2017/11/20

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展〔続報〕

■標記の…

特別展

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/11/post-1467.html

図録の付録のDVD。

 図録に収録されているデータが「そのまんま」3サイズでpdfファイル化されて収録されていて、pcの画面上で拡大して細部まで見ることができる。

 とくに、最も高解像度で大きなサイズの

 book_h.pdf

は約420メガバイト。

 世田谷全体の図についてはさすがに苦しいものの、それ以外の、領域が限定された地図の場合は、拡大すると細かい文字まで読み取ることができて、非常にありがたい企画である。

■残る…

問題は、世田谷全域を対象とする地図で、その典型例が図録056~058の

「大日本職業別明細図」 3葉。

 このシリーズの「商工地図」と呼ばれる民間地図は、世田谷周辺では

・渋谷区については、
  大正14年版と昭和3年版の2種のレプリカが、同区教育委員会から発行され

・杉並区については、
   同区のwebサイト「すぎなみがく倶楽部」 https://www.suginamigaku.org
   昭和8年版が掲載され
   https://www.suginamigaku.org/docs/his_yoshida.pdf

ているのに対し

・世田谷区については
   柏書房「「昭和前期 日本商工地図集成 第1期 首都圏編」
   http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b228364.html
   中にモノクロで復刻されている昭和12年版を見ることができるだけであった。

■今回の特別展では…

昭和7年版、10年版、12年版が一挙に公開されて、図録やそのDVDにも収録されているほか、12年版についてはレプリカ(ただし、渋谷区のそれと違って裏面のインデクスはなし)が図録の付録に付くという大盤振る舞いである。

■しかし…

さすがに、幅約80センチのこれらの地図の場合、幅約3000ピクセルの高解像度版ですら、どうやってみても細部の文字までは読み取れない。

 そこで、幸い同館は、ノンフラッシュならば(というより、ガラス越しなのでフラッシュを使うのは逆効果でしかない)写真撮影可能なので、去る16日に、デジカメ(SONY α7R)にマクロレンズ(Canon NewFD 50/3.5)を付けて、レプリカのある昭和12年版以外の下北沢駅周辺と世田谷中原〔現・世田谷代田〕駅周辺の部分を撮影してきた。

■先ずは昭和7年版

・下北沢駅周辺

S07s
・世田谷中原駅周辺

Dsc08579s_2


■次いで昭和10年版

・下北沢駅周辺

S10s

・世田谷中原駅周辺

S10s_2

【余録】

・下北沢駅周辺広域版

S10s_3

■まちの…

歴史の貴重な史料である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/08

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展

■世田谷区上町の…

標記「世田谷区立郷土資料館」で
平成29年10月28日(土曜日)から12月3日(日曜日)まで開催。
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00155970.html

 詳細は、こちら
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00155970_d/fil/dayori67.pdf

■何といっても…

「ほとんど宝箱」と推定された「DVDの付録」付きの図録が魅力でしたので、昨7日
「図録が売り切れてしまう前に」
というわけで、時間をやりくりして、今朝アサイチで同館に寄ってきました。

■期待に違わず…
   
 厚さ約1センチメートル(ノンブルがないので総ページ数はカウントしていない)の図録には、付録として、そのpdfを収録したDVD、、さらに加えて昭和12年版の職業別明細図のレプリカ付き。

 内容は、もう世田谷の地図だらけ(画像は、そのインデクス・ページ)。

Thumnailm_2

 DVDに収録されている画像も、世田谷全域の図となるとさすがに苦しいのですが、地域を限った図だと、細部の文字まで読み取れる高解像度です。

 いや、手に入れられて、というか、手に入れそこなって後悔しなくてよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/18

特別展「渋谷駅の形成と大山街道」

[標記の特別展が…]

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 で
平成29年10月28日(土)~平成30年1月21日(日)
開催されます。
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/edu/koza/12kyodo/tenrankaishousai.html#15

