2017/10/13

【余談】「情報の結晶化」

■この10月初めの連休は…

いくつかの原稿の校正に加え、公私を含めた様々な懸案を、ネット上で徹底的に調べまくる3日間になりました。

「公」の方は業務上の守秘義務も若干からむので措いておいて…

■「私」の方での…

改めて思い出した、伝説の2006年のつま恋の吉田拓郎のコンサート。

 どちかというと、拓郎のコンサートが最初のターゲットではなくて、この9月に南こうせつのセミ・ライフストーリーが読売新聞に連載されていたので、筆者にとって同時代の、いわゆる「フォーク」時代を、改めて跡付けてみようかと思ったのです。

 当時は、いわば既成の演歌や浪曲系の、いわゆる「大衆音楽」に飽き足らない若い人たち(と、言っても、今やその最先端の一人だったユーミンこと荒井由実さんが世田谷区の名誉区民。お互い年をとったのを痛感します。しかし、その一方で、たとえば三波春夫の「俵星玄蕃」。さる音楽評論家が「日本のオペラ」と評していただけあって、冒頭の「語り」を含めた、いわばコンプリート・ヴァージョンを今になって聞き直してみると、これは「凄い」というほかない)がそれぞれに「これ」と信ずる方向で新しい音楽を志向していたのですから、いわばバラバラ。一筋縄にはゆきません。

■そんな中で…

たどり着いた一つが、この拓郎のコンサート。

 ヴィデオで録画していたものの、その全編の映像はいつのまにか行方不明なっていたのですが、いわば圧巻の「中島みゆき」とのデュオの「永遠の嘘をついてくれ」
https://www.youtube.com/watch?v=9j-SpNwzq08
このシーンだけは当時も印象的なシーンだったらしく、そこだけを編集ソフトで切り出したヴィデオだけはすぐにみつかる場所に残っていました。

 この中で、特に印象に残っていたのは、みゆきさんが歌っているシーンよりも、歌い終わってステージから退場するときに、バックコーラスの一番端にいた女性シンガーにハイタッチして、当のシンガーも別に当惑する様子もなく、にこやかにこれに応じているシーンでした。

Miyuki03

■その中で…

こんな

https://www.youtube.com/watch?v=JikMRGuLDPM

データを発掘していまいました。

■結局…

このハイタッチは

  • この拓郎コンサートで、中島みゆきは、シークレット・ゲストだったので、往復の車、現地のホテルでもほとんど軟禁状態だった
    ・そのせいで、ステージでのリハーサルにも出られなかった
    ・そのため、ステージのサイズとか、どこにケーブルが這っているかとか、どこに段差があるのか、などが事前に全く把握できなかった
    ・その中で、バックコーラスの中に中島と従前からつきあいのあった女性がいることがわかり
    ・中島は「とにかくあんなたのいる場所を目印に舞台に出てゆくから、絶対に動かないでくれ」とたのんだ
    ・実際、コンサート当日、舞台の袖に控えているときも、客席の方は見えず、その女性のあたりしか見えなかったらしい
    ・いよいよ出番になって、その女性を目印にして舞台のセンターに支障なくでることができた

Miyuki01

といった経緯があって、「ありがとね!」の意味だったらしい。

■そういえば…

そのハイタッチの直前、ステージ奥に向かって、深々とお辞儀していた意味もよくわかるように思います(拓郎とはその直前に握手しているので、拓郎に対するものとは考えにくい)。

Miyuki02_2

 つまりは、何のリハーサルもなしに、きとんと音を合わせてくれたバックバンドへの感謝だったのでではないでしょか。

■常々…

公私ともに思い知らされていること、というより、この一つ前のアーティクル「古道『隠田道』」がその典型で、情報というものは、単体ではほとんど意味がわからない、むしろ無さそうに見えるものも多いのですが、この「ハイタッチ」の一件のように10数年経って他の情報と合わさることによって、突然、その意味が判明することも多いのです。

 これを、個人的には「情報の結晶化」と呼んでいるのですが、逆に言えば、「ちょっと気になること」を記憶なりディスクの隅に残しておくと、ある日突然「意味のある情報」に大化けすることもあるので、世の中に「無駄な情報は一つもない」のです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/19

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ【現地探訪篇】

■平成29年2月18日…

「昭和の暮らし博物館」の講演会の折、懸案だった

大田区久が原のミシャグジのカミ

の現地に行ってみた。

■ここは…

呑川左岸の崖線の直上、ほとんど縁の部分といってよい場所に位置しているばかりでなく、この崖の法面は

遺跡番号 34
ふりがな みなみくがはらにちょうめよこあなぼぐん
遺跡名 南久が原二丁目横穴墓群
所在地 大田区 南久が原二丁目
時代 [古墳時代][奈良時代]
種別 横穴墓
主な遺構/概要 1基
主な出土品 人骨

の包蔵地のようなので、他の「おじゃもじさま」例にたがわず、ここは、まさに、古代の祭祀の場所といってよいのである。

Iseki34
http://tokyo-iseki.jp/map.html

■最寄り駅の…

東急池上線の久が原からも、同じく多摩川線の鵜の木からも、そこそこ距離がある場所だが、大田区の鵜の木特別出張所の北東筋向いなので、比較的見つけやすい。

Dsc07606rs_2
さらに、巨木(ヒバ?)が目印にもなっている

Dsc07600rt_2
2015年秋の写真と較べると鳥居が建替えられていて、
今も大切に祀られていることがわかる

Dsc07589rs

Dsc07590rs

■碑文を読むと…

●正面

Dsc07593rtc

「道饗社詞」と読める(ただし「饗」の左上の「幺」の部分が「歹」)

●右側面

Dsc07597rts

「享保十二未天十二月吉日」と読むほかなさそうである
(なお、享保12年は丁未-ひのとひつじ-年。また、この年は12月に閏月がある)

●左側面
Dsc07599rtc

右「識〓道家中」

中「明治四未年十月廿?四?日建」

左「(判読未了)」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/03/21

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大国魂神社と諏訪大社下社春宮の杓子信仰

昨3月20日午後から…

府中の大國魂神社

Dsc06227s
拝殿での婚姻の儀を終えて、披露宴会場に向かう一行
先導の2人は、金属製の錫杖を鳴らしながら地面を突いて通路上の邪気を祓っている


を、同社の元お巫女さんにご案内いただきました。

 と、書いてしまうと、ちょっと話が大げさで、この元お巫女さんは、家内の友人の、5歳のときから知っているお嬢さんで、現在は同社内の結婚式場*の関連会社勤務。

* ここは、あえて説明するまでもなく、「神社」の「結婚式場」なのですが…
 今まで少々「名前に押されていた」ようで、よくよく聞いてみると、実態は、ほとんど
 「府中のコミュニティ・センター」。

