2021/02/28

北沢1丁目の「富士講碑」

■かつて…

世田谷区の北沢地区の、ミニコミ紙「きたざわ」に、こんな記事を投稿した。

Dijs

記事にあるように、京王井の頭線の池ノ上駅と、小田急線の東北沢駅のほぼ中間の位置に、この

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石碑がある。

碑文を読むと、鈴木金太郎という人が、50回の富士登山を果たしたのを記念・顕彰する石碑らしいことはわかる。

■しかし…

それ以上に、その機縁・由来の類や講中の活動の実態を示すような、史料や伝承がなかなか見つからなかった。

ことに、講中のマーク(惣印・笠印)に、該当するものがなかなか見つからなかったのであるが

「特別展 神社参拝と代参講」〔図録〕世田谷区立郷土資料館/H04・刊

の、p.34に、

「世田谷区では下北沢村、世田谷村、若林村、代田村の講中が山富講」

とあり、若林村の講中の「富士講掛金帳」の画像で、この碑を建立した講中の名前を確認することができた。

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■とはいえ…

それ以上の情報はなかなか現れなかったのだが…

昨年以来、いわば立て続けに、この山富丸平講の活動を示す資料が、渋谷区の旧幡ヶ谷村にあったことが判明した。

ネットオークションに

堀切森之助「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/S53・刊

なる本が出品されていたので、幡ヶ谷は北沢の「すぐ北」にあたることもあって、落札したのだが…

その、p.163に、鉄道の、開通後と、開通前の富士詣のルートが詳細に示され、しかも、旧下北澤村の淡島がその行程上の重要なポイントだったことがわかったのである。

●講中の地域的範囲

富士詣に就いては、幡ヶ谷の属してゐた講は北澤、代田、雑色等の各村を範囲としていた。

下北澤の鈴木金太郎が先達だった山富講と呼ばれていたが、その萱笠の印は、〔〇の中に〕平、または〔^^の下に〕富だった。

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北沢1丁目の石碑の裏面
刻まれている「世話人」の住所は、下北澤のほか、幡ヶ谷、雑色(中野)、代田に及んでいる
しかし、若林村の世話人はいないので、どうやら、この下北澤村を中心とする山冨丸平講と、
若林村周辺の同名の講は、同じ、本部にあたる親講を持つ、支部にあたる枝講なのではないか
と、とりあえずは、思われる。

●行程(鉄道開通前)

白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、前記の萱笠に金剛杖の参拝者は 、幡ヶ谷から甲州街道を府中、八王子、小彿峠、輿瀬の二瀬越えを過ぎて四方津、鳥澤、猿橋、大月と行き、此所から吉田口登山路を登って頂上の浅間神社へ参拝

帰路は御殿場口を下って東海道に出で、藤澤から江之島へ廻って江之島鎌倉を見物。
  おそらくここで
、精進落としを、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をして行ったのではなかろうか

そこから

ルート1:戸塚、神奈川を経て二子玉川へ出る(この行程は日数8日)

ルート2:二の宮で東海道と別れて秦野へ出、大山街道を大山、厚木、長津田を経て二子玉川へ出る(この行程は日数6日)

どちらも、二子玉川の茶亭に各村の第一出迎人が代参者の到着を待合わせて、合流して世田谷を過ぎて北澤の淡島神社前に来て、此所の茶亭で、各村講中からの第二陣の出迎人を交えて小宴を催した後に一行は解散

代参者は、第一、第二出迎人と共に、掛念佛の唱和で村へ送り込まれた

●行程(甲武線(中央線の前身)開通後)

徒歩時代同様に白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、萱笠に金剛杖の参拝者は字内の諸員等に見送られて新宿または中野駅に集合

同駅から乗車して大月駅で下車して吉田口から登頂

帰りは渋谷駅に下車して一行は北澤の淡島神社前の茶亭まで来る

此所で精進落しの別宴を張って参拝團を解散し、此所まで出迎えた各村の議員等と共に、途中比等の講員等が唱和する掛念佛で帰村

■鉄道開通の…

前後にかかわらず、この参拝團は、出身村に帰る前に「北澤の淡島神社前の茶亭

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で、かつては、小宴をはり、鉄道開通後は精進落としのそれなりの規模の宴会を行っているようである。

この「淡島神社前の茶亭」。おそらくは、富士詣の講員のために開かれていたわけではなく、当地の「淡島神社」の別当である森嚴寺が、毎月3の日と8の日に行っていた「淡島の灸」*に参集する人びとを対象に、当地の旧家で世田谷吉良氏の旧家臣といわれる伊東家が営業していたものと思われる。

この、淡島の灸については、近世江戸の2大紀行文作家である、十方庵敬順が「遊歴雑記」、村尾嘉陵が「嘉陵紀行」〔別名「江戸近郊みちしるべ」〕の中で、どちらも好意的とは言い難い紀行文を載せている*のが興味深いのだが、「行ってみてがっかりした」にせよ、江戸ではかなり著名な探訪地だったことは間違いない。

*遊歴雑記 初編 巻之上 第二十七 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/45 

今年文化十一年甲戌三月めづらしく邊鄙の花を尋んと、四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂邊を見めぐり、北澤村を遊行ずるに、實にも人口に風聞する如く森嚴寺の門前には、新たに酒食をひさく家三四軒然も廣々と路傍に建つらね置、遠く来る人は止宿もするよし、いかにもその家や幾座敷となく間廣々と見へたり、人の出這多かる中に、食事をしたゝむる人、酒を酌人、枕せる老夫、待詫て欠する少女、又来るもの歸るもの家ごとに、座せる人、不臥せる人、さながら温泉の湯治場の如し、

 嘉陵紀行 第四編 北澤淡島社   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912956/129

寺の前に酒飯あきなふ家一戸、此外近くにも猶あり、民家ゟ灸ある日ことに路次に出茶屋をまふく、こゝかしこに在、

(文政三年庚辰五月八日遊)

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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/6

【追記】

このほか、淡島社が著名地だったことは

●国立公文書館・蔵「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html

の9ページ目に、天保4(1832)年当時の、玉川上水の代田橋下流にあった代田芥留の図中の遠景、左上隅に、北澤八幡社でも別当の森嚴寺でもなく「淡島社」だけが描かれていること

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●江戸名所圖繪の三巻天璣八冊40コマ目の図

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559047/40

の上部のタイトルが「北澤粟島社」であること(もっとも、こちらには「八まん」として北澤八幡神社、「別当」と題して森嚴寺が描かれてはいるが、どうみても「淡島様」が主役)

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からも了解できる。

 

■明治期になっても…

、この淡島が人々を呼び寄せる場所であったことを示す記述が、やはり、最近入手した

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊

にあった。

●森嚴寺境内にかつてあった富士塚について

淡島富士は(渋谷道玄坂下の)御水の枝講々元で、三軒茶屋の地名の語源となった三軒の茶屋の、田中屋、しがらき、堀江のうち、田中屋の主人新兵衛が願主となって築造した。

この富士の築造に際して、保証人として親講元の吉田平左衛門が新兵衛と連名で下北沢村名主の半蔵に一札を差入れている。

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文政四年己三月とあり、往時の富士塚築山流行時代の所産といえる。

「また当時、この寺に中々の智者があり、築山を利用して、富士の灸と称し、灸点する者が現れた。こん日、富士の灸というのが全国に何カ所あるか知れないが、この森厳寺の灸が富士関係では始めてのことと思われる。この灸が「淡島の灸」として有名になってからも、長くつづいて行なわれている。
    :
この淡島の灸に通う人たちの途中休憩した掛茶屋が、松見坂三田用水脇の富士見茶屋、弘法湯、道玄坂、宮益坂にあった*。」

 同書38話 pp.211-212

*ここにいう掛茶屋の位置が措定できそうな、渋谷宮益坂下から滝坂道の松見坂下あたりにかけての、天保3(1832)年の紀行文があった。
 筆者の名前は不明だが、新編武蔵風土記稿を編纂した、幕府の昌平坂学問所内の地誌取調所所属の地誌取調出役、つまり、現地調査を担当する、いわば「学芸員」だった模様である。

