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2021/02/28

北沢1丁目の「富士講碑」

■かつて…

世田谷区の北沢地区の、ミニコミ紙「きたざわ」に、こんな記事を投稿した。

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記事にあるように、京王井の頭線の池ノ上駅と、小田急線の東北沢駅のほぼ中間の位置に、この

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石碑がある。

碑文を読むと、鈴木金太郎という人が、50回の富士登山を果たしたのを記念・顕彰する石碑らしいことはわかる。

■しかし…

それ以上に、その機縁・由来の類や講中の活動の実態を示すような、史料や伝承がなかなか見つからなかった。

ことに、講中のマーク(惣印・笠印)に、該当するものがなかなか見つからなかったのであるが

「特別展 神社参拝と代参講」〔図録〕世田谷区立郷土資料館/H04・刊

の、p.34に、

「世田谷区では下北沢村、世田谷村、若林村、代田村の講中が山富講」

とあり、若林村の講中の「富士講掛金帳」の画像で、この碑を建立した講中の名前を確認することができた。

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■とはいえ…

それ以上の情報はなかなか現れなかったのだが…

昨年以来、いわば立て続けに、この山富丸平講の活動を示す資料が、渋谷区の旧幡ヶ谷村にあったことが判明した。

ネットオークションに

堀切森之助「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/S53・刊

なる本が出品されていたので、幡ヶ谷は北沢の「すぐ北」にあたることもあって、落札したのだが…

その、p.163に、鉄道の、開通後と、開通前の富士詣のルートが詳細に示され、しかも、旧下北澤村の淡島がその行程上の重要なポイントだったことがわかったのである。

●講中の地域的範囲

富士詣に就いては、幡ヶ谷の属してゐた講は北澤、代田、雑色等の各村を範囲としていた。

下北澤の鈴木金太郎が先達だった山富講と呼ばれていたが、その萱笠の印は、〔〇の中に〕平、または〔^^の下に〕富だった。

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北沢1丁目の石碑の裏面
刻まれている「世話人」の住所は、下北澤のほか、幡ヶ谷、雑色(中野)、代田に及んでいる
しかし、若林村の世話人はいないので、どうやら、この下北澤村を中心とする山冨丸平講と、
若林村周辺の同名の講は、同じ、本部にあたる親講を持つ、支部にあたる枝講なのではないか
と、とりあえずは、思われる。

●行程(鉄道開通前)

白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、前記の萱笠に金剛杖の参拝者は 、幡ヶ谷から甲州街道を府中、八王子、小彿峠、輿瀬の二瀬越えを過ぎて四方津、鳥澤、猿橋、大月と行き、此所から吉田口登山路を登って頂上の浅間神社へ参拝

帰路は御殿場口を下って東海道に出で、藤澤から江之島へ廻って江之島鎌倉を見物。
  おそらくここで
、精進落としを、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をして行ったのではなかろうか

そこから

ルート1:戸塚、神奈川を経て二子玉川へ出る(この行程は日数8日)

ルート2:二の宮で東海道と別れて秦野へ出、大山街道を大山、厚木、長津田を経て二子玉川へ出る(この行程は日数6日)

どちらも、二子玉川の茶亭に各村の第一出迎人が代参者の到着を待合わせて、合流して世田谷を過ぎて北澤の淡島神社前に来て、此所の茶亭で、各村講中からの第二陣の出迎人を交えて小宴を催した後に一行は解散

代参者は、第一、第二出迎人と共に、掛念佛の唱和で村へ送り込まれた

●行程(甲武線(中央線の前身)開通後)

徒歩時代同様に白衣姿に三鈷鈴を肩から吊って腰に下げ、萱笠に金剛杖の参拝者は字内の諸員等に見送られて新宿または中野駅に集合

同駅から乗車して大月駅で下車して吉田口から登頂

帰りは渋谷駅に下車して一行は北澤の淡島神社前の茶亭まで来る

此所で精進落しの別宴を張って参拝團を解散し、此所まで出迎えた各村の議員等と共に、途中比等の講員等が唱和する掛念佛で帰村

■鉄道開通の…

前後にかかわらず、この参拝團は、出身村に帰る前に「北澤の淡島神社前の茶亭

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で、かつては、小宴をはり、鉄道開通後は精進落としのそれなりの規模の宴会を行っているようである。