 【資料映像】
 Dsc05887ss

 別にフルコース必須というわけでもなく、松花堂弁当での会食もできるのだそうで、
 1月に撮った写真にもあるロータリークラブ、あるいはライオンズクラブの例会場
 とか、神社での儀式後の直会(なおらい)は勿論として、近所のお寺さ
んでの法事
 の後のお斎(おとき)の会場に使う方も多い由。
 

 現役時代は、府中の都立農業高校出身ならではの特技で、「土木用重機が操縦できるお巫女さん」として、出入りの工事関係者にウケていた由。

 ただし、ここでの本題は、重機の話でも、大國魂神社本体の話でもなく、その境内社の一つ「宮之咩神社〔みやのめじんじゃ〕」という、記紀の中でも著名なカミのうちの一柱「アメノウズメノミコト」(漢字を拾うのが面倒なので、以下神名は、原則としてカタカナ表記)を祭神とする神社のことです。

 この社、旧甲州街道から南に延びる参道の中ほどやや奥の左側にあるのですが、これまで全くノーチェックの場所でした。

由緒書き

Dsc06214cs

によると、ここには北条政子が安産を祈願したとの伝承があり、「安産祈願の折に…絵馬を奉納し、無事願いが叶うとお礼に底のぬけた柄杓を納める風習が今でも続いている」とあります。

 果たして、境内左側の、奥の柵には絵馬が、手前の柵には膨大な柄杓が立て並べてあるのですが…

Dsc06216s

柄杓の柄に書かれた文字を読む限り、今では、縁起書とちがって、むしろ最初の祈願の折に柄杓を納める人が多いように思えます。

 ところで、ここの「底抜け柄杓」は、柄杓の底に直径1センチほどの穴が開けられているのですが、穴の位置はランダム。ということは、まず普通の柄杓があって、それに、新たに穴を開けたうえで奉納するようです。

底抜け柄杓といえば…

最初から全く底のない柄杓を、やはり安産祈願で奉納する社があります。

 それが、諏訪大社下社春宮

【資料映像】
Photo_2

境内左手にある「コシノヌナカワヒメノミコト」を祀る「子安社」

【資料映像】
Photo
この時は「オシャモジ様」の予備知識がなく、ただ「珍し
い信仰」ということで撮っておいた写真。
諏訪地方には、おそらく、この国のあらかたの地方では
「忘れられてしまった」風習や信仰(たとえば「両墓制」
がその典型)が多々遺っていることは知ってたので「後
で後悔するより、まずパシャ撮り」を心がけていた。
なお、府中の「宮之咩神社」では、「お焚き上げできな
い」ため金属製の柄杓は奉納できないので注意が必要。

 諏訪といえば…

いうまでもなく、「ミシャグジのカミ」の本家本元の地。

 やはり、ここ諏訪大社はもちろんとして、府中の宮之咩神社も、鎮座の時期は大國魂神社(旧・六所宮)とほぼ同時代まで遡るというのですから、おしゃもじ様ひいてはミシャグジのカミへの信仰に連なっている社なのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/10/12

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 大田区久が原のミシャグジのカミ

【追記】

平成29年2月18日、現地に行ってきました…

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/02/post-392a.html

家内が…

時折おじゃましている、大田区南久が原2丁目にある、昭和のくらし博物館。

 たまたま、「おしゃもじ」をググっていたところ、そこから目と鼻の先

大田区南久が原2-26-20

に「おしゃもじ様」があることがわかって驚きました。https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/kugahara/oshamoji_sama.html

たまたま…

家内が、平成27年9月27日に同館主催の講演会に行くというので、写真を撮ってきてもらいました。

P1120006s

P1120010s

P1120008s

石柱の表面に、何か浮き彫りされているようにも見えるのですが…

P1120008tc

写真からは判読できません。

かの…

「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」pp.157-8 には、大田区内の「おしゃもじさま」が3箇所リストアップされているのですが

釈護子社 おしゃごっちゃま 武蔵風土記 大田区安方村
                           現・東矢口2、多摩川1

石居神社 おしゃごじちゃん 武蔵風土記 大田区御園村
                           現・新蒲田1、西蒲田1・3~8、池上5
                           東京都大田区西蒲田7-40-8 御園神社

釈護子社 おしゃごじさま  武蔵風土記 大田区糀屋町(糀谷町1丁目)
                           現・西糀谷1~4、東糀谷1~6、萩中3、
                           大森南2
                           東京都大田区西糀谷4-7-18
                           糀谷神社「釋護子稲荷」

いずれも、大田区(旧・蒲田区)といっても海岸に近い場所で、このどれにも該りません。

なお、ここもおしゃもじ様のようです。
道饗神社 大田区東嶺町36-9

| | コメント (0) | トラックバック (0)

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 上野桜木の「飯匙祖師」

去る10月10日…

縁あって、クマイ商店の奥様に上野寛永寺のお膝元である上野桜木

Dsc04879s

をご案内いただきました。

ここは、「猫の町」谷中

Dsc04814s

の南西にあたるのですが、谷中の喧騒

Dsc04811s

とは打って変わって、落ち着いた雰囲気。そればかりではなく、若い人たちが古民家を借り上げて運営しているギャラリーなど、この面では寛永寺さんというよりも、むしろ、いかにも芸大のお膝元らしい「静かな活気」に満ちている不思議な町でした。

とはいえ…

そこまで話を広げるのは、このブログの主旨からは少しはずれますので、ここでは、当地にあった「おしゃもじ様」を。

道中、さるお寺の前を通りかかると…気になる二文字が目に飛び込んできました。

Dsc04905s

なんと飯匙祖師

ここは…

慈雲山瑞輪寺の西端ほぼ中央にあたる昭和34年に建立された建物のようなのですが、この瑞輪寺の境内には、かの、江戸の水道の祖で、直参旗本から菓子司に転じ、家康にもしばしば献上していたといわれる大久保主水(「もんと」。家康から「水に濁りは禁物」なので、「もんど」ではなく、そう名乗るように命じられた由。警戒心が強く献上物の食物には手を付けなかったとされる家康も、この主水の菓子だけは喜んで食したという)の墓もあるということが後にわかりました。

 門前に掲示された縁起書

Dsc04906s

などによると、ここのお祖師様、正式には「安産厄除飯匙祖師」は、

 佐渡に流されていたお祖師様こと日蓮聖人が

・文永11(1274)年に佐渡流罪から赦免となり、
・同年3月13日佐渡を出発して鎌倉に向かっていた
・その途中、武蔵国粂川*の辺りを通りかかったところ
・同所に住む関善左衛門から妻が難産と、救いを求められた

