2018/02/11

下北澤村「吉祥院」顛末考

■すでに…

3年前に判っていたことで、

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html

とっくの昔に web なり、どこかのブログなりに書いたと思い込んでいたのだが、実はどこにも書いていなかった。

■平成26年の…

6月ころ、東京都公文書館のデータベースで、烏山周辺の社寺のデータを調べているとき、三田用水の溝が谷分水沿いにあった吉祥院について、同館所蔵の「廃合寺院処分願」という文書中に、明治8〔1875〕年に提出された「廃寺願」があることがわかった。

 とはいっても、この吉祥院は、その50年以上も前に

今は住僧なく廃寺のさまなれば由来は詳ならず

という状態だったのだから*、「どうせ、新政府が、幕府の寺社方から引き継いだ寺社リストに『調べたけど今は無い』という『決まり』を付けるためだけの文書だろう」と想像していた。

*「新編武蔵風土記稿」文化7〔1810〕年~文政11〔1828〕年、昌平坂学問所内の地誌調所・編纂
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/56

■しかし…

それから半年ほど後、他の調べ物のついでに現物を読んでみてびっくり。

 明治10年には、さすがに、本堂・庫裏の類は失われていたようだが、まだ、大日堂という堂宇が残り、中に大日(如来?)像が納められていたことがわかったのである。

 しかも、文書中の寺の配置図から、それまでは、国立公文書館のデジタルアーカイブスにある「目黒筋御場絵図
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>

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で、ある程度までは場所の見当がつくものの、200年前にはすでに無いのも同然だった寺なので半ばあきらめていた、ピンポイントでの位置の特定まで可能になったのだった。

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原典中の「見取図」(赤線)を、昭和初期の公図に重ねたもの

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上図の中心部抜粋

■寺として…

機能しなくなってはいても、残っていた大日像と堂だけは、少なくとも半世紀以上、「勿体ない」と地元の人たちが手入れをしながら守ってきたのだと思われ、旧・下北澤村の人達の「優しさ」がしのばれる話だと、身びいきではあるが当地の現住民としては思う。

■ところで…

この吉祥院の大日堂に残されていた「大日像」については、森厳寺が引き取ったとされている。

 ただし、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷社寺史料 第三集」同/S59・刊の巻末の目録(p.16)によれば、同寺の如来像は、同書口絵写真175の「如来形立像」(その他は、不動明王像と十二神将軍像)とされているのだが、この像、どうみても大日如来には見えない(もともとが、修験->天台宗の寺にあったのだから、密教系。したがって、菩薩の姿をしているはず)

 「大日像」は今どこにあるのだろう。

 ときは「廃仏毀釈」の時流の折、しかし、その中であえて、幸い、この「大日像」は、同じ村内の仏教の寺院に引き取られたのだから(と、いうことは、同寺の檀家衆が、時流に抗して「この像を何とか遺そう」と考えたことを意味する)、たとえ腐朽のため「ぼろぼろ」になったとしても、そのまま「打ち捨て」られることはあり得ないのだから。

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2018/02/05

「子育地蔵」と「牛窪地蔵」

■昨2月4日…

 駒場道の旧道の「巡検」
http://mitaditch.blogspot.jp/2018/01/blog-post_14.html

の折、その甲州街道との交差点にある「子育地蔵」と、その西、笹塚近くの「牛窪地蔵」に行ってきた。

■まずは「子育地蔵」

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子育地蔵堂

 頂上に九輪(と、よく見ると水煙も)を戴き、狭い不整形の敷地一杯に収めるなど、設計、とくに構造計算に苦労したと思われる、さすが「都会の地蔵堂」。
 ただ、すでに階層の境の部分に水平方向の亀裂が発生してしまっているし、頂上付近には、鉄筋に対するコンクリートの被覆厚(かぶり厚さ)不足によると思われる錆汁が染みだしている。
 そろそろ、何らかのチェックとメンテナンスは不可欠だろう。

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路からも拝めるようになってはいるが、肝心の地蔵像が見えない。

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狭い通路を辿って堂内奥に入ると、右端に子育地蔵。

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中央に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑

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その左に「勇地蔵」(由来不詳)

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一番左端に、目立たないが庚申塔が安置されている。

■ついで…

というのも変だが、「ここまで来たのだから」と、甲州街道を西に進み、牛窪地蔵にもお参りしてきた。

笹塚近くまで進むと…

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「牛窪地蔵尊正徳会」と書かれた大きな幟があるのですぐに分かる。

 このあたりは、牛「窪」との文字通り神田川の支流が削ったと思われる大きな窪地になっていて、そのために、ほぼ甲州街道沿いに東進してきた玉川上水が大きく南に迂回している。

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「牛窪地蔵堂」 ここも、モダンな造形

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牛窪地蔵尊

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この堂にも、もう一体の小さな地蔵像が納められている

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堂の右手前には4基の石塔があるが…

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「存在感」のある中央の2基
画面左手は、ごくごく標準的な庚申塔。右手は「道供養塔」

 「橋供養塔」は比較的一般的で、この近辺では、目黒区駒場の、三田用水を旧瀧坂道が渡る駒場橋のためのそれが、東側の坂の下に保存されている*し、三多摩地域にはとくに多いようである。
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui14.htm の末尾近く参照

*この石橋供養塔を「保存・修復されて」いた「マンション住人の方々」の「知的レベルの高さ」には、ただただ尊敬するほかない

 これに対し、道供養塔というのは珍しく、論評不能のため、現地にあった説明文を載せておくことにする。

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「橋供養塔」の趣旨が、あたかも「常識」の範疇であることを当然の前提としているような記述内容が面白い

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2018/02/02

松沢の「将軍池」と「加藤山」(附:北沢川源流考)

■最近…

都立松沢病院内にある将軍池の東側の部分が、世田谷区の「将軍池公園」として整備されたことが分かったので、

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たまたま、1月28日、その近所に用事があったので立ち寄ってみた。

■折からの…

寒波で、池はほぼ完全に氷結していて、

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何人かの若者たちが柵を超えて池の氷の上で遊んでいた(郊外といっても東京の23区内、しかも山の中ならともかく平地の池なのでかなり無謀)

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■「将軍池」というのは…

「屋外作業療法」という精神疾患の治療の一環として、この池を掘る作業に従事していた、松澤病院史上最も有名な患者といえる「葦原将軍」こと、葦原金次郎に因んだ名称であることはよく知られているが、

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茶色の柵ごしに見える黒い部分が「将軍池」。その奥が「加藤山」

■「加藤山」というのは…

その主治医の一人で、この池の掘られた大正10年代、日本の精神医療を大きく変えた「作業療法」の一環として、この池を掘削し残土を山の形に積み上げる作業を指導した加藤普佐次郎医師に因んで名付けられている。

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「加藤山」の頂上には四阿が設えられている

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なお、「近代日本精神医療史研究会通信 第10号」(2007) pp.11- 参照

 加藤医師は、後に世田谷の下北沢に精神科の医院を開院した(現存)のだが、たまたま小田急の電車の中で、池ノ上にあった私立海外植民学校〔大正7-?昭和16〕の開設者で校長だった崎山比佐衛と意気投合し、その校医や衛生学の講師を務めた。

 崎山は昭和16年に移住先のブラジル・アマゾンで死亡し、それに前後して学校も閉校したのだが、加藤医師は、戦後になって、その遺志を継いで、海外移民を志す人たちの教育に、私財を投じて力を注いだ人物なのである。

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キャプション中の「白天」が加藤医師(加藤清光「白天録」同/S44・刊 より)

■ところで…

この「将軍池」。北沢用水の原型、目黒川の1支流である北沢川の源流の一つと言われることが多いのだが、この池は上記の経緯のとおり人工の池であることは明らかで、それ以前に「ハケ」と呼ばれる小さな湧水くらいはあったのかも知れないが(だから、広大な病院の敷地の中の、このあたりに池を掘ろうとした)、それを、北沢川、ひいては目黒川の源流と呼べるかどうかについては、かねがね疑わしいと考えていた。