この「淡島神社前の茶亭」。おそらくは、富士詣の講員のために開かれていたわけではなく、当地の「淡島神社」の別当である森嚴寺が、毎月3の日と8の日に行っていた「淡島の灸」*に参集する人びとを対象に、当地の旧家で世田谷吉良氏の旧家臣といわれる伊東家が営業していたものと思われる。

この、淡島の灸については、近世江戸の2大紀行文作家である、十方庵敬順が「遊歴雑記」、村尾嘉陵が「嘉陵紀行」〔別名「江戸近郊みちしるべ」〕の中で、どちらも好意的とは言い難い紀行文を載せている*のが興味深いのだが、「行ってみてがっかりした」にせよ、江戸ではかなり著名な探訪地だったことは間違いない。

*遊歴雑記 初編 巻之上 第二十七 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/45 

今年文化十一年甲戌三月めづらしく邊鄙の花を尋んと、四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂邊を見めぐり、北澤村を遊行ずるに、實にも人口に風聞する如く森嚴寺の門前には、新たに酒食をひさく家三四軒然も廣々と路傍に建つらね置、遠く来る人は止宿もするよし、いかにもその家や幾座敷となく間廣々と見へたり、人の出這多かる中に、食事をしたゝむる人、酒を酌人、枕せる老夫、待詫て欠する少女、又来るもの歸るもの家ごとに、座せる人、不臥せる人、さながら温泉の湯治場の如し、

 嘉陵紀行 第四編 北澤淡島社   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912956/129

寺の前に酒飯あきなふ家一戸、此外近くにも猶あり、民家ゟ灸ある日ことに路次に出茶屋をまふく、こゝかしこに在、

(文政三年庚辰五月八日遊)

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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/6

【追記】

このほか、淡島社が著名地だったことは

●国立公文書館・蔵「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html

の9ページ目に、天保4(1832)年当時の、玉川上水の代田橋下流にあった代田芥留の図中の遠景、左上隅に、北澤八幡社でも別当の森嚴寺でもなく「淡島社」だけが描かれていること

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●江戸名所圖繪の三巻天璣八冊40コマ目の図

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559047/40

の上部のタイトルが「北澤粟島社」であること(もっとも、こちらには「八まん」として北澤八幡神社、「別当」と題して森嚴寺が描かれてはいるが、どうみても「淡島様」が主役)

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からも了解できる。

 

■明治期になっても…

、この淡島が人々を呼び寄せる場所であったことを示す記述が、やはり、最近入手した

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊

にあった。

●森嚴寺境内にかつてあった富士塚について

淡島富士は(渋谷道玄坂下の)御水の枝講々元で、三軒茶屋の地名の語源となった三軒の茶屋の、田中屋、しがらき、堀江のうち、田中屋の主人新兵衛が願主となって築造した。

この富士の築造に際して、保証人として親講元の吉田平左衛門が新兵衛と連名で下北沢村名主の半蔵に一札を差入れている。

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文政四年己三月とあり、往時の富士塚築山流行時代の所産といえる。

「また当時、この寺に中々の智者があり、築山を利用して、富士の灸と称し、灸点する者が現れた。こん日、富士の灸というのが全国に何カ所あるか知れないが、この森厳寺の灸が富士関係では始めてのことと思われる。この灸が「淡島の灸」として有名になってからも、長くつづいて行なわれている。
    :
この淡島の灸に通う人たちの途中休憩した掛茶屋が、松見坂三田用水脇の富士見茶屋、弘法湯、道玄坂、宮益坂にあった*。」

 同書38話 pp.211-212

*ここにいう掛茶屋の位置が措定できそうな、渋谷宮益坂下から滝坂道の松見坂下あたりにかけての、天保3(1832)年の紀行文があった。
 筆者の名前は不明だが、新編武蔵風土記稿を編纂した、幕府の昌平坂学問所内の地誌取調所所属の地誌取調出役、つまり、現地調査を担当する、いわば「学芸員」だった模様である。