*東京都東村山市のあたりのようです。
 日蓮が佐渡に流される途次、「来目河」あるいは「久目河」に宿ったという本人の書状が
ある
 そうで、赦免後に鎌倉に向かうときも、往路と同じルートを通ったことになり、不合理はない

・日蓮は求めに応じ、その場の飯匙に御題目をしたため
 (「ご本尊」という説もあるが、日蓮宗のご本尊は曼荼羅なので、考えようによっては「程度の差」か)
・それで、産婦の腹をさすり、抱かせ祈念したところ
・たちどころに安産し、母子ともに健やかであったので、
・関善左衛門は「一家一門」を挙げて日蓮聖人に帰依し
・さらに日蓮の尊像を彫り
・それを安置するために、谷中に善性寺を建立した

 後に、この像は、谷中の感応寺(現・天王寺)に移され、

 さらに感応寺が幕命で改宗する際、瑞輪寺が勧請し、あわせて関善左衛門の位牌も移して祀るようになった。

というお話です。

このように…

いわば唐突に、「飯匙」つまり「おしゃもじ」がストーリーに登場します。

 これが実話であったと仮定すればですが…

 日蓮は「しゃもじ」に何らかの霊力・法力があると考えていて、手持ちの懐紙とかその場にあった紙などよりも、より大きな効果を期待したということになります(後に寺を丸ごと建立し寄進した関一族なのですから、その場に、紙1枚もなかったとは考えにくい)

 「しゃもじ」になんらかの霊力があるという信仰は、柳田國男が「石神問答」で解明されているように、日本の古代からある「ミシャグジ信仰」にその名前の上でも連なっています。

 また、今回初めて知ったのですが、日蓮は、比叡山での修行の時代から、そこの三十番神に帰依していた ようですので、神道的な信仰にも精通していたはずです(善性寺が別当をしていた社は三十番神社-詳細は後日-。さらに、佐渡には「文永11年(1274)佐渡から赦免の折、日蓮上人が三十番神の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられてい」る、番神堂があるとのことです)

いずれにしても…

この先「飯匙祖師」の起源をさらに解明するには、この尊像が当初納められた谷中の善性寺の建立された場所(現・荒川区東日暮里5-41-14*)について、もう少し探らなければならないようです。

そもそも、久米川に人がなぜ谷中にお寺を建立したのかも含めて。

*ここは、岡倉天心も、しばしば団子を肴に酒を呑むのを楽しんだとされる「羽二重団子」

 【資料映像】
 Dsc01484

 のお向かい。
しかし、この写真を撮ったときには、善性寺はまったくノーチェックでした。

【余禄】

東叡山寛永寺の根本中堂。

Dsc04874s

 我が家も、天台宗なので、とりあえずお参り。

Dsc04875s

 天台宗の本山クラス、まして「東」の比「叡山」なのですから、根本中堂があって何の不思議もないのですが、まさか、こんな境内の端っこ(道を隔ててすぐ向かいに芸大)にあるとは、思いもよりませんでした。

 聞けば、

 寛永寺の根本中堂は、もともとは、東博前の噴水の場所にあったのが、幕末の上野山の戦闘で焼失。

 明治12年に、川越喜多院の本地堂の伽藍を当地に移築したものなのだそうです。

 旧地の現・東博前は、新政府が接収済みでしたので、おそらくここにしか敷地がなかったのでしょう(どうやら、その際、この場所にあった「大慈院」‐名前から推測すると「如来堂」‐を解体してしまったようです。)

*以上、「東叡山寛永寺の諸堂」より

 考えてみると、川越の喜多院には、徳川将軍家から

・寛永15年(1638)1月の川越大火によって堂宇はすべて焼失し山門を残すだけになったため
・家光の命により、江戸城内の紅葉山(現・皇居)にあった、「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」などを含む別殿を、同院の客殿、書院等とするために移築

という援助を受けています。

*以上、 川越大師喜多院「創建と歴史 より

 つまり、これ、神仏分離に加え境内地の接収などによる窮状にあった「公方様のお寺」への、本当の意味での「倍返し」ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 世田谷上馬の「常盤塚」

当ブログの…

 [諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 Part2]
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

の末尾近くで指摘した

柳田國男「石神問答」末尾の「十三塚表」に記載されている

「若林」の「上馬引沢村の境に亙る」「十三塚」

に、行ってきました。

ここは…

世田谷区では「常盤塚」と呼ばれている場所*で、その伝承については こちら

*世田谷区指定史跡
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129099.html

Dsc04964st

 「路地奥のわかりにくい場所」といわれているので、今回ばかりは、事前に詳しい住宅地図で場所を確認していたのですが、行ってみると、世田谷通りの、環七との交差点の「若林交番」から西に向かい、横断歩道橋を過ぎるとほどなく、道路脇に小さな案内板が出ていましたので、迷いようがありません。

Dsc04962s

塚は、民家と駐車場に挟まれた細長い敷地の奥にあって…

Dsc04963s

それなりに綺麗に整備されています。

Dsc04970s

塚石

Dsc04968s

は、比較的新しそうなので、裏側に回って確認すると…

Dsc04966s

やはり、昭和58年建立と、この種の石碑の中では相当新しい*

*松原宿の庚申塔は、昭和55年建立なので、それよりさらに新しいことになる。

そこで…

かつては、どのような姿だったのか調べてみたら、

 「江戸名所図会」巻之三(第8冊)の「常盤橋」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937

の件に、「按に、此はしより二十歩ばかり東の方道より北側に松を植たる塚あり 是を常盤の墓と云 上に不動の石像あり 又同しく南の方にも塚あり 是なりともいへといつれか実ならん」(45コマ目。適宜空白挿入)*

とあります。

 しかし、「此はし」というのは、この場合、烏山川の支流を現・世田谷通りが渡る「常盤橋」を指していることは文脈上疑いようがなく、また。「二十歩」の「歩」というのは、昔の距離の単位で「間」と同じ1.82メートルですので、ここにいう常盤塚は常盤橋から36メートルほど東の、しかも道の北にあったことになります。

  「常盤橋」の方は地形的に位置がほぼはっきりしていますので、今「常盤塚」といわれている下図の場所は、距離的にも道路との位置関係の面でも名所図会の記述とは矛盾しています。

 Photo

 と、なると、今の「常盤塚」は、名所図会に「同しく南の方にも塚あり」とされている塚にあたると考えるられ、塚の上に不動明王の石像が安置されていたらしい塚は同書が出版された1834(天保5)年ころには残っていた十三塚中の一つ(上図)で、後に「エナ不動」*と呼ばれた場所ではないかと思われます。