■そこで…

この機会に、旧い地図をてがかりにして、改めて調べてみることにした。

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東京府立松沢病院・編「東京府立松沢病院年報 昭和9年」同院/S10・刊 口絵より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050346/9

 この略図をみると、病院の敷地の中央部と東端との2本の水路(北沢用水)が貫流し、図の左端から4分の1の位置に描かれている中央に「加藤山」のある「将軍池」からは、さらにもう1本の水路が敷地南端から流れ出していることがわかる。

 この将軍池からの水路と東端の2本の水路が北沢用水の本流を構成しており、敷地中央部を貫流する水路が「江下山どぶ」と呼ばれた水路の上流部(仮に「江下山水路」と呼ぶ)にあたる(後掲の「昭和4年測図」参照。なお、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷の河川と用水」同/S52・刊のpp.76-77の間の「第44図」参照)

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将軍池から少し南の病院東側の道路
歩道の中央の敷地境界標は「水路跡のお約束」のパターンの一つ
境界標の左(西)側水路跡と推定される

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S04測 1/10000地形図「経堂」から抜粋

 上の昭和4年測量(どうやら、当地に関する一番最初の精密な地図らしい)の地形図を見ると、「将軍池」に江下山水路からの分水が接続されていることがわかる。

 つまり、この池の水は、(西側中央に湧水とも解釈できる凹みもあるので、それを考慮しても)少なくともそのあらかたは北沢用水から供給されていたことがわかる。

■むしろ…

気になるのは将軍池のやや北にある小さな池の方である。

 この場所は、先の昭和9年略図では、普通の水路として描かれているが、いずれにしても「将軍池」と違い、水源が判然とせず、番号19の建物(東第五病棟)の下から流れ出しているように見える。

 このことは、この東第五病棟の東端あたりに、もともと、自然に池を作るほどの湧水があったことを示しているともいえ、「将軍池=北沢川源流」との物理的あるいは客観的な根拠を誰も明確に示していないこともあって、こちらこそ北沢川の源流だった可能性があるといえるのでなかろうか。

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2017/11/20

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展〔続報〕

■標記の…

特別展

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/11/post-1467.html

図録の付録のDVD。

 図録に収録されているデータが「そのまんま」3サイズでpdfファイル化されて収録されていて、pcの画面上で拡大して細部まで見ることができる。

 とくに、最も高解像度で大きなサイズの

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は約420メガバイト。

 世田谷全体の図についてはさすがに苦しいものの、それ以外の、領域が限定された地図の場合は、拡大すると細かい文字まで読み取ることができて、非常にありがたい企画である。

■残る…

問題は、世田谷全域を対象とする地図で、その典型例が図録056~058の

「大日本職業別明細図」 3葉。

 このシリーズの「商工地図」と呼ばれる民間地図は、世田谷周辺では

・渋谷区については、
  大正14年版と昭和3年版の2種のレプリカが、同区教育委員会から発行され

・杉並区については、
   同区のwebサイト「すぎなみがく倶楽部」 https://www.suginamigaku.org
   昭和8年版が掲載され
   https://www.suginamigaku.org/docs/his_yoshida.pdf

ているのに対し

・世田谷区については
   柏書房「「昭和前期 日本商工地図集成 第1期 首都圏編」
   http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b228364.html
   中にモノクロで復刻されている昭和12年版を見ることができるだけであった。

■今回の特別展では…

昭和7年版、10年版、12年版が一挙に公開されて、図録やそのDVDにも収録されているほか、12年版についてはレプリカ(ただし、渋谷区のそれと違って裏面のインデクスはなし)が図録の付録に付くという大盤振る舞いである。

■しかし…

さすがに、幅約80センチのこれらの地図の場合、幅約3000ピクセルの高解像度版ですら、どうやってみても細部の文字までは読み取れない。

 そこで、幸い同館は、ノンフラッシュならば(というより、ガラス越しなのでフラッシュを使うのは逆効果でしかない)写真撮影可能なので、去る16日に、デジカメ(SONY α7R)にマクロレンズ(Canon NewFD 50/3.5)を付けて、レプリカのある昭和12年版以外の下北沢駅周辺と世田谷中原〔現・世田谷代田〕駅周辺の部分を撮影してきた。