宮益に出て道元〔宮益の誤〕坂を下り小橋を渡れり、この流れは渋谷の川上にそ、左に水車〔「宮益水車」〕あれとけふは盆の十六日なれハなりわひ休らふならハしにて音もせさりき、田面の緑り深くゝき遠近曇りて日影のうすくなりけれは、暑さを凌よくしハし立休らひて、
  初秋の風に稲葉の露ちりて緑りすゝしき賤か千丁田
上渋谷村の茅屋つゝけるを過て長き坂〔←「道玄坂」〕あり、この半に山を開きて茶店三軒を出せり、新らしくもふけしなり、団扇に松の絵かきしを商ふもありき、池尻村にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北沢村」の誤〕の淡嶋明神の道〔←「滝坂道」〕を鐫[え]れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り、うちミるに己かまゝに身のならされはさそくるしからん、道すから大山・富士なとへ群れ行人をミるにさそ楽しからんと察しぬ、仕へするミは一夜たによそへ宿りぬることもならす、この猿にも同し様なりと思ひやりて、
  つなかれす深山をさそな朝な夕思ひまきるとねにや啼らむ
二町余を過ぎぬるに清き細流あり、土人に聞くに玉川の分水にて烏山・給田の村/\なとより引る用水〔←「三田用水」〕なりと、かく高き処に見るもめさましく激してこれをやらハ、山に有らしむへしと云しもことハりなり、空晴て暑さの損くなり侍るまゝ水をむすひしか、余か影のうつりぬるをミて、
  世にも名の知れぬ計の細流清きこゝろはうつしてそしれ
すこし行て下れる坂あり、上目黒村の入会の地なり、跡の流れより落くる水〔←「三田用水・駒場分水」〕なりき、さまて多からされと瀧をなし音の高くすゝしければ、
  家を出てまた聞なれぬ道の辺に落くる水の音そさやけき
坂の下〔←空川を越す「遠江橋」あたり〕ニ新しき茶店あり、右へ折れ左は田面緑りふかく、少し行て右は駒場野[古ハ駒か原と云しよし]にて[御茶園あつかりにて]荘頭上村氏[左平太]鳥人[おとりミ]山内氏[うち]正助等の官舎あり、高札をたてゝ往還の者松明・火縄・くハへ煙管等をいましむ、この向ひ木立繋ぎ門ハ里長[定右衛門といふ]なり、御狩のとき成らせ給ひてけれ此処其処へ土を盛て埓結ひめくらせり、余も廿年余りあと地誌[ちし]の公事[ごやう]にて都筑郡より帰るさ同僚[とうや]の小笠原氏と来りし事もありしか昔になりぬ、住居ハ其時にも替らす主人ハ如何あらんと思ひやりぬ、
  わくらハに諏〔と〕ひこしことは昔にてその面影もあせぬ木深さ
流れの巾二間もありぬ川に土橋を架し、たもとに水車あれと音もせさりき、池尻村にかゝりぬるかあやしの茅屋に琴の音きこゆ、鄙にハ珍らかなれハ、
  聞にさへ糸も珍らし玉琴のミやひの音ハ鄙にやハにぬ

作者不詳「松の柴折」(世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」東京都世田谷区教育委員会/S60・刊 pp.177-194)

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東京都公文書館 デジタルアーカイブ・蔵の「目黒近傍図 下 (荏原郡馬込領上目黒村)」
https://dasasp03.i-repository.net/il/cont/01/G0000002tokyoarchv01/000/020/000020682.jpg
の抜粋に同じルートをトレースしてみた。

Dija 

【参考】

文政3〔1820〕年の宮益御嶽神社(赤矢印)
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956
より

宮益坂~道玄坂~滝坂道 辺り

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道玄坂上~駒場狩場 辺り

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「昭和四十一年五月十七日
  代々木上原、吉田国太郎万にて
  語る古老 鈴木平五郎 明治十八年五月生れ 植木職もとは百姓

   吉田 世田谷の森厳寺、淡島のお灸の客を専門にした「かごや」が新宿の追分と
                 渋谷の宮益にあった。
   加藤 宮益のどこら辺か、坂の上か下か。
   吉田 坂上だ。かまくら道の入口の辺だ。
   鈴木 宮益の上から二子玉川まで、ガタクリ馬車が通っていた。
      中央線の開通する前は、甲州街道を、新宿から八王子まで馬車が通って
                 いた」

        同書31話 p.173

 

【追補】

 この石碑の位置は、かつての「北澤四丁目」のほぼ中心にある。

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現在は、図のほぼ中心の「国旗掲揚所」に並んで、そのすぐ南隣にあるが、かつては、南側の道路を挟んだ向い側にあったようである*

*佐藤敏夫「下北沢通史」同/S61・刊p.133(安野敬一氏S60・談)

 

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2020/12/12

世田谷区大蔵4丁目1番の「おしゃもじ様」?

■昨20年12月11日…

大蔵4丁目にある、御嶽神社や野菜洗い場跡を探訪するため、大蔵運動公園から、里俗・ザトウコロガシ坂を下り切る直前の辻の…

路傍に、石造物3基を納めた小さな堂を見つけた。

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■中央は…

帰宅してから調べた google map でも「庚申堂」と表記されているとおり

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「誰がどう見ても」庚申塔

(なお、後掲「大蔵民俗報告」p.105によれば、享保2(1717)年建立の由)

■その右は…

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表面の剥落がひどく、光線の具合もあって同定不能だったが…

堂内に掲示されている「地蔵尊庚申様新築上屋根工事由来」

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によれば、どうも、当地では地蔵尊と考えられているらしい。

【参照】

「風は世田谷」~第485回~お地蔵様のある風景(平成7年3月4日放送)

https://www.youtube.com/watch?v=zd-aBH3-37g

の、6分20秒あたりから、この堂が建立される前の、野仏の時代の光景が記録されている。

■しかし…

世田谷やその周辺で、こういった立柱の、馬頭観音は散見できるが、地蔵尊といものは見たことがないため

世田谷区民俗調査団「大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告」同区教育委員会/S62・刊(当ページでは「大蔵民俗報告」という)

pp.105-106 によれば「道しるべ」とされている(ただし、かろうじて判読できる文字からみて、単なる道標と断定できるかについては疑問がないではない)。

■そんなことよりも…

一番の問題は、左側の、この像

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「…工事由来」には

「石仏の一体は、田の神との言伝えであるが諸体は不明」

と書かれているし

「大蔵民俗報告」pp.105-106によれば、当地で「エビス様」とも呼ばれていたらしいが

「『エビス様』は近年になってどこからともなく運ばれ現在の場所に据えられたものである。」

とされている。

■たしかに…

もともと、エビスは田の神として祀られる例は多いらしいし、加えて、この

薬師の田の神 (tok2.com)

鹿児島県の田の神は、

・杓文字を手に持ち

・大きな笠を被り

・少し膝を曲げて屈む姿勢

など、ほぼ同じ意匠といってよく、

山の神・田の神 | 神使像めぐり*余話 (shinshizo.com)

のように、東京都内でも見られるようである。

■しかし…

杓文字を持っているとなると、やはり、「おしゃもじさま」との関わりも考えてみたいところである。

 

 

 

 

 

 

 

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2020/10/31

【ちょっと域外】ご近所の「お狗さま」探訪

■どうやら…

我が家の近隣には、御嶽神社はあっても、「お狗(犬)さま」はいないようなので、少し範囲を広げてみたら…

「お狗さま」についてはこちら
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2020/10/post-411332.html

順次追記予定の google map 「お狗さま」はこちら
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1A_eUXRPpmdG-27kyuwi8Nba8xYtGkCcp&usp=sharing


■高井戸御嶽神社 2020/10/31

我が家の最寄り駅から電車1本でゆける、京王井の頭線高井戸駅近くの、天台宗吉祥院門前の御嶽神社に、「お狗さま」がいることがわかった。

■環八沿いの…

高井戸駅から南に向かい、神田川を渡る「つくだばし」を越して、10分ほどで、環八西沿いに

「高井戸不動尊」とのゲート「天台宗吉祥院」の立標のある、

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参道入口についた。

■細い…

参道

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を西に進むと…

■右手に…

天台宗吉祥院の山門が見える

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■当然ながら…

参拝したし、なかなかのお寺なのだが、今回のテーマとは外れるので委細は省略することにして、正面やや左の鳥居のところにある

御嶽社

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とくに、画面左右の「お狗さま」に集中する。

■まず

写真正面右手の「阿形」の「お狗さま」

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別角度からは…

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■次いで「吽形」

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同様に別角度

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■宮益御嶽社の

「かわいい」お狗さまと違って、阿吽どちらも顔は迫力があって頼もしいのだが…

脚やせめて足先が、もっと力強ければ、と思う。

■それはともかく…

ここ、天台宗吉祥院の方は、参道にある縁起書

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によれば、

明治16年に谷中から当地に移転してきた

とのことなので、ほぼ間違いなく、お寺よりも、御嶽社の方が当地での由緒が旧い

といってよいだろう。

■同じく…

縁起書きによれば、吉祥院は、成田山新省講の祈願寺として、多くの信者が参集したそうなので、その陰に隠れて、当地の御岳信仰が忘れ去られては、と懸念した御嶽講の人たちが、明治32年になって、この

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「眷属〔この場合は「お狗さま」を指す〕供養塔」を建立したのではないか、というのは考えすぎだろうか。

 

■方南大山神社 2020/11/03

方南町の、釜寺こと東運寺

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本堂の棟の上に「釜」が載っている

のブロックの西端、環七から1本東にある大山神社に「お狗さま」がいることがわかった。

大山神社といえば、丹沢の大山阿夫利神社を信仰する大山講の人たちが建立したと考えられるのだが「さて大山にお犬さま信仰があったっけ?」と調べてみたが、どう考えても大山に「お狗さま信仰」はなさそうだった。

しかし、現地

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に行ってみると、こんな

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石碑があって、もともと当地にあった、大山社、御嶽社、榛名社を合祀した*

・社名は大山社のそれを承継し
・「お狗さま」については他の社に狛犬がいなかったので、御嶽社の「お狗さま」を承継した

のだろう(他社に狛犬があったのなら、いくら合祀といっても、さすがにそれらを「打ち捨てる」とは思えない)

*残念ながら、この碑の裏面にあった建立年が石の剥落によって読み取れない
 (残っている文字の一部から推測すると大正3年9月1日」〔赤文字が欠損部〕と読めなくもないが)
 たとえば、合祀されたのが
 明治初期の神仏分離の時期なのか、
 神社合祀令が施行中の時期なのか、
 関東大震災後の住宅地化で、農村を基盤にしていたこの種の講社(講中)が衰退した時期なのか
 などによっても、この大山神社の起源についての解釈は違ってくるだろう。