チラシの表側の画像は、ポスターにもなっているので、随所で目にする機会も多いかと思いますので、ここでは、裏面の画像を

S

展示物のご提供(何かは見てのお楽しみ)など、少しばかりお手伝いさせていただいた折に聞き及んだところによると、当地つまり西隣の世田谷区東北部、とりわけ帝都線や玉電沿線の住民にとっての見所は…

・明治18年に日本鉄道品川線(現・山手線)開通時に、今の湘
 南新宿ラインの渋谷駅(俗称・南渋谷駅)のところに、渋谷
 駅が開業して以来の変遷を、とくに大山街道を走った玉電や
 市/都電の停留場との関連を含めて示す展示

 *この日本鉄道品川線の

 当初の計画ルートについては、当ブログの
 「原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?」
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/11/post-8ab0.html

 をご参照ください。

そして
・昭和39年のオリンピックを前に、首都高速3号線工事の進む
 東口駅前を中心に再現したジオラマ(上記チラシの左側中央参照)
  このジオラマ、かつて、東急プラザの閉館直前の展覧会
  で見たのですが、ヤジロベエ式の首都高3号線の橋桁工
  事、東横百貨店屋上の遊戯施設、工事中の東口周辺の道
  路の「ヤレ」た路面、など感動モノでした(写真は、そ
  の折のもの)

Dsc02795s_3

Dsc02789s_25000形、7000形はいわば定番ですが、5200形(1編成しかない)がさりげなくいるのは感動もの。

・渋谷駅からハチ公バスが使えるので、交通費低廉
・60歳以上入館無料(要証明資料提示)
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kyodo/index.html
なので、

とくに「アラ・シックス」以上の年代の方は

ローコストで「青春の想ひ出」に浸れます。

是非お運びを。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/13

古道「隠田道」

■世田谷の地誌についての…

基本書中の基本書というか必須の文献としては

東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊
(実際の著者は、下記三田義春)

とならんで

三田義春・編著「世田谷の地名」(上下)東京都世田谷区教育委員会/S59・刊

がある*

*さらに
 三田義春「世田谷の近代風景概史 〔都市美せたがや叢書3〕」世田谷区企画部都市デザイン室/S61・刊
 もある

■その…

上巻の代田村の章に掲載の地図「第126図」〔p.199〕に、その東隣にあたる下北澤村の淡島交差点から現在の京王井の頭線の池ノ上駅西に向かう道に「隠田道」と付記されている。
 なぜか、当の旧下北澤村についての同趣旨の地図である第177図〔p.183〕にはそのような記載はないのだが、いずれにしても、隠田といえば「隠田の水車」で有名な、このあたりからは北東にあたる、澁谷川沿いにあった村と考えるほかない(今でも、表参道のぼぼ谷底から南に向かって「隠田商店街」がある)。

 かつて、代田村(や下北澤村)から、その隠田を経て江戸市中に、青物や竹の子などを運んだ道であろうことは想像できた。

■なぜなら…

代田村や下北澤村から、江戸市街に向かって、いわゆる「往還」を使うとすると、滝坂道(現略・淡島通り)を東に向かい、目黒川の支流「空川〔そらかわ〕」の谷底の遠江橋を渡り、道玄坂の中程に出て澁谷川を渡ってから宮益坂を上って、今の青山通りを赤坂方向に向かうことになるが、空川の谷は今でも急峻だし、澁谷川を越える道玄坂・宮益坂も、明治以降の改修後の現況よりはるかに急峻だったらしい。

 これに対し、この「隠田道」なる道は、素直に考えると、淡島の交差点から北に向かって北澤川左岸の坂を登り、現・池ノ上駅北で右に折れて三角橋に抜け、駒場道を右折して三田用水沿いに東に向かい、二ツ橋*で左に折れて現・東海大学通りを下って澁谷川の支流である宇田川を越え、今の代々木公園の中を原宿駅方向に上り、そこから澁谷川の谷を下って隠田村に入る、というルートとなる。

Id1207598_75_cs
都市計画東京地方委員会・編「都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録〔第8号〕」同委員会/S11-13・刊 附図 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207598/75>
「東京都市計畫代々幡町道路第十五号路線變更道路平面圖」に、以下の補入

