2019/07/27

【講演録】玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

   

北沢川文化遺産保存の会 第5回研究大会

 (令和01年07月27日 於・梅ケ丘パークホール

での発表

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時の、配布資料

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とプレゼンテーションです。

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代田村の村内東北部には玉川上水が流れているため、
持場村として、土手の草刈りや木の枝払い、水路周辺の監視などのために、などにかり出され、苦労を背負いこむ一方で、
上水の水の一部を田んぼのための農業用水に使えるようになった、というメリットも受けている面もある。

【後補】
東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 pp.80-81によれば、代田村の村髙は

時期 村髙 田髙 畑髙  
正保年間(1644-1648) 75石 32石 43石 玉川上水/北沢用水/三田上水開鑿前
文政13年(1830) 533石 69石 464石  玉川上水/北沢用水/三田用水開鑿後


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【余談】我が家は、この水路沿いにあるので…

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このお酒は、多摩川上流の青梅線の沢井駅最寄りの湧水で作られているという。
つまり、この湧水の水の一部は、昭和初めまで我が家の真ん前を流れ、我が家の地面にも浸み込んでいることになる。
地鎮祭の「お守りください」という意味でのお神酒や、
隣地にあった祖父の家の井戸を埋めるときの「お鎮まりください」という意味のお清めの酒
として、この澤乃井以上のものはあり得ないだろう。

 

上水記などには書かれていないが…

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品川筋(品川用水)、上北沢筋(上北沢用水)などのような、
代田筋(代田用水)があったことになるし、
現に、この絵図の右上に「代田用水」と書かれている。

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横方向の黒い線が玉川上水。その上下の薄色の線が甲州道中。したがって、代田の文字の直上が代田橋。
上水にくっついている四角いものが、左端の上北沢用水の例から水を分ける分水口であることがわかる。
しかし、代田用水については、分水口は描かれているが、そこからの水路の線がない。
しかし、よく見ると、「代田」という文字を囲む丸枠の右上が欠けている。
これは、当初描かれていた分水口と代田の丸枠を結ぶ水路の線が、白い絵の具で抹消された(現代の「ホワイト」と同じ)ことを示すと思われる。

実は、この代田用水、未だ玉川上水をめぐる文献では目にしたととはないが…
幕府の玉川上水の管理記録である、「玉川上水留」(十七ノ百八十八第七棚)
国会図書館・蔵<
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423>
にしっかり記録されていた。

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代田村を流れる3本の川のうち、2本についてはすでに三田用水からの分水が接続されている。
したがって、この代田用水は、ダイダラボッチ川に接続されていたとしか考えられない。

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白い部分に、曲がりくねった古道の雰囲気の道路がある。
京王線あたりからの勾配からみて水路跡と考えても矛盾がない。

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上の道路が水路跡とすると、この代田用水は、里俗・ダイダラボッチ川の
同じく宇田川湯支流に接続されていたらしいことになる。

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GoogleMap「代田用水」

 

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ここまでの記録では、代田用水は1770年から1861年まであったことになる。
しかし、この間の上水記記載の分水の調査記録のどちらにも載っていないのは不可解。

しかも、1861年の文書に、勘定奉行が登場するのも不可解。
なぜなら…

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しかし、この「ファイル」の末尾に、とって付けたように、下記の文書が…

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宛先の4名中、山川下総守が、目付だったことは判明した。
と、いうことは、他の3名のうち、1名は普請奉行、もう1名は勘定吟味役
残りの1名はもう一人の目付だったのではないか。

結局、代田用水は、以下のような経過をたどったことになる。

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もっとも、それでも、「計算が合わない」部分がある。

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あるいは、玉川上水の分水は、後世の我々が想像する以上に、頻繁に、新設・閉止が繰り返されていたのかもしれない。

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2018/02/11

下北澤村「吉祥院」顛末考

■すでに…

3年前に判っていたことで、

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html

とっくの昔に web なり、どこかのブログなりに書いたと思い込んでいたのだが、実はどこにも書いていなかった。

■平成26年の…

6月ころ、東京都公文書館のデータベースで、烏山周辺の社寺のデータを調べているとき、三田用水の溝が谷分水沿いにあった吉祥院について、同館所蔵の「廃合寺院処分願」という文書中に、明治8〔1875〕年に提出された「廃寺願」があることがわかった。

 とはいっても、この吉祥院は、その50年以上も前に

今は住僧なく廃寺のさまなれば由来は詳ならず

という状態だったのだから*、「どうせ、新政府が、幕府の寺社方から引き継いだ寺社リストに『調べたけど今は無い』という『決まり』を付けるためだけの文書だろう」と想像していた。

*「新編武蔵風土記稿」文化7〔1810〕年~文政11〔1828〕年、昌平坂学問所内の地誌調所・編纂
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/56

  この風土記稿は、各村から提出されて「書上書」を基にしながら、幕府の昌平坂学問所に設けられた地誌編修取調所所属の、地誌調出役という、いわば幕府の「学芸員」さんが」現地調査や文献調査の結果、編纂したもので、その記述が「伝聞」形式でないことは、当時現地を調査し「住僧なく廃寺のさま」であったことを確認していたことを意味していると考えられます。
http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=137

■しかし…

それから半年ほど後、他の調べ物のついでに現物を読んでみてびっくり。

 明治10年には、さすがに、本堂・庫裏の類は失われていたようだが、まだ、大日堂という堂宇が残り、中に大日(如来?)像が納められていたことがわかったのである。

 しかも、文書中の寺の配置図から、それまでは、国立公文書館のデジタルアーカイブスにある「目黒筋御場絵図
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>

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で、ある程度までは場所の見当がつくものの、200年前にはすでに無いのも同然だった寺なので半ばあきらめていた、ピンポイントでの位置の特定まで可能になったのだった。

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原典中の「見取図」(赤線)を、昭和初期の公図に重ねたもの