■祠の中の

護符をみると、御嶽のそれの存在感が大きく、とくに中央部に祀られているのは

平成20年に御嶽神社から戴いてきたらしい、同社の木札である。

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他に大山社の護符も複数あるが、榛名社のそれは見当たらない。

御嶽社の護符の年代からみて、今も御嶽講が当地にも存続しているとも思えないのだが、榛名社、大山社、御嶽社の順に、当地の信仰が衰退してきたことは確かだろう。

■最後に

肝心の「お狗さま」の写真

阿吽それぞれ何カットか撮っているが、どう見ても「これで決まり」というカットのみをご披露する。

定石にしたがって、まず、阿形

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次いで、吽形

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■体側には

肋骨が浮き出ているのに対し、脚、とくに前脚の力強さが印象的である。

 

■笹塚御嶽神社 前同日

方南の「お狗さま」

の帰路、環七沿いのバス停から、新代田駅前行きの東急バスに乗って、終点から井の頭線で帰るつもりだったのだが、渋谷行きの京王バスの方が先に来たため、代々木八幡経由の小田急線で帰ろうと乗り込んだのだが、バスが環七から甲州街道に左折して、笹塚を通ることがわかったので、笹塚駅前で降りて、笹塚の御嶽神社に参拝することにした。

■ここには

「お狗さま」がいないことはわかっていたのだが、これまで調べた限りでは、我が家からもっとも近い御嶽社なので、せっかくの機会なので立ち寄ることにしたわけである。

地図は持ってきていなかったが、甲州街道の北側で、笹塚駅前から西方向にある路地の西側にあることは記憶にあったので、何筋かを順番に手繰ったら期待通りに見つかった。

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■この種の

社としては、境内地も結構広いし、きれいに掃き清められていて、当地の方々が大切に祀っていることが窺われる。

 

■永福御嶽神社 2020/11/14

■京王井の頭線…

永福町駅から南に数分。

昭和の香りの残る商店街の中にあった。

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杉並区永福1丁目39番17号

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■ここは…

数100メートル南の、永福稲荷神社

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杉並区永福1丁目24番6号

の境外末社として、江戸時代中期に当地の御嶽講の講中が建立したもののようだが、写真でわかるように、今回、本社の方にまで足を延したのは、ネット上の情報で、ここの境内に「不可解な動物」の像が祀られているらしいことを知ったからである。

■境内を…

探し回った結果、北側の参道入口の鳥居の手前の擁壁の上に

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一対の、像を見つけた。

■こまかい…

分析とか類例探しは後日のことにして、まずは、論評抜きで

吽形|阿形 のペアで、何パターンかを載せておくことにする。

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■とにかく…

オオカミ(お狗さま)のようでもあり、キツネ(お稲荷さん)のようでもある、という不思議な像である。

 

■羽根木御嶽神社 前同日

京王井の頭線で…

帰宅するルートの途中なので、代田2丁目駅で途中下車して、その北方の同社に立ち寄ってみた。

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東京都世田谷区羽根木1丁目24番1号

標柱に、「武州」と冠して社名を刻んでいる。

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■こちらは…

旧・原・世田谷村飛地羽根木の、閑静な住宅街の中にある。

 

■杉並区桃井の御嶽神社 2020/11/21

■ネット上では…

採り上げている方

https://ameblo.jp/benben7887/entry-12375413239.html
はあまりいないようだが、写真でみると、ここは武藏御嶽神社スタイルの正統派のお狗さまが守護しているようなので、JR西荻駅から15分ほど歩いて、青梅街道から少し北に入った、ここに行ってみた。

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■ネット上の…

画像でみると、正面に2階に上がるための鋼鉄製の階段の脇にあるという、不思議な佇まいに感じていた。

行って見てわかったのは、ここは

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「宿町集会所」という、町内会館だった。

個人のお宅ではないので、安心して、所在地を、杉並区桃井4丁目1番9号と、住居表示で示すことができる。

■つまり…

この社は、旧町名の宿町を冠した町内会の会館の西南隅に鎮座している。

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道路際には鉄のフェンスが設けられているが、中央にある引き戸には施錠がなく(というより、その設備/装置もない)誰でも参拝できるようなので、境内に入って参拝したが…

賽銭箱がない!

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ここの場所柄からは、いわゆる地域神と思われるのだが、それなら賽銭を供えられても、祠やお狗さまの維持の資金として町内会が管理すれば問題ないはず。

あるいは、特殊な縁起があるのかもしれないので、いずれは、杉並区の郷土資料館などででも調べてみたいところである。

とはいえ、そのまま立ち去るのも気がひけるので、5円玉だけ、祠の框にお供えしてきた。

■で、肝心の…

お狗さまだが、アングルを少し変えて2カット撮ったので、吽形‐阿形を並べて掲載しておく。

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■一応これで…

宮益御嶽神社から始まって、我が家の近隣といえる地域にある「お狗さま」がいる御嶽神社については「管見の及ぶ限り」ではあるが、全て参拝したことになる。

残るは「お狗さま」不在の御嶽神社(たとえば、代田八幡の境内社。ここは今月25日に参拝予定)と、三峯系の神社で、できれば年内に参拝したいところではある。

■代田御嶽社 2020/11/25

今日、小田急線の世田谷代田駅前で、ちょっとした打ち合わせがあったので、すぐ近くの代田八幡神社の境内社である御嶽社に立ち寄ることにした。

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本殿の右(東)奥の、一段高い場所にある。

みてのとおり、「お狗さま」はいない。

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■代田三峯神社 前同日

代田の御嶽社を参拝した後、淡島通りのバスで渋谷にでることにしたので、いわばバス停までの通り道といってよい、代永山圓乗院

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右端が、昭和20年5月の山の手空襲で被災したコウヤマキ


の境内東脇

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の三峯神社にも立ち寄ってみることにした。

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の扉が少し開いていたので、覗いてみると

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比較的新しい代参札(代参者が、講中のために秩父三峯神社から受けてくる護符)と思しきものが納めれていて

 代田三峯
  講社御中

と読める。

代田の三峯講中が、いまでも活動を続けていることが如実にわかる。

■砧三峯神社 2020/12/11

■小田急祖師谷大蔵駅に…

ほど近いところに、三峯神社があって、お狗さまがいるそうなので、「三密」の避けれれそうな平日の今日、休みをとって行ってみた。

 近い割には道がややこしいところだったが、「とにかく駅から南東に行って、荒玉水道道路に出ればなんとかなるだろう」と行ってみたら、うまく、神社の1本北の道に出た。

■南の…

参道側に回り込むと

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どうやら、お狗さまは、右手の社務所前と、正面の拝殿前に2対いる模様。

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■まずは…

参拝の後に、拝殿前の「お狗さま」

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今回は、阿形から

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吽形

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■次いで…

社務所前の「お狗さま」を同順で

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以上「マイ・ベスト・アングル」のみ

【備忘録】

下落合にもあったニホンオオカミの社。:落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ (ss-blog.jp)

 

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2020/10/10

「お狗さま」のお札

■去る10月6日…

かねてからの長い懸案だった、渋谷・宮益坂下の御嶽*神社に参拝して「お狗(犬)さま」ことオオカミのお札

*木曽のは「おんたけ」と呼び、沖縄では「うたき」と称するが、武蔵のは「みたけ」と訓む。

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印刷ではなく、使い込んだ版木による手刷りなのが、いかにも「霊験灼か」に感じられて嬉しい。
「大口眞神」は「オオグチマカミ」あるいは「オオクチノマガミ」と訓む。

をいただいてきた。

【参考】

Photo_20201113090901
文政3〔1820〕年の宮益御嶽神社(赤矢印)
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/4


■かつて…

小学生のとき、通学路の途中に、玄関先にカラスの柄の団扇を掲げているお家と、オオカミのお札を貼っているお家とがあり、カラスの方は府中の大國魂神社のものと比較的早くわかったものの、オオカミの方は気にはなりながらも、なかなか素性がわからないでいた。

■やがて…

数多ある神社の中に、オオカミの絵柄のお札を配付しているところがかなりあることがわかり(今回改めてしらべると、あらかた青梅の武蔵御嶽神社系統と、秩父の三峯神社系統に収斂してしまうようではあるが。)、さらに、数年前にネット・オークションで「オオカミの護符」と題するDVD

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監督:由井英
制作:小倉美恵子、小泉修吉
撮影:伊藤碩男、由井英 音声:河合樹香 助監督:中嶋美紀
音楽:姜小青(中国古筝)、千島幸明(篠笛) ナレーター:糸博 語り:小倉美恵子
題字:永田紗懸 版画:小林奈那 編集/録音スタジオ:アクェリアム
上映スタッフ:大江純恵、吉江志づか
デザイン:熊潭正人+内村佳奈(パワーハウス)、岩井友子
製作/販売:ささらプロダクション
共同製作:(株)環境テレビトラスト、『オオカミの護符』製作委員会
支援:文化庁
後援:川崎市・川崎市教育委員会
協賛:テレサ川崎農業協同組合、土橋町内会、(有)有劦設計
   (株)サメジマコーポレーション、(有)大倉商事
協力:宮前区観光協会、たまフォーラム
   土橋郵便局、東京急行電鉄株式会社

