさえ「用がなければまずは行くことのない」道を、なぜ博士が通りかかったのかが、新たな大きな謎として浮かび上がってしまいました。

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2018/04/08

Dr.Austin のカメラについての仮説

■今…

九段の博物館(国立)「昭和館」で展覧会「希望を追いかけて」が開催されている
  http://www.showakan.go.jp/events/kikakuten/index.html

Dr. オリバー L オースティン Jr. が、昭和21年から25年にかけて日本各地で撮影したカラー写真。

   http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/browse?collection=1

   なお、当ブログの「下北沢今昔写真」
    
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/08/post-9fe0.html
    参照

■一部の…

写真については、スライドのマウント内にパーフォレーションがはみ出しているものがあるので、35ミリ幅のいわゆるライカ版のコダクロームが使われていたことはわかっていたものの、使ったカメラやレンズについては判明していなかった。

■今回入手した…

上記の展覧会の図録(以下「図録」)10ページの写真06の解説をみると、博士は「持参したライカ製カメラをなくしてしまったため」キヤノン製のカメラを「日本で購入した。」とあり、ご子息の許に保存されていたカメラの写真も掲載されている。

これをみると、

・カメラ本体は、
 カメラに向かって上面右上に平坦なファインダー倍率切り替えレバーがあること、
 同じく前面左上のシャッター速度調整ダイヤルの中央にドライバー用の溝が切られていること
 から

キヤノン IIB型
  http://global.canon/ja/c-museum/product/film10.html

と同定できる。

 ファインダ部分は別として、フィルムの出し入れその他の操作がライカと同じなので
  使い勝手に違和感はなかったはずである。

・レンズは、

図録の写真のレンズ部分の正面左上に"SERE"の文字が読み取れ
カメラが1949年(昭和24年)4月発売であること
から、当時の現行標準レンズ(焦点距離50mm)である

1947年(昭和22年)2月発売の
セレナー 50mm f=2.0
  http://global.canon/ja/c-museum/product/s20.html

か、その後継で、先のIIB型のボディーがダイカスト製になった後は、これとセットで発売されていたという

1949年(昭和24年)1月発売の
セレナー 50mm f=1.9
  http://global.canon/ja/c-museum/product/s19.html

この両者は、レンズ正面からでは、銘板が見えないと、ほとんど見分けがつかないのだが、前玉周辺のカラーの勾配からみて(レンズの先端径40ミリを維持しながら、f=2.0 から f=1.9にするため、前玉の口径を大きくした影響と思われる。ちなみに、同じ先端径のキヤノン50㎜ f≙1.8レンズではさらにこの部分が「切り立って」いる)おそらくは後者と推定される。

【追記】

2018年4月14日午後7時から、赤坂のギャラリー&カフェ「Tokyo Little house」
http://littlehouse.tokyo/
で開催された
ギャラリートーク「オースティン・コレクションでの試み 写真のはたらきを考える」

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/04/post-6f33.html
の折、頭書「昭和館」の渡邉学芸部長からうかがったお話では、

博士のキヤノンカメラは、当時PX経由で売られていたものではなく、純粋な民生品用として一般市場宛て出荷されたものらしい

由。

■ちなみに…

このIIB型の後継機であるIIIA型は父が使っていたカメラ
  シャッターボタン周囲のカバー、先のファインダー倍率の切り替えレバー、前面左上の
  低速シャッター用のダイヤルの形状が異なる

セレナ― 50㎜ f=1.9は、かつてネットオークションで入手済
  レンズが沈胴式なのでコンパクトに持ち運べるという魅力があった
なので現物の手持ちがある

Draustinscanon
「ほぼ」〔推定〕博士のカメラ

■次の…

課題は、当然のことながら、オースティン博士が「なくした」ライカのボディーとレンズがどの型式だったのか、ということになるが、こちらについては、今のところ手掛かりがない。

ただし、時期、とくに博士の日本への赴任時期に着目すると、ある程度絞り込むことはできそうである。

■博士の…

日本への赴任は、1946年9月とされている(図録p.15)。

この時期のライカ・カメラ本体の最新型は、IIIC〔戦後〕型なのであるが、何分、我が国同様の敗戦国であるドイツ製のカメラなので、戦後、製造が再開された1945年に生産されたIIIC〔戦前後期〕型の製造台数は3000台といわれている(中川一夫「ライカの歴史」写真工業出版社/S54・刊(以下「歴史」)p.65)ので、これを入手することは難しかったはずである。

