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2020/04/29

【開花日誌・別刊】ミズキ2

【開花日誌・別刊】ミズキ

http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-50c2.html

の続編。

■初開花から…

3年近く経った一昨日夕方。

門の方が「真っ白」に見えたので、行ってみると、枝という枝の先に〔二ホン〕ミズキ(別名:ダンダンの木)

http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/cornaceae/mizuki/mizuki.htm

の花が満開状態。

Dsc03230s

■この時勢…

ですが、多少は気分が明るくなりました。

 Dsc00695s

【追記】2020/04/30

お散歩中の、ご近所の方が褒めて下さるので、別アングルでもう1カット
(すでに、細かい花弁が地面に落ちだしたので、今がピークかも)

Dsc00752s

【追記】200517

今日見ると大量に実がついてました。

ヒヨドリなど野鳥は大喜びでしょう。

そういえば、そもそも、この木自体、野鳥がタネを運んできた実生です。

 Dsc03260ts

 

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武蔵野會のダイダラボッチと柳田國男のダイダラボッチ

■大正9年1月12日…

柳田國男は、
今の世田谷区代田の「ダイダラボッチ」の後、その南の駒沢方面の「ダイダラボッチ」を探訪している。
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/06/post-141e90.html

その契機は
 柳田の「一目小僧その他」→「ダイダラ坊の足跡」→「一 巨人来往の衝

によれば、代田のダイダラボッチへの探訪について

「 二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいい伝う云々とある。すなわち現在の京王電車線、代田橋の停留所とまさに一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としてははなはだ振わぬものである。しかし村の名の代田は偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。
 私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである。」

と記したうえ、さらに駒澤方面を目指した所以を

「 あの頃発行せられた武蔵野会の雜誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。
それを讀んでいた自分は此の日さらに地圖を辿りつつ、そちらに向って巡禮を續けたのである。」(↓⁺改行は引用者補入)

としている。

■この…

柳田を代田からさらに南の駒沢まで誘った「武蔵野會の雜誌」の記事を調べてみると

同会の機関誌「武蔵野」の
・第2巻第2号(大正8年 7月刊)鈴木堅次郎「駒澤行」   (pp.75-78)
・第2巻第3号(大正8年12月刊)谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」(pp.34-38)
の2編らしいことがわかる。

■「武蔵野會」のダイダラボッチ

これらの記事で紹介されている駒澤方面のダイダラボッチのうち、実際に柳田が訪れた後記の2か所がどれかを調べて見る気になった。


●第2巻第2号(大正8年7月刊)pp.75-78
鈴木堅次郎「駒澤行」

◎包含屬とダイダラボッチと驗地碑
明治大學運動場側の坂道附近には石斧が散見し包含屬がある、…
その先にダイダ窪といふ窪地がある
二三段の地域で最も深いところに池があり、古來灌漑用の水源となってゐる、傳説に曰く此處はダイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を掘り木を伐ると罰が當ると、
蓋し水源保護の爲であらふ。

由來ダイダラボッチの話は巨人傳説として取扱はれてゐるが此の足跡は
荏原郡碑衾村大字衾
より此處を經て
世田谷村大字代田
に飛んで其間隔半里以上ある。
…此の窪地側の鎮守稲荷舎の境内に野澤村創立の碑がある。野澤村は徳川時代に入ってから開墾された村で、元禄八年織田越前守驗地し開墾者たる大森の澤田から來た百姓と葛西から來た野村と云ふ百姓の一字宛をとって村名を付け茲に記念碑として不觀不聴不語の三申塔を建てた*のである。」(前同)

*この元禄8年建立の「三申塔」は、野澤稲荷神社境内北の祠内に現存している由。
 https://setagaya339.net/maturi/a1_setaga1/06_nozawa.htm

 ようやく写真を見つけた
  https://babykids.jp/nozawainari-jinja-setagaya

 
●第2巻第3号(大正8年12月刊)pp.34-38
谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」

「文献に見えてゐるものでは戸田茂睡の「紫の一本」中に見えてゐる代田橋の記事で〔中略〕
會員鈴木堅次郎氏に承はるとそれは今代田の薬師様のある窪地だそうである
又↓
駒澤村上馬引澤、
同じく野沢、
碑衾村谷畑
等にもあるよし鈴木氏から承はつた、
これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古ダイダラボッチの足跡であると傳へてある。」(前同)

■まず…

鈴木堅次郎のいうダイダラボッチ【S1】は、

明治大學運動場…先…の窪地で
窪地側に稲荷舎があって
その境内に三申塔がある

ということになると、下図

S1

東京逓信局「東京府荏原郡駒澤村」逓信協会/T14〔2版〕T06〔初版〕・刊〔以下「駒澤郵便地図」〕

https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/kochizu/kubunchizu/choson/komazawa_kmview-zoom.html