黄色線が隠田道/雙子道。隠田道…が三田用水路(青線)渡る橋(赤矢印)が「二ツ橋」

 こちらのルートも、川をいくつか超えるので決して平坦な道ではないものの、川は上流部で越える方が急坂を避けられるのが通常だし、今の空川を越える遠江橋両岸の淡島通の勾配に較べても、隠田道の方はそれよりはるかに緩らかだったはずである。

■当初は…

この隠田道という名前は、当初は代田村あるいは下北澤村あたりで名付けられた俗称なのかと思っていたのだが、

東京府荏原郡役所改築祝賀協賛会・編「東京府荏原郡勢一覧」同会/T09 ・刊 p.147
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/975858/86>をみると、

隠田道 荏原郡世田谷村境瀧坂道ヨリ分岐シ豊多摩郡代々幡村ニテ駒場道ニ接スル64「0」.25間 準市街道

 とあることから、公式名称だったことがわかった。

 一方、代々木村、後の代々幡側では、代々木八幡下以南の区間を以下のとおり「雙子往還」、同地以東を含む接続先の道を「青山往還」と呼んでいる。

雙子往還 大字代々木字本村八幡社下にて青山往還より分岐し、代々木上原を過ぎ駒場道荏原郡境に至る。町内の延長八百三十二間(十三丁五十二間)、平均幅員二、七間。

(東京府豊多摩郡・編「東京府豊多摩郡誌」同郡/T05・刊 p.698<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/371>。なお、「駒場道」についても同ページ参照)。

 よくあることだが、南側の荏原郡では、北の「隠田」に向かう道ととらえ、北側の豊多摩郡では、南の「二子」を目指す道ととらえているわけである。

■それでは…

この道、いつごろから存在するのかが問題になるのだが、

「目黒筋御場絵図」国立公文書館・蔵
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>

(ただし、青山付近の東端部のみ。なぜか、代々木村は、目黒筋ではなく中野筋に属していたらしい。)

や、代々木村の村絵図

14s
享保14年ころの代々木村絵図(豊島区立郷土資料館・編「豊島郡の村絵図」同区/2010年・刊p.10より)
画面左上に⑭とある二ツ橋から真下に伸び、上澁谷村に入るやや広い道が隠田道/雙子道である。
右端の縦方向の道が甲州道中であり、描かれている道の幅員からみて、隠田道/雙子道も村の主要道

に位置付けられていたと推定できる。

S
(作成時期不詳)堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書情報センター・蔵)
左端中央やや下から下端中央に斜めに走る道が、隠田道/雙子道
沿道に黄色く塗られた武家屋敷がある。

などにも描かれているので、近世中期に存在していたことは疑いがない。

 さらに、池田功「東海大学通りは古い往還路である」(辻野京子「まちの記憶 代々木上原周辺」同/2003・刊 所収 pp.61-62)によれば、

「この道は…鎌倉から平泉に到る奥州道の一部で、世田谷方面から旧航空研究所通りの三角橋、ニツ橋*を経て、この道を通り、山手通りを横断して、都立代々木公園(戦前は代々木練兵場)から原宿に抜けていた。」

とある。

*二ツ橋については、別ブログの http://mitaditch.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html 参照

 典拠は明らかでないものの、これに従えば、遅くとも、吉良氏による世田谷城築城期あたりまでは遡ることになりそうである。
 隠田から北は措くとして(いわゆる御府内については、近世期の改変が多いのでよくわからない)、代田・下北澤から南方向については、そのまま滝坂道を西に進むと世田谷城に行き着くし、世田谷城下から南に向えば、大山道を経て二子に達するからである。

