2016/05/21

「代田用水」とは「何ぞや?」

代田用水は存在したのか?

図書館から借りてきた…

世田谷区「世田谷区史料 第3集」同/1960・刊の口絵16図
「品川・烏山・上北沢・代田筋用水村々略絵図」(以下「絵図」)
を眺めていましたら、不可解な記載があるのに気が付きました。

 この図

Daitaditch

は、現在の世田谷区の区域内の玉川上水の分水、つまり、左側の上流部から順次、品川用水、烏山用水、北沢用水の水路と水路沿いの村を示した略図なのですが、それらのさらに下流に「代田用水」なる文字があります。

 また、絵図には、それぞれの分水の分水口が玉川上水沿いに中抜きの長方形で描かれているのですが、その例に従うと、この「代田村水」なるものの分水口は、代田橋の下流、芥留と水番屋

Photo

付近で、上図のように代田橋と芥留等は近接しているので、おそらくは、それらの下流にあったことになります。

 ただし、絵図に描かれているのは分水口だけで、「代田用水」という以上、当然描かれるはずの、そこからの水路(名称から素直に考えれば代田村までの水路)は描かれていません。

 もっとも、それが最初から描かれていなかったかというと別問題で、江戸時代の玉川上水図などにも例がありますが、図面を改訂するときに、従前の記載事項を地色に近い絵の具で塗りつぶして抹消し、必要に応じそこに上書きしている例も多い(顔料系の泥絵の具なので、比較的容易にできる)ので、絵図の「代田村」という文字を囲う長円の線の右上が欠けているとところからみても、その可能性が高いように思われます。

と、いうのは…

烏山用水について、この絵図には分水口らしい四角形が2つ並んで描かれていて、分水口から烏山村までの水路も、その「塗りつぶし+上書き方式」で改訂されている可能性が高く、しかも、そのような分水口の変更については

世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S58・刊

の「烏山川(烏山用水)」の条にある、〔万治2(1697)年〕「樋口は最初烏山村地内に設けられ,1尺四方・長さ9尺の樋を伏せたが,そののち上北沢用水と同じく上高井戸村地内に移され,水口5寸となり,…」(p.77)との史実と合致しているからです。

 ちなみに,「同じく」とある「上北沢用水」についての同書の記述によれば「取水口は,最初上北沢村内牛窪に設けられ,樋口1尺4寸・長さ9尺とあり,天明8年(1788)上高井戸村第六天前に移されて方1尺となり,…」(p.80)とあるのですが、上北沢用水については、この絵図中に分水口が移転された痕跡はありませんので、どうやら、この絵図が作られたのは、その天明8(1788)年以降ということになりそうです。

しかし…

この「代田用水」なる分水について言及したものは、これまで見てきた玉川上水に関する文献に関する限り(つまり、いわゆる「管見の及ぶ限り」-便利ですね、この言葉-ではありますが)見たことがありません。

 そこで、改めて、何か史料はないものかと探してみたところ

国会図書館のデジタルライブラリ中
「玉川上水留」の [87]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423?tocOpened=1

玉川上水堀通代田村下北沢村下馬〔註:「高」の誤〕井戸村分水口起立書抜并御勘定奉行より当時代田村引取無之候ニ付残歩丈ヶ上郷分水口増樋掛合書 但野方堀通村々引取分水口廉書品川用水三田用水分水口御普請一件 文久元酉年六月 御金方
なる文書があることがわかりました。

 読んでみると、といっても何分古文書まして公式文書の原本なら「固い字」で書かれているのでしょうが、この文書のはその写しであることも加わってスラスラ読める道理もなく、とりあえず当面は「読めるところだけ拾い読み」するほかないのですが、どうやら

・明和8(1771)年に、いわば代田村と下北沢村連名の出願により(同18~21コマ)、
 玉川上水に「圦樋長三間内法三寸四方」(同27コマ)
 の代田用水の分水口が設けられた。

その後の経緯・理由については、まだ読み取れないのですが、

・これを文久1(1861)年になって廃止し、
 その分「上北澤村分水口」を「増樋」(つまり、そちらの分水口を拡げた)した(同10コマ)

ということのようです。

 もっとも、この文書の末尾近く(58コマ~)にも、天明5(1785)年の同様の案件の記録があり*、これらの関係はまだ不明なのですが、天明期の案件がそのまま実現されていれば、文久期にあらためて詮議する必要もなかったことや、前述したこの地図の作製時期からみると、天明期のは、いわばアイデアとして出たものの実現はしなかった、と考えるのが素直なように、いまのところ考えています。

*おりしも天明の大飢饉の最中であり、水があっても収量が上がらないので水料米の負担に耐えられなくなったた可能性がある。

 いずれにせよ、先の、絵図にある代田分水の「水路のない分水口」は、この文書の経緯を反映しているのではないかと思われます。

代田用水はどこを流れていたのか

この…

「一時は実在したことが確からしい」代田用水。

 次に問題になるのは、どこをどう流れていたかにあります。

 実は、玉川上水の分水といっても2つのタイプがあって、

・その一つは、玉川上水と同様に、台地の稜線の上を流れるタイプ
  典型が、千川上水と三田用水。それと、かなり無理はしていますが絵図中の品川用水

・もう一つは、自然河川、したがって台地の中の谷につなげるタイプ
  典型が、絵図中にもある、烏山用水と(上)北澤用水

で、より遠くまで水を送るには前者が理想ですが、それには、もともとそれを可能とするような地形に恵まれていなければなりません。

あえて…

根拠を挙げ*、さらにそのまた根拠を挙げだすと、えらく長ったらしい話になることが分かったので、結論をいえば、この代田用水は、下図

Photo_3


のように、北沢川((上)北澤用水)の支流の一つ。里俗(「現地での俗称」という意味。以下同じ)・森厳寺川のそのまた支流の里俗・だいだらぼっち川の谷頭につながっていた可能性が一番高いと思われます。

*「あえて」一次的な根拠を挙げれば
・地形的にみて、玉川上水から南に水を流せば、ほどなく北沢川((上)北澤用水)に落ちるので、
長距離の送水は必要ない
・あえて稜線上を流そうとすると、西の世田谷区村飛地の羽根木との境界の「堀の内道」か、東
 の下北澤村との境界の「里俗・鎌倉道」に沿って水路を拓く必要があるが、そのような痕跡が
  ない
・加えて、その稜線上の水路から、水田を設けることが唯一可能な「だいだらぼっち川」までの分
 水路がいくつか必要だが、その痕跡もない
・そもそも、「だいだらぼっち川」沿いの、明治期の地租改正時の地番割をみても、そのような本格
 的な用水路を必要とするほどの水田はなく、「だいだらぼっち川」の堰上げによる灌漑で対応で
 
きる程度の水田の面積と考えられる

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2016/03/27

「ムダ堀」考 Part.2

かつて…

「下高井戸周辺史雑記」→「ムダ堀は武蔵村山に通じるか?」

http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20120705235746 で、採り上げていただいた当方のメール(急いで打ったメールなので、その原文の誤字を少々校正すると)