一方、戦前生産のものをみても、1940(昭和15)年に発売開始(歴史p.65)された前年のドイツのポーランド侵攻によって、ヨーロッパ全体が、最後には全世界が戦火につつまれつつあったので、軍事物資でもある精密光学機械、しかもその最新型であるライカIIIC型を米国で入手することは、戦前でもかなり困難だったのではなかろうか。

■と、なると…

戦前の比較的早い時期に米国に輸入されたカメラを入手していた可能性の方が高く、そうだとすると、1937(昭和12)年発売のIIIb型(米国名「G型」)(歴史p.62)が博士のカメラだった可能性が最も高そうである。

■レンズについては…

上記のような事情を考慮して、1939(昭和14)年までに発売され、また、カラー写真を撮影していたことから、f値の少ない「明るい」レンズとなると

・ズミター 50㎜ f=2.0 1939(昭和14)年発売開始(「歴史」p.63)
 https://news.mapcamera.com/k4l.php?itemid=23344

・ズマール 50㎜ f=2.0 1933(昭和08)年発売開始(「歴史」p.36)
 https://news.mapcamera.com/k4l.php?itemid=20953

あるいは「べらぼう」に高価だったらしいが

   昭和13年当時のロンドンのカメラ店の価格表
  
http://chotoku.cocolog-nifty.com/blog/blog/photos/uncategorized/2012/02/13/photo_2.jpg

・クセノン 50mm f=1.5 1936(昭和11)年発売開始(「歴史」p.49)
 https://news.mapcamera.com/k4l.php?itemid=23340

といった可能性もある。

これらのうちでは、博士の写真をみると、どれも色の表現に破綻が見られないことから、カラーフィルムへの対応が図られていたというズミターの可能性が最も高そうに思われる。

■ただし…

撮影時期が特定されていれば別だが、このライカとキヤノンのどちらのレンズで撮影されたかは判別が難しい。

この時期あたりから、両社は「お互いに相手の製品を意識しながら」レンズを開発していたようなので、撮影された画像を個別にみただけでは、まるで見境が付かない

  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/09/sony7r3520-e261.html
  とくに、冒頭のリンク先
   
http://geofoto.web.fc2.com/x100.html
    ページの「2017.3.25」の項参照

ことも多いからである。

やや乱暴に「仕訳」すれば、レンズが開発された年代、つまり、その当時のカラーフィルムの普及度からみて、やや青みがかった落ち着いた色調のものがライカレンズの、やや派手目な色調の(いわゆる「色乗り」がよい)ものがキヤノンレンズのものかもしれない。

Elmar
ズマールもズミターも手持ちがないので、さらに旧いエルマー50/3.5でのサンプル画像
(シリアルレス、かつ半回転ヘリコイドなので、1932〔昭和7〕年製と思われる。
 ハイライトが飽和して少し滲むものの、そのほかは絞り開放なのだが破綻はない。
 いわゆる「テッサ―」型なので、絵が素直なのも好ましい。
 「時代」を勘案すれば、やはり間違いなく「銘玉」である

Serenar
セレナ― 50/1.9のサンプル画像
こちらは「ゾナー」型。

花弁の陰影の表現は、さすがに「時代の差」から、こちらの方が上

「なんだか、今の基準で見ても普通のレンズだよね」という印象だったのだが、
感性の問題もからむので、念のため

http://geofoto.web.fc2.com/x100.html
で見ると、はたして

2018.1.8の項
「中心部の解像感は〔Canon 50mmF1.4S/1.2Sと〕同等にあるし、F8ぐらいに絞ると全体にまったく遜色がない」とあり、さらに、その下の写真のキャプションでは

Canon 50mm f=1,9 とsummitar(ズミター) 5cm f=2.0 を対比して「似たようなレンズだが段違いにCanonが良い。」
との評価だった