■一方…

いわば「実用」の問題としては、近世期に代田、下北澤さらには太子堂、若林といった現・世田谷区北東部の各村からどこに産物を持ち込んだかにある。

 実はこちらがもともとの興味の中心だったのだが、最近になって、青山久保町(現・北青山2丁目)の大山街道(現・青山通り)沿いに青物市場があったことがわかった*

*白根記念渋谷区立郷土博物館・文学館「特別展 渋谷駅の形成と大山街道〔図録〕」同館/平成29年10月27日・刊 p.11

 そこは、隠田村から原宿村を隔ててすぐ東にあたり、それだけに、現・世田谷区北東部の農村にとって、この道は、青物を中心とする産物の出荷のための、重要なルートだったことは間違いなさそうである。

S

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

Elv_turumaki_s_3


屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

Elv2

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

Elv_s

・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

【最終版】

Elv0508


・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・萩原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/05/03

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕

〔その1:駅舎の意匠〕で…

検討したように、屋根の傾斜とか、場合によっては入口上の明り窓の有無の見当を付けるには、まずは、駅舎のサイズ、それに先立って、昭和2年の開業当時の、駅舎敷地の位置と広さが問題になる。

その重要な資料の一つとしては…

東京都公文書館・蔵の

資料種別 公文書_件名_府市
公開件名 土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図】〔豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町〕《小田原急行鉄道(株)》
文書記号・番号 丑土第4775号
補助件名 停車場設計平面図2 停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍図)34 区域標示図
文書年度(和暦) 大正14年~大正14年
文書年度(西暦) 1925年~1925年
起案年月日(和暦) 大正14年7月29日
起案年月日(西暦) 1925年07月29日
記述レベル item
作成組織 東京府
内容注記1 住所地:豊多摩郡淀橋町大字角筈字上手際 新町
内容注記2 関係先名・関係先住所:小田原急行鉄道(株)
収録先簿冊の資料ID 000129396,000129397
利用可否 利用可
公開区分 公開
資料状態 複製利用
利用状態 問題なし
複写コード 複製物から複写可
検索手段 [16],[D]D895
収録先の名称 地理・土地収用 冊の12,地理・土地収用 冊の13
収録先の請求番号 305.F6.06,305.F6.07
電磁的記録媒体番号 D895-RAM

中の「中原停留場設計平面圖」がある。

_s


これを、反転して抜粋すると(図の下方が略北)、

_rdijs

 駅の西の、今の環状7号道路の原型にあたる、北は堀の内の妙法寺、南は池上の本門寺に通じる主要道「堀之内道*1からの取り付け道路を造り、その突き当りに駅舎が設けられたことがわかる。

 したがって、この世田谷中原の駅舎への入口は、堀之内道の方向、つまり西にあるらしいこと、駅の敷地の南北方向はそれほど広くないことから駅舎が東西方向に建っていたらしいことがわかる。

 上の図面の下方の横断面図を見ると、ホームの幅は15フィート(約4.5メートル≒2間半)なので、敷地の幅は、そのほぼ倍の30フィート(約9メートル≒5間)しかないことになる。

 実際、同じ敷地に戦後建て直された駅舎のサイズからみても、駅舎のサイズがそれほど大きいものでなく、また、敷地の南北方向の幅がそれほど広くはなかったことがわかる(左端やや上の小豆色の屋根が場内跨線橋)。


「明らかにパブリックドメイン」といえる大きな画像が見つからないので、WikiPediaから、とりあえず小さな画像だが転載。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/1e/Odakyu_Setagayadaita_eki_3.jpg

*1 とくに、今の東京西部は南北に通じる道が少なかったこともあり、かつては両寺での大きな法要時には、人の流れが途切れなかったという。

もう一つの資料は…

小田急電鉄・蔵の、世田谷中原駅の「焼け跡」の写真

S20s_2

である。

 この写真の中の、コンクリート製の基礎の残骸をてがかりに、建物の外形のいわゆるアタリを取ってみると

S20s_4

水平方向の赤線のような、駅舎の平面が浮かび上がる。

 つまり、
・駅舎は敷地の南寄りにあって
・写真手前の西側の縦方向の緑線の間が駅舎の入口で
・その奥の東側の約5分の3の範囲に事務室がある。

・入口から入ってすぐ左が改札口で、
・そこから右に折れてホームに向かい
・下りホームへは(先の設計図の断面図からみると) そのまま行くことができるが
・上りホームへは、一旦ゆるい階段を下って、左に曲がって構内横断場を渡り、右手のゆるい階段を昇る