■先ずは昭和7年版

・下北沢駅周辺

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・世田谷中原駅周辺

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■次いで昭和10年版

・下北沢駅周辺

S10s

・世田谷中原駅周辺

S10s_2

【余録】

・下北沢駅周辺広域版

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■まちの…

歴史の貴重な史料である。

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2017/11/08

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展

■世田谷区上町の…

標記「世田谷区立郷土資料館」で
平成29年10月28日(土曜日)から12月3日(日曜日)まで開催。
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00155970.html

 詳細は、こちら
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00155970_d/fil/dayori67.pdf

■何といっても…

「ほとんど宝箱」と推定された「DVDの付録」付きの図録が魅力でしたので、昨7日
「図録が売り切れてしまう前に」
というわけで、時間をやりくりして、今朝アサイチで同館に寄ってきました。

■期待に違わず…
   
 厚さ約1センチメートル(ノンブルがないので総ページ数はカウントしていない)の図録には、付録として、そのpdfを収録したDVD、、さらに加えて昭和12年版の職業別明細図のレプリカ付き。

 内容は、もう世田谷の地図だらけ(画像は、そのインデクス・ページ)。

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 DVDに収録されている画像も、世田谷全域の図となるとさすがに苦しいのですが、地域を限った図だと、細部の文字まで読み取れる高解像度です。

 いや、手に入れられて、というか、手に入れそこなって後悔しなくてよかった。

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2017/10/18

特別展「渋谷駅の形成と大山街道」

[標記の特別展が…]

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 で
平成29年10月28日(土)~平成30年1月21日(日)
開催されます。
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/edu/koza/12kyodo/tenrankaishousai.html#15

チラシの表側の画像は、ポスターにもなっているので、随所で目にする機会も多いかと思いますので、ここでは、裏面の画像を

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展示物のご提供(何かは見てのお楽しみ)など、少しばかりお手伝いさせていただいた折に聞き及んだところによると、当地つまり西隣の世田谷区東北部、とりわけ帝都線や玉電沿線の住民にとっての見所は…

・明治18年に日本鉄道品川線(現・山手線)開通時に、今の湘
 南新宿ラインの渋谷駅(俗称・南渋谷駅)のところに、渋谷
 駅が開業して以来の変遷を、とくに大山街道を走った玉電や
 市/都電の停留場との関連を含めて示す展示

 *この日本鉄道品川線の

 当初の計画ルートについては、当ブログの
 「原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?」
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/11/post-8ab0.html

 をご参照ください。

そして
・昭和39年のオリンピックを前に、首都高速3号線工事の進む
 東口駅前を中心に再現したジオラマ(上記チラシの左側中央参照)
  このジオラマ、かつて、東急プラザの閉館直前の展覧会
  で見たのですが、ヤジロベエ式の首都高3号線の橋桁工
  事、東横百貨店屋上の遊戯施設、工事中の東口周辺の道
  路の「ヤレ」た路面、など感動モノでした(写真は、そ
  の折のもの)

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Dsc02789s_25000形、7000形はいわば定番ですが、5200形(1編成しかない)がさりげなくいるのは感動もの。

・渋谷駅からハチ公バスが使えるので、交通費低廉
・60歳以上入館無料(要証明資料提示)
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kyodo/index.html
なので、

とくに「アラ・シックス」以上の年代の方は

ローコストで「青春の想ひ出」に浸れます。

是非お運びを。

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2017/10/13

古道「隠田道」

■世田谷の地誌についての…

基本書中の基本書というか必須の文献としては

東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊
(実際の著者は、下記三田義春)

