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2020/06/05

弦巻村の八幡社は下北澤村の野屋敷稲荷の類例か?

■たまたま…

蛇崩川の水源探しに関連して、弦巻村西部の、蛇崩川を大山道の旧道が渡るあたりを調べる機会がありました。

S_20200605232101 

【参照】

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1nJ1tbikQVLMS_TlLLofTkJudmpTZwby-&usp=sharing

【参考】
世田谷区郷土館・蔵「駒沢町地図」S05 抜粋 ○囲いが「ババ池」★が八幡祠
Sundaishigaku_56_205p6_tc_20200607204401 

高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二) 谷田地帯における中世水田へのアプローチ」
駿台史學56巻pp.205〔1〕~231〔27〕
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/6045
p.210〔6〕「第6図」を抜粋・編集

■この場所の…

橋の名前は「八幡橋」。

確かに、その北東に「八幡社」があったようですが、この社、現代の地図に表示されている例が見当たらなったので、現存しないものと思っていたのです。

■しかし…

家内がこの地図を Face book に投稿したところ、ある方から、同地の八幡社らしき祠の写真の投稿されました。

とはいえ、弦巻村の村社は弦巻神社のはず。

後述のような稲荷社、つまりオイナリサンならともかく、八幡社が村社のほかにあるのは珍しいと思われ、今度はこちらの経緯を調べてみる気になりました。

■東京都公文書館*蔵の…

記録によ

れば、M05当時

1 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 宇佐神社」
2 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 稲荷神社」
3 「第七大区七小区荏原郡 … 世田谷村郷社八幡神社附属 弦巻村 北野神社」

の3社があったようです。

* https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/

■これを…

「新編武蔵風土記稿 巻之四十八荏原郡之十」中の弦巻村の条に記載の4祠*にあてはめると
1は 〔 宇佐〕八幡社
2は 稲荷社2祠のうち「小名本村」にある方
3は 〔北野〕天神社
が相当し、天神社と「同シアタリ」の小名向にあったとされる稲荷社は公文書館の記録には現れません。

* https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/12

【参考】

Photo_20200606063101
国立公文書館・蔵「目黒筋御場繪圖」を抜粋・180度転回
画面右端近くの「天神」の北に「稲荷」が見える

■そして…

この3社は

都公文書館の

「荏原郡 無格社 弦巻村(駒沢村村大字弦巻) 稲荷神社(弦巻神社と改称)」M12
によると

「(八幡神社北野神社稲荷神社を本社に合併し、弦巻神社と改称40年4月5日許可40年5月27日合祀済届)の朱書きあり」

と、M40に合祀され、2の稲荷社の場所の弦巻神社となっています。

ネットで調べてみると、

https://hotokami.jp/area/tokyo/Hkrka/Hkrkata/Dyrkm/125351/buildings/

その境内に1と3は石造の末社として鎮座しているようです。

https://post.hotokami.jp/20200408-044239_j9hx0lIn5D.jpg

【追記】

なお、3の天神社の名残としては、向天神橋という交差点とバス停名、そして小公園名が今に残っている。

■ではなぜ…

弦巻神社に合祀されたはずの八幡社が元と同じような場所に今もあるのか、ということになります。

似たような例は旧下北澤村にもあって、それが「薩摩稲荷」別名「野屋敷稲荷」。

もともとは、同村の北端に近い小名薩摩屋敷/野屋敷にあったのですが、M42に北澤八幡神社に合祀され、同社の境内に結構立派な木造の末社があります*

Dsc02742s__ 


しかし、北沢八幡は同村の南端に近くて「お参りにゆくのが遠くて面倒」などの不満があったようで、元の稲荷社附近に新たに稲荷社を建立し、いわば地域神として、こちらも現存

 Dsc01100sc 

しています**

■同様に…

北沢八幡の境内に末社としてあるほか、世田谷区北沢1丁目にもある同名の祠として「円海稲荷」があります。

  Dsc01121s
北沢一丁目の「円海稲荷」  

ただ、こちらは、明治42年に北沢八幡の合祀されたといわれる「円海稲荷」

Photo_20200623232701

とは起源が違うようで、どうやら当地の旧家であるY家が「屋敷神」として祀っているうち近隣の方々の信仰を集めるようになった結果、「地域神」として祀られるようになったようで、似ているようではあっても、少々違った経過を経ているようです***

* 世田谷区民俗調査団・編「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」世田谷区教育委員会/S53・刊 p.77
**
pp.79-80
*** 同p.80

 この項 三田用水「調査サブノート:旧下北沢村内の祠・野仏」  参照

■とはいえ…

弦巻村の場合、弦巻神社と八幡社の間にそれほどの距離があるとも思えません。

「あるいは」と考えられるのは、

  • 2の稲荷社は同村の小名本村にあり、しかも村の中央部にある
  • そのため、当時の国是だった合祀による神社の整理・統合あたって、いわば村内の人的な力関係や地理的な優位性のため、他の2社が同所に合祀される結果になった
  • しかし、先の風土記稿によれば、八幡社は「古ヘ鶴ケ丘八幡社領ナリシユヘソレラノコトニヨリ此ノ社ヲ建シニヤ」*と、他の2社+1祠に較べて、それなりの由緒の伝わる、いわば「格上」
  • そのため、おそらく「八幡様」を中世期から祀り続けてきた近隣の人たちは気持ちが納まらず、新たに祠を建立し、改めて宇佐八幡を勧進して鎮座させた

という可能性も否定できないかと思われるのですが。

* 新編武蔵風土記稿は、幕府の学術研究機関である昌平坂学問所の地理局が文化・文政期(1804~1829年)に編纂した武蔵国の地誌であるが、各村から提出された「書上」をそのまま引き写したものではなく、地誌取調出役という、いわば「学芸員」が現地に赴いて調査してウラ取りをするなどした結果をまとめたもの。
 そのため、現地の伝承なども、鵜呑みにすることなく、その信ぴょう性の評価が記述に現れている。
 
この八幡社についても、文末が「ニヤ」いわば「であろうか」と結ばれていることは「あながち、否定できる話ではない」との評価されたといえるだろう。

 

【追記】

三田義春「世田谷の近代風景慨史〔都市美せたがや叢書3〕」世田谷区企画部都市デザイン室/S61・刊

のp.37に

「弦巻には、本村に實相院と浄光寺(今は世田谷一丁目となる)、向に常在寺と三寺があり、また、本村の西南端の松林中に八幡杜、向の東南端にある松林の南に接して向天神杜、山谷の舌状台地の東先端に稲荷社があったのである。だが、明冶末期に多く行われた神社合祠の例にもれず、稲荷社に八幡・天神両社を合祠して弦巻神社としている。
ちなみに、八幡社はその後故地に邸宅を造った佐野氏が、私祭神として小祠を建立し現存している。

とあった。

 

 

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