ということになる。

 この配置だと、敷地の南端と駅舎の間が半間(0.9メートル。この時点では敷地の南は道路ではないので、境界ギリギリに駅舎を建てるわけにはゆかないだろう)、駅舎と線路の間の通路を1間半(1.35メートル+1.35メートル=2.7メートル)とみると、駅舎の幅は、5-(0.5+1.5)間の3間(約5.4メートル)程度を取るのがせいぜいといえる。

 先の生方・p.35の喜多見駅復元図の駅舎の幅は、5.4メートルなので、それとほぼ同規模・同一設計か、あるいは1サイズ下、つまり幅4.5メートル程度(おそらく、前ページの鶴巻駅と同規模・同一設計か)と考えられる。

【参考】

Photo
開業直後と思われる「千駄ヶ谷新田」(→小田急本社前→南新宿)
推定幅4.5m(2間半)

ここまでの結果に基づく想像図は 次ページ で。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕

昭和20年7月1日に…

空襲で、世田谷中原、つまり今の世田谷代田の駅舎が焼失している。

 この焼失前の駅舎の写真は、これまで探したがみつからないので(昭和19年に橋上駅に改築された下北沢、さらに昭和38年に鉄骨造の駅舎に改築される前の東北沢の木造時代の駅舎ですらほとんど写真がないので、無理もない面もある)、今回、戦災前の駅舎の姿を推定してみることにした。

実それというのも…

生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBパブリッシング(キャンブックス)/2009年・刊

によれば、少なくとも、昭和2年4月1日に小田急の小田原線が開通した当初の駅舎は、かなり、パターン化されていることがわかったからである。

 つまり、同書のp.33には、

「■駅舎建築
 小田急の駅舎建築の変化を概括的に眺めてみると、小田原線開通時に五大停車場(稲田登戸
*1、新原町田、相模厚木*2、大秦野*3、新松田)がマンサード型の大きな駅舎で威容を誇っていた。…その他の駅*3は当時はやりのモルタル造りの建築が多かった。」

とある。

*1 現・向ヶ丘遊園(北口に、唯一、開通時のマンサード型の屋根の駅舎が残っている)
   ブログ「関根要太郎研究室@はこだて
 」中の「小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023
   に、2012年撮影の様々な角度からの写真と、新原町田、新松田の開業当時の写真も掲載されている。
*2 現・本厚木〔表/南口〕
*3 現・秦野
*4 当時の「地方鉄道法」では、おおまかにいえば、信号機またはポイントのあるものを「停車場」、これらがないのを「停留場」といった、以下、ポイントはともかく信号機の有無まで調べるのは、面倒だし、このアーティクルの本筋とは無関係なので、すべて「駅」と呼ぶ。

実際…

同書などに掲載されている昭和2年4月1日の開業時に建築された駅舎の写真を見ると、
・新宿、小田原などのターミナルを除くと
・マンサード屋根の上記5駅舎
 3829p82_s
 大秦野駅〔現・秦野〕
 鉄道ピクトリアル No.829p.82


・木造モルタル造で切り妻の屋根の棟の中央に三角形の明かり窓のあるいわば「標準仕様」
 3829p82_s_3
 鶴巻駅〔現・鶴巻温泉〕 前同

に大別され
これらからはずれる
・特殊タイプとしては、参宮橋(同・p.48。明治神宮の最寄り駅なので「社殿造り」)、座間〔初代〕(同・p.96.現・相武台前。陸軍士官学校の最寄り駅で同校校長などのための貴賓室を備える大型駅舎)程度しか見当たらない。

S
相模厚木〔表口〕 土木建築工事畫報 3巻5号30ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf

 世田谷中原は、もちろん先の5大駅舎のうちに入っていないし、特殊タイプの駅舎とするほどの特色のある場所ではないので、結局「標準仕様」、つまり上の鶴巻駅と同様の意匠によって設計されていると考えるほかない。

