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2017/05/05

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕

ここまでで…

判明というか、見当が付いた暫定的なデータを基に、とりあえずの想像図を作図してみた。

 まず、平面図

Plan

 ついで、立面図(駅舎入口〔西〕面)

Elv_turumaki_s_3


屋根の勾配と明かり窓の有無、壁面の装飾については、なかなか法則性がつかめない。

今回は、生方・p.35の喜多見駅ではなく、鶴巻駅を踏襲している。

【改訂版】

Elv2

・見た目のバランス上、外壁を少し低くし屋根を下げた
・棟瓦を防水上マトモなサイズに
・軒端と棟端にオーナメント追加
・半円形の装飾の頂部の3連の長方形にレリーフ状の模様を追加
・外壁裾は、装飾もさることながら、外壁モルタルを雨による浸食から保護するためと思われるので、
 木板にタール系の塗料を塗った色に

【再訂版】

Elv_s

・雨樋追加
・庇・ストラット追加

・待合室内部のアウトラインを追加
・その他微修正

【最終版】

Elv0508


・ようやく開業当時の駅名看板の掲示位置と記載事項が判明
・「世」の字を旧字体に

屋根の深さについては…

生方・p.35のうち平面図をみると、事務室の中央に「階段」という小さな区画が描かれている。

 つまり、喜多見の駅舎では小屋裏(屋根裏)に部屋を設けて、そこへ急な階段で昇降する構造となっている。

 要するに、屋根の側面の明り窓は、単なる飾りではなく、この小屋裏部屋への採光や通風のためだったらしいことがわかる。

 一方、先の鶴巻の駅舎の屋根には明かり窓がなく、しかも、屋根が浅いので、小屋裏に部屋はなかったと思われる。

 問題は、この「小屋裏部屋有り+明り窓有り+深屋根タイプ」の駅舎と「小屋裏部屋無し+明り窓無し+浅屋根タイプ」の駅舎との使い分けに、何らかの法則性があるかどうかにあった。

 この深屋根の駅舎というのは、生方本その他の資料で確認できる限りでは、他には成城学園前(p.8)、相模厚木〔裏/北口。下の写真のように、かなり凝った装飾をしている〕(p.106)、伊勢原(p.109)といった、開通当時から、それなりに乗降客が見込めた駅ばかりで、通過線あるいは車庫・工場があって鉄道施設としては規模の大きな東北沢(p.52.ただし、駅舎は幅・奥行とも大きい)、経堂(p.60)ですら浅屋根なのだから、喜多見はむしろ例外といえる。

S_2

相模厚木〔裏/北口〕 土木建築工事畫報 3巻5号2ページ
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0483.pdf

 したがって、世田谷中原は浅屋根タイプと考えた方が素直だろう(北の堀の内の妙法寺、南の池上本門寺に通じる参道である堀之内道に面しているといっても、この駅で参拝客が乗降するわけではない)。

入口上の明り窓については…

鶴巻のような3連窓の場合と、西生田(p.79)などのような独立した窓が3つ並んでいる場合とがあるが、基本的には、共通仕様だったのではないかと思われる。

 確かに昭和38年に故・萩原二郎氏が撮影した各駅の写真を見ると窓の無い駅が多いが、それでも、柿生(p.84)、鶴川(p.85)のように、窓を埋めた痕跡ともみられる四角いオーナメント状のものが3つ並んでいる駅もあるし、大根(p.112)は、3連窓を埋めた痕跡がある*1。また、当の鶴巻も、駅舎が開通当時の下り線側から上り線側に移設された後である昭和38年撮影の写真(p.111)では窓が埋められている。

 ところで、開業当初の鶴巻の3連窓を見ると、窓の上に庇や水切りがなく、また、窓の下に雨返しもない、という乱暴な造りなので、これでは雨が漏って当たり前で、やがては、壁の内部に入った雨水が建物の躯体を腐らせたであろうことは、想像に難くない。

 昭和38年ころまで、この3連窓が残っていたことが確認できるのは、東北沢(p.52)と喜多見(p.68)だが、前者については窓の上に浅いとはいえ庇があって多少なりとも雨当たりを軽減しているし、後者は窓枠の色から判断するとアルミサッシュに取り換えられている。

 なお、西生田(p.79)や新座間(p.98)の入口上には、昭和38年当時、独立窓が離れて3つ並んでいるが、上記の同様の窓が後に埋められたらしいものを含めて、3連窓を改修したものの可能性もある。いずれにしても、将来、これらの駅の開業当時の写真がオークションや古書市場に現れるのを待つしかない(案外、地元の町村の開通記念式典の写真や、開通記念絵葉書の映像が残っている可能性はかなりありそうである)。

*1 http://moderato-life-60s.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
  参照

最後の…

問題は、必ずどこかにあったはずの駅名の看板とその記載事項だった。

ブログ「関根要太郎研究室@はこだて 」中小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅(昭和モダン建築探訪)
   http://fkaidofudo.exblog.jp/17977023

の末尾にある
、新原町田と新松田の開業後間もない時期の写真から、黒っぽい板に白文字に4行表記されていて、1行目は「小田原急行」、3行目は「驛名」、4行目は駅名のローマ字表記であることまでは読み取れたが、2行目だけがどうしても読み取れなかったのである。

結局「決め手」となった資料は、「いよいよおじさんの雑記帳」というブログ中
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1
の、ここ

https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-9c-18%2Ftiggogawa66%2Ffolder%2F1336492%2F97%2F58190797%2Fimg_3%3F1244249275&i=1

戦後の写真なので、最上部の会社名は、オリジナルの
小田原急行 の5文字から、
小田急電鐵 の5文字に代わっているはずだが、文字の配置は開業時と同じフォーマット。

これで、2行目が「O.E.R.」だったことがわかった。

考えてみると、小田原急行も小田急電鉄も、英訳して頭文字にすると
O.E.R.
考えましたねぇ。利光鶴松社長。

【余談】

Ray Traceの青色と銀色の日記 というブログに…

https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-be-dd%2Fodphotographer%2Ffolder%2F446108%2F56%2F10904756%2Fimg_15%3F1366468075&i=1

世田谷中原1号踏切の昭和20年5月の戦災後の写真があった。

 2013年4月20日に「東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅 地下化記念入場券」が発売された際に、下北沢駅南口に「地下化記念写真展」と題して掲示されていた由。
https://blogs.yahoo.co.jp/odphotographer/10904756.html

 ただし、写真下の展示時のキャプションの
 「昭和20年5月20日頃 撮影」は誤り。
 ・5月20日には、まだ「焼けて」いない。
 ・焼け跡もかなり片付いている。
   ただし、線路から50メートル内は強制疎開地なので空襲以前に建物は無くなっている。
 ・写真左下に代田連絡線の分岐部らしきものが写り込んでいる
 ・しかも、上の方をみると架線が3組あるので、更に時期は後ということになる
 ことから、5月24・25日の空襲後かなり時間が経っていることになる。

  ・画面の緊張感の無さから判断すると8月15日以降
  ・服装からすると、早くても20年の秋口の写真と思われる。

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