「かねてから、興味はあったものの、そもそも江戸を目指していたはずの玉川上水の掘りそこないと考えるのは、わざわざ元の多摩川に近づいてゆくルートをとったのが不可解であることから、棚上げにしておりました。
 ただ、あのあたりには、府中用水があり、先日、玉川上水に、狭山丘陵の池から助水していたこと、そして、その助水路は、狭山から多摩川への自然河川を分断したもの、との記述に出会い、この分断された自然河川の流末が、かのムダ堀あたりになるのではないかと思いいたり、調べてみると、ありました。
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/8d0f0ce344294b496cfca80536dbe09c
 この矢川、狭山が丘からの本来の水を玉川上水に横取りされた後は、上水から下流、とくに、矢川からの用水ととりあえず考えられるムダ堀については、ロクに水も流れていないのに、あるいは、流れている水量の割には、やたらに深くて広い掘割が残されたことになります。
 後の世の人からみれば、矢川本流を含めて、川が削った掘割とは思えず、また、だいだらぼっちの伝承もない以上は、人が掘ったが結局使われなくなった掘割と考えるのが、最も合理的な解釈だったと思われます。」

というものでした。

問題は…

●そもそも「ムダ堀」に府中用水を経由してあるいは直接に多摩川の水が届くのか
●「ムダ堀」は玉川上水、つまり、四谷大木戸とは限らないとしても江戸府内までの
 上水道になり得たか
の2点に整理することができるでしょう。

 前者が不可能なら、後者を検討する必要は全くないことになります。とくに、滝神社北方の巨大な掘割に常時水が流れていた形跡がない(深澤覚書pp.70/82)というのが気になるところです。

最初の問題については…

 明治の地籍図によれば堀の西端が達しているらしい(深澤覚書p.75)八幡下では、段丘下面の標高は42メートル程度まで低下してしまい(高橋「多摩川低地の地形と府中用水」〔以下「高橋用水」〕p.45「図1」)、ここから、堀の底面の標高が44.4メートルという(深澤覚書p.81)滝神社北方の溝まで水を上げるのは現況の地形では難しいことになります*。

*もっとも、多摩川は暴れ川で、昔から氾濫を繰り返しているので、あるいは、ムダ堀開鑿当時は
 段丘下面は、もっと高い位置にあったのかもしれないが、そういってみても確認のしようがなく、
 ここでは考えないことにする。

 しかし、段丘上の立川面と呼ばれる台地面も、多摩川も、全体に西から東に向かってダラ下がりになっているのですから、この八幡下から上流に遡ってゆけば、どこかに、下図のような崖線にほぼ沿う形で段丘上面まで水を流せる水路の始点となりうる場所があるはずです。

Photo

 ところで、 府中近辺については「府中領総図」という古地図があり、

Body
「府中領総図」下が北

この地図によれば、ムダ堀と考えられる溝は、滝神社の北をかすめて、崖線に沿って西に延び、八幡神社を過ぎて、六所宮(現・大國魂神社)南東に達していて、しかも、(上の複製写真では判読できないが)ここに「堀形此処二止ル」との注記があるとのことです(深澤覚書pp.72/75)

 同覚書では、ここの標高が46メートルであることから(同p.46)、ムダ堀への通水可能と結論しているのですが、用水の水を地表に流すわけにはゆかないのですから、通常は溝を掘らなければならず、一連の発掘結果で最も小規模といえる1234調査地点の上幅4メートル、深さ1.4メートル程度の水路(同p.76)は最低限掘削する必要があると思われます。

 この大國魂神社南端と滝神社北方との距離は約2キロメートル。一方、玉川上水の平均勾配は(43Km/92m×1000)=2パーミル(1/1000)なので、これに従うと必要高低差は4m。

 44.4m(ムダ堀標高)+4m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒49.8m

 また、勾配を、ほぼ最低限とみられる、六郷用水の平均勾配0.6パーミルにすると、必要高低差1.2m

 44.4m(ムダ堀標高)+1.2m(必要高低差)+1.4m(水路深さ)≒47.0m

ですので、この取水口の標高は、できれば、50メートル程度は欲しく、少なくとも47mは必要ということになります。このうち標高47mのポイントを地形図上で探すと、下図左端近く、水路「K-FM-1」と、坂道「S-12」の交点で

Photo_2

現・大國魂神社の南端付近となります。

 つまり、ここから、府中用水の、図中「K-FM-1」の水路から分水し段丘下面からの相対的な高さを徐々にかせぎながら、滝神社付近で、完全に段丘上面に水を載せれば、ムダ堀に府中用水、ひいては、多摩川の水がなんとか届くことになります。

とはいっても…

これは、物理的にいえば、での話。

 とくに問題と思えるのが、図中赤枠付きの黄色い矢印で示した、おろらく崖(ハケ)からの湧水が削ったと思われる、浅い谷津です。

 単に、ここをクリアするだけのことなら、必要な標高を保ちながら谷頭方向に水路を迂回させればよく、現に玉川上水の笹塚付近では、目黒川支流の北沢川の支流を北に迂回して避け、次いで神田川の支流を南に迂回して避けていることから見て、とりわけて難しいこととは思えません。

 むしろ、コトは「人的・社会的な問題」で、農地を開く順番からすれば、この水路を作る当時、すでにこれらの湧水は、崖線下面の農地の灌漑用水として使っている人たちがいたはずですし*、さらに、この谷に堤を築いて溜井にしていた可能性もあります**

図中「K-FM-2」は、「こっちだいしょう」あるいは「天神川」といって、それらの湧水を集める
 水路だったようです(旧名調査p.36)

**関東とりわけ荏原郡の農地の灌漑に、かつては、溜井が大きな役割を担っていたことについては
   高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ- 」
 <https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6045/1/sundaishigaku_56_205.pdf>
  参照

 灌漑用の水利は、古来、第1に「古田優先」、次いで「上流優位」ですので***、既存の水利の利用者を無視して、水路を分断したり、溜井を無くしたりすることはできなかったはずなのです。

***川尻裕一郎
  「2. 水のある風景」<http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/02.html>〔古田優先〕

  「3.上流優先(優位)と境界」<
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kawajiri/03.html> 〔上流優位〕

 さて、この問題を、どのように調整したのでしょうね。

3月10日に…

見に行ったのは、上図でいえば左端近く、「崖を昇る水路」を通すとすると、一番面倒になりそうな、大國魂神社南東の、やや広い谷津の部分です。

 実は、ここは、神社の境内地の東を通る道路から、神社の深い神林を見ることができそうなので、1月にも行ってみた場所なのです。

 が、当時はムダ堀との関連には、全く気が回らなかったので、神林の反対側の谷津については、全くノーチェックだったのです。

Dsc06180st
神社南東の谷津にある府中宮町三丁目アパートの案内板
地図右(南)の公園を含めると、ほぼ、問題の谷津の全域を占めている

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アパート群の南東から撮影
奥が神社の神林
小さいが扇状地状の地形だったらしい

Dsc06184s
神社境内東の道(上図S-14)
地獄坂と呼ばれている

Dsc06186s
地獄坂の由来
階段を下りると妙光院の墓地の北側に行き着く

Dsc06188s
妙光院から神社方向を撮影
神社境内の台地が舌状に張り出している様子がわかる

Dsc06190s
妙光院南を西から東に流れる水路
ほぼ、上図「K-FM-1」の府中用水の赤丸で示した
地表面の標高47mポイントから東側方向

Dsc06200s
妙光院東側の南北方向の水路跡
上図の「K-FM-2」

Dsc06199s
上の写真とほぼ同位置から東方向を撮影
府中用水分水の「K-FM-2」水路は、問題の谷津東で
方向を変え、崖線に並行して東方向に流れる

Dsc06201s
谷津東側道路から東方向の崖線
ここだけでも、相当な高度差がある
前記「府中領総図」にいう「堀形此処二止ル」の「此処」は
ほぼこの地点(もう少し南かもしれないが)と思われる
                                              -続く-