もっとも…

「標準仕様」とはいっても、詳しくみると、構造、意匠、材料、装飾などが共通という意味で、微妙にバリエーションがあることがわかる。

 たとえば
・柿生駅(同・p.84)と伊勢原(同・p.109)は、他の駅舎の入口が建物の棟の方向、つまり建物の妻面にあるのに対し、ここは、棟と直角に屋根を設けて、いわゆる平入りになっているし、
・生田(同・p.78)、新座間(同・p.98。現・座間)も、その方向には屋根がなく庇しかないが、平入りになっており、
・経堂は、妻入りで構造自体には標準型と違いはなさそうだが、妻面の装飾がほかの駅と違っている(後の、改装の可能性はあるが)。

 しかし、もっとも多いバリエーションは、
・駅舎の妻面の幅
・それと関係の深い屋根の勾配
・妻面の駅入り口の上や屋根側面の明かり窓の有無
である。

中でも…

一番わかりやすいのが、屋根の勾配である。

 生方・p.35に、喜多見駅の復元図(西〔事務所側〕面と北〔ホームの反対側〕面の各立面図と平面図)が掲載されているが、その屋根の勾配は10/10、つまり角度でいえば45度になっている。

 しかし、写真で判断する限り、そこまで急勾配のものは、稲田登戸の南口(同・p.74)、相模厚木(同・p.106。現・本厚木)、伊勢原(現・同p.109)くらいで、他はもう少し勾配は緩い。

 屋根の高さ(深さ)が同じなら、妻面の幅が広くなれば勾配は緩くなるので、まずは駅舎のサイズ(妻面の幅)で屋根の勾配が決まるとみてよい。

 ただし、あまり緩いと雨漏りの原因になるので、限界はあって、その場合には屋根を高くする必要があるし、そうなると、入口上の妻面に、半円形を基調にした装飾はあるものの「間が抜ける」ので、入口の庇の上に明かり窓を設けたのではないかと思われる。
(やや異色なのは、稲田登戸の南口(同・p.74)で、おそらくは北口の大型駅舎とのバランスとか、向ヶ丘遊園〔小田急本線と同時開業〕の最寄り駅であるためか、かなり大型の駅舎に見えるが、楽し気な雰囲気を出すためだろうが、傾斜45度の屋根が載っている。)

 つまりは、あまり大型の駅舎でなければ、建物の幅から自ずから屋根の勾配の見当がつき、さらに、入口上の明り窓の有無もあらかた推定できそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/04/03

代沢芸術祭2017

■昨日…

北沢八幡神社の矢島宮司からうかがったところ、昨年始まった「代沢芸術祭」今年も開催とのこと。

 早速、同社の拝殿前で配布されている(といっても、賽銭箱の奥に置いてある)パンフレットをいただいてきたのですが、昨年よりもさらに拡大・充実しています。

2017s

 これだけの公演

20170001s

が、連休中、ご近所で目白押し。しかも無料。

 どこか遠くに出かけようという気もしなくなりますよね。

【追記】2017/05/01

今日、豪雨の中、北澤八幡神社神楽殿での「デキシーランドジャズ」の公演に行ってきました。

Dsc07951s

出演メンバーは、早大のニューオルリンズジャズクラブ のOBで、平均年齢70UPの由。

Dsc07946s
つま恋というか、日比谷の野音というか…

Dsc07960s

カレンダーでは平日ですので、聴衆は高齢者があらかた(me too )

Dsc07969s

ですが、なんのかんの言っても、全員戦後世代というか「FEN世代」。

いわば「50年ぶりの学園祭」ノリ

Dsc07994sjpg

で、天候不順の中でも結構盛り上がりました。

Dsc07989s

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/19

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ【現地探訪篇】

■平成29年2月18日…

「昭和の暮らし博物館」の講演会の折、懸案だった

大田区久が原のミシャグジのカミ

の現地に行ってみた。

■ここは…

呑川左岸の崖線の直上、ほとんど縁の部分といってよい場所に位置しているばかりでなく、この崖の法面は

遺跡番号 34
ふりがな みなみくがはらにちょうめよこあなぼぐん
遺跡名 南久が原二丁目横穴墓群
所在地 大田区 南久が原二丁目
時代 [古墳時代][奈良時代]
種別 横穴墓
主な遺構/概要 1基
主な出土品 人骨