とならんで

三田義春・編著「世田谷の地名」(上下)東京都世田谷区教育委員会/S59・刊

がある*

*さらに
 三田義春「世田谷の近代風景概史 〔都市美せたがや叢書3〕」世田谷区企画部都市デザイン室/S61・刊
 もある

■その…

上巻の代田村の章に掲載の地図「第126図」〔p.199〕に、その東隣にあたる下北澤村の淡島交差点から現在の京王井の頭線の池ノ上駅西に向かう道に「隠田道」と付記されている。
 なぜか、当の旧下北澤村についての同趣旨の地図である第177図〔p.183〕にはそのような記載はないのだが、いずれにしても、隠田といえば「隠田の水車」で有名な、このあたりからは北東にあたる、澁谷川沿いにあった村と考えるほかない(今でも、表参道のぼぼ谷底から南に向かって「隠田商店街」がある)。

 かつて、代田村(や下北澤村)から、その隠田を経て江戸市中に、青物や竹の子などを運んだ道であろうことは想像できた。

■なぜなら…

代田村や下北澤村から、江戸市街に向かって、いわゆる「往還」を使うとすると、滝坂道(現略・淡島通り)を東に向かい、目黒川の支流「空川〔そらかわ〕」の谷底の遠江橋を渡り、道玄坂の中程に出て澁谷川を渡ってから宮益坂を上って、今の青山通りを赤坂方向に向かうことになるが、空川の谷は今でも急峻だし、澁谷川を越える道玄坂・宮益坂も、明治以降の改修後の現況よりはるかに急峻だったらしい。

 これに対し、この「隠田道」なる道は、素直に考えると、淡島の交差点から北に向かって北澤川左岸の坂を登り、現・池ノ上駅北で右に折れて三角橋に抜け、駒場道を右折して三田用水沿いに東に向かい、二ツ橋*で左に折れて現・東海大学通りを下って澁谷川の支流である宇田川を越え、今の代々木公園の中を原宿駅方向に上り、そこから澁谷川の谷を下って隠田村に入る、というルートとなる。

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都市計画東京地方委員会・編「都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録〔第8号〕」同委員会/S11-13・刊 附図 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207598/75>
「東京都市計畫代々幡町道路第十五号路線變更道路平面圖」に、以下の補入

黄色線が隠田道/雙子道。隠田道…が三田用水路(青線)渡る橋(赤矢印)が「二ツ橋」

 こちらのルートも、川をいくつか超えるので決して平坦な道ではないものの、川は上流部で越える方が急坂を避けられるのが通常だし、今の空川を越える遠江橋両岸の淡島通の勾配に較べても、隠田道の方はそれよりはるかに緩らかだったはずである。

■当初は…

この隠田道という名前は、当初は代田村あるいは下北澤村あたりで名付けられた俗称なのかと思っていたのだが、

東京府荏原郡役所改築祝賀協賛会・編「東京府荏原郡勢一覧」同会/T09 ・刊 p.147
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/975858/86>をみると、

隠田道 荏原郡世田谷村境瀧坂道ヨリ分岐シ豊多摩郡代々幡村ニテ駒場道ニ接スル64「0」.25間 準市街道

 とあることから、公式名称だったことがわかった。

 一方、代々木村、後の代々幡側では、代々木八幡下以南の区間を以下のとおり「雙子往還」、同地以東を含む接続先の道を「青山往還」と呼んでいる。

雙子往還 大字代々木字本村八幡社下にて青山往還より分岐し、代々木上原を過ぎ駒場道荏原郡境に至る。町内の延長八百三十二間(十三丁五十二間)、平均幅員二、七間。

(東京府豊多摩郡・編「東京府豊多摩郡誌」同郡/T05・刊 p.698<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/371>。なお、「駒場道」についても同ページ参照)。

 よくあることだが、南側の荏原郡では、北の「隠田」に向かう道ととらえ、北側の豊多摩郡では、南の「二子」を目指す道ととらえているわけである。

■それでは…

この道、いつごろから存在するのかが問題になるのだが、

「目黒筋御場絵図」国立公文書館・蔵
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>

(ただし、青山付近の東端部のみ。なぜか、代々木村は、目黒筋ではなく中野筋に属していたらしい。)

や、代々木村の村絵図

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享保14年ころの代々木村絵図(豊島区立郷土資料館・編「豊島郡の村絵図」同区/2010年・刊p.10より)
画面左上に⑭とある二ツ橋から真下に伸び、上澁谷村に入るやや広い道が隠田道/雙子道である。
右端の縦方向の道が甲州道中であり、描かれている道の幅員からみて、隠田道/雙子道も村の主要道