なお、早稲田大学のライブラリにある精細版
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0045.jpg
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0044.jpg

*三田善春・編著「世田谷の地名(上)」世田谷区教育委員会/昭和59年・刊 p.145【第90図】

この現・常盤塚の位置は…

上馬5丁目30番なので旧馬引澤村村内にあったことになり、かつては、先の「石神問答」のリストにあるように、旧若林村から「上馬引沢村の境に亙」って十三基の塚がランダムにちらばっていたうちの最南端のそれということになりますが、新編武蔵風土記稿でも

まず、風土記稿の巻之五一の「馬引澤村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同40-43コマ)では

「○塚 是モ上馬引澤ノ内若林村境二アリ 高五尺余ナリ若林及ビ當村ニテ十三塚アル其一ト云 コノ塚ハ始ニモシルセシ吉良頼康ノ妾常盤ヲ封ジタルモノトイヘリ 事ハ若林村ノ条ニモ出タレハ照シミヘシ」(42コマ目。適宜空白挿入)

と、高さが五尺余、つまり1.5メートルを越えるものだったことがわかります。

そこで、巻之五二の「若林村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同49-50コマ)を「照シミ」すると

「○塚 村民勝右衛門ト云フ者ノ地内二アリ 塚上二高三丈圍五尺五寸許ノ古松樹アリ …<常盤伝説の解説が続く>…馬引澤村ヨリ此ノ邊二及フマデ十三人の塚アルハ常盤ヲ始メ残リ十二人ノ尸ヲ埋メシ塚ニテコレモ其一ナルヨリ人ノ口碑二ノコレリ 此ノ常盤ノコト素ヨリ疑ヒ多ケレハコノ塚ノ由來モ信シカタシ サレト土人ノ傳フルママ二シハラク置ヌ」

とあるのですが(要するに編纂者である幕府の「学芸員」さんも常盤伝説の信ぴょう性を否定している)、面白いのは、これに続けて

「アララギ塚 十三塚ノ外ナリ 由來ハ詳ニセス 側二死馬ヲ棄ル所アリ 或ハカノ十二人ヲ刑セシ所ニテ不潔ノ地ナレハ遂二馬死捨場ナリシナト 是モ土人ノ話ナリ」(以上50コマ目。適宜空白挿入)

とあることです。

 このアララギ塚の場所を直接示す史料はみつからないのですが、前掲・世田谷の地名(上)p.144【第88図 若林村絵図】によれば、「死馬捨場」は、烏山用水(川)の左(北)岸で、村の最東端の代田村との境にあったとされていますので、このアララギ塚もそのあたりにあったことになります。

 しかし、はるか昔、当地にあるめぼしい塚を数えたら14基あって、当時「はやり」の十三塚信仰と数が合わないので、無理無理「これだけは別」ということにした可能性も否定できません。

     【追記】
     「ランダムにちらばっている十三塚」の類例が、現・川崎市高津区/宮前区の旧・野川村にあったらしい
     ことがわかった

    Photo
    野川村「十三塚」江戸名所圖繪・巻之三(第8冊)<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/07/02

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ[現地探訪]

梅雨の…

「晴れ間」は当分無理みたいなので「雨の合間」を見計らって、高輪の「おしゃもじさま」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/06/post-9eaf.html
に行ってきました。

品川駅前の…

ビルの谷間

Dsc04342s

京急品川駅の駅ビルの真向かい

Dsc04327s
(撮影は「後先」)

なので、神社本殿のガラスに映りこみます。

なぜか「タッチの差」

で先行者が…

Dsc04322s

 こちらは、ともかくも、「おしゃもじさま」の取材ができればいいので、お参りの方の邪魔にならないようにと、早々に「大家さん」の高山神社の本殿にお参りし、お賽銭もお納めして場所をあけたのですが…

 どうも、この方、この高山神社に iPhoneで写真を撮りに来た様子です。

写真を

撮りにいった際に「美女」と「カブッ」てしまったことは、これが初めてではなくて、この

「山」の「深山幽谷化」プロジェクト[計画篇2]
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/02/2-7e83.html

のときもそうでした(しかも、そのときは、本格一眼レフカメラの「写ガール」)。

とはいえ…

(先の塔ノ沢のときもそうでしたが)こちらにも時間の都合があるので、早々に「撮るべきものを撮って」引きあげることにしました(これも、広い意味では「女難」か)。

 というわけで、以下は、いわば「早送り」で。

「おじゃもじさま」は、↑の鳥居から階段を登ってすぐ左の手水場すぐ奥に鎮座していました。

Dsc04336st

祠を含めた全体像は、こんな

Dsc04323st

感じ。

「おしゃもじさま」のご本体は、こんな

Dsc04326s
「ミシャグジ=石神」だそうなので「わかっている人」がいて石を供えたみたいです。

素朴な石像でした。

 素直な感想では、この像は、地蔵菩薩の両手の部分が風化して剥離して、持物である宝珠と錫杖ごと無くなった状態にしか見えない。

しかし…

先の「おしゃもじさま」の標柱の左側面には

Dsc04335s

「このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたともいわれ、また海中より出土したともいわれる。…」

とあります。

 しかし、この説明文、読みようによっては、ほとんど、よくて「トンデモ本」、わるくいえば「オカルト本」レベルのもので、おそらく「固い」ところでは、以下の程度の表現にしておくべきなのでしょう。

一説には、*このおしゃもじさまの像は、もとは切支丹燈籠を模ったもの**で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたともいわれ、また海中より出土したともいわれる。…」

*この一文全部が、どう調べても、根拠薄弱というかウラが取れないので、「一説には」は、この一文全部にかかるようにすべき
今はどうかわかりませんが、「港区の学芸員」さんって、他にも結構大胆な「仮説レベル」のことを。そのまんま書いちゃっている例があります。

**石全体は、全く燈籠の形をしていない。燈籠らしい造形といえるのは、中の(地蔵かどうかはともかく)「何かの立像」のように見える部分が、あるいは切支丹燈籠かとも言われている、いわゆる「織部灯篭」の軸部に似ているにすぎない
  しかし、上端が丸いので、元「織部灯篭」の軸部だったとも考えにくい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/30

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 松原宿のミシャグジのカミ

うかつにも…

我が町世田谷にあるミシャグジのカミの存在を全く忘れていました。

わが家では「ベクジイ」と呼んでいるbeckykusamakura 氏の「三道楽ノート」中の
世田谷 杓子稲荷神社のこと

冒頭の写真を見て、「あれっ、ここ行ったことあるぞ」、と気付いたのですが…

今から4年ほど前に、桜上水confidentialさんにご案内いただいた「松原宿・赤堤ツアー」の冒頭に訪れた、旧・松原宿東のはずれ、現・世田谷区梅が丘1丁目60番にある「杓子神社」のことをです。