文化庁映画賞文化記録映画優秀賞受賞作の由

を入手して見てみたところ、青梅の御嶽神社と秩父の三峯神社を中心として、関東北東部から甲州にかけてそのような神社が分布していることがわかった。

■加えて…

これらの神社というよりカミを崇敬する人たちで構成された講社が各地にあって、このDVDも、今の川崎市宮前区土橋〔つちはし〕にある、青梅の(武蔵)御嶽神社の崇敬者による講社を主軸に据えて、丹念な取材で構成したもの。

川崎にあるのだから、多摩川の向かいで青梅や秩父により近い豊島や荏原、たとえば、土橋と同じように、かつては畑作中心の農村地帯だった我が家のある旧荏原郡下北澤村や代田村にも同様の講社があって、門口に「お狗さま」のお札を貼る家があっても、何の不思議もないわけなのである〔末尾【補注】参照〕

■実は…

今回の御嶽神社の参拝には、もう一つ目的があって、それは、同社の「狛イヌ」ならぬ「狛オオカミ」くんに会いたかったためである。

写真でみる他社のものと比べて、はるかにプロポーションがよくて顔も端正で、美しさでは群をぬいている。

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阿形(オスらしい)

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吽形(こちらはメスだろう)

しかし、長年の念願がかなったのはよいが、 阿吽どちらも、やや「可愛い過ぎる」ともいえる(かといってイヌには見えない)

■調べてみると…

江戸時代に作られたという先代の石像が、年月の経過に加えて先の戦災

_
日本地図株式会社「コンサイス東京都35區 區分地圖帖 戰災焼失區域表示」〔⑰澁谷區〕同社/S21・刊・抜粋

による損傷が大きくなったので、戦後にその後継として現在のブロンズ製「お狗さま」が作られたとのこと。

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戦前の御嶽神社(安部鷹助 『渋谷区神社仏閣名所画報』豊玉社出版部/S16【到来モノ】より)
奥が拝殿。下から2段目の擁壁手前の台上に「お犬さま」が見える


【参考】御嶽神社旧拝殿

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現在の拝殿

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先代の方は、修復が施され、社務所内に保存されているとのことなので、何とか見てみたいと思って探してみたら、ここ

http://www.raifuku.net/special/wolfpics2/wolfpics2.html#

http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/ohkami/ohkami-77-05.html

に写真があった。

現在の像と同様にプロポーションがよく、「ワイルド」な顔や足先が頼もしい。

■ネット上には…

「お狗さま」のお札についても「狛オオカミ」ついても、熱心に研究している方々のブログやWEBページ

たとえば
日本の狼信仰:資料蒐集と参拝記&狼を神使・眷属とする主要な神社仏閣まとめ(随時更新)
https://togetter.com/li/1214511

など、見切れないほどあり、ググれば足りるので、いちいちリンク先を挙げつらう必要もないことから、ユニークなものだけを挙げておこうと思う。

加えて、書籍も様々な観点にわたっているし数も多いが、とくに制作者によるDVDの続編にあたる「民俗学的」なこの本は推奨できる
  小倉美恵子「オオカミの護符」新潮社/2011・刊(新潮文庫版もある)

1 石黒直隆「絶滅した日本のオオカミの遺伝的系統」
  日本獣医師会雑誌 Vol.26(11),pp.765-770,2009-11
  https://ci.nii.ac.jp/naid/40016807061

  実物の二ホンオオカミあるいはヤマイヌの骨のDNA鑑定結果

2 東吉野村とニホンオオカミ
  http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tourism/japaneseookami

  明治38年に、わが国で最後に捕獲されたといわれる、現在ロンドン自然史
  博物館に、頭骨と毛皮が保存されている二ホンオオカミの情報
  ページの末尾近くにある、そのブロンズ像の迫力には、写真でみても気押さ
  れる。

      【参照】https://biggame.iza-yoi.net/japan/Jamainu/Jamainu.html

3 嵐山町WEB博物誌:第1節 春を待つ:「COLUMN お犬さま」
  http://www.ranhaku.com/web07/c2/1_03.html

  末尾に、隣のときがわ町(旧・埼玉県比企都幾川村)式部平〔しきびだいら〕
  にあった二ホンオオカミの頭骨の写真
  http://www.ranhaku.com/web07/c2/1_03wolf_skull.html
  がある。

  *都幾川村文化財調査委員会「都幾川村の史跡と文化財」
                       同村教育委員会/S63・刊

   「三 式部平 二ホン狼の頭骨 村指定文化財」pp.30‐31 に
   「多武峯〔とうのみね 〕の北側に地元で「しきびたいら」と呼ぶ、旧野口勘一郎氏
    宅の入口(とほうぐち)、柱の裏側に昔から家内安全の魔除けとして狼の頭骨が
    つるされていた。」
   とある。
         〔註:野口家は、すでに同地から移転〕

4 「山上茂樹翁ききがきノート 第五十一話 菅生のお犬さま」
 「多摩のあゆみ」(たましん地域文化財団)Vol.38,pp.60-61,S60-02
  https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi038/?p=62

   東京都あきる野市(旧・秋川市)菅生地区の正勝神社の境内社である
   大口真神社を中心とする同地の御嶽講と、周辺地区を含むオオカミの逸話。
   平素は害獣除けのオオカミではあるが、かつて土葬だったころ、このとき
   ばかりは、掘り返されては困るので「オオカミ除け」をしたという話は興
   味深い。

5 青梅の武蔵御嶽神社における餅撒きの動画。

   いわば本社の青梅の御嶽神社の行事です。
   同社に神楽(「太々神楽 」)を奉納する講社(「太々講」と名乗ることもあり、
   現在も10講ほどあるらしい
)が、神楽奉納の折に行う「餅撒き」の映像(同様に、
        銭を撒くタイプもある)。
   同社に参拝したからといって、まずめったに見ることのできない貴重な映像。
   https://www.youtube.com/watch?v=9eHmCY0fwd4

   https://www.youtube.com/watch?v=54rDWmcML68

 7 「御嶽講と御師」 1992年に東京都世田谷区教育委員会が制作した、同区大蔵の2つの御嶽代参講の記録

   砧大蔵の御嶽講「山谷講中」が、代参者を決める「お日まち」行事。片柳御師による檀家廻り。
   大蔵の講元の安藤家、同講中全体の護符を納める大蔵石井戸御嶽社の映像もある。
   https://www.youtube.com/watch?v=8XpryJtN11E 

8 西海賢二「武州御嶽山信仰と石造物」(「多摩のあゆみ」Vol42 「特集 多摩の修験信仰」多摩中央信用金庫 /S61 所収)

   著者は武蔵御嶽信仰の研究では第一人者。表題に「…石造物」とはあるが、前段の、御嶽信仰の沿革と現状、
   とりわけそのキーパースンである御師〔おし〕の起源や活動がついてわかりやすくまとめられているのは貴重。

   https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi042/?p=63

9 【特別寄稿】  狼信仰の著者、写真家・青柳健二氏。
    狼信仰は、形を変えた自然崇拝とも言える。人と自然との関係をもう一度考えるきっかけに、という思いで取材を続けている。
  https://manabi-japan.jp/special-interview/20190921_15501/ 

  このページと、下部にあるリンク先ページを合わせれば、狼信仰についての、ほぼ1冊の教科書。
  ここで、表示されているリンク先は第7回までだが。
  https://manabi-japan.jp/?s=%E7%8B%BC%E4%BF%A1%E4%BB%B0
  で検索すると、第11回まであることがわかる。

10 寺田喜朗「オオカミ信仰の東西」

  https://www.youtube.com/watch?v=UVihGsYWG_g


■最後のリンク先は…

大正大学で宗教学の教鞭をとる寺田教授のオンライン講義の一環で、西欧と我が国のオオカミ信仰の発祥・内容・変遷を30分程度の講義の中で端的かつ明快にまとめている。

その分布からみて、ある程度は想像のついていたことではあったが、やはり、オオカミは、

当初、焼畑農業圏で、イノシシやシカから作物を守ってくれるカミとして、江戸の初期から中期に信仰の対象になった模様。

江戸後期には、コレラ除けのカミとしても崇敬を集めたらしいが、江戸を中心とする講員などの参詣者が神社に参集したり、各地元での儀式の後の直会などで共食することで「感染リスク」を高めたと思われる青梅・秩父の関係者ならばともかく、およそコレラ菌が辿り着けそうもない静岡の大井川沿いの奥地の井川とか小河内に「お犬さま」信仰が残っていることは、焼畑との関係を措定しなければ説明がつかないだろう。

■我が家に来た…

「お狗さま」には、玄関先に納まっていただいた。

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額縁代わりの笊は、骨董店で購入後30年以上経ったつい先日、茶葉の選別用
のものであることが判明した。
なお、中央部は京都の従兄から貰った「祇園さん」の粽。

期待している「ご利益」は、

・ネズミ除け
  ネズミ君の侵入口と思われる外壁のあらゆる隙間を塞いだはずなのだが、
  どうも彼らには人智の及ばぬルートがあるらしく、時折天井裏を走りまわる。
  イノシシ、シカも襲う「お狗さま」なのだから、ネズミごときは前片足の
  「一払い」で撃退してくれるだろう。
  そもそも、ノネズミは常食しているだろうし。

・コロナ除け
  幕末期「お狗さま」の護符は、コレラ除けとして絶大な人気があったという。
  かつてのコレラ同様の現代の疫病なのだから、当然期待したい。
  アマビエは「お狗さま」より新興でマイナーだし、「俗っぽ」すぎる。
  第一「お狗さま」とは迫力がまるで違う。