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上図の中心部抜粋

■寺として…

機能しなくなってはいても、残っていた大日像と堂だけは、少なくとも半世紀以上、「勿体ない」と地元の人たちが手入れをしながら守ってきたのだと思われ、旧・下北澤村の人達の「優しさ」がしのばれる話だと、身びいきではあるが当地の現住民としては思う。

■ところで…

この吉祥院の大日堂に残されていた「大日像」については、森厳寺が引き取ったとされている。

 ただし、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷社寺史料 第三集」同/S59・刊の巻末の目録(p.16)によれば、同寺の如来像は、同書口絵写真175の「如来形立像」(その他は、不動明王像と十二神将軍像)とされているのだが、この像、どうみても大日如来には見えない(もともとが、修験->天台宗の寺にあったのだから、密教系。したがって、菩薩の姿をしているはず)

 「大日像」は今どこにあるのだろう。

 ときは「廃仏毀釈」の時流の折、しかし、その中であえて、幸い、この「大日像」は、同じ村内の仏教の寺院に引き取られたのだから(と、いうことは、同寺の檀家衆が、時流に抗して「この像を何とか遺そう」と考えたことを意味する)、たとえ腐朽のため「ぼろぼろ」になったとしても、そのまま「打ち捨て」られることはあり得ないのだから。

【追記】20/05/05

令和2年4月に国分寺市に移転した東京都公文書館のデジタルアーカイブ
https://dasasp03.i-repository.net/il/meta_pub/G0000002tokyoarchv00
搭載の、豊島郡を中心とする近世の村絵図中の、いわば下北澤村の隣村の

代々木村繪圖

を眺めていたら「山伏 大正院」という文字が目に入った。

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調べてみると、代々木八幡の南方、今の渋谷区立富ヶ谷小学校の西に接するあたりにあった

真言宗 当山派に属する修験の寺

だったらしい。

やはり、代々木九十九谷は修験の場だったようである。

 

 

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2018/02/02

松沢の「将軍池」と「加藤山」(附:北沢川源流考)

■最近…

 

都立松沢病院内にある将軍池の東側の部分が、世田谷区の「将軍池公園」として整備されたことが分かったので、

 

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たまたま、1月28日、その近所に用事があったので立ち寄ってみた。

 

■折からの…

 

寒波で、池はほぼ完全に氷結していて、

 

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何人かの若者たちが柵を超えて池の氷の上で遊んでいた(郊外といっても東京の23区内、しかも山の中ならともかく平地の池なのでかなり無謀)

 

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■「将軍池」というのは…

 

「屋外作業療法」という精神疾患の治療の一環として、この池を掘る作業に従事していた、松澤病院史上最も有名な患者といえる「葦原将軍」こと、葦原金次郎に因んだ名称であることはよく知られているが、

 

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茶色の柵ごしに見える黒い部分が「将軍池」。その奥が「加藤山」

■「加藤山」というのは…

 

その主治医の一人で、この池の掘られた大正10年代、日本の精神医療を大きく変えた「作業療法」の一環として、この池を掘削し残土を山の形に積み上げる作業を指導した加藤普佐次郎医師に因んで名付けられている。

 

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「加藤山」の頂上には四阿が設えられている

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なお、「近代日本精神医療史研究会通信 第10号」(2007) pp.11- 参照

 

 加藤医師は、後に世田谷の下北沢に精神科の医院を開院した(現存)のだが、たまたま小田急の電車の中で、池ノ上にあった私立海外植民学校〔大正7-?昭和16〕の開設者で校長だった崎山比佐衛と意気投合し、その校医や衛生学の講師を務めた。

 

 崎山は昭和16年に移住先のブラジル・アマゾナス州・マウエスで死亡し、それに前後して学校も閉校したのだが、加藤医師は、戦後になって、その遺志を継いで、海外移民を志す人たちの教育に、私財を投じて力を注いだ人物なのである。

 

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キャプション中の「白天」が加藤医師(加藤清光「白天録」同/S44・刊 より)

■ところで…

 

この「将軍池」。北沢用水の原型、目黒川の1支流である北沢川の源流の一つと言われることが多いのだが、この池は上記の経緯のとおり人工の池であることは明らかで、それ以前に「ハケ」と呼ばれる小さな湧水くらいはあったのかも知れないが(だから、広大な病院の敷地の中の、このあたりに池を掘ろうとした)、それを、北沢川、ひいては目黒川の源流と呼べるかどうかについては、かねがね疑わしいと考えていた。

 

■そこで…

 

この機会に、旧い地図をてがかりにして、改めて調べてみることにした。

 

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東京府立松沢病院・編「東京府立松沢病院年報 昭和9年」同院/S10・刊 口絵より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050346/9

 

 この略図をみると、病院の敷地の中央部と東端との2本の水路(北沢用水)が貫流し、図の左端から4分の1の位置に描かれている中央に「加藤山」のある「将軍池」からは、さらにもう1本の水路が敷地南端から流れ出していることがわかる。

 

 この将軍池からの水路と東端の2本の水路が北沢用水の本流を構成しており、敷地中央部を貫流する水路が「江下山どぶ」と呼ばれた水路の上流部(仮に「江下山水路」と呼ぶ)にあたる(後掲の「昭和4年測図」参照。なお、東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷の河川と用水」同/S52・刊のpp.76-77の間の「第44図」参照)

 

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将軍池から少し南の病院東側の道路
歩道の中央の敷地境界標は「水路跡のお約束」のパターンの一つ
境界標の左(西)側水路跡と推定される

 

 

 

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S04測 1/10000地形図「経堂」から抜粋

 

 上の昭和4年測量(どうやら、当地に関する一番最初の精密な地図らしい)の地形図を見ると、「将軍池」に江下山水路からの分水が接続されていることがわかる。

 

 つまり、この池の水は、(西側中央に湧水とも解釈できる凹みもあるので、それを考慮しても)少なくともそのあらかたは北沢用水から供給されていたことがわかる。

 

■むしろ…

 

気になるのは将軍池のやや北にある小さな池の方である。

 

 この場所は、先の昭和9年略図では、普通の水路として描かれているが、いずれにしても「将軍池」と違い、水源が判然とせず、番号19の建物(東第五病棟)の下から流れ出しているように見える。

 

 このことは、この東第五病棟の東端あたりに、もともと、自然に池を作るほどの湧水があったことを示しているともいえ、「将軍池=北沢川源流」との物理的あるいは客観的な根拠を誰も明確に示していないこともあって、こちらこそ北沢川の源流だった可能性があるといえるのでなかろうか。

 

 

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2016/05/21

「代田用水」とは「何ぞや?」

代田用水は存在したのか?