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2016/03/26

「ムダ堀」考 Part 1

いよいよ…

3月20日の第2のスケジュール「ムダ堀」探査です。

 「前書 part1」でも少し触れましたが、府中競馬場の北東、府中市清水が丘1・2丁目の、京王線でいえば東府中駅から多磨霊園駅間の略南方の、(一部については)巨大な溝跡がかつてあって(「下高井戸周辺史雑記さん」の、このページ<http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20100707111852>が一番位置がわかりやすい。なお、同氏作成のgoogle map はこちら<http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20100715120149>)、これを、玉川上水開削の当初失敗した水路跡とする伝承があります。

元が…

「伝承」なので、尾鰭がついたり、肝心なところが飛んでしまったり、あるいは、全く別の伝承と混ざってしまったりたりするのは避けれないのですが、ともかくも「ムダ堀」という名前の起源につながるもののようですので、まずは、その伝承をベースに、順次考えてゆくことにします。

 いろいろヴァリエーションのある中で、一番「まとまっている」というか、一見(?聴)すると理屈が通っているように見えるのが、昭和の初めに、大國魂神社の宮司であった猿渡盛厚が三田村鳶魚に語ったのと同趣旨と思われる以下のようなお話です。

「…
01:武州多麻郡国分寺真姿の流を
02:玉川の水に合水いたし可引入
03:との目論見を
04:町人庄右衛門・清兵衛
05:慶安年中願出、御免ありて
06:多麻郡青柳村下今の府中用水口より引入
07:府中八幡下より往還の方へ堀曲
08:染谷村の裏通を堀合水に致候得者玉川出水いたし堰押流候とも
09:谷保村にて狭山の池も合水になり
10:都合三筋なれバ、四谷大木戸へ向け水盛渡候得共
11:八幡井筋水這入兼し古堀敷、
12:甲州道中府中宿入口堰谷塚前にあり
…」
 (深澤靖行「ムダ堀に関する覚書」〔「府中市郷土の森博物館紀要」25号所収・以下「深澤覚書」〕p.80引用の「小野町本」の訓下し文に、適宜改行とスペース挿入)

<補注:以後順次追記予定>

01:「真姿(の池)」は、国分寺市にある湧水。野川の水源の一つ。
  <
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005195/1004229.html>
04:「玉川兄弟」の名前は、庄右衛門・清右衛門といわれている。
05:「慶安」期は西暦1648-1652。玉川上水開鑿と伝えられているのは、承應2(1653)年。
06:現・国立市青柳。この、府中用水も同地の取水口も現存。
07:府中八幡は、大國魂神社の東、現・府中市八幡町にある神社。
  「往還」とは、いうまでもなく甲州道中、現・甲州街道(旧道)であろう。

08:染谷村は、京王線の武蔵野台・多磨霊園両駅あたりから多磨霊園南端あたりにかけて
  あった村(但し、上・下の染谷村の間に南北に割り込む車返村があった)。
09:谷保村は、現・京王線谷保駅あたりにあった村。
  ここで「合水」された「狭山の池(水)」とは、元は狭山丘陵から南に流れて、玉川上水開
  鑿までは、府中市西部で多摩川に落ちていた「残堀川」の水を指すと思われる。
  残堀川は、玉川上水開鑿時に現・立川市砂川で分断され、「狭山の池(水)」は上水の
  
唯一の助水となった。
  一方、玉川上水から下流部は「矢川」という、府中用水の助水となった。
  この経緯については、
  http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/8d0f0ce344294b496cfca80536dbe09c
  に詳しい解説がある。
  この記述が
  ・谷保で、狭山の池(水)が単純に残堀川から府中用水に落ちて「結果的に」07/08の水
     
路に流れていた(正確には、流すつもりだった)という趣旨なのか
     谷保は、07の「八幡下」よりはるかに西にあるうえ、残堀川の水は「放っておいても」
     谷保の崖線下近くで府中用水に入る
  ・その手前の、谷保村内のどこかに、玉川上水のように、この水を、台地上で四谷大木
   戸に流すための東
に向かう掘割が開鑿してあったとする趣旨なのか
     10で「三筋」としているので、それを重視すればこちらの趣旨の可能性が高い

 は、判読できない。
12:「堰谷塚」は、現・府中市若松町1-6の旧・甲州街道沿いにあった塚(府中市立郷土館
  紀要別冊「府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前」同市教育委員会/
  昭60・刊〔
以下「旧名調査」〕 p27「T-19 関谷塚」参照)と思われる。

一般資料としては…

●玉川上水についての伝承を整理したうえで、検討・検証を加えた論文

 「土木技術と文化財保護の視点からみた玉川上水再考-特に福生市域を対象として-」

 www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2012/12/204.pdf

 が奨められる。

●いわゆる「水喰土」について、土粒子の組成というユニークなデータがある

 「福生市史」
 http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/index07.html

 中、「第三編 近世」「玉川上水の開鑿と新堀工事」
 http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/07/01/0025.pdf

 も見逃せない。

●幕府の公式記録である、俗称・徳川実記中で、玉川上水開鑿に言及しているものは

 「嚴有院殿御實記」(家綱治世時)
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991118

 の、承応2年1月13日の条 39コマ
 と、承応3年6月20日の条 63コマ

 のみらしい。

                                                -続く-

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2016/03/23

府中市郷土の森博物館の企画展「ムダ堀の謎を探る」(「ムダ堀考」前書):part 2

博物館の敷地内には…

府中市内にあった伝統的な建物が数多く移築されているのですが

Dsc06147s

江戸/東京に近い街道町のせいか「他では見られないタイプ」とまでいえるものはなさそうなのと、何より、後に【付録】で触れるように、旧甲州街道の大國魂神社から西には「現役」の伝統的建物を見ることができるのに加えて、時間の制約があるので、

「まいまいず井戸

Dsc06161s

に集中することにしました。

かつて…

といっても、古代から中世にかけてが多いようですが、水に乏しい武蔵野の台地上で水を確保するために、地面を螺旋状に掘り込んで、そのすり鉢状の穴の底の部分に井戸を掘ったもので、穴の底まで人が昇り降りする通路の形が「カタツムリ」に似ていることから、この名前が付いたといわれています。

さすがに穴の底にある井戸は本物ではないようですが*、通路に手すりが設けられ、実際に「井戸端」まで行けるようになっている設え

Dsc06150s

がうれしいところです。

* これに対し、羽村市五ノ神1-1の五ノ神神社に遺っているものは、本物の井戸で、
 何と大同年間(西暦806~810年)という気の遠くなりそうな昔に開鑿され、しかも、
 先の東京オリンピック直前の昭和37(1962年)まで現役だったという。

武蔵野台地では、地下水位が低いので深い井戸を掘らなければならないことが多いうえ、表面近くのローム層の下にあって地下水脈のある砂礫層の底近くのところまで、昔の技術では崩れないように垂直に掘るのが難しいことから、このような形の井戸になったようです。

