十方庵敬順の煎茶を再現する【随時更新】

■ようやく…

遊歴雑記(以下「雑記」)の著者十方庵敬順(以下「敬順師」)が使っていた帖焜炉(タタミコンロ/たたみこんろ)と、おそらく同タイプの携帯用焜炉を手にすることができたので、

懸案解決「帖昆爐」…: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)

雑記の記事

「遊歴雑記」中の「帖昆爐」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)

をてがかりに、敬順師の煎茶を可能な限り再現できないか、試みてみたい。

■かつて…

代官山ヒルサイドテラスのオーナー、朝倉家のご先祖様の朝倉虎治郎が煎茶を愛好していた

DaikanYamaNotes&Queries: 虎治郎氏の煎茶 (sarugakuduka.blogspot.com)

DaikanYamaNotes&Queries: 虎治郎と煎茶 -旧朝倉邸の茶室の『謎』-あるいは -旧朝倉家住宅「探検」案内- (sarugakuduka.blogspot.com)

ということから、煎茶の歴史については、少し調べたことがある。

■その折に…

今になってみると、敬順の煎茶を知るための得難い資料を発掘していた。

それが、江戸時代の陶芸家かつ文人として高名な青木木米(あおきもくべい)を、同じく当時の文人・田能村竹田〔たのむらちくでん〕が描いたスケッチ


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田能村竹田「木米喫茶図」出光美術館・蔵

で、絵の中で、愉しげに煎茶を喫している木米は、明和4(1767)年生まれで天保4(1833)年没。

一方、敬順師は宝暦12(1762)生まれで天保03(1832)年没なので、2人は、まさに掛け値なしに同時代人なのである。

■したがって…

この木米喫茶図からだけでも、敬順師の煎茶を推測できる多くの情報を得られる。

●茶のいれ方

当時は、今のような、沸かした湯を、茶葉をいれた急須に注ぐ「淹茶」〔いれちゃ〕/「淹し茶」ひたしちゃ〕という方法は、せいぜい発生期で完全に普及するに至っていない。

この絵でも、「湯沸し」(当時、どう呼んだか断定できないので、当面そう総称しておく)のほかには急須のような器具は置かれていない。

このころ、煎茶は、炉(これも、当時「涼炉」と呼んだか定かでない)の上においた「湯沸し」に早い段階から茶葉を入れて煮立たせ(つまり煎じて)いれる「煮茶」〔にちゃ〕か、「湯沸し」の中の湧き立った湯の中に茶葉を直接投入してすぐに火から下す「烹茶」〔ほうちゃ〕が主な手法であったが*、後者の場合は、茶を喫する段階では「湯沸し」は炉から下ろされているはずなので、木米は「烹茶」ではなく「煮茶」の手法をとっていたことがわかる。

*NHKドラマ「ライジング若冲」で、石橋蓮司演ずる 売茶翁 は、烹茶で煎茶をいれている。

 【参考】煎茶の煎れ方!黄檗売茶流 売茶翁もこうやって煎れた!のか - YouTube

 もっとも、ドラマなので煮茶では「絵になりにくい」せいかもしれない。
 まして、淹茶や漉茶では、
現代人にとっても、珍しくもなんともないのでインパクトが薄い。

 ただし、烹茶なら、当然急須〔あるいは急火焼〕の底が炭火で炙られているはずだが、ヴィデオを何度確認してもその痕跡は全くない。


●「湯沸し」

やや小ぶりで、ツルがないので、土瓶・薬缶の類でないことは当然として、現在の急須では持ち手が注ぎ口と直角方向にある(横手)のに対し、ここ絵では持ち手が注ぎ口と反対方向にある(後手)ように見える。

結局、これは、急須の原形といわれる急火焼〔きびしょ(う)〕と呼ばれた器具のようで、この名前は「雑記」中にも、

初編 巻之中 第十六 板橋裏氷川煎茶の雅宴 板橋区氷川町
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/96

三編 巻之下 第二十二 高麗郡入間河原の煎茶風景 埼玉県川越市大字寺山
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913009/165

四編 巻之下 第二十七 蒲田村新古両所の梅見再遊 大田区蒲田
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913020/199

にも登場するので、そう考えておくのがまず間違いないところだろう。

もっとも、本来、中国の酒器だったと言われる急火焼は、どうやら、一方で急須(通常、注ぎ口の内側に漉し穴かこれに代わる網が付く)、もう一方で「ぼうふら」(こちらは、湯沸かしに特化しているので漉し穴はない)に分化しているので、相当時代を遡るものしかないことになって入手は難しそうである。