 

【補注】世田谷区(と周辺)の御嶽講

不覚にも、これまでノーチェックだった、当地の地域資料を調べてみた。

1 佐藤敏雄「下北沢通史」同/S61・刊
では、

「阿川昌朝氏談 追補 昭和六〇年五月聴取」(pp.125-129)中に
講では三峰講、御嶽講、富士講、庚申講があった。」(p.127)

とし、

2 世田谷区民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」世田谷区教育委員会/S63・刊
では、

信仰的講組織としては、妙義講、榛名講、三峯講、大山講、富士講、箱根道了尊の講、念仏講、庚申講、念仏講〔ママ〕などがあった。」(p.22)

代参講として、大山講、富士講のほか「三峰講、妙義講、御岳講があった」(p.88)

とされている

3 世田谷区生活文化部文化課「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊
では、

・旧下北澤村に該る「北沢・代沢」の章に

北沢2丁目の田中次郎氏談として
〇講の話
 講と称するものもいくつかありましたが、印象に残っているものは毎年代参といって、毎年地域の代表が一名ないし二名登山に行っていた富士講(山梨県富士山)、御嶽講(奥多摩御嶽神社)、榛名講(群馬県榛名神社)等です。これらの講は地域の各家から「講金」と称する会費を出し合いまして、これを代表が使用して参詣に行ったようです。これは農作物の豊作を祈願する傍ら、農家の人々の「慰安」でもあったようです。」(p.197。p.92も同旨 )

とあり、

【補記】21/01/12

下北沢村を中心とし、代田、雑色(中野)やおそらく幡ヶ谷などの講員で構成されていた富士講中である山富講の、かつての活動については、堀切森之助編「幡ヶ谷郷土誌(復刻版)」幡ヶ谷を語る会/H05・刊の p.163 が詳しい。

 

・隣村である旧代田村(本村と飛地下代田)に該る「代田・代沢」の章にも

「講・その他」の項に
三峰講は、現在も講中が三十二名いて、円乗院脇に三峰神社を祀り、毎年五月ごろには代参者〔註「四名」p.174〕を送って信仰を続けているということです。*
 御嶽講(武州御嶽)は、中原地区で行われていましたが、現在は代田八幡神社境内に末社として祀り、講中は解散しています。」(p.63)

とあった。

*この代参は今も続いていて、年1回円乗院で報告会が行われている由。

【参照】

旧代田村については、ある程度調査が進展している

https://daidarabotch.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

この種の講中は、通常各村の字(小名)ごとに構成されているようなので、御嶽講は世田谷中原を中心に構成された可能性が高いし、それに対し三峯講の方は代田本村を中心に構成されたのかもしれないのだが、代田村の下北澤村を挟んだ飛地の下代田(現・略・世田谷区代沢1丁目)にも三峯社の小祠があった。
DaidaraNotesAndQueries: 代田村、下北沢村などでの御嶽、三峯への代参講
 末尾

【追記】21/01/12

 

上記三峯講は、代田本村を中心とする講中で、下代田は講中に加わっていない。

この種の講は原則として小字ごとに結成さているとのことで、下代田に三峯社があったことは、同地に本村のそれとは別に三峯講があった可能性がるようである。

なお、代田では、成田講も存続している由。

なお、代田村小名中原の御嶽講は、青梅御嶽山麓の御師集団である「山下御師」中の北島家の檀家だったと思われるが、北島家といっても数家あって、そのうちどの北島家なのかは、まだ全く不明である。

【追記】

下北沢・代田近隣では、

羽根木1-24

に武州御嶽神社があることがわかった。小祠ながら独立社(他社の摂社・末社でないという意味で)であるが、「お犬さま」はいない

https://www.youtube.com/watch?v=cb3vZ5qivSA

上記「ふるさと…」の羽根木の章を見たが、

かつて御嶽講があったとされるが(pp.163,232)それ以上の情報はない。

また、M42測 1/10000 地形図「世田谷」では、該当地に神社記号がなく、もともとは地域神あるいは屋敷神の祠だった可能性が高そうである。

代田の西隣の旧松原村の場合

・世田谷区民俗調査団「松原 世田谷区民俗調査第12次報告」世田谷区教育委員会/H08・刊

「信仰」の章「4.講」に、代参講として

講は旅行的要素を持っており、よい娯楽であった。代参の順序は丁目ごとに輪番で廻ってくる。4月は榛名講、5月は三峯講、御岳講(青梅)、幸運講などがあった。三峯講は現在も行われている。他にも善光寺講などがあって5月に代参に出かけた。
 御岳講は昭和初年まで行われており、参加者は白装束を来〔ママ〕て中央線で行った。御岳では一の池から三の池までの水が腹痛に効くとされ、一升瓶で持ち帰り普段は神棚に置いておいた。

とあった。

・世田谷区砧大蔵

   の御嶽講「山野講中」が、代参者を決める「お日まち」行事の記録

   片柳御師による檀家廻り。大蔵の講元の安藤家、同講中全体の護符を納める大蔵石井戸御嶽社の映像もある。
   https://www.youtube.com/watch?v=8XpryJtN11E 

なお、

・下馬4-27-26の駒繋神社

 には、の末社に、三峯神社、榛名神社と同居して御嶽神社があるようだ。

・渋谷区の旧幡ヶ谷村

の村域では、笹塚2-19、幡ヶ谷2-14にそれぞれ御嶽神社があるが*、こちらも、小祠・独立社・お犬さま不在。
これらも、M42測T10修測2 1/10000 地形図「中野」に記載がなく、また、
堀切森之助・編「幡ヶ谷郷土誌」
幡ヶ谷を語る会/S53・刊 のpp.73-75によれば、いずれも地域神のようである。

  *西海賢二「武州御嶽山信仰史の研究」名著出版/s58・刊 の、pp.267・257 によると
       文政10年御嶽社に奉納された大天狗小天狗立像の台座に、以下のように刻まれているという。
  「文政十丁亥四月吉日 鋳物師東都粉川
             江戸四ツ谷新町講
    武州豊島郡江戸四ツ谷新町
          山形家中
          彦根家中
          幡ヶ谷下町
          同笹塚
           :」

加えて

澁谷の武蔵御嶽

前掲・西海pp.277‐278によれば、

明治23年度に、御岳のある御師が市中などの檀家に護符を配った記録である「檀家配札帳」によれば、

同24年2月13・14日に、府内の渋谷で配札した

とされている。
上中下澁谷のどの地域かは不明だが、渋谷にも御嶽講があったことがわかる
(なお、このとき、御師は渋谷金王神社に宿を借りている)

【参照】

下北沢・代田に限らず、とくに農村地帯には様々な講社が存在していた。
ただ、これらの大半は、先の大戦を期に消滅しているので、それぞれの講が、何のために、どのような活動をしていたのかについては、今となっては非常にわかりにくい。

下記の資料は(「多摩の…」とあるが、世田谷を含め、江戸時代の江戸市街を示す「朱引線」の外の農村地帯に共通しているといえる)すでに消滅してしまったものも含めて各講社を概観するには、柳田の次世代の民俗学者として著名な宮田登が筑波大学の助教授時代に執筆の「『講』の本質」などもあって必読の一冊と言ってよい。

「多摩のあゆみ 第12号 特集 多摩の『講』」(たましん地域文化財団/S52-08)

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1392015100/1392015100100010/ht000120

 

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2020/04/29

武蔵野會のダイダラボッチと柳田國男のダイダラボッチ

■大正9年1月12日…

柳田國男は、
今の世田谷区代田の「ダイダラボッチ」の後、その南の駒沢方面の「ダイダラボッチ」を探訪している。
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/06/post-141e90.html

その契機は
 柳田の「一目小僧その他」→「ダイダラ坊の足跡」→「一 巨人来往の衝

によれば、代田のダイダラボッチへの探訪について

「 二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいい伝う云々とある。すなわち現在の京王電車線、代田橋の停留所とまさに一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としてははなはだ振わぬものである。しかし村の名の代田は偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。
 私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである。」

と記したうえ、さらに駒澤方面を目指した所以を

「 あの頃発行せられた武蔵野会の雜誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。
それを讀んでいた自分は此の日さらに地圖を辿りつつ、そちらに向って巡禮を續けたのである。」(↓⁺改行は引用者補入)

としている。

■この…

柳田を代田からさらに南の駒沢まで誘った「武蔵野會の雜誌」の記事を調べてみると

同会の機関誌「武蔵野」の
・第2巻第2号(大正8年 7月刊)鈴木堅次郎「駒澤行」   (pp.75-78)
・第2巻第3号(大正8年12月刊)谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」(pp.34-38)
の2編らしいことがわかる。

■「武蔵野會」のダイダラボッチ

これらの記事で紹介されている駒澤方面のダイダラボッチのうち、実際に柳田が訪れた後記の2か所がどれかを調べて見る気になった。


●第2巻第2号(大正8年7月刊)pp.75-78
鈴木堅次郎「駒澤行」

◎包含屬とダイダラボッチと驗地碑
明治大學運動場側の坂道附近には石斧が散見し包含屬がある、…
その先にダイダ窪といふ窪地がある
二三段の地域で最も深いところに池があり、古來灌漑用の水源となってゐる、傳説に曰く此處はダイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を掘り木を伐ると罰が當ると、
蓋し水源保護の爲であらふ。