【参考図】

Photo
高橋睦夫「多摩川低地の地形と府中用水」
島村勇二外「多摩川中流域の『府中用水』に関する調査研究」
多摩川研究観察会/2000年・刊
 所収)p.52より引用、加筆。
 府中市東部のこの地では、地下水位面が標高約42メートル、
地表面から約6メートルの位置にあることが推定できる。

 また、一般化できるとは限らないが、地表から垂直に井戸を
掘ろうとすると、ここでは、地下4メートルあたりにあるN値=38
というかなり固い砂礫層を、狭い竪坑の中で掘らなければなら
ないという、かなり「シンドイ」作業になりそうなことがわかる。

Dsc06158t
井戸の「底」の写真を撮ろうとしている女の子。
私も目指している「学術写真家」の卵ですね。
たのもしい。


「まいまいず」を堪能し終わったのが…

11時40分ころ。

午後1時には府中に戻りたいので、お昼をどうしようかと、まず、博物館の玄関を入って右脇にあるレストランに。

どうせ食べるなら地場のものを、とメニューをみると「地場粉のすいとん定食」というのがありました。

これはこれで魅力的ではあったのですが、生憎、この日はバカ陽気で、その後の行動を考えると、熱い汁物はちょっと…。

と、いうわけで、場外に出て、京王バスのバス停前の「物産館」のレストランに。

面倒なので、持ち帰り用の焼きそばを買って芝生の上で食べようかと思ったのですが、食券の自販機横のメニューを見ると「府中野菜のうどんサラダ ¥560」というのがあって、朝食が野菜不足だったこともあって、一も二もなくこれに決定。

Dsc06165s
味噌と醤油ベースのドレッシングがちょうどよい塩梅でした。

戻りは…

博物館正門前からバスで分倍河原に出て1駅新宿方向に戻って、府中に着いたのが午後1時5分。いよいよ、今日2つ目で、3つ目の大國魂神社見学(当然、同社に参拝はしましたが、内容的には「参詣」でも「見物」でも「調査」でもなく、「見学」かせいぜい大袈裟に言って「視察」)の一つ前のスケジュールである「ムダ堀」探査です。

【付録】

 先にも少し触れましたが、府中は、街中でも、ちょっと歩くと伝統的というか「懐かしい」建物が現役で残っています。
 今(2016)年1月に府中に行ったときに、神社の参道入口から旧甲州街道の西の方を歩いたときに見つけたものを、ここでご紹介しておくことにします。

紙屋さん

【資料映像】
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酒屋さん

【資料映像】
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【資料映像】
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角が「本業」の酒屋、正面はカフェになっています

Dsc05884s
左(西)側の蔵の壁
漆喰煮りの壁に設けられた鈎(フック)に木製の壁材が
ひっかけて止められています。
漆喰を雨や日射から保護するための「さや」と呼ばれる
部材だとと思います。

【資料映像】
Dsc05882s

なお、ここは、府中の地酒「国府鶴」の蔵元。
また、毎年5月の神社の例大祭「くらやみ祭」の折の祭事の一つ「野口仮屋の儀」ではご当主が重要な役割を担う由。

http://kokomachi.sumai1.com/mu-fuchu/28

そんな御縁からか、東京の地酒メーカーによる「東京都酒造協同組合」は、毎年神社にお酒を奉納しています(あと、ここにお酒を奉納するもう1社は、ユーミンの「中央フリーウェイ」にも登場する、サントリー・ビールの府中工場)。

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拝殿正面

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境内社の「お酒の神様」松尾神社

ちなみに、我が家の真ん前に、大正終わりくらいまで、
玉川上水と三田用水を通じて多摩川の水が流れていた
ので、地鎮祭などの祭事とか、庭で死んでいたヘビを葬

ったときのお清めには、これらのうち、青梅市小澤酒造
の澤乃井を使っています。


魚屋さん

【資料映像】
Dsc05880s
妙になつかしい佇いです

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2016/03/22

府中市郷土の森博物館の企画展「ムダ堀の謎を探る」(「ムダ堀考」前書):part 1

既報の…

一昨日午後2時からの大國魂神社の見学に先立って「せっかく府中まで行くのだから」と、今月末までと会期末の迫っていた、標記の展示会に行ってみました。

 「ムダ堀」というのは、現府中市の南東、府中競馬場の北東あたりにかつてあった、人工的に掘削されたことがほぼ確実な、当地では失敗した玉川上水の堀の痕跡とも伝承されている溝跡のことをいいます。

 この「玉川上水失敗説」あるいは、それにまつわる「悲しい坂伝説」なるものについては、ネット上にかなり多くの方々が取り上げていますし、このページの続編の「『ムダ堀』考」でも少しばかりふれる予定ですので、ここでは取り上げません。

午後からの予定もあるので…

 朝の10時に家を出て「乗換案内」で表示されたスケジュールでは、京王線明大前から特急で分倍河原に行き、そこから、京王バスで博物館正門前に行くはずだったのですが、明大前で一つ前の準特急に乗れてしまったので、分倍河原駅

Dsc06130s
バスターミナルの「新田義貞像」
たしかに「分倍河原の合戦」の主人公ではあるものの、
地元の武将というわけではないので、なんとなく、ここ

に義貞像というのには違和感がある。

からは、府中市のコミュニティバスである「ちゅうバス」で、博物館から少し西に離れた「南町2丁目」に行き、

Dsc06133s

そこから、博物館に向かうことになりました。

 バス停の先の交差点には案内板があって、それに従って左(東)方向に向かったのですが、なかなか、次の案内板がみつからず、「本当にこの道でよかったのか」と少々心細くなってきたころに、次の案内板が。

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 そこから、ほどなく博物館に到着。

Dsc06137s

 当初のスケジュールより20分近く前倒しの午前10時40分過ぎだったこともあり、入場券売り場も、場内も

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館内も

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まだガラガラ状態で、とても助かりました。

一気に企画展示室に行こうとしたものの…

常設展示室出口の隣という探しにくい場所にあって、少々時間を食った末、ようやく到着

Dsc06141s

残念ながら、この企画展示室内に限って写真撮影禁止の表示が出ていたので

写真は、部屋の外から1枚だけ。

Dsc06146s
後記深澤論文p.66の「図1」と「ほぼ」同じ写真
発掘調査時の写真で、溝の底にいる人物と比べると、
この溝が大規模なものであることがわかる。


企画展の展示内容の…

あらかたは、同館の紀要第25号(2012年)pp.65-86の

深澤靖幸「『ムダ堀』に関する覚書 -玉川上水失敗伝承のある大溝の基礎的考察-」(以下「深澤覚書」)

を、古地図などの実物(?少なくともライブサイズ)の資料で示した

という性格のものでした(ということは、論文を読んだ後ではたぶん新知見はなし。しかし、論文を読んでおくと「ああ、これがあれか」と、p.73図11の「府中領絵図」(下図)などはなかなか楽しめます。)

【資料映像】
Body

この博物館での目当ては…

あと2つあって、その一つが、常設展示の巨大なパノラマ2基。

1基は、8世紀後半から10世紀後半までの、府中に国庁があった当時のもの

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もう1基が近世期のもの

Dsc06142s

ですが、これらで、午後から探査にゆく、大國魂神社境内南東の崖線のあたりの地形を見ておきたかったのです。

 で、その場所は、8~10世紀版ではスポットライトのあたっているあたり

Dsc06143dij

ほぼ同じ場所を近世版でみると…

Dsc06145s

こうなっていました。

 ここは、後日書く予定の「『ムダ堀』考」のポイントとなる地域の一つなのです。

もう一つの目当ては…

屋外に「実大」で設えてある「まいまいず井戸」なのですが、かなり大きなページになってきたので、次稿で。

 

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2015/06/28

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ

茅野市神長官守矢史料館の…

敷地に祀られているミシャグジのカミ

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

【追記】
関東圏のミシャグジガミ・マップを構築中

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=z8nqmxgxljM0.kCSqtfNT7_p8&usp=sharing

は、東京・高輪にも祀られていていた!