のとおり、
駒澤村大字下馬引澤字鶴ヶ窪551番
近辺ということになる。

■次に…
谷川磐雄が、その鈴木から聞いたという
【T1】駒澤村大字上馬引澤
【T2】駒澤村大字野澤
【T3】碑衾村大字衾字谷畑

の3ケ所のダイダラボッチであるが、これがなかなか同定が難しい。

【T3】

は小字まで特定されていて、鈴木の「駒澤行」でも触れられているので、比較的見つけやすい。

T3_yb
東部逓信局「東京府荏原郡j碑衾村」逓信協会/T06・刊〔以下「碑衾郵便地図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl0911-OY-1-54.pdf

碑衾村大字衾字谷畑にある、鶴ヶ窪や代田のダイダラボッチに類似する、ハケ型地形の場所は、同所2585辺り、現在の自由が丘2丁目北端の目黒通り近くにしか見当たらないし、鈴木のいう(鶴ケ窪との)「間隔半里以上」(実際には半里弱であるが)とぼぼ整合している。

【T1】

については、大字上馬引澤〔旧馬引澤村〕内のハケ型地形を何種類かの地図で探しても、どうもそれらしい場所は見つからない。
大字〔旧村〕境のそれらしい地形となると、現駒沢3丁目、駒沢給水塔のすぐ南東の、字阿弥陀丸にハケ型の谷があるものの、ここは旧弦巻村内のようなのである*

T1_yb  
駒澤郵便地図

*東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊:pp.66-67 参照

【T2】
同じような問題は、ここにもあり、駒澤村大字野澤〔旧野澤村〕内を調べてもそれらしい地形が見当たらない。
この場合も、それらしい場所を「あえて」あげれば、先の鶴ケ窪なのではあるが、ここは、大字下馬引澤〔旧下馬引澤〕村の村域である。

■もっとも…
阿弥陀丸も鶴ヶ窪も、それぞれ、上馬引澤、野澤に地続きの隣接した場所にあるうえ、村界が入り組んだ場所でもあり、遠隔地にいる地域研究者ならば上記のような誤解もやむを得ない面がある。

しかし、鈴木は、駒澤生まれで、T06から同町議員(後に東京市会議員)を務めているばかりでなく、上馬(後三軒茶屋町**)43に住んでいた郷土史家でもあるのだから***、むしろ誰よりも旧村界を熟知していたはずであり、誤った情報を、しかも2か所について谷川に教示したとは考えにくい、というか、むしろ「まず有り得ない」のである。

**同「都長は官選か公選か : 六百万市民に問ふ 都長は市民直接選挙」同/S11・刊:奥付
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036595/43

***鈴木堅次郎「東京府改革新論」日本印刷/S03・刊:表紙見返
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097844/2

■柳田國男のダイダラボッチ

代田のダイダラボッチを巡検した後に向かった先の、駒沢の2か所のダイダラボッチについて、柳田は、

【Y1「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中ほどに在った
 是も道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらいの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。
 併し腫のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれて居る。
【Y2「それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でも是から東南へ尚七八町も隔てた雜木林の間であった。
 附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居たから、あるいは既に湮滅したかも知れぬ。
 これは周圍の林地より僅か低い沼地であって、自分が見た時にも早足跡に似た點はちつともなく、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかった。
 さうして物ずきな所謂史蹟保存も、さすがに手を著けては居なかったやうである。」

と記している。

■そのうち

【Y1】つまり、最初の駒沢ダイダラボッチが、先の【S1】の鶴ヶ窪であることは
小学校
   冒頭の郵便地図でもハケの北西に「旭分教場」がある
…と村社の間
   同じく郵便地図で、ハケの南に鳥居マークで、野澤稲荷社が表示されている
   もっとも、柳田が訪れたのは駒澤村成立後なので、その時点での駒澤村々社は駒繋神社で、
   そのT09 時点では村社ではないが、合併前の野澤村ではその村社だった。
   そのため、相応の格式を示す社殿だったと思われる。
にあるといえることから、ほぼ確実と思われる。

■問題は…

【Y2】の、その次に訪れたダイダラボッチである。

・小字の名も道も忘れた
(鶴ヶ窪から)東南へ尚七八町も隔てた
雜木林の間
附近にいわゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た

