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2018/04/24

「Dr.オースティン展」の今昔ヴィデオの検証結果

■5月6日まで…

九段の昭和館で開催されている、オースティン博士撮影の写真展
「希望を追いかけて」
 http://www.showakan.go.jp/events/kikakuten/index.html

に関連して、同博士撮影の写真によるスライドショー
https://www.youtube.com/watch?v=ZmEixljWQuA&t=
がYouTubeに公開されています。

その冒頭は、下北沢(現在は「代沢」)の北沢八幡神社の祭礼の折とされる写真。

その後半にあたる御神酒所の写真については、まだ検討の資料不足なのですが、前半の「神輿の道路上の巡行」時の写真については、それなりに資料があるので、やや細かく検証してみました。

■この地域…

東の渋谷区大山町は代々木八幡神社の、西の世田谷区代沢の一部と北沢は北沢八幡神社の氏子、この写真については考えにくいものの、少し南東に下った目黒区駒場は同区大橋の氷川神社の氏子と、まず、神輿の特定からして大変なのですが、写真の神輿が、北沢八幡神社の氏子で構成される各睦会の中の最北端にあたる「四五睦」のそれであることは、早大の佐藤教授のグループが、同睦会の関係者から確認を取っているとのことです。

■そうなると…

問題は、ヴィデオの最初(2:02~2:09)の、神輿が画面手前に向かってくる写真

http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/303

で、画面右やや上の道路標示のプレートに「G AVE」とありますので、画面を横方向に横断している道が、現・井の頭通り、当時の呼び方では「水道道路」であることは、ます疑う余地はないので、神輿が巡行している、それに直交している道が、現・都道鮫洲大山線、旧称では駒場道ということになります。

問題は、この写真、駒場道の北方向から撮った写真なのか南方向から撮った写真なのかにありました。

当方のような近隣住民の発想では、この駒場道の、西側の北沢4丁目は当時ともかくも商店が増えつつあった時期、東側は代々木大山町のお屋敷町ですので、画面右に見える商店の列は、通りの西の北沢側にあるように見えるのです。

■しかし…

そう断定しようとする場合のネックは、電柱の列の位置。

上のように解釈すると、電柱の列は駒場道の西側にあったことになるのですが、ヴィデオの次の写真である

http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/items/show/284

では、画面右がお屋敷町である代々木大山町側に見え、道路のに沿う電柱の列は駒場道の東側にあることになります。

■と、なると…

この駒場道沿いの電柱の列は、水道道路との交差点のあたりで、道路の西側から、東側に移ったことになるのですが、さすがにそれは考えにくい。

■そんな折…

渋谷区大山町会「渋谷区 大山町誌」同/平成16年5月・刊

の口絵の「山下論助描 往時の我町」のページ下部の「玉川上水 昭和26年8月」(キャプション末尾に「幡谷寄りから大山方面への眺めである」とある)

Photo


によると、電柱の柱列は駒場道の東側に描かれています。

■と、なると

最初の写真は、大山交差点を南方向から撮った写真。つまり、最初の印象に反して、駒場道の東側の大山町側に商店が並び、右側の北沢側はいわば緑豊かだった、と考えざるを得なくなったのです。

そこで、さらにもっと「確実な根拠」がないものかと、先の「大山町誌」を読み返してみると、その「第12回 座談会」の記事中に「井の頭通りの大山町会館側〔註:駒場道の東側〕には…恩田さん…中島洋服店などがありました。」(p.105)との記述があるのが見つかりました。

■はたして…

1枚目の写真をよく見ると、交差点の右側の商店の列の3軒目、神輿の屋根の左奥に「中島洋服店」との袖看板が写っています。

つまり、この1枚目の写真は、大山交差点の南側から北に向かって撮影されたことは、間違いなさそうなのです。

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