に位置付けられていたと推定できる。

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(作成時期不詳)堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書情報センター・蔵)
左端中央やや下から下端中央に斜めに走る道が、隠田道/雙子道
沿道に黄色く塗られた武家屋敷がある。

などにも描かれているので、近世中期に存在していたことは疑いがない。

 さらに、池田功「東海大学通りは古い往還路である」(辻野京子「まちの記憶 代々木上原周辺」同/2003・刊 所収 pp.61-62)によれば、

「この道は…鎌倉から平泉に到る奥州道の一部で、世田谷方面から旧航空研究所通りの三角橋、ニツ橋*を経て、この道を通り、山手通りを横断して、都立代々木公園(戦前は代々木練兵場)から原宿に抜けていた。」

とある。

*二ツ橋については、別ブログの http://mitaditch.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html 参照

 典拠は明らかでないものの、これに従えば、遅くとも、吉良氏による世田谷城築城期あたりまでは遡ることになりそうである。
 隠田から北は措くとして(いわゆる御府内については、近世期の改変が多いのでよくわからない)、代田・下北澤から南方向については、そのまま滝坂道を西に進むと世田谷城に行き着くし、世田谷城下から南に向えば、大山道を経て二子に達するからである。

■一方…

いわば「実用」の問題としては、近世期に代田、下北澤さらには太子堂、若林といった現・世田谷区北東部の各村からどこに産物を持ち込んだかにある。

 実はこちらがもともとの興味の中心だったのだが、最近になって、青山久保町(現・北青山2丁目)の大山街道(現・青山通り)沿いに青物市場があったことがわかった*

*白根記念渋谷区立郷土博物館・文学館「特別展 渋谷駅の形成と大山街道〔図録〕」同館/平成29年10月27日・刊 p.11

 そこは、隠田村から原宿村を隔ててすぐ東にあたり、それだけに、現・世田谷区北東部の農村にとって、この道は、青物を中心とする産物の出荷のための、重要なルートだったことは間違いなさそうである。

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2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

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屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

Elv2

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

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・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

【最終版】

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・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・萩原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

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2017/05/03

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕

〔その1:駅舎の意匠〕で…

検討したように、屋根の傾斜とか、場合によっては入口上の明り窓の有無の見当を付けるには、まずは、駅舎のサイズ、それに先立って、昭和2年の開業当時の、駅舎敷地の位置と広さが問題になる。

その重要な資料の一つとしては…

東京都公文書館・蔵の

資料種別 公文書_件名_府市
公開件名 土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
文書記号・番号 丑土第4775号
補助件名 停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図
文書年度(和暦) 大正14年~大正14年
文書年度(西暦) 1925年~1925年
起案年月日(和暦) 大正14年7月29日
起案年月日(西暦) 1925年07月29日
記述レベル item
作成組織 東京府
内容注記1 住所地:豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町
内容注記2 関係先名・関係先住所:小田原急行鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000129396,000129397
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16],[D]D895
収録先の名称 地理・土地収用 冊の12,地理・土地収用 冊の13
収録先の請求番号 305.F6.06,305.F6.07
電磁的記録媒体番号 D895-RAM

中の「中原停留場設計平面圖」がある。

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これを、反転して抜粋すると(図の下方が略北)、

_rdijs

 駅の西の、今の環状7号道路の原型にあたる、北は堀の内の妙法寺、南は池上の本門寺に通じる主要道「堀之内道*1からの取り付け道路を造り、その突き当りに駅舎が設けられたことがわかる。

 したがって、この世田谷中原の駅舎への入口は、堀之内道の方向、つまり西にあるらしいこと、駅の敷地の南北方向はそれほど広くないことから駅舎が東西方向に建っていたらしいことがわかる。

 上の図面の下方の横断面図を見ると、ホームの幅は15フィート(約4.5メートル≒2間半)なので、敷地の幅は、そのほぼ倍の30フィート(約9メートル≒5間)しかないことになる。