結局

・略球形
・持ち手が後手
・焼き締め等で直火可能
かつ
・漉し穴付き
  これがないと、茶漉しが必要のはずだが木米喫茶図には描かれていないため*
  あるいは、茶漉しは、当時はあくまで補助具なので**竹田が省略して描いたのかもしれないが、断定不能。

  また、茶漉しは「雑記」にも登場しないし、まぁ、無粋でもある。

  * 2021年3月にネットオークションに出品され、7万円超えで落札された、聾米を名乗った晩年の木米作といわれる急火焼には漉し穴があった

    _2

  **江戸末期になると、水茶屋から始まったらしいが、茶漉しの中の茶葉に湯を通す漉茶(こしちゃ)が普及し、茶漉しは、主要な煎茶具の一つになった。

の「急須」の中で探すことになりそうである。

ただし、気になるのは

三編 巻之下 第二十二 高麗郡入間河原の煎茶風景 埼玉県川越市大字寺山
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913009/165

の中の「松兵衛がつくねし急火焼」との一節である。

この「松兵衛」。とくに注釈なくその名を出しているところからみると、当時相応に名のある陶工だった可能性があるので、その作品の「急火焼」が見つかれば、敬順の「好み」があるいはわかるのではないかと期待できる。

調べてみたが、一時「松兵衛」を名乗った著名な陶工としては、井上松坪がいることが分かったが、敬順とは「時代が合わない」。

【追記】

結局、↑の松兵衛なる陶工がどうしても見つからず、ふと思いついて、国立公文書館収蔵の内閣文庫中の「原典」〔と、いっても写本だが、2組ある〕に当たってみたところ、該当部分は、いずれも

「杢兵衛」
また、写し間違いが起こりにくいため、オリジナルどおりと思われるフリガナについても、どちらの写本でも
「モクベエ」

だった。

 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2018041110551419477
  https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2018041111000119491

当時、地名が典型だが、とくに固有名詞は「音価」、平たく言えば略・フリガナで特定されるので、
この「杢兵衛」が、先の「青木木米」の可能性は、かなり高い。

前述の敬順師による「三編 巻之下 第二十二」の書かれた時期は、

初編・上が、隠居した文化9年(1812年)
から、
五編・下が、没した 文政12年(1829年)

として比例計算をすると、

1920(文政3)年前後となり、木米は、すでに陶工として名声を博していた時期であるし、聴力を失ったために「聾米」を名乗りだした1823(文政6)年よりも前の時期である。

ときに、敬順師は59歳、木米は聴力を失って「聾米」を名乗り出す前ということになる。

●茶碗

これも一番気になっていたものの一つ。

少なくとも現代の煎茶会でよく使われているチマチマと小さな茶碗は、雑記の敬順の茶とはイメージが合わない(この今につながるチマチマ系の茶碗は、煎茶をこの国の文人(知識人)に一気に普及させた賣茶翁〔ばいさおう〕からの伝統を承継しているようにも思うが、その辺りの蘊蓄は当方の興味の外)。

(なお、延宝03(1675)年生-宝暦13(1763)年没なので、敬順らとほぼ入れ替わりにこの世を去った売茶翁 が使った煎茶道具は
 売茶翁茶器図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 

そのモヤモヤ感を一気に解消してくれたのが「木米喫茶図」で、木米の持つ茶碗は、その両掌の上に置かれ、底が平らで略逆円錐台形である。

同じ機会に描かれたと思われる、竹田の自画像図中のものも同様で、おそらく、このような茶碗が、当時の「意識高い系」文人の標準サイズだったのではないだろうか。

実は、ほぼこのサイズで、絵柄などが「木米写し」と言いたくなるような茶碗に、かつて愛用していたものがあるので、Dsc03927s
これが、第一候補になりそうである。