【結城】この後、ちょっとおもしろい結論に達しました。

その結末は
当ブログの

玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/07/post-c904be.html

 をご覧ください・

図書館から借りてきた…

世田谷区「世田谷区史料 第3集」同/1960・刊の口絵16図
「品川・烏山・上北沢・代田筋用水村々略絵図」(以下「絵図」)
を眺めていましたら、不可解な記載があるのに気が付きました。

 

 この図

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は、現在の世田谷区の区域内の玉川上水の分水、つまり、左側の上流部から順次、品川用水、烏山用水、北沢用水の水路と水路沿いの村を示した略図なのですが、それらのさらに下流に「代田用水」なる文字があります。

【補註】世田谷区政策経営部政策企画課区史編さん・編
    「世田谷往古来近」同/H29・刊 のp.97により、
    上図が、

    世田谷領用水堀絵図中の「玉川上水および分水諸用水堀図」
    (大場代官屋敷保存会蔵)

    であることがわかった。

 また、絵図には、それぞれの分水の分水口が玉川上水沿いに中抜きの長方形で描かれているのですが、その例に従うと、この「代田村水」なるものの分水口は、代田橋の下流、芥留と水番屋

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付近で、上図のように代田橋と芥留等は近接しているので、おそらくは、それらの下流にあったことになります。

*周囲に数本設置されている高札の記載事項は、国立公文書館・蔵
 「上水記」巻の9 8丁裏 にある
 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000032134&ID=M2010021620324147018&LANG=default&GID=&NO=8&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1

 ただし、絵図に描かれているのは分水口だけで、「代田用水」という以上、当然描かれるはずの、そこからの水路(名称から素直に考えれば代田村までの水路)は描かれていません。

 もっとも、それが最初から描かれていなかったかというと別問題で、江戸時代の玉川上水図などにも例がありますが、図面を改訂するときに、従前の記載事項を地色に近い絵の具で塗りつぶして抹消し、必要に応じそこに上書きしている例も多い(顔料系の泥絵の具なので、比較的容易にできる)ので、絵図の「代田村」という文字を囲う長円の線の右上が欠けているとところからみても、その可能性が高いように思われます。

 

と、いうのは…

 

烏山用水について、この絵図には分水口らしい四角形が2つ並んで描かれていて、分水口から烏山村までの水路も、その「塗りつぶし+上書き方式」で改訂されている可能性が高く、しかも、そのような分水口の変更については

 

世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S58・刊

 

の「烏山川(烏山用水)」の条にある、〔万治2(1697)年〕「樋口は最初烏山村地内に設けられ,1尺四方・長さ9尺の樋を伏せたが,そののち上北沢用水と同じく上高井戸村地内に移され,水口5寸となり,…」(p.77)との史実と合致しているからです。

 

 ちなみに,「同じく」とある「上北沢用水」についての同書の記述によれば「取水口は,最初上北沢村内牛窪に設けられ,樋口1尺4寸・長さ9尺とあり,天明8年(1788)上高井戸村第六天前に移されて方1尺となり,…」(p.80)とあるのですが、上北沢用水については、この絵図中に分水口が移転された痕跡はありませんので、どうやら、この絵図が作られたのは、その天明8(1788)年以降ということになりそうです。

 

しかし…

 

この「代田用水」なる分水について言及したものは、これまで見てきた玉川上水に関する文献に関する限り(つまり、いわゆる「管見の及ぶ限り」-便利ですね、この言葉-ではありますが)見たことがありません。

 

 そこで、改めて、何か史料はないものかと探してみたところ

 

国会図書館のデジタルライブラリ中
「玉川上水留」の [87]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423?tocOpened=1

玉川上水堀通代田村下北沢村下馬〔註:「高」の誤〕井戸村分水口起立書抜并御勘定奉行より当時代田村引取無之候ニ付残歩丈ヶ上郷分水口増樋掛合書 但野方堀通村々引取分水口廉書品川用水三田用水分水口御普請一件 文久元酉年六月 御金方
なる文書があることがわかりました。

 

 読んでみると、といっても何分古文書まして公式文書の原本なら「固い字」で書かれているのでしょうが、この文書のはその写しであることも加わってスラスラ読める道理もなく、とりあえず当面は「読めるところだけ拾い読み」するほかないのですが、どうやら

 

・明和8(1771)年に、いわば代田村と下北沢村連名の出願により(同18~21コマ)、
 玉川上水に「圦樋長三間内法三寸四方」(同27コマ)
 の代田用水の分水口が設けられた。

 

その後の経緯・理由については、まだ読み取れないのですが、

 

・これを文久1(1861)年になって廃止し、
 その分「上北澤村分水口」を「増樋」(つまり、そちらの分水口を拡げた)した(同10コマ)

ということのようです。

 

 もっとも、この文書の末尾近く(58コマ~)にも、天明5(1785)年の同様の案件の記録があり*、これらの関係はまだ不明なのですが、天明期の案件がそのまま実現されていれば、文久期にあらためて詮議する必要もなかったことや、前述したこの地図の作製時期からみると、天明期のは、いわばアイデアとして出たものの実現はしなかった、と考えるのが素直なように、いまのところ考えています。

 