の包蔵地のようなので、他の「おじゃもじさま」例にたがわず、ここは、まさに、古代の祭祀の場所といってよいのである。

Iseki34
http://tokyo-iseki.jp/map.html

■最寄り駅の…

東急池上線の久が原からも、同じく多摩川線の鵜の木からも、そこそこ距離がある場所だが、大田区の鵜の木特別出張所の北東筋向いなので、比較的見つけやすい。

Dsc07606rs_2
さらに、巨木(ヒバ?)が目印にもなっている

Dsc07600rt_2
2015年秋の写真と較べると鳥居が建替えられていて、
今も大切に祀られていることがわかる

Dsc07589rs

Dsc07590rs

■碑文を読むと…

●正面

Dsc07593rtc

「道饗社詞」と読める(ただし「饗」の左上の「幺」の部分が「歹」)

●右側面

Dsc07597rts

「享保十二未天十二月吉日」と読むほかなさそうである
(なお、享保12年は丁未-ひのとひつじ-年。また、この年は12月に閏月がある)

●左側面
Dsc07599rtc

右「識〓道家中」

中「明治四未年十月廿?四?日建」

左「(判読未了)」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/07

原・山手線のルートは鎗ケ崎越えだった?

今の…

山手線(の西側約半分)は、もともとは、私鉄〔といっても、一般的な私鉄とはやや性格が異なる〕*だった日本鉄道の、東北・上越方面と東京南部とを結ぶ路線として明治18年に開通したことはよく知られている。

*[日本鉄道]
というのは、なんとも不思議な成り立ちの鉄道会社です。

 事の起こりは明治0年代。(金持ちは皆、汽車に乗って東京の芝居を見に行ってしまうので)「横浜の芝居小屋が廃れた」といわれるほどの繁盛していた新橋・横浜間の官設鉄道を、岩倉具視を中心とする華族たちが資本を集めて払い下げを受ける計画がもちあがりました。民間が、官営で立ち上げた企業の払い下げを受ける(あるいは釜石の製鉄所のように「押し付けられる」)というのは、当時はしごく普通のことではありましたが、諸般の事情で中止のやむなきに至りました。

 集めてしまった資本は、澁澤榮一の勧めにより、明治12年、東京海上保険会社の設立に使用したのですが、この間に、政府は、鉄道網を充実させる必要が叫ばれながらも国には金がないため*、鉄道官設から、私設鉄道の設立を奨励・助成する方針に転換しました。

 これを受けて、再び岩倉らの後押しで、華族か資本を集めて明治14年に設立したのが、日本鉄道会社です。この鉄道会社、私鉄ではあるものの、建設工事、車両・資材の供給、線路の保守等は政府の鉄道局が行なったという、準官設ともいえる性格を有していたようです。
(参照:「日本産業史 1」有沢広巳・監修/日経文庫497/1994/06/14・刊)

* 明治5年の汐留-横浜間の最初の鉄道もイギリスで国債を発行して資金を賄った。
 
今の日本人からみても「よくもまぁ貸したものだ」と思うが、一見もっとギャンブルに見えるのが
 
日露戦争の戦費調達のための国債だが、こちらの方は、ロシアの西への進出を食い止めたい
 
イギリスや、実際に国債を引き受けた、ロシアで「いじめられていた」ユダヤ人にとって、勝ち負
 
けはともかく、たとえ日本が負けて多少資金が焦げ付いたとしても、ロシアの勢力を多少なりと
 も削
ぐだけでも「まんざら損はない」投資だった可能性がある。
  ちなみに、AIIBに関して、麻生財相が「1日も遅れず、1銭も違わずに返した」といったのが、こ
 のときの国債らしく、本当に戦時中も、中立国経由で、交戦中の英国に向けて返済し続けたら
 
