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2015/11/09

「世田谷の土地」展@世田谷区郷土資料館

世田谷上町にある

郷土資料館で開催中の標記の展示会
http://www.city.setagaya.lg.jp/event/1991/d00142277.html
に一昨日の7日に行ってきました。

当初は…

当方夫婦のスケジュール上11月末に行こうと思っていたのですが、「偵察」をお願いしていた「郷土館ご近所」の beckykusamakura氏 からのメールによれば、期待していた下北沢村や代田村の近世期の村絵図はないことがわかったものの*、一方で、かなり充実した図録が作られているらしいので、のんびりしていて売り切れになっては大変と、急きょ駆け付けた次第です。
 *区内の村絵図の類は、他村については、いくつかが、三田義春・編著「世田谷の地名」(上・下)
 世田谷区教育委員会・刊等に載っているのですが、上記両村のは見たことがありません。

 展示スペースの…

ほぼ4分の1強位は、農村地帯から東京都心部のベッドタウンに変遷する過程での区画整理事業に関するものでした。

が、当方の興味は近世、せいぜい近代初期の荏原郡、とりわけ下北沢・代田の両村にあったのですが…
 その面でも、現世田谷区の南の多摩川沿いにかかわるものが多くを占めていて、その点でもやや期待外れ。

 とはいえ、初見の「お宝」が2幅ありました。

一つは…

「世田谷領二十ヶ村絵図」(図録♯10)
 彦根藩井伊家の世田谷区域内の領地の総図ですが、旧・代田村飛地、
 後の下代田にわずかにあった井伊領、さらには高札場の位置が、かな
 り明確に示されています。

 S
 同抜粋図。右端近くの略台形とその下の略三角形のグレーの部分が井伊領。
 高札場は、下の略三角形のところにある。
 前掲「世田谷の地名(上)」p.182「第116圖」の解説によれば、ここは太子堂村
 の飛地だったようである。

【追記】

下記の「分見一分十間組合村縮図 武蔵国荏原郡第五區」を拡大してみると、この下代田内の井伊領は「太子堂村」の飛地であることが明記されていた。

Taishidohtobichi

もう一つは…

明治4年の
「分見一分十間組合村縮図 武蔵国荏原郡第五區」(図録♯50)
 急いで、ありあわせの地図をつなぎ合わせて作られたものらしく、
  地域(旧村)ごとに情報密度の差があって、
 下北澤村についてはかなり水路が詳細に描かれているものの、
 隣の代田村ではやや大雑把。
 旧井伊領に至っては北澤用水の流路すら不明
 という欠陥の多い地図ではありますが、下北澤村の現・茶沢通
 り東を流れていた、通称・森厳寺川や、三田用水を三角橋から
 分水した溝ヶ谷支流はかなり精密に描かれているようです。

 5s_2
 同図抜粋。
 右寄りの薄紫色が下北沢村で、里俗・森嚴寺川、三田用水とその分水の溝ケ
 谷分水が判読できる。
 左寄りの青みがかった灰色が代田村で、里俗・森嚴寺川の支流の同・ダイダラ
 ボッチ川の流路が読み取れる。

ここの資料館では…

館内の注意書きによれば「フラッシュでの撮影はご遠慮ください」とあります。

 逆にいえば「フラッシュ無しでの撮影はOK」*ということですので、この2幅については、有難く、フラッシュ無しで必要部分を「デジカメコピー」させていただいた次第です。

 *そもそもガラスケースに入っているい展示物の撮影にフラッシュ(ストロボ)を発光
  させても、かえってガラスで光が反射してまともな画像になる道理がなく、なにより、
  
強い光で展示物を痛めかねないので百害あって一利なし。
  鉄道の写真でも、動いている列車の運転席に向かってフラッシュを発光させる輩
  もいて、なんでそんな「おバカ」なことをするのか疑問だったのですが…
    ・フラッシュが発光していること自体に気づかない
   ・フラッシュが発光していることに気づいても止め方がわからない
    という、ここまで来ると「無能の範疇」の人種が結構いるらしいことに気づきました。
    自分のカメラなんだから、それ位のコントロールの方法は調べておいていただき
  たいものなのですが。

【追記】2017/04/11

たまたま…

手許にきた

「グラフせたがや」36(S63夏)号の特集記事「御師の見た化政期の世田谷 富士信仰のはなし」

その、p.12以下に、富士吉田市上吉田の富士信仰の御師、菊田貞信家に伝わる『菊田日記』に書かれている、菊田式部の世田谷各村の旦廻り、つまりいわば得意先廻りの件が解説されていた。

 そして、日記のうち、文化8(1811)年3月26日に、下北沢村森厳寺門前の伊藤家の茶屋に立ち寄った後、代田村名王斎田平吉宅に宿泊した日の条に
 榎本忠工門という人物について、同人は太子堂村の者で、「この代田村にも地所を開」き「広大に地所これ有り。代々富貴にて、人も堅く、無類安楽の由。珍らしき家なりけり」
との記述があるとのこと。

 解説文によれば、井伊領の太子堂村は、区史によると文化5年(1808)年当時、家数1戸、その家は、馬2頭を飼い、田はないが畑が屋敷地込みで1町4818か19歩(約1.5ヘクタール)とされ、この榎本家はかなりの豪農だったことがわかる(同p.14)。

 前記のとおり、下代田の小名松代あたりの台形の地域は

・井伊領であり    「世田谷領二十ヶ村絵図」
・太子堂村の飛地 「分見一分十間組合村縮図 武蔵国荏原郡第五區」

であり、代田村内あるいは代田村に食い込む形の他の飛地的な区域は、いずれも、世田谷村(井伊領)あるいは若林村(旗本領)のそれだったようなので、この松代の土地が榎本家が所持する土地だったと考えられる。

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