とあるうち、②はともかくとして、①と③から、幸いそのあたりについては

M42測T04一修測
M42測T10二修測

の一万分の1地形図「碑文谷」を入手しているので、丁度柳田が当地を訪れた大正9年を挟む時期に該る両図を対比すれば「土工をして居た」場所が特定でき、したがって、その「附近に」あるハケ型地形の場所を見つけることができるのではないかと考え、ここ数年、折に触れて両図を対比しているのだが、未だに見つけ出せていない。

【追記】20/10/18

PhotoShopで両図を重ねて、鶴ケ窪から78町(7~800m)の範囲からさらに1Km程度まで広げて観察してみたが、やはりこの間造成されたらしい場所は見つからなかった。

【追々記】20/10/28

そこで、探す範囲を広げることにしたが、ちょうど鶴ケ窪は図郭の中央のほぼ最上部にあるので、その南東方向の範囲はなかなか広大である。
その際着目したのは、上記③の「文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居た 」との記述である。「文化住宅」つまりは農家などではなく、市街地の住民、主として給与生活者の住居用の敷地のための土工をしていたことになる。

しかし、この時期のこの碑文谷図の地域で、今でいう宅地開発をして需要が期待できる場所は極めて限られている。

まず考えられるのは、鉄道沿線、それも駅(停車場、停留場)周辺ではあるが、T10図の下方に描かれている目黒蒲田電鐵(現・東急目黒線)は、T12全通なので、将来に期待するにしても「気が早すぎる」きらいがあるし、実際T10図をみても大岡山や奥沢といった駅の周辺にT04図から全く変化が見られない。

しかし、地図を観察しているうち、図の右下(南東)隅に「目黒競馬場」の西半分が描かれているのを見つけた。
競馬場といえば、近代的な、主に市街地の人々が参集する娯楽施設であり、調べてみると山手線目黒駅から1キロほどの場所で、同駅からの徒歩圏といえる。

そこで、両図の重ね図で、この地域の変化を確認すると、競馬場と、なぜかT04には家屋が当時としては密集していた現目黒区鷹番との間の、清水が、この碑文谷図の右(東)葉の中では、唯一と言ってもよい変化が両図の間に生じていたことがわかった。

 

M42t04_100001__
M42測T04一修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

M42t10_110000__
M42測T10二修測_10000分の1_碑文谷〔清水~鷹番抜粋〕

この場所は

  • 上記のように、鶴ケ窪南東附近で唯一、T04とT10間で変化がみられる場所であること
  • 等高線からみて、この地には南方から代田のそれに類似したY字型の谷が入り込んでいること

現在の東京都目黒区目黒本町1丁目15 の東急バス目黒営業所のあたりには、かつては清水が湧いており*明治時代に、今はやや東に移転しているが、ここに清水稲荷が建立されたという。
https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/michi/tobu/shimizuinari.html

*この清水を源流とする川は、「目黒区史資料編」付録の「昭和三七年目黒区地図」によると「六畝川」と呼ばれていたらしい。

  • 上図の左下の水路は品川用水であるところ、この用水は玉川上水や三田用水と同様に、台地上の高地の稜線部を流れて(流して)いるので、その両岸にハケ型地形が多くみられ、先の鶴ケ窪も品川用水左岸のハケ型地形なので、柳田がそこから用水沿いにその左右の地形を観察しながら南下したと考えて不合理はないこと
  • ここは目黒競馬場のすぐ西の地域なので、すでに目黒駅からの徒歩圏といえ、この時期に「文化住宅のための土工」〔宅地造成工事〕をしても相応の需要が見込まれたこと

からみて、鶴ケ窪から約2キロ半の距離はあるが、ちりあえずは柳田のみた、ダイダラボッチ【Y2】の唯一の候補地ということになる。

 

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2020/04/05

【Virus関連】ご先祖様たちの智慧

■「マスク」について…

もう60年ほど前だったかに、確か学研の「○年の学習」という学習雑誌で、「マスクではウイルスを防ぐことはできない。ウイルスはマスクの布の織目を簡単に通り抜けてしまう。」という記事を読んで、「もっともだ」と思っていましたし、何よりも、ウイルスを防げないだけならともかく、マスクの内側の口許を高温・多湿にしてそこで細菌を培養していることも確かなので、ここ数か月のマスク騒ぎが何でおきているのか、不思議で仕方なかったのですが…