 実際、同じ敷地に戦後建て直された駅舎のサイズからみても、駅舎のサイズがそれほど大きいものでなく、また、敷地の南北方向の幅がそれほど広くはなかったことがわかる(左端やや上の小豆色の屋根が場内跨線橋)。


「明らかにパブリックドメイン」といえる大きな画像が見つからないので、WikiPediaから、とりあえず小さな画像だが転載。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/1e/Odakyu_Setagayadaita_eki_3.jpg

*1 とくに、今の東京西部は南北に通じる道が少なかったこともあり、かつては両寺での大きな法要時には、人の流れが途切れなかったという。

もう一つの資料は…

小田急電鉄・蔵の、世田谷中原駅の「焼け跡」の写真

S20s_2

である。

 この写真の中の、コンクリート製の基礎の残骸をてがかりに、建物の外形のいわゆるアタリを取ってみると

S20s_4

水平方向の赤線のような、駅舎の平面が浮かび上がる。

 つまり、
・駅舎は敷地の南寄りにあって
・写真手前の西側の縦方向の緑線の間が駅舎の入口で
・その奥の東側の約5分の3の範囲に事務室がある。

・入口から入ってすぐ左が改札口で、
・そこから右に折れてホームに向かい
・下りホームへは(先の設計図の断面図からみると) そのまま行くことができるが
・上りホームへは、一旦ゆるい階段を下って、左に曲がって構内横断場を渡り、右手のゆるい階段を昇る

ということになる。

 この配置だと、敷地の南端と駅舎の間が半間(0.9メートル。この時点では敷地の南は道路ではないので、境界ギリギリに駅舎を建てるわけにはゆかないだろう)、駅舎と線路の間の通路を1間半(1.35メートル+1.35メートル=2.7メートル)とみると、駅舎の幅は、5-(0.5+1.5)間の3間(約5.4メートル)程度を取るのがせいぜいといえる。

 先の生方・p.35の喜多見駅復元図の駅舎の幅は、5.4メートルなので、それとほぼ同規模・同一設計か、あるいは1サイズ下、つまり幅4.5メートル程度(おそらく、前ページの鶴巻駅と同規模・同一設計か)と考えられる。

【参考】

Photo
開業直後と思われる「千駄ヶ谷新田」(→小田急本社前→南新宿)
推定幅4.5m(2間半)

ここまでの結果に基づく想像図は 次ページ で。

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戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕

昭和20年7月1日に…

空襲で、世田谷中原、つまり今の世田谷代田の駅舎が焼失している。

 この焼失前の駅舎の写真は、これまで探したがみつからないので(昭和19年に橋上駅に改築された下北沢、さらに昭和38年に鉄骨造の駅舎に改築される前の東北沢の木造時代の駅舎ですらほとんど写真がないので、無理もない面もある)、今回、戦災前の駅舎の姿を推定してみることにした。

実それというのも…

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBパブリッシング(キャンブックス)/2009年・刊

によれば、少なくとも、昭和2年4月1日に小田急の小田原線が開通した当初の駅舎は、かなり、パターン化されていることがわかったからである。

 つまり、同書のp.33には、

「■駅舎建築
 小田急の駅舎建築の変化を概括的に眺めてみると、小田原線開通時に五大停車場(稲田登戸
*1、新原町田、相模厚木*2、大秦野*3、新松田)がマンサード型の大きな駅舎で威容を誇っていた。…その他の駅*3は当時はやりのモルタル造りの建築が多かった。」

とある。

*1 現・向ヶ丘遊園(北口に、唯一、開通時のマンサード型の屋根の駅舎が残っている)
   ブログ「関根要太郎研究室@はこだて
 」中の「小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

   に、2012年撮影の様々な角度からの写真と、新原町田、新松田の開業当時の写真も掲載されている。
*2 現・本厚木〔表/南口〕
*3 現・秦野
*4 当時の「地方鉄道法」では、おおまかにいえば、信号機またはポイントのあるものを「停車場」、これらがないのを「停留場」といった、以下、ポイントはともかく信号機の有無まで調べるのは、面倒だし、このアーティクルの本筋とは無関係なので、すべて「駅」と呼ぶ。