社殿は…

鳥居がなければ、普通の旧い住宅とか地区の集会場と見間違えそうな、平入り、切妻の建物で

【資料映像】以下、特記がない限り同じ
Dsc03531s_2

なんとなく、昭和6年まで諏訪大社上社前宮にあったとされる「精進屋」

前宮の精進屋
「諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社雑学メニュー / 昭和初期の前宮」
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/smaemiya.htm
に転載の、宮地直一『諏訪史 第二巻後編』の図録の写真を再転載

を彷彿とさせなくもありません。

鳥居

Dsc03538s_2

の脇の由緒書

Dsc03537t_2

によれば…

「室町時代…権勢関東に響いた吉良治郎大輔治家は、当地世田谷に城を築き、その鬼門鎮護としてこの地に伏見稲荷を招請、奉斉し厚く信仰しました。」

とあるのですが、それだけのことなら、ここは「[伏見]稲荷[神]社」に過ぎないのであって、名前の頭に「杓子」つまり「ミシャグジのカミ」を戴く必然性はおろか根拠は全くないことになります。

稲荷の…

ご利益は、その名前からして「五穀豊穣」。そのいわば応用で、商家の「商売繁盛」(「屋敷神」は大抵「稲荷」)。それを一般化して「家内安全」あたりまでで、「塞の守り」は本来なら「管轄外」のはずなので、由緒書にある「鬼門鎮護」に勧進するなら、もっとほかの選択肢もあったはずです。

 現にここの境内には、塞のカミのひとつとして一般的な*庚申

Dsc03535s_2
参道の二の鳥居の手前右にある

が鎮座していますのでなおさら。

*http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm 参照

【追記】
これは「世田谷区で最も新しい(昭和55年)庚申塔」の由。
http://blogs.yahoo.co.jp/gaya154/folder/661954.html
と、なると話が少し変わってきそうですが

【追々記】
不可解な記述と写真が…
世田谷区文化財調査委員会「世田谷の古道」同区教育委員会/昭和50年・刊
のpp.38-39にあった。

「世田谷区梅丘の庚申塔から考えられる説」と題する項に、おしゃもじ稲荷の庚申塔に関する記述と写真があるのだが、それによると
・地元の古老の話として、この塔は
 もとは稲荷の前の道の北方の辻の魚屋(魚圀)の向かいにあったが
 後に稲荷の境内に移した
・塔には「供養塔と記されているのみである」
とされていて、刻まれている文字が、現在のそれとは違うことになる。

 それだけでなく、p.39の「写真E」を見ると、塔の頂部の宝珠の形も、現在のそれと異なっている。

 【追々々記】
  現在の塔の銘文は
  表:奉供養庚申
  裏:昭和五十五年六月吉日再建
  とのことである。

  http://blogs.yahoo.co.jp/hirose_manabu/30712796.html

 先の本の発行はその5年前、取材・編集期間は2年とのことなので(p.66)、タイムラグはどんなに長くても7年間。写真を見る限り、大きく損傷している様子はないのに、その間に何が起こったのだろう。

 写真の塔ないしその断片がどこに消えてしまったのかは謎だが(棄てるわけにもゆかないので)、いずれにせよ、この辺りに、古くから庚申塔があり、したがって、「塞」の場所と考えられていたことは間違いないことがわかった。

 ここは、いわゆる行政区域的にみると上町を中心とする世田谷村の北東にあたり、また、地形的にみると北沢川の谷に岬状に張り出した台地の突端部にあたっています。

 吉良氏の治世下の旧世田谷村では、寺社が砦の性格を色濃く持っていたことが知られており、この杓子稲荷の場所も同様の性格を持っていたものと推定できます*

 *後掲・相原「『松原宿』リポート-その防衛的性格について-」参照

これに対し…

柳田國男の見解では「ミシャグジのカミ=石神=塞のカミ」だそうですので、世田谷吉良氏のの目的にはぴったりだったわけです。

 どうやら、この「ミシャグジのカミ」は、アマテラス系の弥生時代のカミに先立つ、この国の原初的なカミだったようですので、後の言い方を借りれば「八百万(ヤオヨロズ)のご利益」と同時に「(荒ぶるカミとして)八百万の災厄」をもたらすカミ*でもあったはず。

*「七歳まではカミのうち」の「カミ」も同じ意味の「カミ」と思われる

 「悪に強けりゃ、善にも(強い)」というのは、河竹默阿彌戯作の歌舞伎「河内山」の中の名台詞のひとつですが、一言で言えば「強い人」のことを「悪太郎」とか「鬼兵衛」「鬼平」などと呼んだのと同じく、これも単なる思い付きの台詞回しではなくて、やはり日本人のいわば原初的な思想であり、だからこそ芝居として「大当たり」したのでしょう。

 つまりは、自分たちの「悪にも善にも強いカミ」を祀ることによって、よそから来るやはり「悪にも善にも強い神」による災厄を撃退してもらうつもりだったのだろうと思います。

まだまだ…

調べたり、柳田の言い方をかりれば「しんみり」と考えなくてはいけないことは山積していて

・そもそも、この「松原宿」の成立自体に、謎めいたというか不明な部分が多々あります*
  この地が、そもそも、世田谷吉良の治世以前はどのような状況だったのか。
 かりに「杓子社」が吉良の治世以前からあったとすれば(ミシャグジのカミの方が稲荷よりはるかに起源が古いのだから、その可能性は高い)、ここに賽のカミがいた以上、後の世田谷城周辺というか、北の北沢川と南の烏山川の間の台地のどこかに城砦あるいは統治者の館があった可能性もあります。
 この「杓子社」の起源を探究することによって、吉良統治以前の世田谷地区の姿を明らかにすることができるかもしれません。

*相原明彦「『松原宿』リポート-その防衛的性格について-」(世田谷史研究会「せたかい 56号」同会/平成16年10月・刊 pp.27-32)参照

・時代は下り、こちらは、ほんの最近のことといえますが
 こんなマイナーな神社なのに、荏原郡を中心に広い範囲から信仰を集めていることに驚ろかされます。
Dsc03539s
社殿軒下の額
偶然かもしれないが、二本榎、猿町は、高輪の「おしゃもじさま」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/06/post-9eaf.html
の「地元」である。

 あるいは、先の由緒書のご利益の中にある「芸能上達」と関係があるのでしょうか。

【付録】

 この、桜上水…さん、下高井戸周辺史雑記さん、毎日送電線さん、さらには、松原の旧家の上保さんという、豪華メンバーにご一緒したツアーは、あの震災直前の2011年3月5日のことでした。

はたして、この

Dsc03543s

お祭り、東京の交通も大混乱の中、催行できたのでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/28

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ

茅野市神長官守矢史料館の…

敷地に祀られているミシャグジのカミ

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

【追記】
関東圏のミシャグジガミ・マップを構築中

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=z8nqmxgxljM0.kCSqtfNT7_p8&usp=sharing

は、東京・高輪にも祀られていていた!