今年の…

三田用水ツアー

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987580.html

も無事終わり、来年のコースをあらあら考えておこうと、過去というか第1期のツアー
の資料をぼんやり眺めていたら…

港区立郷土資料館「増補港区近代沿革図集 高輪・白金・江南・台場」港区教育委員会/平成20年3月・刊

の22図(p.55)に「里俗ヲシャモジ横丁」と書かれているのが目にとまりました。

 今年になって、上記のページでご紹介した、古部族研究会「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」永井出版企画/1975年7月10日・刊を読むまで全く知らなかったのですが、ミシャグジのカミは神奈川県では「おしゃもじさま」と呼ばれている例が多いとのこと。

 この「ヲシャモジ横丁」も、この系統なのではないかと、地図の上で横丁をたどってゆくと、はたして、今の品川駅前から二本榎の方に上ってゆく、いわゆる柘榴坂の途中の右側、なんと、何度も原稿の打合せや会合で行ったことのある国民生活センターのあたりに「釈地社」なるものが描かれています。

先の「古代諏訪…」の…

巻末のリストを探してみると、新編武蔵風土記稿に(港区)下高輪村に「おしゃぐじ」が祀られていていたとの記述があるよう(p.157下段)で、「ヲシャモジ横丁」との俗称の由来がこの「おしゃぐじ」にあって、通りの名前になるほどなので、それなりの信仰を集めていた*ようです。

* http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 参照

Zuetakkanawasyoguji
江戸名所図会「石神社」(国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174130
155コマ目

手前の石橋の下を流れる川は三田用水の末流の可能性が高い
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/MitaTour3rd.htm
参照


 先の「…沿革図集」22図の原典は、弘化3(1846)年に幕府の普請方が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」ですので、その原典

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2014/08/post-f2b6.html

の方を調べてみることにしました。

 この地域の図は、一六の下巻

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236?tocOpened=1

道路の北側は、28-35コマ

道路の南側は、42-49コマ

にありますが、北側のそれによると、「延宝年中」(1673-81年)の時点から、「当時」つまり沿革図が編まれた弘化3(1846)年

Takanawamisyaguji
35コマ抜粋

までの7枚の図の同じ場所、柘榴坂を5分の3ほど登ったあたりの、松平大隅守、つまり薩摩藩島津家の下屋敷に食い込む位置にあり、このことから相当起源が旧いものと推定できます。

 しかし、この「釈地社」、明治以降の地図によればこの場所からは消えてしまっています。

 今は、品川駅まん前の高山神社に合祀されている由*

*上記 http://www.sakagakkai.org/edosaka/zakuro.html 末尾

【追記】2015/07/02

今日、夕方現地に行ってきました。

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/07/post-8a45.html

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2015/06/15

H270620三田用水ツアー・とれいらぁ

北沢川文化遺産保存の会「都市物語を旅する会」

平成27年6月20日「三田用水を巡るⅡ」(第2期第2区間)

についてのお知らせ。

集合場所について

「代官山駅改札前」を予定しておりましたが、何分余りに狭く、まして週末

で混みあうのが必定のため、下図の「緑矢印」つまり正面口を出たあたり

にしたいと思います。

Daikanyamstn
クリックで拡大します

後のルートを考えるとベストは西口なのですが、さらに狭くて無理。

コースについて

当日お配りする、笹塚の取水圦から、「帳簿上」の流末である白金猿町までの地図のうち、当日のコースをカバーする範囲の抜粋です。

UPできる画像サイズの関係で、時計回りに90度回していますので、右が北です。

0506s
クリックで拡大

今回は、昨年の「溝が谷分水」に続き

・猿楽分水を途中まで

・銭瓶窪左岸分水(白金分水)を流末まで

下ります。

では、お楽しみに。

【重要】

資料(カラー版全16ページなので、当日のコピーは無理)の準備の都合上、3日前までに予約が必要です。

予約の連絡先は、下記リンク先の「4」の末尾をご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2015-05-31.html

【追記】2016/06/17

面白ポイントをみつけましたので、水路探検からちょっと15分ほど「寄り道」します。

資料の改訂もできましたので、当日の配布をお楽しみに。

【追記】2016/06/28

その「面白ポイント」は、ここ

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/SxSyounennSansoh.htm#DateatoYumeji

です。

                          きゅれいたぁ 木村

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2015/06/08

諏訪・伊那・木曽の旅【郷福寺@郷原宿】 附・「街道の幅」調査

ここは…

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この本堂は、安政の大火(後述)後、嘉永7(1854)年に再建されたもの

現・塩尻市広岡郷原にある桔梗山 郷福寺 という古刹。

 ここは、昭和20年4月から終戦後の11月まで、当初松本市郊外の浅間温泉に疎開していた、わが家から程近い東京世田谷区立代沢小学校(当時は代沢国民学校)の児童が再疎開した場所であり*、ここ数年来、一度は訪れてみたいと考えていた場所で、それが今回ようやく実現したことになる。

*http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51435379.html

このお寺のある…

塩尻市広丘、旧・長野県東筑摩郡廣丘村、さらに遡れば筑摩県筑摩郡郷原町村の、郷原宿は、かつて、柳宗悦が「宿場全体が誠に見事な一個の作品」と絶賛した地とのこと。

Dsc03861s
郷福寺門前の石碑群

 といっても、この話、ネット上にそう書かれているサイトは多いものの、どれをとってみても出典不明。

 だから、ただの都市伝説なのかというと、まんざら根拠のない話ともいえないことは、国会図書館の「レファレンス協同データベース」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000156170

末尾の松本市博物館所蔵の柳宗悦の自筆原稿「文化財『郷原』の宿」の画像から
(松本城にふれた後)
「…今の暮らしに直接繋がる素晴らしい名所があるのを誰も知らない。それは町から乗合で僅か二三十分ほどで行ける『郷原』の宿である。塩尻や洗馬はほんの僅かの道のりである。善光寺街道と呼んだその街道筋にこの宿驛がある。
 日本には数多く古い町町村村が残るが、多かれ少なかれどれもこれも今は乱れて、昔の俤を残すものがない。それなのにこの郷原ばかりは、殆ど完全…」

と読み取れることからもうかがうことができ、この文章の後ろに、

塩尻市のWeb

http://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/manabinomichi/gakusyugaide/zenkojikaido.html

にある

…街道は、手入れされた庭木を並木としてその間を通っているのである。こんなに美しい構造の宿場は他には見かけぬ。それも死んだ過去のようではない。宿場全体が見事な一個の作品だといってよい。信州のすぐれた名所として、否、日本の貴重な文化財として、当然公認せられてよい。

