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2016/01/28

下北澤村「吉祥院」起源考

我が家から…

数10メートルの場所にあったことがわかった、吉祥院。
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm#KichijouIn

06dij

新編武蔵風土記稿(以下「風土記稿」)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982/56 の右葉)

中興開山ヲ圓海和尚ト云往古ハ羽黒派ナリ改派シテ何レノ頃カ天台宗トナレリ

とあることから、

修験あるいは天台宗に関係する「円海」なる僧侶を探してみたところ

庄内散策
http://www.reihoh.net/kankou/m_syounai.html
というページに

同地の「金光寺」は、
鎌倉期、四条殿の御代仁沼2年(1241)天台宗僧円海上人が開基
との記述がありました

庄内地方は修験の地として著名な、出羽三山の麓にあります。

もともと、修験には密教的要素が混淆しており

また、
江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93

ことと、先の「当初羽黒流で、後に天台宗に転じた」とする風土記稿の記述は整合することになります。

ことに、羽黒流修験は、
東叡山寛永寺*直末となり、江戸幕府の庇護の下で、西の熊野十二所権現に対する東国三十三ヶ国総鎮守の三所権現(羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現)として、宗教的にも経済的にも隆盛を極めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E9%BB%92%E6%A8%A9%E7%8F%BE
ことからみて、もともと天台密教系の修験だったと思われますので、この修験道法度を受けて、吉祥院が、天台宗に改宗・帰属したというのは自然の流れといえるわけです。

*東叡山寛永寺については
 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/10/post-fc9f.html
 の末尾参照。

この吉祥院が…

位置した場所は、溝ケ谷(みぞがや)といわれる、三田用水の分水路になるまでは北沢川の一支流の左岸で、ここは、その名前に「溝」とあることからもわかるように、この周辺地域の中でも、狭い谷間の両岸の法面がとりわけ急峻な場所で、宅地化のため法面が削られてしまった今でさえ、

・吉祥院の少し下流
Dsc04591s
左(北)岸崖線

崖線上は、かつて「駒場野」あるいは「駒ケ原」と呼ばれ、「四神地名録」なる18世紀に編まれた書籍に「「土地すべてよろしからず、土質黒く灰の如くなる故、少し強き風には吹きちらた通行もなりがたく五穀の育悪くして実る所少なし」とあるそうで(ただし原典-2種-で確認できず。そもそも、ここ上目黒村の条が見当たらない)、そのためか、江戸時代は将軍家の狩場(駒場狩場)、明治以降は駒場農学校にはじまり現在東大リサーチキャンパスに至るまで学校用地として使われてきたため、こちらの法面は、ほぼ原形を保っていると思われます。

Dsc04557st
右(南)岸崖線

から、

・現在の京王井の頭線の駒場東大前―池ノ上駅間の築堤あたり

Dsc04585s
井の頭線築堤北の谷を、右(西)岸から左(東)岸方向を撮影

どの写真についても、(当然、当時は住宅はおろか建物があった道理がないので)崖の法面やその上の台地上に、中世なら自然植生のシラカシ、スダジイ、タブなどが、近世に入っていわゆる薪山になった後も、クヌギ、コナラなどが、林立していた状態を想像すれば、当地が「深山幽谷」の佇まいを永く残していたことが、想像できる。

までは、近隣唯一の「山岳的」な雰囲気の場所といえますし、大正6年、つまり、関東大震災以前の付近一帯の宅地開発が始まる前の地図をみると、文字通り「溝のような谷」が、北沢川との合流点をすぐ近くまで続いていたことがわかります。

*逆に、吉祥院があった場所は、左岸法面で、下流部に比較して傾斜がなだらかで、
  堂宇が建てやすかったと思われる位置にあります。

■加えて…

この溝ケ谷の北にある、後に三田用水の通った尾根を越えて代々木に入れば、渋谷川の支流である宇田川水系の複雑に入り組んだ谷が広大に分布していて(「代々木九十九谷」と呼ばれていた)、出羽三山には到底及ばないのは勿論としても、山駆け修行の場としては、この周辺地域の中で、適地の一つだったと思われるのです。

Mizogaya

先の「金光寺」を開基した円海上人と、吉祥院を「中興開山」した圓海和尚が同一人物かどうかは、まだ全くわかりません。

ただ、先の幕府の修験道法度によって、慶長期以降は、羽黒流の寺院を新たに開くことは法令上不可能だったのですから、この吉祥院の開基が、少なくとも中世まで遡ることは疑いなく、そうなると、あくまで現在判明している限りでは、ですが、北沢・代田地区で最も早く創建された寺院であることは、まず間違いなさそうです。

北沢の八幡山浄光院森厳寺が、家康の二男結城秀康の位牌所として創建されたのは、慶長13(1608)年
http://www.shinganji.jp/?page_id=13
代田の代永山円乗院真勝寺の創建は、寛永2(1625)年ころ
http://www.tesshow.jp/setagaya/temple_daita_enjo.html

とのことですので。

なお…

溝ケ谷については、当方の Web の、

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Mizogaya01.htm
http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Mizogaya02.htm

もご参照ください。

加えて、

http://dagashi.org/tokyo/komaba1.html

の一番下の写真2枚が、まさに、1978年撮影の、冒頭の地図で、吉祥院跡上(略北)を横方向に走る「村道」です。

こういう写真を撮って、公開してくださる方がおられるのはありがたい。

コンクリートの敷石が「バラけて」いる様子は、笑ってしまうほど「記憶通り」。

【追記】

溝ケ谷の京王井の頭線築堤南(2016/01/24)

Dsc05977t
画面右奥が池ノ上駅

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コメント

駄菓子様
ご丁重なコメントありがとうございます。
貴Webの「恵比寿~渋谷」
http://dagashi.org/tokyo/ebisu1.html
にも懐かしい光景がいっぱい。
今後とも、折々立ち寄らせていただきます

投稿: baumdorf | 2016/02/02 10:10

こんばんは。dagashi.orgを作っている二邑亭駄菓子です。このたびは、お便りありがとうございました。ただ、いただいたメールアドレスが間違っていたようでお返事ができなかったので、ここに記入いたします。
30年近く前に、ふと撮った写真が、少しでもお役に立てたようで幸いです。やはり、あそこには何かあるような気がしましたが、そういういわれがあったのですね。大変勉強になりました。
今後とも、引き続きよろしくお願いいたします。

投稿: 駄菓子 | 2016/02/02 02:56

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