今年の…

三田用水ツアー

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987580.html

も無事終わり、来年のコースをあらあら考えておこうと、過去というか第1期のツアー
の資料をぼんやり眺めていたら…

港区立郷土資料館「増補港区近代沿革図集 高輪・白金・江南・台場」港区教育委員会/平成20年3月・刊

の22図(p.55)に「里俗ヲシャモジ横丁」と書かれているのが目にとまりました。

 今年になって、上記のページでご紹介した、古部族研究会「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」永井出版企画/1975年7月10日・刊を読むまで全く知らなかったのですが、ミシャグジのカミは神奈川県では「おしゃもじさま」と呼ばれている例が多いとのこと。

 この「ヲシャモジ横丁」も、この系統なのではないかと、地図の上で横丁をたどってゆくと、はたして、今の品川駅前から二本榎の方に上ってゆく、いわゆる柘榴坂の途中の右側、なんと、何度も原稿の打合せや会合で行ったことのある国民生活センターのあたりに「釈地社」なるものが描かれています。

先の「古代諏訪…」の…

巻末のリストを探してみると、新編武蔵風土記稿に(港区)下高輪村に「おしゃぐじ」が祀られていていたとの記述があるよう(p.157下段)で、「ヲシャモジ横丁」との俗称の由来がこの「おしゃぐじ」にあって、通りの名前になるほどなので、それなりの信仰を集めていた*ようです。

* http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 参照

Zuetakkanawasyoguji
江戸名所図会「石神社」(国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174130
155コマ目

手前の石橋の下を流れる川は三田用水の末流の可能性が高い
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/MitaTour3rd.htm
参照


 先の「…沿革図集」22図の原典は、弘化3(1846)年に幕府の普請方が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」ですので、その原典

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2014/08/post-f2b6.html

の方を調べてみることにしました。

 この地域の図は、一六の下巻

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236?tocOpened=1

道路の北側は、28-35コマ

道路の南側は、42-49コマ

にありますが、北側のそれによると、「延宝年中」(1673-81年)の時点から、「当時」つまり沿革図が編まれた弘化3(1846)年

Takanawamisyaguji
35コマ抜粋

までの7枚の図の同じ場所、柘榴坂を5分の3ほど登ったあたりの、松平大隅守、つまり薩摩藩島津家の下屋敷に食い込む位置にあり、このことから相当起源が旧いものと推定できます。

 しかし、この「釈地社」、明治以降の地図によればこの場所からは消えてしまっています。

 今は、品川駅まん前の高山神社に合祀されている由*

*上記 http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 末尾

【追記】2015/07/02

今日、夕方現地に行ってきました。

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-8a45.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/08

諏訪・伊那・木曽の旅【郷福寺@郷原宿】 附・「街道の幅」調査

ここは…

Dsc03854s
この本堂は、安政の大火(後述)後、嘉永7(1854)年に再建されたもの

現・塩尻市広岡郷原にある桔梗山 郷福寺 という古刹。

 ここは、昭和20年4月から終戦後の11月まで、当初松本市郊外の浅間温泉に疎開していた、わが家から程近い東京世田谷区立代沢小学校(当時は代沢国民学校)の児童が再疎開した場所であり*、ここ数年来、一度は訪れてみたいと考えていた場所で、それが今回ようやく実現したことになる。

*http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51435379.html

このお寺のある…

塩尻市広丘、旧・長野県東筑摩郡廣丘村、さらに遡れば筑摩県筑摩郡郷原町村の、郷原宿は、かつて、柳宗悦が「宿場全体が誠に見事な一個の作品」と絶賛した地とのこと。

Dsc03861s
郷福寺門前の石碑群

 といっても、この話、ネット上にそう書かれているサイトは多いものの、どれをとってみても出典不明。

 だから、ただの都市伝説なのかというと、まんざら根拠のない話ともいえないことは、国会図書館の「レファレンス協同データベース」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000156170

末尾の松本市博物館所蔵の柳宗悦の自筆原稿「文化財『郷原』の宿」の画像から
(松本城にふれた後)
「…今の暮らしに直接繋がる素晴らしい名所があるのを誰も知らない。それは町から乗合で僅か二三十分ほどで行ける『郷原』の宿である。塩尻や洗馬はほんの僅かの道のりである。善光寺街道と呼んだその街道筋にこの宿驛がある。
 日本には数多く古い町町村村が残るが、多かれ少なかれどれもこれも今は乱れて、昔の俤を残すものがない。それなのにこの郷原ばかりは、殆ど完全…」

と読み取れることからもうかがうことができ、この文章の後ろに、

塩尻市のWeb

http://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/manabinomichi/gakusyugaide/zenkojikaido.html

にある

…街道は、手入れされた庭木を並木としてその間を通っているのである。こんなに美しい構造の宿場は他には見かけぬ。それも死んだ過去のようではない。宿場全体が見事な一個の作品だといってよい。信州のすぐれた名所として、否、日本の貴重な文化財として、当然公認せられてよい。

という(おそらく結び近くの)件がつながっているのだろう。

ここ郷原宿の家並みは…

 上記の塩尻市のWebページによると、安政の大火の後、新たに行われた区画割では、一戸の間口を5~6間と広くとり、奥行きは、街道の両側それぞれに、40間の宅地に加えて、その外郭に60間の耕地が割り付けられている。

 また、これは大火以前からなのかもしれないが、用水が、街道の中央、敷地の中ほどmそしてその端、つまり、街道に並行して合計5条流れていた*

*広報しおじり 平成26年10月1日号
 
特集「宿場と共に歩む」(P2~11)(PDF:2,425KB)
 の4ページ目参照

 国土地理院の空中写真でみても

Cb792c2010trc
整理番号 CB792 コース番号 C20 写真番号 10
撮影年月日 1979/08/09(昭54)
の街道沿いの部分を約80度時計回りに転回(右が略北)


S54
CCB7515-C16-10の郷福寺(中央やや右の赤屋根の2棟)付近の抜粋
(詳細は写真中に記載)