たしかに、その記事には「マスクをすれば、風邪(註:これもウイルス性)を他人に移さななくて済むかもしれない」といったことも書いてありましたので、何にせよ感染症を発症していなければ、マスクは不要と思っていたのですが(今では、インフルエンザでもマトモな企業や官庁は登社・登庁禁止にしてるところも多いようですし。)、ようやく徐々にわかりかけてきた今回のウイルスの性格をみると、いわゆる保菌していても、その25パーセントの人には何の症状も出ないようなので(発症が疑われる人といわゆる濃厚接触者以外は検査してもらえないので、この比率はもっと低い、逆にいえば保菌かつ無症状の人の実数は高いことになる)、「本人が知らないあいだにハタ迷惑なことをしないためにはマスクは必要らしい」とわかりました。

とはいえ、このウイルス、基本的には飛沫感染するタイプのようですので、保菌していたとしても、咳、クシャミのない場合は、マスクに大した効果はないようにも思えますし、そこまでの症状があれば(ほぼ意識からはずれていたインフルエンザの可能性もありますので)、迷うことなくテレワークで対応しようと思います。

もっとも、マスクは、直径0.1ミクロンという「素」のウイルスには全く無力なことは明々白々とはいっても、空気中の塵埃(ホコリ)にくっついて飛んでいるウイルスに対しては、ホコリを止めてくれることでウイルスも止めてくれる可能性がありますので、今後は、そういった埃っぽい環境に入るときには、マスクをしようかと思います。

■結局…

ウイルスに対する防護という点では、マスクはほぼ無力ですので、いきおい手洗い、うがいを徹底することで対応するほかないとはいえ、いつでもどこでも、それが可能な環境があるわけではないですし(それでも、この国はまだマシで、世界中で30億人は水と石鹸で手を洗うことができない由)、消毒用スプレーも、品不足のせいか無くなっている場所もありますし、あってもたよりなげなものも多い。

■そんな中…

この週末に、いわば大昔に、ごく普通に使われていた消毒器具が我が家にあったのではないかと気づきました。

約15年ほど前、かつて、母方の祖父と祖母が住んでいた家の解体に先立って、当方のような孫世代まで招集された「形見分け」、といえば聞こえがよいのですが、少しでも廃棄物を減らすための、半分「ノルマ」の引きとり作業。とくに家具類は、それなりに広い家のあった、母、伯父や叔母や従弟たちはともかく、後に家を建て替えるまでは置場に苦労する羽目になりましたが、それでも幼いころから見慣れていた、祖母の部屋にあった小振りの桐箪笥や茶の間にあった洋風の茶箪笥を、今では毎日目にすることができ、心が落ち着きます。

■それはさておき…

親の世代からは、これが過去の遺物とわかっているので、引き取り手が現れず、従弟たちはそもそも「これが何だか知る由もない」ために引き取ることになった

本題の

指頭消毒器

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近郊に出かけるときに持ち歩くことはあまりありませんでしたが、たとえば、列車で京都や大津あたりまで行くとなると、約8時間以上の旅になりますので、1度は食事をとる必要があるため、いわば必需品。

蓋をあけるとその下に中蓋があり

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その中蓋を端のボタンを押してバネ仕掛けで跳ね上げると

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中に、当時は、脱脂綿をつめるスペースがあります。

さすがに、普通の脱脂綿のストックはないので、化粧用のコットン(原材料は脱脂綿と思われます)

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それを、スペースに押し込んで

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そこに、ストックの無水エタノール(要するに消毒用アルコール)注ぎ込んで

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セットアップ完了。

これで、食事の前に、中のアルコールで指先をぬぐって消毒していたのです。

■この器具

確か、昭和30年代の半ば位になると、駅弁を買うと、割箸と共に小さなビニール袋に入ったアルコールをしみ込ませた紙だったか布だったか忘れましたが、今の不織布のオシボリの前身がまず必ず付いてくるようになり(国鉄当局の指示だったのかもしれません。当時は、他の伝染病はともかく、まだ、コレラだけはそこそこ流行することもありましたので。)、以後はタンスにしまわれたまま数十年を経ていたことになります。

■今でも

これは市販されていますが、ネット通販や骨董店やネットオークションで探す必要など全くなく、

・ペーパータオルを折り畳んで

・無水エタノールかその希釈液をそれにしみ込ませ

・アルコールが揮発しないようにジッププロックなどに密封して

持ち歩けばすみます。

■その意味で…

随分便利でお手軽な世の中になったものだと思いますが。

当時、今では当たり前の、透明ビニール袋なるものを見たのは

夜店の金魚掬いで、掬った金魚持ち帰るための、細いビニールのパイプ状の紐で上部を巾着のよう閉められる袋

が初めてだったのです(当時、まだ学生だった一番下の叔母や叔父も、初めて見たらしく、中の金魚そっちのけで、掘炬燵を囲んで、電球の明かりに、中を透かして見ていた光景が、なぜか鮮明に記憶に残っています)。

 

 

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