*おりしも天明の大飢饉の最中であり、水があっても収量が上がらないので水料米の負担に耐えられなくなったた可能性がある。

【追記】

昨6月22日朝、突然思い至った。
その発想で、原文を読み直すと、どうやら正解。
2019年7月22日開催の北沢文化遺産保存の会 の研究大会
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52091878.html
で発表後、パワーポイントによる資料を含めて、ここに追記することにする。

 

 いずれにせよ、先の、絵図にある代田分水の「水路のない分水口」は、この文書の経緯を反映しているのではないかと思われます。

 

代田用水はどこを流れていたのか

 

この…

 

「一時は実在したことが確からしい」代田用水。

 

 次に問題になるのは、どこをどう流れていたかにあります。

 

 実は、玉川上水の分水といっても2つのタイプがあって、

 

・その一つは、玉川上水と同様に、台地の稜線の上を流れるタイプ
  典型が、千川上水と三田用水。それと、かなり無理はしていますが絵図中の品川用水

 

・もう一つは、自然河川、したがって台地の中の谷につなげるタイプ
  典型が、絵図中にもある、烏山用水と(上)北澤用水

 

で、より遠くまで水を送るには前者が理想ですが、それには、もともとそれを可能とするような地形に恵まれていなければなりません。

 

あえて…

 

根拠を挙げ*、さらにそのまた根拠を挙げだすと、えらく長ったらしい話になることが分かったので、結論をいえば、この代田用水は、下図

 

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のように、北沢川((上)北澤用水)の支流の一つ。里俗(「現地での俗称」という意味。以下同じ)・森厳寺川のそのまた支流の里俗・だいだらぼっち川の谷頭につながっていた可能性が一番高いと思われます。

 

*「あえて」一次的な根拠を挙げれば
・地形的にみて、玉川上水から南に水を流せば、ほどなく北沢川((上)北澤用水)に落ちるので、
長距離の送水は必要ない
・あえて稜線上を流そうとすると、西の世田谷区村飛地の羽根木との境界の「堀の内道」か、東
 の下北澤村との境界の「里俗・鎌倉道」に沿って水路を拓く必要があるが、そのような痕跡が
  ない
・加えて、その稜線上の水路から、水田を設けることが唯一可能な「だいだらぼっち川」までの分
 水路がいくつか必要だが、その痕跡もない
・そもそも、「だいだらぼっち川」沿いの、明治期の地租改正時の地番割をみても、そのような本格
 的な用水路を必要とするほどの水田はなく、「だいだらぼっち川」の堰上げによる灌漑で対応で
 
きる程度の水田の面積と考えられる

 

 

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2016/03/27

「ムダ堀」考 Part.2

かつて…

「下高井戸周辺史雑記」→「ムダ堀は武蔵村山に通じるか?」

http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20120705235746 で、採り上げていただいた当方のメール(急いで打ったメールなので、その原文の誤字を少々校正すると)

「かねてから、興味はあったものの、そもそも江戸を目指していたはずの玉川上水の掘りそこないと考えるのは、わざわざ元の多摩川に近づいてゆくルートをとったのが不可解であることから、棚上げにしておりました。
 ただ、あのあたりには、府中用水があり、先日、玉川上水に、狭山丘陵の池から助水していたこと、そして、その助水路は、狭山から多摩川への自然河川を分断したもの、との記述に出会い、この分断された自然河川の流末が、かのムダ堀あたりになるのではないかと思いいたり、調べてみると、ありました。
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/8d0f0ce344294b496cfca80536dbe09c
 この矢川、狭山が丘からの本来の水を玉川上水に横取りされた後は、上水から下流、とくに、矢川からの用水ととりあえず考えられるムダ堀については、ロクに水も流れていないのに、あるいは、流れている水量の割には、やたらに深くて広い掘割が残されたことになります。
 後の世の人からみれば、矢川本流を含めて、川が削った掘割とは思えず、また、だいだらぼっちの伝承もない以上は、人が掘ったが結局使われなくなった掘割と考えるのが、最も合理的な解釈だったと思われます。」

というものでした。

問題は…

●そもそも「ムダ堀」に府中用水を経由してあるいは直接に多摩川の水が届くのか
●「ムダ堀」は玉川上水、つまり、四谷大木戸とは限らないとしても江戸府内までの
 上水道になり得たか
の2点に整理することができるでしょう。

 前者が不可能なら、後者を検討する必要は全くないことになります。とくに、滝神社北方の巨大な掘割に常時水が流れていた形跡がない(深澤覚書pp.70/82)というのが気になるところです。

最初の問題については…

 明治の地籍図によれば堀の西端が達しているらしい(深澤覚書p.75)八幡下では、段丘下面の標高は42メートル程度まで低下してしまい(高橋「多摩川低地の地形と府中用水」〔以下「高橋用水」〕p.45「図1」)、ここから、堀の底面の標高が44.4メートルという(深澤覚書p.81)滝神社北方の溝まで水を上げるのは現況の地形では難しいことになります*。

*もっとも、多摩川は暴れ川で、昔から氾濫を繰り返しているので、あるいは、ムダ堀開鑿当時は
 段丘下面は、もっと高い位置にあったのかもしれないが、そういってみても確認のしようがなく、
 ここでは考えないことにする。

 しかし、段丘上の立川面と呼ばれる台地面も、多摩川も、全体に西から東に向かってダラ下がりになっているのですから、この八幡下から上流に遡ってゆけば、どこかに、下図のような崖線にほぼ沿う形で段丘上面まで水を流せる水路の始点となりうる場所があるはずです。

Photo

 ところで、 府中近辺については「府中領総図」という古地図があり、

Body
「府中領総図」下が北

この地図によれば、ムダ堀と考えられる溝は、滝神社の北をかすめて、崖線に沿って西に延び、八幡神社を過ぎて、六所宮(現・大國魂神社)南東に達していて、しかも、(上の複製写真では判読できないが)ここに「堀形此処二止ル」との注記があるとのことです(深澤覚書pp.72/75)