という(おそらく結び近くの)件がつながっているのだろう。

ここ郷原宿の家並みは…

 上記の塩尻市のWebページによると、安政の大火の後、新たに行われた区画割では、一戸の間口を5~6間と広くとり、奥行きは、街道の両側それぞれに、40間の宅地に加えて、その外郭に60間の耕地が割り付けられている。

 また、これは大火以前からなのかもしれないが、用水が、街道の中央、敷地の中ほどmそしてその端、つまり、街道に並行して合計5条流れていた*

*広報しおじり 平成26年10月1日号
 
特集「宿場と共に歩む」(P2~11)(PDF:2,425KB)
 の4ページ目参照

 国土地理院の空中写真でみても

Cb792c2010trc
整理番号 CB792 コース番号 C20 写真番号 10
撮影年月日 1979/08/09(昭54)
の街道沿いの部分を約80度時計回りに転回(右が略北)


S54
CCB7515-C16-10の郷福寺(中央やや右の赤屋根の2棟)付近の抜粋
(詳細は写真中に記載)

とくに、安政の大火後再興された当時の家並みを踏襲しているらしい妻入りの建物は、建物が道路との境界からやや奥まった位置にあり、また、建物と道路の間に樹木を植栽していることが見て取れる。

ただし…

これまた出典不明ながら、柳が「ここの住民は、家を自分たちだけで楽しむものではないと思っている。家とその前に庭をつくり、旅人と家族がそろって、楽しんでいた様がうかがえる。個々の建造物の国宝はあるが、もしひとつの集落を国宝にできるなら、文句なく私は郷原を推すだろう。郷原はそれほどすばらしい」と記していたのだとすれば*、この前段はやや買いかぶりといってよいのではないかと思われる。*http://manriki.sanpal.co.jp/posttown/goubara.html

 柳が絶賛した郷原宿の景観は、もともとは、当地の人びとが「現代」のような「美しい景観創り」を意識してできあがったものではなく、主として「二度と宿場が消えてしまうような事態だけは避けたい」との、今で言う防災、具体的には「火事に強い宿場」を目指した「結果」と考える方が素直だからである。

 この郷原宿は、もともとは慶長19(1614)年、中山道の洗馬宿と松本城下を経て善光寺宿をつなぐルートとして善光寺街道(北国西街道)が開鑿されたとき、西の奈良井川沿いから住民を移住させて、いわば人為的に設けられた宿場だが、文政4(1821)年と安政5(1858)年の大火*で灰燼に帰し、今の町並みは、安政の大火の後に成立したもののようである。

 この宿場は、西の奈良井川からかなり距離を置いた台地上にあって、そのために、当初は、共同の深さ20メートルに及ぶ深井戸(現在は「古井戸」と呼ばれている)によって、

Dsc03850s
3箇所の古井戸のひとつが郷福寺門前にある

後には、奈良井川から用水を引いて生活用水を得ていた場所であり、防火用水に不足を生じそうな場所である*

※【追記】
YouTubeのこの
https://youtu.be/DuNH8rWz3w8

解説によれば、約4.5㎞の奈良井川上流の洗馬下平地籍(琵­琶橋)から用水が引かれたのは、慶長19年(1615年)、つまり、最初にこの郷原宿が開設されたときということになる。
 しかし、それで生活用水が確保されていたなら、何も好き好んでお金もメンテナンスの手間もかかる深井戸を掘る必要など、あろうはずがない。
・この年代データ自体が間違っているのか、
・用水といっても農業用水で、水路が生活用水には不便だったのか。

*ただし、当時の消防は「破壊消防」といって、延焼しそうな家をあらかじめ壊して、そこで
 延焼を食い止めるのが主流だった。

 
江戸の町火消がとび職によって構成されたのは、建物、とりわけ、その「骨組み」に精
 通しているためだったと言われている。

Dsc03857s
郷福寺の山門を入ってすぐ左にある弁天堂
弁天(弁財天・弁才天)は「水のカミ」であり(智識のカミでもある)、
由来は不明だが、あるいは上の写真の井戸の守護神として祀り
はじめたのかもしれない。
しかし、不思議なことに、元々はインド起源の仏教系のカミなの
に(毘沙門天などと同じ「天部」に属し、そのため、天部のホトケ

は、通常、かつてのインドの王宮の武官、文官、女官に倣った
コスチュームを着けている)、注連縄を張るなど、神道系の祀り
かたをしている(なぜか、弁天に限ってはその例が多いのはな
ぜだろう)。

 その意味で、安政の大火後の街場の再建にあたっては、防災、とりわけ防火に、当時の知見や立地の制約の中で最大限の配慮をしたのは当然だったのである。

大火となる過程で…

 建物から建物へと火が移るのは、何も「火の粉」が飛ぶからだけではなく、燃え上がって高熱を発する建物からの輻射熱によって、いわば「炙られて」発火する場合も多い。

 当時は、今の都市部の木造住宅のように、建物の外壁がモルタルやサイディングで覆われているわけではなく、土蔵造りもでない限り、外側が木がむき出しだった大抵の建物の場合、たとえば、平屋建て(屋根までの高さ6メートル)の場合には12メートル、2階建て(同じく9メートル)なら15メートル、燃え上がる隣家などから離れていないと、この輻射熱による発火の危険があるとされている*

*渡邊敬三外「屋根と壁の工法システム」建築技術/1996・刊 p.185の図3.3.19

 Photo

 なお、多数の建物が同時に燃え上がっているような場合は、200メートル離れても
 安全とはいえないといわれる(同p.183)

街道の幅は…

江戸時代初期、徳川家康の没後の元和2(1616)年に家康の遺訓として示された『家康百箇条』で、大街道では6間(10.9メートル)、その他の街道では3間*、つまり荷車が安全にすれ違える程度の、いわば物流ルートとしては最小限の幅に規定されていたようである。

*国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所「東海道への誘い」
  
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index3/answer1.htm

この郷原宿については…

 上に引用した、国土地理院の空中写真でみると、この郷原宿内の街道幅は、どう多めに見繕っても、最大でも上の「大街道」の幅である6間(10.9メートル)であり、それでは、街道の向かいの建物が本格的に燃え上がれば、先のデータによれば、ハナから延焼は免れないことになる。

 つまり、ひとたび郷原宿内のどれかの建物が燃え上がれば、街道沿い方向の建物に延焼するばかりでなく、街道の向かい側の建物にも延焼して、そこから、そちらの街道沿い方向の建物にも燃え広がることになる。

 この郷原の安政の大火後のいわば「新区画割」では、街道沿い方向についても、間口を1軒あたり5・6間取ることによって、後にご紹介する奈良井宿をはじめ多くの宿駅のように隣同士が軒を接するのではなく、隣家との間に空間を取ることを可能にしていたようであるが、しもた屋ならばともかく、旅籠とか後述の問屋[といや]などの営業用の建物の場合はそうも行かないわけだし、多少の空間をとってみても、先のデータからすれば、1軒が燃え上がれば、街道沿いの隣家に延焼するのはむしろ「当たり前」と考えておく必要があるわけである。

 しかし、郷原という一つの宿駅が、全焼し、再建まで長期間いわば壊滅状態になれば、ことは、1つの宿駅の問題に止まらない。

 江戸時代の物流は、「継立」〔つぎたて〕といって、ある宿駅の問屋〔とや〕から隣の宿駅の問屋へと、いわばバケツリレーのように荷物を送るシステムをとっていたからである。