【追記】

PhotozShop + Nik Collection(by Google)で、Kodachrome (ただし 64)風のエフェクトをかけてみた

Elmark
Elmar

Serenark
Serenar



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2018/03/26

今年も…連休は「代沢芸術祭」

■もはや…

5月の連休の恒例となった、代沢芸術祭が開催されます。

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2018/02/11

下北澤村「吉祥院」顛末考

■すでに…

3年前に判っていたことで、

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html

とっくの昔に web なり、どこかのブログなりに書いたと思い込んでいたのだが、実はどこにも書いていなかった。

■平成26年の…

6月ころ、東京都公文書館のデータベースで、烏山周辺の社寺のデータを調べているとき、三田用水の溝が谷分水沿いにあった吉祥院について、同館所蔵の「廃合寺院処分願」という文書中に、明治8〔1875〕年に提出された「廃寺願」があることがわかった。

 とはいっても、この吉祥院は、その50年以上も前に

今は住僧なく廃寺のさまなれば由来は詳ならず

という状態だったのだから*、「どうせ、新政府が、幕府の寺社方から引き継いだ寺社リストに『調べたけど今は無い』という『決まり』を付けるためだけの文書だろう」と想像していた。

*「新編武蔵風土記稿」文化7〔1810〕年~文政11〔1828〕年、昌平坂学問所内の地誌調所・編纂
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/56

■しかし…

それから半年ほど後、他の調べ物のついでに現物を読んでみてびっくり。

 明治10年には、さすがに、本堂・庫裏の類は失われていたようだが、まだ、大日堂という堂宇が残り、中に大日(如来?)像が納められていたことがわかったのである。

 しかも、文書中の寺の配置図から、それまでは、国立公文書館のデジタルアーカイブスにある「目黒筋御場絵図
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>

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で、ある程度までは場所の見当がつくものの、200年前にはすでに無いのも同然だった寺なので半ばあきらめていた、ピンポイントでの位置の特定まで可能になったのだった。

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原典中の「見取図」(赤線)を、昭和初期の公図に重ねたもの

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上図の中心部抜粋

■寺として…

機能しなくなってはいても、残っていた大日像と堂だけは、少なくとも半世紀以上、「勿体ない」と地元の人たちが手入れをしながら守ってきたのだと思われ、旧・下北澤村の人達の「優しさ」がしのばれる話だと、身びいきではあるが当地の現住民としては思う。

■ところで…

この吉祥院の大日堂に残されていた「大日像」については、森厳寺が引き取ったとされている。

 ただし、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷社寺史料 第三集」同/S59・刊の巻末の目録(p.16)によれば、同寺の如来像は、同書口絵写真175の「如来形立像」(その他は、不動明王像と十二神将軍像)とされているのだが、この像、どうみても大日如来には見えない(もともとが、修験->天台宗の寺にあったのだから、密教系。したがって、菩薩の姿をしているはず)

 「大日像」は今どこにあるのだろう。

 ときは「廃仏毀釈」の時流の折、しかし、その中であえて、幸い、この「大日像」は、同じ村内の仏教の寺院に引き取られたのだから(と、いうことは、同寺の檀家衆が、時流に抗して「この像を何とか遺そう」と考えたことを意味する)、たとえ腐朽のため「ぼろぼろ」になったとしても、そのまま「打ち捨て」られることはあり得ないのだから。

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2018/02/05

「子育地蔵」と「牛窪地蔵」

■昨2月4日…

 駒場道の旧道の「巡検」
http://mitaditch.blogspot.jp/2018/01/blog-post_14.html

の折、その甲州街道との交差点にある「子育地蔵」と、その西、笹塚近くの「牛窪地蔵」に行ってきた。

■まずは「子育地蔵」

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子育地蔵堂

 頂上に九輪(と、よく見ると水煙も)を戴き、狭い不整形の敷地一杯に収めるなど、設計、とくに構造計算に苦労したと思われる、さすが「都会の地蔵堂」。
 ただ、すでに階層の境の部分に水平方向の亀裂が発生してしまっているし、頂上付近には、鉄筋に対するコンクリートの被覆厚(かぶり厚さ)不足によると思われる錆汁が染みだしている。
 そろそろ、何らかのチェックとメンテナンスは不可欠だろう。

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路からも拝めるようになってはいるが、肝心の地蔵像が見えない。

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狭い通路を辿って堂内奥に入ると、右端に子育地蔵。

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中央に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑

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その左に「勇地蔵」(由来不詳)