 同覚書では、ここの標高が46メートルであることから(同p.46)、ムダ堀への通水可能と結論しているのですが、用水の水を地表に流すわけにはゆかないのですから、通常は溝を掘らなければならず、一連の発掘結果で最も小規模といえる1234調査地点の上幅4メートル、深さ1.4メートル程度の水路(同p.76)は最低限掘削する必要があると思われます。

 この大國魂神社南端と滝神社北方との距離は約2キロメートル。一方、玉川上水の平均勾配は(43Km/92m×1000)=2パーミル(1/1000)なので、これに従うと必要高低差は4m。

 44.4m(ムダ堀標高)+4m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒49.8m

 また、勾配を、ほぼ最低限とみられる、六郷用水の平均勾配0.6パーミルにすると、必要高低差1.2m

 44.4m(ムダ堀標高)+1.2m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒47.0m

ですので、この取水口の標高は、できれば、50メートル程度は欲しく、少なくとも47mは必要ということになります。このうち標高47mのポイントを地形図上で探すと、下図左端近く、水路「K-FM-1」と、坂道「S-12」の交点で

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現・大國魂神社の南端付近となります。

 つまり、ここから、府中用水の、図中「K-FM-1」の水路から分水し段丘下面からの相対的な高さを徐々にかせぎながら、滝神社付近で、完全に段丘上面に水を載せれば、ムダ堀に府中用水、ひいては、多摩川の水がなんとか届くことになります。

とはいっても…

これは、物理的にいえば、での話。

 とくに問題と思えるのが、図中赤枠付きの黄色い矢印で示した、おろらく崖(ハケ)からの湧水が削ったと思われる、浅い谷津です。

 単に、ここをクリアするだけのことなら、必要な標高を保ちながら谷頭方向に水路を迂回させればよく、現に玉川上水の笹塚付近では、目黒川支流の北沢川の支流を北に迂回して避け、次いで神田川の支流を南に迂回して避けていることから見て、とりわけて難しいこととは思えません。

 むしろ、コトは「人的・社会的な問題」で、農地を開く順番からすれば、この水路を作る当時、すでにこれらの湧水は、崖線下面の農地の灌漑用水として使っている人たちがいたはずですし*、さらに、この谷に堤を築いて溜井にしていた可能性もあります**

図中「K-FM-2」は、「こっちだいしょう」あるいは「天神川」といって、それらの湧水を集める
 水路だったようです(旧名調査p.36)

**関東とりわけ荏原郡の農地の灌漑に、かつては、溜井が大きな役割を担っていたことについては
   高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ- 」
 <https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6045/1/sundaishigaku_56_205.pdf>
  参照

 灌漑用の水利は、古来、第1に「古田優先」、次いで「上流優位」ですので***、既存の水利の利用者を無視して、水路を分断したり、溜井を無くしたりすることはできなかったはずなのです。

***川尻裕一郎
  「2. 水のある風景」<http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/02.html>〔古田優先〕

  「3.上流優先(優位)と境界」<
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/03.html> 〔上流優位〕

 さて、この問題を、どのように調整したのでしょうね。

3月10日に…

見に行ったのは、上図でいえば左端近く、「崖を昇る水路」を通すとすると、一番面倒になりそうな、大國魂神社南東の、やや広い谷津の部分です。

 実は、ここは、神社の境内地の東を通る道路から、神社の深い神林を見ることができそうなので、1月にも行ってみた場所なのです。

 が、当時はムダ堀との関連には、全く気が回らなかったので、神林の反対側の谷津については、全くノーチェックだったのです。

Dsc06180st
神社南東の谷津にある府中宮町三丁目アパートの案内板
地図右(南)の公園を含めると、ほぼ、問題の谷津の全域を占めている

Dsc06202s
アパート群の南東から撮影
奥が神社の神林
小さいが扇状地状の地形だったらしい

Dsc06184s
神社境内東の道(上図S-14)
地獄坂と呼ばれている

Dsc06186s
地獄坂の由来
階段を下りると妙光院の墓地の北側に行き着く

Dsc06188s
妙光院から神社方向を撮影
神社境内の台地が舌状に張り出している様子がわかる

Dsc06190s
妙光院南を西から東に流れる水路
ほぼ、上図「K-FM-1」の府中用水の赤丸で示した
地表面の標高47mポイントから東側方向

Dsc06200s
妙光院東側の南北方向の水路跡
上図の「K-FM-2」

Dsc06199s
上の写真とほぼ同位置から東方向を撮影
府中用水分水の「K-FM-2」水路は、問題の谷津東で
方向を変え、崖線に並行して東方向に流れる

Dsc06201s
谷津東側道路から東方向の崖線
ここだけでも、相当な高度差がある
前記「府中領総図」にいう「堀形此処二止ル」の「此処」は
ほぼこの地点(もう少し南かもしれないが)と思われる
                                              -続く-

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2016/03/26

「ムダ堀」考 Part 1

いよいよ…

3月20日の第2のスケジュール「ムダ堀」探査です。

 「前書 part1」でも少し触れましたが、府中競馬場の北東、府中市清水が丘1・2丁目の、京王線でいえば東府中駅から多磨霊園駅間の略南方の、(一部については)巨大な溝跡がかつてあって(「下高井戸周辺史雑記さん」の、このページ<http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20100707111852>が一番位置がわかりやすい。なお、同氏作成のgoogle map はこちら<http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20100715120149>)、これを、玉川上水開削の当初失敗した水路跡とする伝承があります。

元が…

「伝承」なので、尾鰭がついたり、肝心なところが飛んでしまったり、あるいは、全く別の伝承と混ざってしまったりたりするのは避けれないのですが、ともかくも「ムダ堀」という名前の起源につながるもののようですので、まずは、その伝承をベースに、順次考えてゆくことにします。

 いろいろヴァリエーションのある中で、一番「まとまっている」というか、一見(?聴)すると理屈が通っているように見えるのが、昭和の初めに、大國魂神社の宮司であった猿渡盛厚が三田村鳶魚に語ったのと同趣旨と思われる以下のようなお話です。