宮益に出て道元〔宮益の誤〕坂を下り小橋を渡れり、この流れは渋谷の川上にそ、左に水車〔「宮益水車」〕あれとけふは盆の十六日なれハなりわひ休らふならハしにて音もせさりき、田面の緑り深くゝき遠近曇りて日影のうすくなりけれは、暑さを凌よくしハし立休らひて、
  初秋の風に稲葉の露ちりて緑りすゝしき賤か千丁田
上渋谷村の茅屋つゝけるを過て長き坂〔←「道玄坂」〕あり、この半に山を開きて茶店三軒を出せり、新らしくもふけしなり、団扇に松の絵かきしを商ふもありき、池尻村にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北沢村」の誤〕の淡嶋明神の道〔←「滝坂道」〕を鐫[え]れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り、うちミるに己かまゝに身のならされはさそくるしからん、道すから大山・富士なとへ群れ行人をミるにさそ楽しからんと察しぬ、仕へするミは一夜たによそへ宿りぬることもならす、この猿にも同し様なりと思ひやりて、
  つなかれす深山をさそな朝な夕思ひまきるとねにや啼らむ
二町余を過ぎぬるに清き細流あり、土人に聞くに玉川の分水にて烏山・給田の村/\なとより引る用水〔←「三田用水」〕なりと、かく高き処に見るもめさましく激してこれをやらハ、山に有らしむへしと云しもことハりなり、空晴て暑さの損くなり侍るまゝ水をむすひしか、余か影のうつりぬるをミて、
  世にも名の知れぬ計の細流清きこゝろはうつしてそしれ
すこし行て下れる坂あり、上目黒村の入会の地なり、跡の流れより落くる水〔←「三田用水・駒場分水」〕なりき、さまて多からされと瀧をなし音の高くすゝしければ、
  家を出てまた聞なれぬ道の辺に落くる水の音そさやけき
坂の下〔←空川を越す「遠江橋」あたり〕ニ新しき茶店あり、右へ折れ左は田面緑りふかく、少し行て右は駒場野[古ハ駒か原と云しよし]にて[御茶園あつかりにて]荘頭上村氏[左平太]鳥人[おとりミ]山内氏[うち]正助等の官舎あり、高札をたてゝ往還の者松明・火縄・くハへ煙管等をいましむ、この向ひ木立繋ぎ門ハ里長[定右衛門といふ]なり、御狩のとき成らせ給ひてけれ此処其処へ土を盛て埓結ひめくらせり、余も廿年余りあと地誌[ちし]の公事[ごやう]にて都筑郡より帰るさ同僚[とうや]の小笠原氏と来りし事もありしか昔になりぬ、住居ハ其時にも替らす主人ハ如何あらんと思ひやりぬ、
  わくらハに諏〔と〕ひこしことは昔にてその面影もあせぬ木深さ
流れの巾二間もありぬ川に土橋を架し、たもとに水車あれと音もせさりき、池尻村にかゝりぬるかあやしの茅屋に琴の音きこゆ、鄙にハ珍らかなれハ、
  聞にさへ糸も珍らし玉琴のミやひの音ハ鄙にやハにぬ

作者不詳「松の柴折」(世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」東京都世田谷区教育委員会/S60・刊 pp.177-194)

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東京都公文書館 デジタルアーカイブ・蔵の「目黒近傍図 下 (荏原郡馬込領上目黒村)」
https://dasasp03.i-repository.net/il/cont/01/G0000002tokyoarchv01/000/020/000020682.jpg
の抜粋に同じルートをトレースしてみた。

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【参考】

文政3〔1820〕年の宮益御嶽神社(赤矢印)
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956
より

宮益坂~道玄坂~滝坂道 辺り

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道玄坂上~駒場狩場 辺り

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「昭和四十一年五月十七日
  代々木上原、吉田国太郎万にて
  語る古老 鈴木平五郎 明治十八年五月生れ 植木職もとは百姓

   吉田 世田谷の森厳寺、淡島のお灸の客を専門にした「かごや」が新宿の追分と
                 渋谷の宮益にあった。
   加藤 宮益のどこら辺か、坂の上か下か。
   吉田 坂上だ。かまくら道の入口の辺だ。
   鈴木 宮益の上から二子玉川まで、ガタクリ馬車が通っていた。
      中央線の開通する前は、甲州街道を、新宿から八王子まで馬車が通って
                 いた」

        同書31話 p.173

 

【追補】

 この石碑の位置は、かつての「北澤四丁目」のほぼ中心にある。

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現在は、図のほぼ中心の「国旗掲揚所」に並んで、そのすぐ南隣にあるが、かつては、南側の道路を挟んだ向い側にあったようである*

*佐藤敏夫「下北沢通史」同/S61・刊p.133(安野敬一氏S60・談)

 

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