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一番左端に、目立たないが庚申塔が安置されている。

■ついで…

というのも変だが、「ここまで来たのだから」と、甲州街道を西に進み、牛窪地蔵にもお参りしてきた。

笹塚近くまで進むと…

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「牛窪地蔵尊正徳会」と書かれた大きな幟があるのですぐに分かる。

 このあたりは、牛「窪」との文字通り神田川の支流が削ったと思われる大きな窪地になっていて、そのために、ほぼ甲州街道沿いに東進してきた玉川上水が大きく南に迂回している。

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「牛窪地蔵堂」 ここも、モダンな造形

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牛窪地蔵尊

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この堂にも、もう一体の小さな地蔵像が納められている

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堂の右手前には4基の石塔があるが…

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「存在感」のある中央の2基
画面左手は、ごくごく標準的な庚申塔。右手は「道供養塔」

 「橋供養塔」は比較的一般的で、この近辺では、目黒区駒場の、三田用水を旧瀧坂道が渡る駒場橋のためのそれが、東側の坂の下に保存されている*し、三多摩地域にはとくに多いようである。
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui14.htm の末尾近く参照

*この石橋供養塔を「保存・修復されて」いた「マンション住人の方々」の「知的レベルの高さ」には、ただただ尊敬するほかない

 これに対し、道供養塔というのは珍しく、論評不能のため、現地にあった説明文を載せておくことにする。

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「橋供養塔」の趣旨が、あたかも「常識」の範疇であることを当然の前提としているような記述内容が面白い

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2018/02/02

松沢の「将軍池」と「加藤山」(附:北沢川源流考)

■最近…

都立松沢病院内にある将軍池の東側の部分が、世田谷区の「将軍池公園」として整備されたことが分かったので、

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たまたま、1月28日、その近所に用事があったので立ち寄ってみた。

■折からの…

寒波で、池はほぼ完全に氷結していて、

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何人かの若者たちが柵を超えて池の氷の上で遊んでいた(郊外といっても東京の23区内、しかも山の中ならともかく平地の池なのでかなり無謀)

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■「将軍池」というのは…

「屋外作業療法」という精神疾患の治療の一環として、この池を掘る作業に従事していた、松澤病院史上最も有名な患者といえる「葦原将軍」こと、葦原金次郎に因んだ名称であることはよく知られているが、

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茶色の柵ごしに見える黒い部分が「将軍池」。その奥が「加藤山」

■「加藤山」というのは…

その主治医の一人で、この池の掘られた大正10年代、日本の精神医療を大きく変えた「作業療法」の一環として、この池を掘削し残土を山の形に積み上げる作業を指導した加藤普佐次郎医師に因んで名付けられている。

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「加藤山」の頂上には四阿が設えられている

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なお、「近代日本精神医療史研究会通信 第10号」(2007) pp.11- 参照

 加藤医師は、後に世田谷の下北沢に精神科の医院を開院した(現存)のだが、たまたま小田急の電車の中で、池ノ上にあった私立海外植民学校〔大正7-?昭和16〕の開設者で校長だった崎山比佐衛と意気投合し、その校医や衛生学の講師を務めた。

 崎山は昭和16年に移住先のブラジル・アマゾンで死亡し、それに前後して学校も閉校したのだが、加藤医師は、戦後になって、その遺志を継いで、海外移民を志す人たちの教育に、私財を投じて力を注いだ人物なのである。

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キャプション中の「白天」が加藤医師(加藤清光「白天録」同/S44・刊 より)

■ところで…

この「将軍池」。北沢用水の原型、目黒川の1支流である北沢川の源流の一つと言われることが多いのだが、この池は上記の経緯のとおり人工の池であることは明らかで、それ以前に「ハケ」と呼ばれる小さな湧水くらいはあったのかも知れないが(だから、広大な病院の敷地の中の、このあたりに池を掘ろうとした)、それを、北沢川、ひいては目黒川の源流と呼べるかどうかについては、かねがね疑わしいと考えていた。

■そこで…

この機会に、旧い地図をてがかりにして、改めて調べてみることにした。

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東京府立松沢病院・編「東京府立松沢病院年報 昭和9年」同院/S10・刊 口絵より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050346/9