「…
01:武州多麻郡国分寺真姿の流を
02:玉川の水に合水いたし可引入
03:との目論見を
04:町人庄右衛門・清兵衛
05:慶安年中願出、御免ありて
06:多麻郡青柳村下今の府中用水口より引入
07:府中八幡下より往還の方へ堀曲
08:染谷村の裏通を堀合水に致候得者玉川出水いたし堰押流候とも
09:谷保村にて狭山の池も合水になり
10:都合三筋なれバ、四谷大木戸へ向け水盛渡候得共
11:八幡井筋水這入兼し古堀敷、
12:甲州道中府中宿入口堰谷塚前にあり
…」
 (深澤靖行「ムダ堀に関する覚書」〔「府中市郷土の森博物館紀要」25号所収・以下「深澤覚書」〕p.80引用の「小野町本」の訓下し文に、適宜改行とスペース挿入)

<補注:以後順次追記予定>

01:「真姿(の池)」は、国分寺市にある湧水。野川の水源の一つ。
  <
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005195/1004229.html>
04:「玉川兄弟」の名前は、庄右衛門・清右衛門といわれている。
05:「慶安」期は西暦1648-1652。玉川上水開鑿と伝えられているのは、承應2(1653)年。
06:現・国立市青柳。この、府中用水も同地の取水口も現存。
07:府中八幡は、大國魂神社の東、現・府中市八幡町にある神社。
  「往還」とは、いうまでもなく甲州道中、現・甲州街道(旧道)であろう。

08:染谷村は、京王線の武蔵野台・多磨霊園両駅あたりから多磨霊園南端あたりにかけて
  あった村(但し、上・下の染谷村の間に南北に割り込む車返村があった)。
09:谷保村は、現・京王線谷保駅あたりにあった村。
  ここで「合水」された「狭山の池(水)」とは、元は狭山丘陵から南に流れて、玉川上水開
  鑿までは、府中市西部で多摩川に落ちていた「残堀川」の水を指すと思われる。
  残堀川は、玉川上水開鑿時に現・立川市砂川で分断され、「狭山の池(水)」は上水の
  
唯一の助水となった。
  一方、玉川上水から下流部は「矢川」という、府中用水の助水となった。
  この経緯については、
  http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/8d0f0ce344294b496cfca80536dbe09c
  に詳しい解説がある。
  この記述が
  ・谷保で、狭山の池(水)が単純に残堀川から府中用水に落ちて「結果的に」07/08の水
     
路に流れていた(正確には、流すつもりだった)という趣旨なのか
     谷保は、07の「八幡下」よりはるかに西にあるうえ、残堀川の水は「放っておいても」
     谷保の崖線下近くで府中用水に入る
  ・その手前の、谷保村内のどこかに、玉川上水のように、この水を、台地上で四谷大木
   戸に流すための東
に向かう掘割が開鑿してあったとする趣旨なのか
     10で「三筋」としているので、それを重視すればこちらの趣旨の可能性が高い

 は、判読できない。
12:「堰谷塚」は、現・府中市若松町1-6の旧・甲州街道沿いにあった塚(府中市立郷土館
  紀要別冊「府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前」同市教育委員会/
  昭60・刊〔
以下「旧名調査」〕 p27「T-19 関谷塚」参照)と思われる。

一般資料としては…

●玉川上水についての伝承を整理したうえで、検討・検証を加えた論文

 「土木技術と文化財保護の視点からみた玉川上水再考-特に福生市域を対象として-」

 www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2012/12/204.pdf

 が奨められる。

●いわゆる「水喰土」について、土粒子の組成というユニークなデータがある

 「福生市史」
 http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/index07.html

 中、「第三編 近世」「玉川上水の開鑿と新堀工事」
 http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/07/01/0025.pdf

 も見逃せない。

●幕府の公式記録である、俗称・徳川実記中で、玉川上水開鑿に言及しているものは

 「嚴有院殿御實記」(家綱治世時)
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991118

 の、承応2年1月13日の条 39コマ
 と、承応3年6月20日の条 63コマ

 のみらしい。

                                                -続く-

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2016/03/23

府中市郷土の森博物館の企画展「ムダ堀の謎を探る」(「ムダ堀考」前書):part 2

博物館の敷地内には…

府中市内にあった伝統的な建物が数多く移築されているのですが

Dsc06147s

江戸/東京に近い街道町のせいか「他では見られないタイプ」とまでいえるものはなさそうなのと、何より、後に【付録】で触れるように、旧甲州街道の大國魂神社から西には「現役」の伝統的建物を見ることができるのに加えて、時間の制約があるので、

「まいまいず井戸

Dsc06161s

に集中することにしました。

かつて…

といっても、古代から中世にかけてが多いようですが、水に乏しい武蔵野の台地上で水を確保するために、地面を螺旋状に掘り込んで、そのすり鉢状の穴の底の部分に井戸を掘ったもので、穴の底まで人が昇り降りする通路の形が「カタツムリ」に似ていることから、この名前が付いたといわれています。

さすがに穴の底にある井戸は本物ではないようですが*、通路に手すりが設けられ、実際に「井戸端」まで行けるようになっている設え

Dsc06150s

がうれしいところです。

* これに対し、羽村市五ノ神1-1の五ノ神神社に遺っているものは、本物の井戸で、
 何と大同年間(西暦806~810年)という気の遠くなりそうな昔に開鑿され、しかも、
 先の東京オリンピック直前の昭和37(1962年)まで現役だったという。

武蔵野台地では、地下水位が低いので深い井戸を掘らなければならないことが多いうえ、表面近くのローム層の下にあって地下水脈のある砂礫層の底近くのところまで、昔の技術では崩れないように垂直に掘るのが難しいことから、このような形の井戸になったようです。

【参考図】

Photo
高橋睦夫「多摩川低地の地形と府中用水」
島村勇二外「多摩川中流域の『府中用水』に関する調査研究」
多摩川研究観察会/2000年・刊
 所収)p.52より引用、加筆。
 府中市東部のこの地では、地下水位面が標高約42メートル、
地表面から約6メートルの位置にあることが推定できる。