由來ダイダラボッチの話は巨人傳説として取扱はれてゐるが此の足跡は
荏原郡碑衾村大字衾
より此處を經て
世田谷村大字代田
に飛んで其間隔半里以上ある。
…此の窪地側の鎮守稲荷舎の境内に野澤村創立の碑がある。野澤村は徳川時代に入ってから開墾された村で、元禄八年織田越前守驗地し開墾者たる大森の澤田から來た百姓と葛西から來た野村と云ふ百姓の一字宛をとって村名を付け茲に記念碑として不觀不聴不語の三申塔を建てた*のである。」(前同)

*この元禄8年建立の「三申塔」は、野澤稲荷神社境内北の祠内に現存している由。
 https://setagaya339.net/maturi/a1_setaga1/06_nozawa.htm

 ようやく写真を見つけた
  https://babykids.jp/nozawainari-jinja-setagaya

 
●第2巻第3号(大正8年12月刊)pp.34-38
谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」

「文献に見えてゐるものでは戸田茂睡の「紫の一本」中に見えてゐる代田橋の記事で〔中略〕
會員鈴木堅次郎氏に承はるとそれは今代田の薬師様のある窪地だそうである
又↓
駒澤村上馬引澤、
同じく野沢、
碑衾村谷畑
等にもあるよし鈴木氏から承はつた、
これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古ダイダラボッチの足跡であると傳へてある。」(前同)

■まず…

鈴木堅次郎のいうダイダラボッチ【S1】は、

明治大學運動場…先…の窪地で
窪地側に稲荷舎があって
その境内に三申塔がある

ということになると、下図

S1

東京逓信局「東京府荏原郡駒澤村」逓信協会/T14〔2版〕T06〔初版〕・刊〔以下「駒澤郵便地図」〕

https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/kochizu/kubunchizu/choson/komazawa_kmview-zoom.html

のとおり、
駒澤村大字下馬引澤字鶴ヶ窪551番
近辺ということになる。

■次に…
谷川磐雄が、その鈴木から聞いたという
【T1】駒澤村大字上馬引澤
【T2】駒澤村大字野澤
【T3】碑衾村大字衾字谷畑

の3ケ所のダイダラボッチであるが、これがなかなか同定が難しい。

【T3】

は小字まで特定されていて、鈴木の「駒澤行」でも触れられているので、比較的見つけやすい。

T3_yb
東部逓信局「東京府荏原郡j碑衾村」逓信協会/T06・刊〔以下「碑衾郵便地図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl0911-OY-1-54.pdf

碑衾村大字衾字谷畑にある、鶴ヶ窪や代田のダイダラボッチに類似する、ハケ型地形の場所は、同所2585辺り、現在の自由が丘2丁目北端の目黒通り近くにしか見当たらないし、鈴木のいう(鶴ケ窪との)「間隔半里以上」(実際には半里弱であるが)とぼぼ整合している。

【T1】

については、大字上馬引澤〔旧馬引澤村〕内のハケ型地形を何種類かの地図で探しても、どうもそれらしい場所は見つからない。
大字〔旧村〕境のそれらしい地形となると、現駒沢3丁目、駒沢給水塔のすぐ南東の、字阿弥陀丸にハケ型の谷があるものの、ここは旧弦巻村内のようなのである*

T1_yb  
駒澤郵便地図

*東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊:pp.66-67 参照

【T2】
同じような問題は、ここにもあり、駒澤村大字野澤〔旧野澤村〕内を調べてもそれらしい地形が見当たらない。
この場合も、それらしい場所を「あえて」あげれば、先の鶴ケ窪なのではあるが、ここは、大字下馬引澤〔旧下馬引澤〕村の村域である。

■もっとも…
阿弥陀丸も鶴ヶ窪も、それぞれ、上馬引澤、野澤に地続きの隣接した場所にあるうえ、村界が入り組んだ場所でもあり、遠隔地にいる地域研究者ならば上記のような誤解もやむを得ない面がある。

しかし、鈴木は、駒澤生まれで、T06から同町議員(後に東京市会議員)を務めているばかりでなく、上馬(後三軒茶屋町**)43に住んでいた郷土史家でもあるのだから***、むしろ誰よりも旧村界を熟知していたはずであり、誤った情報を、しかも2か所について谷川に教示したとは考えにくい、というか、むしろ「まず有り得ない」のである。

**同「都長は官選か公選か : 六百万市民に問ふ 都長は市民直接選挙」同/S11・刊:奥付
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036595/43

***鈴木堅次郎「東京府改革新論」日本印刷/S03・刊:表紙見返
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097844/2

■柳田國男のダイダラボッチ

代田のダイダラボッチを巡検した後に向かった先の、駒沢の2か所のダイダラボッチについて、柳田は、

【Y1「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中ほどに在った
 是も道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらいの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。
 併し腫のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれて居る。
【Y2「それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でも是から東南へ尚七八町も隔てた雜木林の間であった。
 附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居たから、あるいは既に湮滅したかも知れぬ。
 これは周圍の林地より僅か低い沼地であって、自分が見た時にも早足跡に似た點はちつともなく、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかった。
 さうして物ずきな所謂史蹟保存も、さすがに手を著けては居なかったやうである。」

と記している。

■そのうち

【Y1】つまり、最初の駒沢ダイダラボッチが、先の【S1】の鶴ヶ窪であることは
小学校
   冒頭の郵便地図でもハケの北西に「旭分教場」がある
…と村社の間
   同じく郵便地図で、ハケの南に鳥居マークで、野澤稲荷社が表示されている
   もっとも、柳田が訪れたのは駒澤村成立後なので、その時点での駒澤村々社は駒繋神社で、
   そのT09 時点では村社ではないが、合併前の野澤村ではその村社だった。
   そのため、相応の格式を示す社殿だったと思われる。
にあるといえることから、ほぼ確実と思われる。

■問題は…

【Y2】の、その次に訪れたダイダラボッチである。

・小字の名も道も忘れた
(鶴ヶ窪から)東南へ尚七八町も隔てた
雜木林の間
附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た

とあるうち、②はともかくとして、①と③から、幸いそのあたりについては

M42測T04一修測
M42測T10二修測

の一万分の1地形図「碑文谷」を入手しているので、丁度柳田が当地を訪れた大正9年を挟む時期に該る両図を対比すれば「土工をして居た」場所が特定でき、したがって、その「附近に」あるハケ型地形の場所を見つけることができるのではないかと考え、ここ数年、折に触れて両図を対比しているのだが、未だに見つけ出せていない。

【追記】20/10/18

PhotoShopで両図を重ねて、鶴ケ窪から78町(7~800m)の範囲からさらに1Km程度まで広げて観察してみたが、やはりこの間造成されたらしい場所は見つからなかった。

【追々記】20/10/28

そこで、探す範囲を広げることにしたが、ちょうど鶴ケ窪は図郭の中央のほぼ最上部にあるので、その南東方向の範囲はなかなか広大である。
その際着目したのは、上記③の「文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た 」との記述である。「文化住宅」つまりは農家などではなく、市街地の住民、主として給与生活者の住居用の敷地のための土工をしていたことになる。

しかし、この時期のこの碑文谷図の地域で、今でいう宅地開発をして需要が期待できる場所は極めて限られている。

まず考えられるのは、鉄道沿線、それも駅(停車場、停留場)周辺ではあるが、T10図の下方に描かれている目黒蒲田電鐵(現・東急目黒線)は、T12全通なので、将来に期待するにしても「気が早すぎる」きらいがあるし、実際T10図をみても大岡山や奥沢といった駅の周辺にT04図から全く変化が見られない。

しかし、地図を観察しているうち、図の右下(南東)隅に「目黒競馬場」の西半分が描かれているのを見つけた。
競馬場といえば、近代的な、主に市街地の人々が参集する娯楽施設であり、調べてみると山手線目黒駅から1キロほどの場所で、同駅からの徒歩圏といえる。

そこで、両図の重ね図で、この地域の変化を確認すると、競馬場と、なぜかT04には家屋が当時としては密集していた現目黒区鷹番との間の、清水が、この碑文谷図の右(東)葉の中では、唯一と言ってもよい変化が両図の間に生じていたことがわかった。

 

M42t04_100001__
M42測T04一修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

M42t10_110000__
M42測T10二修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

この場所は

  • 上記のように、鶴ケ窪南東附近で唯一、T04とT10間で変化がみられる場所であること
  • 等高線からみて、この地には南方から代田のそれに類似したY字型の谷が入り込んでいること

現在の東京都目黒区目黒本町1丁目15 の東急バス目黒営業所のあたりには、かつては清水が湧いており*明治時代に、今はやや東に移転しているが、ここに清水稲荷が建立されたという。
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/michi/tobu/shimizuinari.html

*この清水を源流とする川は、「目黒区史資料編」付録の「昭和三七年目黒区地図」によると「六畝川」と呼ばれていたらしい。

S3718k

  • 上図の左下の水路は品川用水であるところ、この用水は玉川上水や三田用水と同様に、台地上の高地の稜線部を流れて(流して)いるので、その両岸にハケ型地形が多くみられ、先の鶴ケ窪も品川用水左岸のハケ型地形なので、柳田がそこから用水沿いにその左右の地形を観察しながら南下したと考えて不合理はないこと
  • ここは目黒競馬場のすぐ西の地域なので、すでに目黒駅からの徒歩圏といえ、この時期に「文化住宅のための土工」〔宅地造成工事〕をしても相応の需要が見込まれたこと