 そのため、一つの宿駅が機能を失えば、隣の宿駅は、それまで、次の宿駅までの輸送を前提に組み上げていたシステム(具体的には、牛馬・人員の数)で、「次の次の宿駅」まで継立をする必要が生ずるので、負担が倍増してしまうことになる(それが恒久的な話ならともかく、一時的な問題なので、本格的に体勢を組みなおすことも難しい)

 つまり、一つの宿駅の機能の喪失は、隣接の宿駅での滞貨を生じさせかねず、結局、街道全体の物流に大きな支障を生じさせることになる。

【参考】

Dsc03538s
往路に立ち寄った、甲州道中・台ヶ原宿の問屋場跡。

結局…

火災で宿駅全体が機能を失い、さらには、街道全体が機能不全になる危険を少しでも減らすには、街道の反対側への延焼を防ぐ算段をするのが、まずは一番現実的な対策といえる。

 先にみたように、最大に見ても10.9メートルという街道幅だけでは延焼を防げないことは先のデータのとおりであるが、たとえば、それぞれ街道から1間(1.8メートル)ずつ建物を離して建てるなら、向かい合う2つの建物は14.5メートル離れることになるので、双方が2階建て同士でも、一応はほぼ安全距離が保てることになる。

 もっとも、何軒もの建物が一気に燃え上がった状態では、それでも延焼は防げないのであるが、そのような場合に備える「もう一つの保険」と言えるのが、建物と街道との間の植栽、とりわけ樹木である。

 大火のとき、樹木が防火帯となって、延焼を食い止めて人命を救った例は、関東大震災の折の東京江東区の現・清澄公園(当時は、三菱岩崎家の深川親睦園)が典型だが、近くは阪神淡路大震災の時も狭い樹木帯ながらも、それが火を食い止めた例があるようである*。 

*radio repo (Growing Reed)
 
http://grrepo19.blog14.fc2.com/blog-entry-13.html

 ただし、東京など太平洋岸地域では、葉に多くの水分を含み、1年中葉が無くならない、
 常緑広葉樹が、この防火林として理想的であるが、郷原にも適用できるかは別問題。
 長野オリンピックの折、誰の「思いつき」かわからないが、街路樹に、本来ならもっと低
  標高あるいは低緯度、つまりもっと温暖な地でしか育たないはずの常緑広葉樹を植え
  て、その後枯れてしまった例がある(
バカです)。
 枯れた木では火力の足しになるだけなので、高緯度あるいは高標高の地では、ナラと
 かブナなど、気候に合った落葉広葉樹と寒冷に耐える常緑広葉樹を併用すべきなの

 ろう。

かなり手のかかった…

 前述の用水のシステムもこの地の特徴で、いつできたのか(農業用水の部分は旧いとしても、宿場内の一部は安政の大火後かもしれない)、いずれ詳しく調べてみたいと思うが、それを措いて、ここまでみてきた限りでも

・街道との境界から建物を離して建てて、向かいあう建物の距離を空ける
・さらに街道沿いに樹木を植えて防火帯にする

というのは、「喧嘩」はともかく、「火事」が江戸(時代)の華だった当時の、過去の経験に根ざした「生活の知恵」であり、それが、柳が絶賛したような美しい街並みを「結果的に」創ったのである。

 せっかくの敷地に、あえて空き地を作ろうなどという発想は、「二度と大火には遭いたくない」という、いわば「命にかかわる」欲求に基づくものと考えるのが素直であって、単に「美しい街並みを」などという程度のことではあり得ないと思われる。まして、一刻も早く郷原宿を復旧しなければならない、というときなのだから。

【余禄】「街道の幅」調査サブノート

今回立ち寄った…

中山道の奈良井宿については、詳細な文献探しはこれからだが、中町と呼ばれる中心部では道幅5~8メートル、両端の上町・下町は4~5メートル*ということである。

*http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/nagano_data/narai/narai_file.htm

【追記】
ここ
規範事例集【街路編】 - 国土技術政策総合研究所

www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0433pdf/ks043309.pdf
に、かなり信憑性の高そうなデータがあった。

上町   2間4尺~3間(4.8~5.4m)
中町 約1間5尺~3間5尺(3.3~6.9m)
下町 約1間5尺~2間半(3.3~4.5m)

とのこと。

Dsc03798s
奈良井宿北端(下町)付近
道幅(道の両側の庇の先端の間隔)は、軒の高さから推定すると
3間(5.4メートル)+α程度だろう

Dsc03826s
奈良井宿南端(上町)付近
ここは、むしろ、後から宿場の方が広がってきた場所と思われ
道幅は、いわばオリジナルの街道幅である3間(5.4メートル)
そのままではなかろうか。


Dsc03835s_2
奈良井宿中心部(中町)のほほ最広部
上記リンク先のデータによれば8メートルということになる

その他の参考例を探してみると…

東海道・小田原宿は

Odawara
横浜開港資料館「F.ベアト幕末日本写真集」p.70より転載

さすがに「大街道」中の「大街道」なので、明らかに6間はある。

 この広さは「大街道」だけなのかというと、さにあらず。たとえば、

厚木宿
Aysugi
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.31より転載

でも、ここは宿場の中心部らしいうえ、道の中央に用水が通っているためか、8間つまり15メートル近くあるように見える。

【追記】
状況判明。
厚木宿は、矢倉沢往還(略・現・国道246号厚木街道。大山道)と、平塚と八王子とを結ぶ八王子道が重複している場所であるのに加え、相模川による舟運の荷揚・荷下もあって、物流の大拠点だったため*、道幅もそれに応じて広かったらしい。

*
http://swa.edu.city.atsugi.kanagawa.jp/901/sougou/dr_atsugi/atugi/rekisi/b_shou/b_kou/b_11_05.htm

つまるところ…

街道の道幅については、

・それが可能な場合は、理想どおり、あるいは、家康遺訓どおりの幅をとるにしても

Beatop68
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.68「横浜ー藤沢間」より転載
【追記】
今気づいたのだが、この写真、護衛のお侍さん(笠をかぶっている)
に、モデルとして画面奥に並んでもらっている可能性がある。


・地形的な制約もあるので、東海道ですら、それが全ての場所で実現できるとは限らなかった。
Beatop69
前掲「F.ベアト幕末日本写真集」p.69「横浜ー藤沢間」より転載

 しかし、逆に

・参勤交代で使われる街道の宿駅では、本陣が、さらに通行頻度によっては脇本陣も必要である。
 それらの前は、大名行列の到着時は大勢が一時滞留することになるし、まして、その出立時には隊列を整える(供揃え)のに、相当広いスペースが必要。