 また、一般化できるとは限らないが、地表から垂直に井戸を
掘ろうとすると、ここでは、地下4メートルあたりにあるN値=38
というかなり固い砂礫層を、狭い竪坑の中で掘らなければなら
ないという、かなり「シンドイ」作業になりそうなことがわかる。

Dsc06158t
井戸の「底」の写真を撮ろうとしている女の子。
私も目指している「学術写真家」の卵ですね。
たのもしい。


「まいまいず」を堪能し終わったのが…

11時40分ころ。

午後1時には府中に戻りたいので、お昼をどうしようかと、まず、博物館の玄関を入って右脇にあるレストランに。

どうせ食べるなら地場のものを、とメニューをみると「地場粉のすいとん定食」というのがありました。

これはこれで魅力的ではあったのですが、生憎、この日はバカ陽気で、その後の行動を考えると、熱い汁物はちょっと…。

と、いうわけで、場外に出て、京王バスのバス停前の「物産館」のレストランに。

面倒なので、持ち帰り用の焼きそばを買って芝生の上で食べようかと思ったのですが、食券の自販機横のメニューを見ると「府中野菜のうどんサラダ ¥560」というのがあって、朝食が野菜不足だったこともあって、一も二もなくこれに決定。

Dsc06165s
味噌と醤油ベースのドレッシングがちょうどよい塩梅でした。

戻りは…

博物館正門前からバスで分倍河原に出て1駅新宿方向に戻って、府中に着いたのが午後1時5分。いよいよ、今日2つ目で、3つ目の大國魂神社見学(当然、同社に参拝はしましたが、内容的には「参詣」でも「見物」でも「調査」でもなく、「見学」かせいぜい大袈裟に言って「視察」)の一つ前のスケジュールである「ムダ堀」探査です。

【付録】

 先にも少し触れましたが、府中は、街中でも、ちょっと歩くと伝統的というか「懐かしい」建物が現役で残っています。
 今(2016)年1月に府中に行ったときに、神社の参道入口から旧甲州街道の西の方を歩いたときに見つけたものを、ここでご紹介しておくことにします。

紙屋さん

【資料映像】
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酒屋さん

【資料映像】
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【資料映像】
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角が「本業」の酒屋、正面はカフェになっています

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左(西)側の蔵の壁
漆喰煮りの壁に設けられた鈎(フック)に木製の壁材が
ひっかけて止められています。
漆喰を雨や日射から保護するための「さや」と呼ばれる
部材だとと思います。

【資料映像】
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なお、ここは、府中の地酒「国府鶴」の蔵元。
また、毎年5月の神社の例大祭「くらやみ祭」の折の祭事の一つ「野口仮屋の儀」ではご当主が重要な役割を担う由。

http://kokomachi.sumai1.com/mu-fuchu/28

そんな御縁からか、東京の地酒メーカーによる「東京都酒造協同組合」は、毎年神社にお酒を奉納しています(あと、ここにお酒を奉納するもう1社は、ユーミンの「中央フリーウェイ」にも登場する、サントリー・ビールの府中工場)。

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拝殿正面

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境内社の「お酒の神様」松尾神社

ちなみに、我が家の真ん前に、大正終わりくらいまで、
玉川上水と三田用水を通じて多摩川の水が流れていた
ので、地鎮祭などの祭事とか、庭で死んでいたヘビを葬

ったときのお清めには、これらのうち、青梅市小澤酒造
の澤乃井を使っています。


魚屋さん

【資料映像】
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妙になつかしい佇いです

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2016/03/22

府中市郷土の森博物館の企画展「ムダ堀の謎を探る」(「ムダ堀考」前書):part 1

既報の…

一昨日午後2時からの大國魂神社の見学に先立って「せっかく府中まで行くのだから」と、今月末までと会期末の迫っていた、標記の展示会に行ってみました。

 「ムダ堀」というのは、現府中市の南東、府中競馬場の北東あたりにかつてあった、人工的に掘削されたことがほぼ確実な、当地では失敗した玉川上水の堀の痕跡とも伝承されている溝跡のことをいいます。

 この「玉川上水失敗説」あるいは、それにまつわる「悲しい坂伝説」なるものについては、ネット上にかなり多くの方々が取り上げていますし、このページの続編の「『ムダ堀』考」でも少しばかりふれる予定ですので、ここでは取り上げません。

午後からの予定もあるので…

 朝の10時に家を出て「乗換案内」で表示されたスケジュールでは、京王線明大前から特急で分倍河原に行き、そこから、京王バスで博物館正門前に行くはずだったのですが、明大前で一つ前の準特急に乗れてしまったので、分倍河原駅

Dsc06130s
バスターミナルの「新田義貞像」
たしかに「分倍河原の合戦」の主人公ではあるものの、
地元の武将というわけではないので、なんとなく、ここ

に義貞像というのには違和感がある。

からは、府中市のコミュニティバスである「ちゅうバス」で、博物館から少し西に離れた「南町2丁目」に行き、

Dsc06133s

そこから、博物館に向かうことになりました。

 バス停の先の交差点には案内板があって、それに従って左(東)方向に向かったのですが、なかなか、次の案内板がみつからず、「本当にこの道でよかったのか」と少々心細くなってきたころに、次の案内板が。

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 そこから、ほどなく博物館に到着。

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 当初のスケジュールより20分近く前倒しの午前10時40分過ぎだったこともあり、入場券売り場も、場内も

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館内も

Dsc06139s

まだガラガラ状態で、とても助かりました。

一気に企画展示室に行こうとしたものの…

常設展示室出口の隣という探しにくい場所にあって、少々時間を食った末、ようやく到着

Dsc06141s

残念ながら、この企画展示室内に限って写真撮影禁止の表示が出ていたので

写真は、部屋の外から1枚だけ。

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後記深澤論文p.66の「図1」と「ほぼ」同じ写真
発掘調査時の写真で、溝の底にいる人物と比べると、
この溝が大規模なものであることがわかる。