 この略図をみると、病院の敷地の中央部と東端との2本の水路(北沢用水)が貫流し、図の左端から4分の1の位置に描かれている中央に「加藤山」のある「将軍池」からは、さらにもう1本の水路が敷地南端から流れ出していることがわかる。

 この将軍池からの水路と東端の2本の水路が北沢用水の本流を構成しており、敷地中央部を貫流する水路が「江下山どぶ」と呼ばれた水路の上流部(仮に「江下山水路」と呼ぶ)にあたる(後掲の「昭和4年測図」参照。なお、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷の河川と用水」同/S52・刊のpp.76-77の間の「第44図」参照)

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将軍池から少し南の病院東側の道路
歩道の中央の敷地境界標は「水路跡のお約束」のパターンの一つ
境界標の左(西)側水路跡と推定される

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S04測 1/10000地形図「経堂」から抜粋

 上の昭和4年測量(どうやら、当地に関する一番最初の精密な地図らしい)の地形図を見ると、「将軍池」に江下山水路からの分水が接続されていることがわかる。

 つまり、この池の水は、(西側中央に湧水とも解釈できる凹みもあるので、それを考慮しても)少なくともそのあらかたは北沢用水から供給されていたことがわかる。

■むしろ…

気になるのは将軍池のやや北にある小さな池の方である。

 この場所は、先の昭和9年略図では、普通の水路として描かれているが、いずれにしても「将軍池」と違い、水源が判然とせず、番号19の建物(東第五病棟)の下から流れ出しているように見える。

 このことは、この東第五病棟の東端あたりに、もともと、自然に池を作るほどの湧水があったことを示しているともいえ、「将軍池=北沢川源流」との物理的あるいは客観的な根拠を誰も明確に示していないこともあって、こちらこそ北沢川の源流だった可能性があるといえるのでなかろうか。

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2017/11/20

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展〔続報〕

■標記の…

特別展

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/11/post-1467.html

図録の付録のDVD。

 図録に収録されているデータが「そのまんま」3サイズでpdfファイル化されて収録されていて、pcの画面上で拡大して細部まで見ることができる。

 とくに、最も高解像度で大きなサイズの

 book_h.pdf

は約420メガバイト。

 世田谷全体の図についてはさすがに苦しいものの、それ以外の、領域が限定された地図の場合は、拡大すると細かい文字まで読み取ることができて、非常にありがたい企画である。

■残る…

問題は、世田谷全域を対象とする地図で、その典型例が図録056~058の

「大日本職業別明細図」 3葉。

 このシリーズの「商工地図」と呼ばれる民間地図は、世田谷周辺では

・渋谷区については、
  大正14年版と昭和3年版の2種のレプリカが、同区教育委員会から発行され

・杉並区については、
   同区のwebサイト「すぎなみがく倶楽部」 https://www.suginamigaku.org
   昭和8年版が掲載され
   https://www.suginamigaku.org/docs/his_yoshida.pdf

ているのに対し

・世田谷区については
   柏書房「「昭和前期 日本商工地図集成 第1期 首都圏編」
   http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b228364.html
   中にモノクロで復刻されている昭和12年版を見ることができるだけであった。

■今回の特別展では…

昭和7年版、10年版、12年版が一挙に公開されて、図録やそのDVDにも収録されているほか、12年版についてはレプリカ(ただし、渋谷区のそれと違って裏面のインデクスはなし)が図録の付録に付くという大盤振る舞いである。

■しかし…

さすがに、幅約80センチのこれらの地図の場合、幅約3000ピクセルの高解像度版ですら、どうやってみても細部の文字までは読み取れない。

 そこで、幸い同館は、ノンフラッシュならば(というより、ガラス越しなのでフラッシュを使うのは逆効果でしかない)写真撮影可能なので、去る16日に、デジカメ(SONY α7R)にマクロレンズ(Canon NewFD 50/3.5)を付けて、レプリカのある昭和12年版以外の下北沢駅周辺と世田谷中原〔現・世田谷代田〕駅周辺の部分を撮影してきた。

■先ずは昭和7年版

・下北沢駅周辺

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・世田谷中原駅周辺

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■次いで昭和10年版

・下北沢駅周辺

S10s

・世田谷中原駅周辺

S10s_2

【余録】

・下北沢駅周辺広域版

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■まちの…

歴史の貴重な史料である。

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