しい。

 その「日本鉄道品川線」のルートとして初期に計画された、品川―高崎間の路線の図面が、国立公文書館のデジタルライブラリにある。

「東京高崎間鉄道路線図」〔原文「東京高嵜間銕道略圖」〕

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0605050000/0000000746/00

S

これまた…

よく取沙汰されている「目黒駅追い上げ説」によれば、 現・山手線は品川から目黒川を渡り、川の右岸側を進み、目黒不動の東側を通り、その後目黒川を渡って渋谷に抜ける計画だったところ、地元民の反対にあって、現・五反田駅を経て現・目黒駅に抜けるルートに変更された、というものだが、この地図

C
上図の左端を抜粋し90度半時計周りに転回

をみると、あながち、都市伝説とばかりは言い切れない話にも思えてしまう*

*ただし、やはり都市伝説でしかないようである。
小野田 滋「東京鉄道遺産をめぐる 番外編5 連載の補遺 -その2-」(鉄道ファン2012年5月号pp.146-151)pp.146-150 

■それはともかく…

この図をみても品川駅は(もともと東海道本線の駅だから当たり前だが)現在と同じ位置にあるし、図中に赤字で「ステーション」とある渋谷駅も開通当初の位置(その後、渋谷の貨物駅となり、現在は、湘南新宿ラインの「里俗・南渋谷駅」がある)にあるように見えるので、果たしてこの品川・渋谷間の当初計画のルートがどのようなものだったのかには、興味をそそられるところである。

 

■そこで…

2s

この、品川・渋谷間について、線路に交差している当時の主要道路を当てはめてみると、

・目黒不動のあたりまでは、目黒川右岸を、ほぼ現在の山手通りに近いルートを北上し

・目黒・田道の海軍火薬製造所、現在の防衛技術研究所の南で目黒川の左岸にわたり

・別所坂の西を過ぎるあたりまで岸沿いに北上して、

・ルートをやや東に転じて、目黒川と渋谷川の間の鞍部を越えて

・渋谷川の谷筋に下り

・ほぼ現・湘南新宿ラインの駅の位置にある渋谷駅に達する

ことになる。

■問題は…

その目黒川と渋谷川の間の鞍部をどこで越えるのかにあるが、路線図をよく見ると、そのルートは

目黒川側の谷筋らしき鞍部の微妙な凹み

・渋谷川側の明らかに谷筋と思われる凹み

の間を結んでいることが読み取れる。

・この両者を満たし
・鉄道路線として(当初は蒸気機関車が牽引する列車だった)勾配に無理があまりなく
・谷筋があって線路を通すための地盤の掘削量が少ない

ルートとしては

 目黒川側では、現・駒澤通り

 渋谷川側でが、現・東横線

の通る両谷筋を活かしたラインしか考えにくい。

 

3s

■つまり…

この初期の原・山手線ルートは、どうも鎗ケ崎のあたり越える計画だったようなのである。

【追記】

 この日本鉄道の原計画ルートを、いわば「聞き込んでそのまま落としてしまった」と思われる地図を見つけた。

 それが、日文研のデータベースにある

 「東京全図」〔(押紙)東京全図児玉又七明治十九年〕

 なる地図で、
 目黒ステーションは、
 目黒不動のほぼ門前にある
Photo
 ところが、次のステーションは、新宿で
Photo_2
 澁谷にステーションはない
Photo_3                  宮益橋のところで渋谷川を渡ることになっている

 で、先に検討した、渋谷川と目黒川の間の稜線を越える場所については…

 予想どおり、金王八幡から西に向かう「カマクラミチ」と、広尾町から北西に向かう「セタガヤミチ」、そして三田用水の交点、つまりは「槍が崎」のやや北ということになる。

Photo_2
〔参考図澁谷宮益金王邉圖」の右上部分を反時計回りに90度転回

L90c

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