企画展の展示内容の…

あらかたは、同館の紀要第25号(2012年)pp.65-86の

深澤靖幸「『ムダ堀』に関する覚書 -玉川上水失敗伝承のある大溝の基礎的考察-」(以下「深澤覚書」)

を、古地図などの実物(?少なくともライブサイズ)の資料で示した

という性格のものでした(ということは、論文を読んだ後ではたぶん新知見はなし。しかし、論文を読んでおくと「ああ、これがあれか」と、p.73図11の「府中領絵図」(下図)などはなかなか楽しめます。)

【資料映像】
Body

この博物館での目当ては…

あと2つあって、その一つが、常設展示の巨大なパノラマ2基。

1基は、8世紀後半から10世紀後半までの、府中に国庁があった当時のもの

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もう1基が近世期のもの

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ですが、これらで、午後から探査にゆく、大國魂神社境内南東の崖線のあたりの地形を見ておきたかったのです。

 で、その場所は、8~10世紀版ではスポットライトのあたっているあたり

Dsc06143dij

ほぼ同じ場所を近世版でみると…

Dsc06145s

こうなっていました。

 ここは、後日書く予定の「『ムダ堀』考」のポイントとなる地域の一つなのです。

もう一つの目当ては…

屋外に「実大」で設えてある「まいまいず井戸」なのですが、かなり大きなページになってきたので、次稿で。

 

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2015/06/28

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ

茅野市神長官守矢史料館の…

敷地に祀られているミシャグジのカミ

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

【追記】
関東圏のミシャグジガミ・マップを構築中

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=z8nqmxgxljM0.kCSqtfNT7_p8&usp=sharing

は、東京・高輪にも祀られていていた!

今年の…

三田用水ツアー

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987580.html

も無事終わり、来年のコースをあらあら考えておこうと、過去というか第1期のツアー
の資料をぼんやり眺めていたら…

港区立郷土資料館「増補港区近代沿革図集 高輪・白金・江南・台場」港区教育委員会/平成20年3月・刊

の22図(p.55)に「里俗ヲシャモジ横丁」と書かれているのが目にとまりました。

 今年になって、上記のページでご紹介した、古部族研究会「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」永井出版企画/1975年7月10日・刊を読むまで全く知らなかったのですが、ミシャグジのカミは神奈川県では「おしゃもじさま」と呼ばれている例が多いとのこと。

 この「ヲシャモジ横丁」も、この系統なのではないかと、地図の上で横丁をたどってゆくと、はたして、今の品川駅前から二本榎の方に上ってゆく、いわゆる柘榴坂の途中の右側、なんと、何度も原稿の打合せや会合で行ったことのある国民生活センターのあたりに「釈地社」なるものが描かれています。

先の「古代諏訪…」の…

巻末のリストを探してみると、新編武蔵風土記稿に(港区)下高輪村に「おしゃぐじ」が祀られていていたとの記述があるよう(p.157下段)で、「ヲシャモジ横丁」との俗称の由来がこの「おしゃぐじ」にあって、通りの名前になるほどなので、それなりの信仰を集めていた*ようです。

* http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 参照

Zuetakkanawasyoguji
江戸名所図会「石神社」(国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174130
155コマ目

手前の石橋の下を流れる川は三田用水の末流の可能性が高い
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/MitaTour3rd.htm
参照


 先の「…沿革図集」22図の原典は、弘化3(1846)年に幕府の普請方が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」ですので、その原典

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2014/08/post-f2b6.html

の方を調べてみることにしました。

 この地域の図は、一六の下巻

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236?tocOpened=1

道路の北側は、28-35コマ

道路の南側は、42-49コマ

にありますが、北側のそれによると、「延宝年中」(1673-81年)の時点から、「当時」つまり沿革図が編まれた弘化3(1846)年

Takanawamisyaguji
35コマ抜粋

までの7枚の図の同じ場所、柘榴坂を5分の3ほど登ったあたりの、松平大隅守、つまり薩摩藩島津家の下屋敷に食い込む位置にあり、このことから相当起源が旧いものと推定できます。

 しかし、この「釈地社」、明治以降の地図によればこの場所からは消えてしまっています。

 今は、品川駅まん前の高山神社に合祀されている由*

*上記 http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 末尾

【追記】2015/07/02

今日、夕方現地に行ってきました。

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-8a45.html

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2015/06/15

H270620三田用水ツアー・とれいらぁ

北沢川文化遺産保存の会「都市物語を旅する会」

平成27年6月20日「三田用水を巡るⅡ」(第2期第2区間)

についてのお知らせ。

集合場所について

「代官山駅改札前」を予定しておりましたが、何分余りに狭く、まして週末

で混みあうのが必定のため、下図の「緑矢印」つまり正面口を出たあたり

にしたいと思います。

Daikanyamstn
クリックで拡大します

後のルートを考えるとベストは西口なのですが、さらに狭くて無理。

コースについて

当日お配りする、笹塚の取水圦から、「帳簿上」の流末である白金猿町までの地図のうち、当日のコースをカバーする範囲の抜粋です。

UPできる画像サイズの関係で、時計回りに90度回していますので、右が北です。

0506s
クリックで拡大

今回は、昨年の「溝が谷分水」に続き

・猿楽分水を途中まで

・銭瓶窪左岸分水(白金分水)を流末まで

下ります。

では、お楽しみに。

【重要】

資料(カラー版全16ページなので、当日のコピーは無理)の準備の都合上、3日前までに予約が必要です。

予約の連絡先は、下記リンク先の「4」の末尾をご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2015-05-31.html

【追記】2016/06/17

面白ポイントをみつけましたので、水路探検からちょっと15分ほど「寄り道」します。

資料の改訂もできましたので、当日の配布をお楽しみに。

【追記】2016/06/28

その「面白ポイント」は、ここ

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/SxSyounennSansoh.htm#DateatoYumeji

です。

                          きゅれいたぁ 木村

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