とくに、安政の大火後再興された当時の家並みを踏襲しているらしい妻入りの建物は、建物が道路との境界からやや奥まった位置にあり、また、建物と道路の間に樹木を植栽していることが見て取れる。

ただし…

これまた出典不明ながら、柳が「ここの住民は、家を自分たちだけで楽しむものではないと思っている。家とその前に庭をつくり、旅人と家族がそろって、楽しんでいた様がうかがえる。個々の建造物の国宝はあるが、もしひとつの集落を国宝にできるなら、文句なく私は郷原を推すだろう。郷原はそれほどすばらしい」と記していたのだとすれば*、この前段はやや買いかぶりといってよいのではないかと思われる。*http://manriki.sanpal.co.jp/posttown/goubara.html

 柳が絶賛した郷原宿の景観は、もともとは、当地の人びとが「現代」のような「美しい景観創り」を意識してできあがったものではなく、主として「二度と宿場が消えてしまうような事態だけは避けたい」との、今で言う防災、具体的には「火事に強い宿場」を目指した「結果」と考える方が素直だからである。

 この郷原宿は、もともとは慶長19(1614)年、中山道の洗馬宿と松本城下を経て善光寺宿をつなぐルートとして善光寺街道(北国西街道)が開鑿されたとき、西の奈良井川沿いから住民を移住させて、いわば人為的に設けられた宿場だが、文政4(1821)年と安政5(1858)年の大火*で灰燼に帰し、今の町並みは、安政の大火の後に成立したもののようである。

 この宿場は、西の奈良井川からかなり距離を置いた台地上にあって、そのために、当初は、共同の深さ20メートルに及ぶ深井戸(現在は「古井戸」と呼ばれている)によって、

Dsc03850s
3箇所の古井戸のひとつが郷福寺門前にある

後には、奈良井川から用水を引いて生活用水を得ていた場所であり、防火用水に不足を生じそうな場所である*

※【追記】
YouTubeのこの
https://youtu.be/DuNH8rWz3w8

解説によれば、約4.5㎞の奈良井川上流の洗馬下平地籍(琵­琶橋)から用水が引かれたのは、慶長19年(1615年)、つまり、最初にこの郷原宿が開設されたときということになる。
 しかし、それで生活用水が確保されていたなら、何も好き好んでお金もメンテナンスの手間もかかる深井戸を掘る必要など、あろうはずがない。
・この年代データ自体が間違っているのか、
・用水といっても農業用水で、水路が生活用水には不便だったのか。

*ただし、当時の消防は「破壊消防」といって、延焼しそうな家をあらかじめ壊して、そこで
 延焼を食い止めるのが主流だった。

 
江戸の町火消がとび職によって構成されたのは、建物、とりわけ、その「骨組み」に精
 通しているためだったと言われている。

Dsc03857s
郷福寺の山門を入ってすぐ左にある弁天堂
弁天(弁財天・弁才天)は「水のカミ」であり(智識のカミでもある)、
由来は不明だが、あるいは上の写真の井戸の守護神として祀り
はじめたのかもしれない。
しかし、不思議なことに、元々はインド起源の仏教系のカミなの
に(毘沙門天などと同じ「天部」に属し、そのため、天部のホトケ

は、通常、かつてのインドの王宮の武官、文官、女官に倣った
コスチュームを着けている)、注連縄を張るなど、神道系の祀り
かたをしている(なぜか、弁天に限ってはその例が多いのはな
ぜだろう)。

 その意味で、安政の大火後の街場の再建にあたっては、防災、とりわけ防火に、当時の知見や立地の制約の中で最大限の配慮をしたのは当然だったのである。

大火となる過程で…

 建物から建物へと火が移るのは、何も「火の粉」が飛ぶからだけではなく、燃え上がって高熱を発する建物からの輻射熱によって、いわば「炙られて」発火する場合も多い。

 当時は、今の都市部の木造住宅のように、建物の外壁がモルタルやサイディングで覆われているわけではなく、土蔵造りもでない限り、外側が木がむき出しだった大抵の建物の場合、たとえば、平屋建て(屋根までの高さ6メートル)の場合には12メートル、2階建て(同じく9メートル)なら15メートル、燃え上がる隣家などから離れていないと、この輻射熱による発火の危険があるとされている*

*渡邊敬三外「屋根と壁の工法システム」建築技術/1996・刊 p.185の図3.3.19

 Photo

 なお、多数の建物が同時に燃え上がっているような場合は、200メートル離れても
 安全とはいえないといわれる(同p.183)

街道の幅は…

江戸時代初期、徳川家康の没後の元和2(1616)年に家康の遺訓として示された『家康百箇条』で、大街道では6間(10.9メートル)、その他の街道では3間*、つまり荷車が安全にすれ違える程度の、いわば物流ルートとしては最小限の幅に規定されていたようである。

*国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所「東海道への誘い」
  
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index3/answer1.htm

この郷原宿については…

 上に引用した、国土地理院の空中写真でみると、この郷原宿内の街道幅は、どう多めに見繕っても、最大でも上の「大街道」の幅である6間(10.9メートル)であり、それでは、街道の向かいの建物が本格的に燃え上がれば、先のデータによれば、ハナから延焼は免れないことになる。

 つまり、ひとたび郷原宿内のどれかの建物が燃え上がれば、街道沿い方向の建物に延焼するばかりでなく、街道の向かい側の建物にも延焼して、そこから、そちらの街道沿い方向の建物にも燃え広がることになる。

 この郷原の安政の大火後のいわば「新区画割」では、街道沿い方向についても、間口を1軒あたり5・6間取ることによって、後にご紹介する奈良井宿をはじめ多くの宿駅のように隣同士が軒を接するのではなく、隣家との間に空間を取ることを可能にしていたようであるが、しもた屋ならばともかく、旅籠とか後述の問屋[といや]などの営業用の建物の場合はそうも行かないわけだし、多少の空間をとってみても、先のデータからすれば、1軒が燃え上がれば、街道沿いの隣家に延焼するのはむしろ「当たり前」と考えておく必要があるわけである。

 しかし、郷原という一つの宿駅が、全焼し、再建まで長期間いわば壊滅状態になれば、ことは、1つの宿駅の問題に止まらない。

 江戸時代の物流は、「継立」〔つぎたて〕といって、ある宿駅の問屋〔とや〕から隣の宿駅の問屋へと、いわばバケツリレーのように荷物を送るシステムをとっていたからである。

 そのため、一つの宿駅が機能を失えば、隣の宿駅は、それまで、次の宿駅までの輸送を前提に組み上げていたシステム(具体的には、牛馬・人員の数)で、「次の次の宿駅」まで継立をする必要が生ずるので、負担が倍増してしまうことになる(それが恒久的な話ならともかく、一時的な問題なので、本格的に体勢を組みなおすことも難しい)