〔以下、難度が高いので、おいおい追記予定〕

●茶葉

 先に書いた代官山の朝倉虎治郎の煎茶趣味を調べていた折、とある煎茶会の茶会記のブログ記事に、その茶会に限ってのようだが、お師匠さんが

「今回は、煮る茶を」

と言って、煮茶で茶会を催した折の記事があった。

 その折、当日の、淹茶ではなく煮茶に適するとされた、当日の茶葉の名前が2種ほど紹介されていたと記憶しているのだが…

まさか、今回のように、煮茶用の茶葉を探すことになるとは思わなかったので、記録はとっておらず、改めて該当ページを探してみても見つからない。

●菓子

・長崎屋の丸ぼうろ

丸ぼうろの作り方:How to make maru bolo - YouTube

・越後屋の鹽釜

二編 巻之中 第四十一 赤山額西福寺山の煎茶 埼玉県川口市西立野
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912998/125

宮内 昭西浦 孝輝 「菓子(その2)」調理科学1984年 17 巻 3 号 p. 156-164

によれば、
昔は蒸したもち米を干して粉末にし,藻塩草を加えて押し固めたが,
 現在ではもち米の代り
にみじん粉を使い,風味付けとしてゆかり(紫 蘇)を用いているものが多い 。」p.163

とされ、現在も比較的入手しやすい菓子だが、敬順の時代のものとは、かなり異なる味のようである。

「みじん粉」については、上記「菓子(その2)」のp.156によれば

(もち米の)「蒸した精白米を搗いて焼いた後,粉砕したもので,粘着性がある。寒梅粉ともいう。」

とあり、従前のように自家製品を使うか、既製品を使うか以上に、大きな違いはないように思われる。

しかし、風味付けについては、藻塩草を使うか、シソゆかりを使うかの違いがあって、当然風味には大きな違いがありそうである。

もっとも、今でも藻塩草を使う菓子店が、仙台にはあるようなので、そのような鹽竈が入手できれば、「敬順の味」が再現できることになる。

・阿餅糖〔アハヘイトウ〕

四編 巻之下 第二十七 蒲田村新古両所の梅見再遊 大田区蒲田 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913020/199

ネット上を検索しても、この名前の菓子は出てこない。

そのため、改めて、原典

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000003194&ID=M2018041110561419480&LANG=default&GID=&NO=12&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1

(103コマ目)を確認して見たところ

漢字表記は「阿餅糖」だったが、フリガナはなんと「アヘイトウ」だった。

(松兵衛:杢兵衛といい、アハヘイトウ:アルヘイトウといい、100年以上前の本に、いまさら文句を言っても仕方ないが、当方のような素人にすら明白な「誤訳・誤植」はいい加減にしてほしいところである)

要するに、「阿餅糖」 は、今にも残る和菓子である「有平糖」の別表記のようで、

和漢三才図会 巻第百五 造醸類 中 
「浮石糖」〔かるめいら〕の項では、この「あるへいとう」に「阿留平糖」の文字をあて
球形でクルミのような筋がある、と解説している。

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162/912

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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569777/31

このように、アルヘイトウは、ポル トガル語のAlfeola(砂糖)を語源とするため*、様々な文字があてらていたようなので、「雑記」の当時はそのような表記が一般的だったのかもしれないし、特定の菓子舗の商標だったのかもしれない。

*前掲・宮内外p.164

もっとも、雑記の

 初編 巻之上 第一 御愛樹の檜の木椿
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/10

の条に、

「性質下戸なれば酒に憎まれ、歯牙なければ萬の美食に疎まれ、只茶具の骨董袋を携て諸方に遊歴するまゝに、見捨てんは本意ならば、覺書同様にしるし置のみ」とあるので、有平糖のバジェット版といわれる梅干飴のような硬い飴では噛み砕くことができなかったなずで、敬順師は、有平糖の中でも、丸ぼうろや鹽竈のように、口に含むと、そのままとろけてゆくような柔らか目のタイプものを好んだのではないかと思われる。

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モースコレクション中から、形状や表面の質感からみて、有平糖と思われる菓子
小西四郎=田辺悟・編
 「モースの見た日本―セイラム・ピーポディー博物館蔵モース・コレクション/日本民具編」
 小学館/1988・刊 p.95 より

【参照】京都・甘春堂のホームページ 中の、有平糖の一例

なお、有平糖が、抹茶の場合も、干菓子のカテゴリーで用いられていることについては、下記参照

茶道(お茶会)の干菓子をご紹介!干菓子と主菓子の違いも解説 | ワゴコロ (wa-gokoro.jp)

したがって、抹茶の素養もある敬順師が煎茶の茶菓子に使っても全くおかしくはない。

●水

 

●燃料

 以下については、奥が深そうなので

ここのウエブページの中に

帖昆爐の火熾し

として、独立させることにした。

 

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