・物流拠点である問屋場周辺には、輸送をになう牛馬を停め、あるいはその荷役のためのスペースが必要

なので、この種の宿駅、中山道の奈良井宿や厚木宿の中枢部の前は、通行量や物流量に応じて、広く街道幅をとる必要があった。

と、とりあえずは言えそうである。

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2015/05/30

諏訪・伊那・木曽の旅【西天竜幹線水路円筒分水工群】 Part3:附・小田原/三田用水

「とれいらぁ」でご紹介した…

分水樋は、西天竜幹線水路より高い標高の位置にあるので、ここの水田の水利*は、もっぱら西の中央アルプスこと木曽山脈からの供給に依存しています。

*畑については、長野県伊那西部土地改良区連合が管理する
 天竜川からポンプで揚水している
国営水路がある
 
http://www.ina-seibu.jp/area/index.html

時節がら、

Dsc03749s
画面正面奥が西方の木曽山脈

山からの雪融け水が、すごい流速で水路を流れ落ちています。

 ここの水は、水温が低いので害虫が繁殖しにくいため、減農薬が可能になるという点でも有り難い水なのだそうで、それだけに、折りしも田に水を張る時期でもあり、これをいかに「公正」に分配するかが、重要課題になります。

 水などの液体(気体も同様ですが)は、流速が早ければ早いほど。やや乱暴にいえば「さらさら状態」から「とろとろ状態」になってゆくため、「まっすぐ進みたがる性質」が強くなりますので、下の写真のような分水樋

【資料映像】
Dsc00411s10719
2010年7月 新潟県十日町

だと、流速がさほど高くならない場所ならばこれでもよいのですが、流速が上がると、ほとんどが、正面の水路に流れ込んでしまい、所期の「分水比」が保てなくなってしまいます。

したがって…

その場合には、「水勢を殺し」、理想的には、ほぼ静止したプールの水のような状態で、堰板から溢れさせる形で分水する工夫が必要になるわけです。

 この分水の場合は、まず冒頭の写真のように分水樋の上流部で水路を屈曲させて、ここで水勢を先ず落とし、さらに分水樋最上流部の、水が流れ込む正面の位置に三角形のブロックを据えて

Dsc03756s
脇の小さな杭に「中坂分枡」とある
【追記】
ここで
http://www.vill.minamiminowa.nagano.jp/soshiki/soumu/oizumigawanomizuatogaki.html
由来が判明
向かって、右が当地「字・吹上」への分水、左が、そのまま東に直進してるので、用水の本流らしい。


ここで、さらに水勢を殺いでいます。

 しかし、その下流の白い泡からもわかるように、ブロックに当たった水の多くは、分水樋の両端にそって流れ落ちてしまいます。

 そこで、ここでは、分水用の堰の直前の、分水樋の両端に跳ね出しを設けて

Dsc03747s_2

ここに、その水を当てて、水勢を殺したうえで、分水堰に導いているわけです。

画面左の分水は…

道路の下を斜交いに渡って

Dsc03755s

道路の反対側にある、「次」の分水樋に流れこんでいます。

Dsc03754s

ここに流れ込む水は、上の分水で、かなり水勢が落ちてはいるのですが、それでも、堰の前にいわば2つのプールを設けて、さらに水勢を落としたうえで、分水

Dsc03752s

しています。

2重のプールで…

水勢を落とす工夫が、いわば「古典的な手法」らしいことは、日本最初の「上水道」といわれる、神奈川県の小田原用水の取水堰にも使われていることからもわかります。

 この小田原用水

 http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Itabashi01.htm

は、箱根の芦ノ湖を水源とする早川の水を、小田原から箱根登山鉄道で1駅箱根湯本寄りにある箱根板橋の市街の西端で取水しているのですが

【資料映像】
R1293_12sc2004
2004年7月 右端の白いトラックの手前が取水口

・画面奥に白っぽく光っている早川の本流から、
・水路を設けて、
・画面中央奥の最初のプールに水を引き入れ、
・さらにそこから狭い水路で手前のプールに水を入れたうえ
・画面手前の堰で、プール内の水位を一定に保っておいて
・脇の取水口から用水の水を取り入れて

いるようです。

 こうすることで、取水口から用水路に入る水の量は、ほぼ静止している水の水圧と、取水口の面積だけで決まるので、一定に保つことができるわけです。

【参考例】
三田用水

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Mita01.htm

の、昭和初期に作られた神山分水樋の構造

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Mita06.htm#Tsuiki140622

                                            -了-

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諏訪・伊那・木曽の旅【西天竜幹線水路円筒分水工群】 Part2

この24号分水槽では…

今現在

3_2

仮称24Aには内壁の穴2個から、24Bには同じく4個から、24Cには8個(後述の穴の拡張については無視)から水が流れ出しています。

 しかし、この内壁には、ほかにも、やや高い位置に設けられた穴もあるので(下図の黄矢印)

4_3

かりに、内壁内部の水位が、上図の赤点線より高くなると、これらの穴からも水が流れ出すので、3つの支線の分水比はかなり大きく変化することになります。

最初は…

なんらかの理由で、水が豊富な時期にだけ、普段は2/14しか水の配分を受けられない支線24Aに多くの水を配分するためかと思ったのですが、それにしては比率の変化が極端ですし、第一、それだけの水を使う余地のある支線24Aの沿線が、普段は少ない分配で「我慢」しなければならない理由が思いうかびません(西天竜幹線の沿線は、そのほとんどが、幹線のおかげで開かれた新田ですので、水利について、いわゆる既得権者がそれほどいた道理もなさそうです)

 というわけで、これは、余った水の処理のために、このような設計をしたのはないかと、思いつきました。

 つまり、大雨などで内壁内の水位が上がりすぎたとき、このような設えがないと、その余った水も、従前どおりの比率で各支線に流れ込むことになります。

 水は「多けりゃいい」というものではないわけで、あまりに大量の水が流れこむと、勾配の関係で水はけの悪い地域だと溢れて周囲の農地は水浸しになってしまいますし、地質の関係で用水路の護岸が弱いところは崩れてしまうおそれがあります。

 そのため、そのような場合には、支線のうち、護岸が強く、また、水はけのよい支線に、余り水を多く流して、できるだけ安全に、この用水の場合には天竜川まで落とす設えが必要になります。

 結局、この支線24Aは、24号支線の、余水吐あるいは悪水吐と呼ばれる放水路の機能を果たしているのではないかと思われます。

前ページの図面の…

分水槽は、その名前からわかるように、幹線水路から6号分水槽で分水された水(支線)から、その下流で、さらにそれを分水するための最初の分水槽のようです。

 そのような支線に設けられた円筒分水も含めると、この西天竜幹線には、実に87箇所の円筒分水があるようなのですが、おそらくそれだけでは、全ての田圃ごとの水を円筒分水だけで分水するのは不可能でしょうし、現に、この24号分水槽のすぐ下流には、おそらく24B支線をさらに分水するための、堰板を使う「普通の分水樋」がありました。

Dsc03769s

つまり…

この西天竜幹線用水は、下の図のように

Photo

円筒分水と通常の分水樋が混在したシステムになっていることになります。

 そうだとすると、理屈の上では、円筒分水で防げるのは、村同士とかそれに準ずる規模の集落同士の水争いに止まり、それよりも小規模な水争いは防ぐことはできず、水不足の際には、通常の用水の場合と同じような、談合つまり話し合いによる解決が不可欠になります。

とはいえ…

この北伊那の天竜川右岸の河岸段丘の上は、さすがに昭和になってから拓かれた地域だけあって、通常の分水樋にも、水争いによる時間と労力の浪費(と、コミュニティの崩壊)を防ぐ工夫が凝らされているようです。

 その一つである、「とれいらぁ」 でご紹介した分水樋を、次ページで取り上げたいと思います。

                                              -続く-

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