実際…

同書などに掲載されている昭和2年4月1日の開業時に建築された駅舎の写真を見ると、
・新宿、小田原などのターミナルを除くと
・マンサード屋根の上記5駅舎
 3829p82_s
 大秦野駅〔現・秦野〕
 鉄道ピクトリアル No.829p.82


・木造モルタル造で切り妻の屋根の棟の中央に三角形の明かり窓のあるいわば「標準仕様」
 3829p82_s_3
 鶴巻駅〔現・鶴巻温泉〕 前同

に大別され
これらからはずれる
・特殊タイプとしては、参宮橋(同・p.48。明治神宮の最寄り駅なので「社殿造り」)、座間〔初代〕(同・p.96.現・相武台前。陸軍士官学校の最寄り駅で同校校長などのための貴賓室を備える大型駅舎)程度しか見当たらない。

S
相模厚木〔表口〕 土木建築工事畫報 3巻5号30ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

 世田谷中原は、もちろん先の5大駅舎のうちに入っていないし、特殊タイプの駅舎とするほどの特色のある場所ではないので、結局「標準仕様」、つまり上の鶴巻駅と同様の意匠によって設計されていると考えるほかない。

もっとも…

「標準仕様」とはいっても、詳しくみると、構造、意匠、材料、装飾などが共通という意味で、微妙にバリエーションがあることがわかる。

 たとえば
・柿生駅(同・p.84)と伊勢原(同・p.109)は、他の駅舎の入口が建物の棟の方向、つまり建物の妻面にあるのに対し、ここは、棟と直角に屋根を設けて、いわゆる平入りになっているし、
・生田(同・p.78)、新座間(同・p.98。現・座間)も、その方向には屋根がなく庇しかないが、平入りになっており、
・経堂は、妻入りで構造自体には標準型と違いはなさそうだが、妻面の装飾がほかの駅と違っている(後の、改装の可能性はあるが)。

 しかし、もっとも多いバリエーションは、
・駅舎の妻面の幅
・それと関係の深い屋根の勾配
・妻面の駅入り口の上や屋根側面の明かり窓の有無
である。

中でも…

一番わかりやすいのが、屋根の勾配である。

 生方・p.35に、喜多見駅の復元図(西〔事務所側〕面と北〔ホームの反対側〕面の各立面図と平面図)が掲載されているが(なお、同p.68)、その屋根の勾配は10/10、つまり角度でいえば45度になっている。

 しかし、写真で判断する限り、そこまで急勾配のものは、稲田登戸の南口(同・p.74)、相模厚木(同p.106。現・本厚木)、伊勢原(現・同p.109)くらいで、他はもう少し勾配は緩い。

【追記】

S11s
昭和11年ころの成城学園前駅(喜多見とほぼ同規模・同一意匠と思われる)
(世田谷美術館「田園と住まい展」〔図録〕同館/1989・刊 p.65)
この後、学園の生徒の安全のため橋上駅舎となった(生方p.66参照)


 屋根の高さ(深さ)が同じなら、妻面の幅が広くなれば勾配は緩くなるので、まずは駅舎のサイズ(妻面の幅)で屋根の勾配が決まるとみてよい。

 ただし、あまり緩いと雨漏りの原因になるので、限界はあって、その場合には屋根を高くする必要があるし、そうなると、入口上の妻面に、半円形を基調にした装飾はあるものの「間が抜ける」ので、入口の庇の上に明かり窓を設けたのではないかと思われる。
(やや異色なのは、稲田登戸の南口(同・p.74)で、おそらくは北口の大型駅舎とのバランスとか、向ヶ丘遊園〔小田急本線と同時開業〕の最寄り駅であるためか、かなり大型の駅舎に見えるが、楽し気な雰囲気を出すためだろうが、傾斜45度の屋根が載っている。)

 つまりは、あまり大型の駅舎でなければ、建物の幅から自ずから屋根の勾配の見当がつき、さらに、入口上の明り窓の有無もあらかた推定できそうである。

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