からみて、鶴ケ窪から約2キロ半の距離はあるが、ちりあえずは柳田のみた、ダイダラボッチ【Y2】の唯一の候補地ということになる。

 

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2017/02/19

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ【現地探訪篇】

■平成29年2月18日…

「昭和の暮らし博物館」の講演会の折、懸案だった

大田区久が原のミシャグジのカミ

の現地に行ってみた。

■ここは…

呑川左岸の崖線の直上、ほとんど縁の部分といってよい場所に位置しているばかりでなく、この崖の法面は

遺跡番号 34
ふりがな みなみくがはらにちょうめよこあなぼぐん
遺跡名 南久が原二丁目横穴墓群
所在地 大田区 南久が原二丁目
時代 [古墳時代][奈良時代]
種別 横穴墓
主な遺構/概要 1基
主な出土品 人骨

の包蔵地のようなので、他の「おじゃもじさま」例にたがわず、ここは、まさに、古代の祭祀の場所といってよいのである。

Iseki34
http://tokyo-iseki.jp/map.html

■最寄り駅の…

東急池上線の久が原からも、同じく多摩川線の鵜の木からも、そこそこ距離がある場所だが、大田区の鵜の木特別出張所の北東筋向いなので、比較的見つけやすい。

Dsc07606rs_2
さらに、巨木(ヒバ?)が目印にもなっている

Dsc07600rt_2
2015年秋の写真と較べると鳥居が建替えられていて、
今も大切に祀られていることがわかる

Dsc07589rs

Dsc07590rs

■碑文を読むと…

●正面

Dsc07593rtc

「道饗社詞」と読める(ただし「饗」の左上の「幺」の部分が「歹」)

●右側面

Dsc07597rts

「享保十二未天十二月吉日」と読むほかなさそうである
(なお、享保12年は丁未-ひのとひつじ-年。また、この年は12月に閏月がある)

●左側面
Dsc07599rtc

右「識〓道家中」

中「明治四未年十月廿?四?日建」

左「(判読未了)」

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2016/03/21

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大国魂神社と諏訪大社下社春宮の杓子信仰

昨3月20日午後から…

府中の大國魂神社

Dsc06227s
拝殿での婚姻の儀を終えて、披露宴会場に向かう一行
先導の2人は、金属製の錫杖を鳴らしながら地面を突いて通路上の邪気を祓っている


を、同社の元お巫女さんにご案内いただきました。

 と、書いてしまうと、ちょっと話が大げさで、この元お巫女さんは、家内の友人の、5歳のときから知っているお嬢さんで、現在は同社内の結婚式場*の関連会社勤務。

* ここは、あえて説明するまでもなく、「神社」の「結婚式場」なのですが…
 今まで少々「名前に押されていた」ようで、よくよく聞いてみると、実態は、ほとんど
 「府中のコミュニティ・センター」。

 【資料映像】
 Dsc05887ss

 別にフルコース必須というわけでもなく、松花堂弁当での会食もできるのだそうで、
 1月に撮った写真にもあるロータリークラブ、あるいはライオンズクラブの例会場
 とか、神社での儀式後の直会(なおらい)は勿論として、近所のお寺さ
んでの法事
 の後のお斎(おとき)の会場に使う方も多い由。
 

 現役時代は、府中の都立農業高校出身ならではの特技で、「土木用重機が操縦できるお巫女さん」として、出入りの工事関係者にウケていた由。

 ただし、ここでの本題は、重機の話でも、大國魂神社本体の話でもなく、その境内社の一つ「宮之咩神社〔みやのめじんじゃ〕」という、記紀の中でも著名なカミのうちの一柱「アメノウズメノミコト」(漢字を拾うのが面倒なので、以下神名は、原則としてカタカナ表記)を祭神とする神社のことです。

 この社、旧甲州街道から南に延びる参道の中ほどやや奥の左側にあるのですが、これまで全くノーチェックの場所でした。

由緒書き

Dsc06214cs

によると、ここには北条政子が安産を祈願したとの伝承があり、「安産祈願の折に…絵馬を奉納し、無事願いが叶うとお礼に底のぬけた柄杓を納める風習が今でも続いている」とあります。

 果たして、境内左側の、奥の柵には絵馬が、手前の柵には膨大な柄杓が立て並べてあるのですが…

Dsc06216s

柄杓の柄に書かれた文字を読む限り、今では、縁起書とちがって、むしろ最初の祈願の折に柄杓を納める人が多いように思えます。

 ところで、ここの「底抜け柄杓」は、柄杓の底に直径1センチほどの穴が開けられているのですが、穴の位置はランダム。ということは、まず普通の柄杓があって、それに、新たに穴を開けたうえで奉納するようです。

底抜け柄杓といえば…

最初から全く底のない柄杓を、やはり安産祈願で奉納する社があります。

 それが、諏訪大社下社春宮

【資料映像】
Photo_2

境内左手にある「コシノヌナカワヒメノミコト」を祀る「子安社」

【資料映像】
Photo
この時は「オシャモジ様」の予備知識がなく、ただ「珍し
い信仰」ということで撮っておいた写真。
諏訪地方には、おそらく、この国のあらかたの地方では
「忘れられてしまった」風習や信仰(たとえば「両墓制」
がその典型)が多々遺っていることは知ってたので「後
で後悔するより、まずパシャ撮り」を心がけていた。
なお、府中の「宮之咩神社」では、「お焚き上げできな
い」ため金属製の柄杓は奉納できないので注意が必要。

 諏訪といえば…

いうまでもなく、「ミシャグジのカミ」の本家本元の地。

 やはり、ここ諏訪大社はもちろんとして、府中の宮之咩神社も、鎮座の時期は大國魂神社(旧・六所宮)とほぼ同時代まで遡るというのですから、おしゃもじ様ひいてはミシャグジのカミへの信仰に連なっている社なのでしょう。

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2015/10/12

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ

【追記】

平成29年2月18日、現地に行ってきました…

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/02/post-392a.html

家内が…

時折おじゃましている、大田区南久が原2丁目にある、昭和のくらし博物館。

 たまたま、「おしゃもじ」をググっていたところ、そこから目と鼻の先

大田区南久が原2-26-20

に「おしゃもじ様」があることがわかって驚きました。https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/kugahara/oshamoji_sama.html

たまたま…

家内が、平成27年9月27日に同館主催の講演会に行くというので、写真を撮ってきてもらいました。

P1120006s

P1120010s

P1120008s

石柱の表面に、何か浮き彫りされているようにも見えるのですが…

P1120008tc

写真からは判読できません。

かの…

「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」pp.157-8 には、大田区内の「おしゃもじさま」が3箇所リストアップされているのですが

釈護子社 おしゃごっちゃま 武蔵風土記 大田区安方村
                           現・東矢口2、多摩川1

石居神社 おしゃごじちゃん 武蔵風土記 大田区御園村
                           現・新蒲田1、西蒲田1・3~8、池上5
                           東京都大田区西蒲田7-40-8 御園神社

釈護子社 おしゃごじさま  武蔵風土記 大田区糀屋町(糀谷町1丁目)
                           現・西糀谷1~4、東糀谷1~6、萩中3、
                           大森南2
                           東京都大田区西糀谷4-7-18
                           糀谷神社「釋護子稲荷」

いずれも、大田区(旧・蒲田区)といっても海岸に近い場所で、このどれにも該りません。

なお、ここもおしゃもじ様のようです。
道饗神社 大田区東嶺町36-9

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諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 上野桜木の「飯匙祖師」

去る10月10日…

縁あって、クマイ商店の奥様に上野寛永寺のお膝元である上野桜木

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をご案内いただきました。

ここは、「猫の町」谷中

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の南西にあたるのですが、谷中の喧騒

Dsc04811s

とは打って変わって、落ち着いた雰囲気。そればかりではなく、若い人たちが古民家を借り上げて運営しているギャラリーなど、この面では寛永寺さんというよりも、むしろ、いかにも芸大のお膝元らしい「静かな活気」に満ちている不思議な町でした。

とはいえ…

そこまで話を広げるのは、このブログの主旨からは少しはずれますので、ここでは、当地にあった「おしゃもじ様」を。

道中、さるお寺の前を通りかかると…気になる二文字が目に飛び込んできました。

Dsc04905s

なんと飯匙祖師

ここは…

慈雲山瑞輪寺の西端ほぼ中央にあたる昭和34年に建立された建物のようなのですが、この瑞輪寺の境内には、かの、江戸の水道の祖で、直参旗本から菓子司に転じ、家康にもしばしば献上していたといわれる大久保主水(「もんと」。家康から「水に濁りは禁物」なので、「もんど」ではなく、そう名乗るように命じられた由。警戒心が強く献上物の食物には手を付けなかったとされる家康も、この主水の菓子だけは喜んで食したという)の墓もあるということが後にわかりました。

 門前に掲示された縁起書

Dsc04906s

などによると、ここのお祖師様、正式には「安産厄除飯匙祖師」は、

 佐渡に流されていたお祖師様こと日蓮聖人が

・文永11(1274)年に佐渡流罪から赦免となり、
・同年3月13日佐渡を出発して鎌倉に向かっていた
・その途中、武蔵国粂川*の辺りを通りかかったところ
・同所に住む関善左衛門から妻が難産と、救いを求められた