 つまり、一つの宿駅の機能の喪失は、隣接の宿駅での滞貨を生じさせかねず、結局、街道全体の物流に大きな支障を生じさせることになる。

【参考】

Dsc03538s
往路に立ち寄った、甲州道中・台ヶ原宿の問屋場跡。

結局…

火災で宿駅全体が機能を失い、さらには、街道全体が機能不全になる危険を少しでも減らすには、街道の反対側への延焼を防ぐ算段をするのが、まずは一番現実的な対策といえる。

 先にみたように、最大に見ても10.9メートルという街道幅だけでは延焼を防げないことは先のデータのとおりであるが、たとえば、それぞれ街道から1間(1.8メートル)ずつ建物を離して建てるなら、向かい合う2つの建物は14.5メートル離れることになるので、双方が2階建て同士でも、一応はほぼ安全距離が保てることになる。

 もっとも、何軒もの建物が一気に燃え上がった状態では、それでも延焼は防げないのであるが、そのような場合に備える「もう一つの保険」と言えるのが、建物と街道との間の植栽、とりわけ樹木である。

 大火のとき、樹木が防火帯となって、延焼を食い止めて人命を救った例は、関東大震災の折の東京江東区の現・清澄公園(当時は、三菱岩崎家の深川親睦園)が典型だが、近くは阪神淡路大震災の時も狭い樹木帯ながらも、それが火を食い止めた例があるようである*。 

*radio repo (Growing Reed)
 
http://grrepo19.blog14.fc2.com/blog-entry-13.html

 ただし、東京など太平洋岸地域では、葉に多くの水分を含み、1年中葉が無くならない、
 常緑広葉樹が、この防火林として理想的であるが、郷原にも適用できるかは別問題。
 長野オリンピックの折、誰の「思いつき」かわからないが、街路樹に、本来ならもっと低
  標高あるいは低緯度、つまりもっと温暖な地でしか育たないはずの常緑広葉樹を植え
  て、その後枯れてしまった例がある(
バカです)。
 枯れた木では火力の足しになるだけなので、高緯度あるいは高標高の地では、ナラと
 かブナなど、気候に合った落葉広葉樹と寒冷に耐える常緑広葉樹を併用すべきなの

 ろう。

かなり手のかかった…

 前述の用水のシステムもこの地の特徴で、いつできたのか(農業用水の部分は旧いとしても、宿場内の一部は安政の大火後かもしれない)、いずれ詳しく調べてみたいと思うが、それを措いて、ここまでみてきた限りでも

・街道との境界から建物を離して建てて、向かいあう建物の距離を空ける
・さらに街道沿いに樹木を植えて防火帯にする

というのは、「喧嘩」はともかく、「火事」が江戸(時代)の華だった当時の、過去の経験に根ざした「生活の知恵」であり、それが、柳が絶賛したような美しい街並みを「結果的に」創ったのである。

 せっかくの敷地に、あえて空き地を作ろうなどという発想は、「二度と大火には遭いたくない」という、いわば「命にかかわる」欲求に基づくものと考えるのが素直であって、単に「美しい街並みを」などという程度のことではあり得ないと思われる。まして、一刻も早く郷原宿を復旧しなければならない、というときなのだから。

【余禄】「街道の幅」調査サブノート

今回立ち寄った…

中山道の奈良井宿については、詳細な文献探しはこれからだが、中町と呼ばれる中心部では道幅5~8メートル、両端の上町・下町は4~5メートル*ということである。

*http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/nagano_data/narai/narai_file.htm

【追記】
ここ
規範事例集【街路編】 - 国土技術政策総合研究所

www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0433pdf/ks043309.pdf
に、かなり信憑性の高そうなデータがあった。

上町   2間4尺~3間(4.8~5.4m)
中町 約1間5尺~3間5尺(3.3~6.9m)
下町 約1間5尺~2間半(3.3~4.5m)

とのこと。

Dsc03798s
奈良井宿北端(下町)付近
道幅(道の両側の庇の先端の間隔)は、軒の高さから推定すると
3間(5.4メートル)+α程度だろう

Dsc03826s
奈良井宿南端(上町)付近
ここは、むしろ、後から宿場の方が広がってきた場所と思われ
道幅は、いわばオリジナルの街道幅である3間(5.4メートル)
そのままではなかろうか。


Dsc03835s_2
奈良井宿中心部(中町)のほほ最広部
上記リンク先のデータによれば8メートルということになる

その他の参考例を探してみると…

東海道・小田原宿は

Odawara
横浜開港資料館「F.ベアト幕末日本写真集」p.70より転載

さすがに「大街道」中の「大街道」なので、明らかに6間はある。

 この広さは「大街道」だけなのかというと、さにあらず。たとえば、

厚木宿
Aysugi
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.31より転載

でも、ここは宿場の中心部らしいうえ、道の中央に用水が通っているためか、8間つまり15メートル近くあるように見える。

【追記】
状況判明。
厚木宿は、矢倉沢往還(略・現・国道246号厚木街道。大山道)と、平塚と八王子とを結ぶ八王子道が重複している場所であるのに加え、相模川による舟運の荷揚・荷下もあって、物流の大拠点だったため*、道幅もそれに応じて広かったらしい。

*
http://swa.edu.city.atsugi.kanagawa.jp/901/sougou/dr_atsugi/atugi/rekisi/b_shou/b_kou/b_11_05.htm

つまるところ…

街道の道幅については、

・それが可能な場合は、理想どおり、あるいは、家康遺訓どおりの幅をとるにしても

Beatop68
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.68「横浜ー藤沢間」より転載
【追記】
今気づいたのだが、この写真、護衛のお侍さん(笠をかぶっている)
に、モデルとして画面奥に並んでもらっている可能性がある。


・地形的な制約もあるので、東海道ですら、それが全ての場所で実現できるとは限らなかった。
Beatop69
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.69「横浜ー藤沢間」より転載

 しかし、逆に

・参勤交代で使われる街道の宿駅では、本陣が、さらに通行頻度によっては脇本陣も必要である。
 それらの前は、大名行列の到着時は大勢が一時滞留することになるし、まして、その出立時には隊列を整える(供揃え)のに、相当広いスペースが必要。

・物流拠点である問屋場周辺には、輸送をになう牛馬を停め、あるいはその荷役のためのスペースが必要

なので、この種の宿駅、中山道の奈良井宿や厚木宿の中枢部の前は、通行量や物流量に応じて、広く街道幅をとる必要があった。

と、とりあえずは言えそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)