*東京都東村山市のあたりのようです。
 日蓮が佐渡に流される途次、「来目河」あるいは「久目河」に宿ったという本人の書状が
ある
 そうで、赦免後に鎌倉に向かうときも、往路と同じルートを通ったことになり、不合理はない

・日蓮は求めに応じ、その場の飯匙に御題目をしたため
 (「ご本尊」という説もあるが、日蓮宗のご本尊は曼荼羅なので、考えようによっては「程度の差」か)
・それで、産婦の腹をさすり、抱かせ祈念したところ
・たちどころに安産し、母子ともに健やかであったので、
・関善左衛門は「一家一門」を挙げて日蓮聖人に帰依し
・さらに日蓮の尊像を彫り
・それを安置するために、谷中に善性寺を建立した

 後に、この像は、谷中の感応寺(現・天王寺)に移され、

 さらに感応寺が幕命で改宗する際、瑞輪寺が勧請し、あわせて関善左衛門の位牌も移して祀るようになった。

というお話です。

このように…

いわば唐突に、「飯匙」つまり「おしゃもじ」がストーリーに登場します。

 これが実話であったと仮定すればですが…

 日蓮は「しゃもじ」に何らかの霊力・法力があると考えていて、手持ちの懐紙とかその場にあった紙などよりも、より大きな効果を期待したということになります(後に寺を丸ごと建立し寄進した関一族なのですから、その場に、紙1枚もなかったとは考えにくい)

 「しゃもじ」になんらかの霊力があるという信仰は、柳田國男が「石神問答」で解明されているように、日本の古代からある「ミシャグジ信仰」にその名前の上でも連なっています。

 また、今回初めて知ったのですが、日蓮は、比叡山での修行の時代から、そこの三十番神に帰依していた ようですので、神道的な信仰にも精通していたはずです(善性寺が別当をしていた社は三十番神社-詳細は後日-。さらに、佐渡には「文永11年(1274)佐渡から赦免の折、日蓮上人が三十番神の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられてい」る、番神堂があるとのことです)

いずれにしても…

この先「飯匙祖師」の起源をさらに解明するには、この尊像が当初納められた谷中の善性寺の建立された場所(現・荒川区東日暮里5-41-14*)について、もう少し探らなければならないようです。

そもそも、久米川に人がなぜ谷中にお寺を建立したのかも含めて。

*ここは、岡倉天心も、しばしば団子を肴に酒を呑むのを楽しんだとされる「羽二重団子」

 【資料映像】
 Dsc01484

 のお向かい。
しかし、この写真を撮ったときには、善性寺はまったくノーチェックでした。

【余禄】

東叡山寛永寺の根本中堂。

Dsc04874s

 我が家も、天台宗なので、とりあえずお参り。

Dsc04875s

 天台宗の本山クラス、まして「東」の比「叡山」なのですから、根本中堂があって何の不思議もないのですが、まさか、こんな境内の端っこ(道を隔ててすぐ向かいに芸大)にあるとは、思いもよりませんでした。

 聞けば、

 寛永寺の根本中堂は、もともとは、東博前の噴水の場所にあったのが、幕末の上野山の戦闘で焼失。

 明治12年に、川越喜多院の本地堂の伽藍を当地に移築したものなのだそうです。

 旧地の現・東博前は、新政府が接収済みでしたので、おそらくここにしか敷地がなかったのでしょう(どうやら、その際、この場所にあった「大慈院」‐名前から推測すると「如来堂」‐を解体してしまったようです。)

*以上、「東叡山寛永寺の諸堂」より

 考えてみると、川越の喜多院には、徳川将軍家から

・寛永15年(1638)1月の川越大火によって堂宇はすべて焼失し山門を残すだけになったため
・家光の命により、江戸城内の紅葉山(現・皇居)にあった、「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」などを含む別殿を、同院の客殿、書院等とするために移築

という援助を受けています。

*以上、 川越大師喜多院「創建と歴史 より

 つまり、これ、神仏分離に加え境内地の接収などによる窮状にあった「公方様のお寺」への、本当の意味での「倍返し」ですね。

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諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 世田谷上馬の「常盤塚」

当ブログの…

 [諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 Part2]
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

の末尾近くで指摘した

柳田國男「石神問答」末尾の「十三塚表」に記載されている

「若林」の「上馬引沢村の境に亙る」「十三塚」

に、行ってきました。

ここは…

世田谷区では「常盤塚」と呼ばれている場所*で、その伝承については こちら

*世田谷区指定史跡
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129099.html

Dsc04964st

 「路地奥のわかりにくい場所」といわれているので、今回ばかりは、事前に詳しい住宅地図で場所を確認していたのですが、行ってみると、世田谷通りの、環七との交差点の「若林交番」から西に向かい、横断歩道橋を過ぎるとほどなく、道路脇に小さな案内板が出ていましたので、迷いようがありません。

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塚は、民家と駐車場に挟まれた細長い敷地の奥にあって…

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それなりに綺麗に整備されています。

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塚石

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は、比較的新しそうなので、裏側に回って確認すると…

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やはり、昭和58年建立と、この種の石碑の中では相当新しい*

*松原宿の庚申塔は、昭和55年建立なので、それよりさらに新しいことになる。

そこで…

かつては、どのような姿だったのか調べてみたら、

 「江戸名所図会」巻之三(第8冊)の「常盤橋」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937

の件に、「按に、此はしより二十歩ばかり東の方道より北側に松を植たる塚あり 是を常盤の墓と云 上に不動の石像あり 又同しく南の方にも塚あり 是なりともいへといつれか実ならん」(45コマ目。適宜空白挿入)*

とあります。

 しかし、「此はし」というのは、この場合、烏山川の支流を現・世田谷通りが渡る「常盤橋」を指していることは文脈上疑いようがなく、また。「二十歩」の「歩」というのは、昔の距離の単位で「間」と同じ1.82メートルですので、ここにいう常盤塚は常盤橋から36メートルほど東の、しかも道の北にあったことになります。

  「常盤橋」の方は地形的に位置がほぼはっきりしていますので、今「常盤塚」といわれている下図の場所は、距離的にも道路との位置関係の面でも名所図会の記述とは矛盾しています。

 Photo

 と、なると、今の「常盤塚」は、名所図会に「同しく南の方にも塚あり」とされている塚にあたると考えるられ、塚の上に不動明王の石像が安置されていたらしい塚は同書が出版された1834(天保5)年ころには残っていた十三塚中の一つ(上図)で、後に「エナ不動」*と呼ばれた場所ではないかと思われます。

なお、早稲田大学のライブラリにある精細版
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0045.jpg
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0044.jpg

*三田善春・編著「世田谷の地名(上)」世田谷区教育委員会/昭和59年・刊 p.145【第90図】

この現・常盤塚の位置は…

上馬5丁目30番なので旧馬引澤村村内にあったことになり、かつては、先の「石神問答」のリストにあるように、旧若林村から「上馬引沢村の境に亙」って十三基の塚がランダムにちらばっていたうちの最南端のそれということになりますが、新編武蔵風土記稿でも

まず、風土記稿の巻之五一の「馬引澤村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同40-43コマ)では

「○塚 是モ上馬引澤ノ内若林村境二アリ 高五尺余ナリ若林及ビ當村ニテ十三塚アル其一ト云 コノ塚ハ始ニモシルセシ吉良頼康ノ妾常盤ヲ封ジタルモノトイヘリ 事ハ若林村ノ条ニモ出タレハ照シミヘシ」(42コマ目。適宜空白挿入)

と、高さが五尺余、つまり1.5メートルを越えるものだったことがわかります。

そこで、巻之五二の「若林村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同49-50コマ)を「照シミ」すると

「○塚 村民勝右衛門ト云フ者ノ地内二アリ 塚上二高三丈圍五尺五寸許ノ古松樹アリ …<常盤伝説の解説が続く>…馬引澤村ヨリ此ノ邊二及フマデ十三人の塚アルハ常盤ヲ始メ残リ十二人ノ尸ヲ埋メシ塚ニテコレモ其一ナルヨリ人ノ口碑二ノコレリ 此ノ常盤ノコト素ヨリ疑ヒ多ケレハコノ塚ノ由來モ信シカタシ サレト土人ノ傳フルママ二シハラク置ヌ」

とあるのですが(要するに編纂者である幕府の「学芸員」さんも常盤伝説の信ぴょう性を否定している)、面白いのは、これに続けて

「アララギ塚 十三塚ノ外ナリ 由來ハ詳ニセス 側二死馬ヲ棄ル所アリ 或ハカノ十二人ヲ刑セシ所ニテ不潔ノ地ナレハ遂二馬死捨場ナリシナト 是モ土人ノ話ナリ」(以上50コマ目。適宜空白挿入)

とあることです。

 このアララギ塚の場所を直接示す史料はみつからないのですが、前掲・世田谷の地名(上)p.144【第88図 若林村絵図】によれば、「死馬捨場」は、烏山用水(川)の左(北)岸で、村の最東端の代田村との境にあったとされていますので、このアララギ塚もそのあたりにあったことになります。

 しかし、はるか昔、当地にあるめぼしい塚を数えたら14基あって、当時「はやり」の十三塚信仰と数が合わないので、無理無理「これだけは別」ということにした可能性も否定できません。

     【追記】
     「ランダムにちらばっている十三塚」の類例が、現・川崎市高津区/宮前区の旧・野川村にあったらしい
     ことがわかった

    Photo
    野川村「十三塚」江戸名所圖繪・巻之三(第8冊)<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937>

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