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2015/10/12

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 世田谷上馬の「常盤塚」

当ブログの…

 [諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 Part2]
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/05/part2-23e9.html

の末尾近くで指摘した

柳田國男「石神問答」末尾の「十三塚表」に記載されている

「若林」の「上馬引沢村の境に亙る」「十三塚」

に、行ってきました。

ここは…

世田谷区では「常盤塚」と呼ばれている場所*で、その伝承については こちら

*世田谷区指定史跡
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129099.html

Dsc04964st

 「路地奥のわかりにくい場所」といわれているので、今回ばかりは、事前に詳しい住宅地図で場所を確認していたのですが、行ってみると、世田谷通りの、環七との交差点の「若林交番」から西に向かい、横断歩道橋を過ぎるとほどなく、道路脇に小さな案内板が出ていましたので、迷いようがありません。

Dsc04962s

塚は、民家と駐車場に挟まれた細長い敷地の奥にあって…

Dsc04963s

それなりに綺麗に整備されています。

Dsc04970s

塚石

Dsc04968s

は、比較的新しそうなので、裏側に回って確認すると…

Dsc04966s

やはり、昭和58年建立と、この種の石碑の中では相当新しい*

*松原宿の庚申塔は、昭和55年建立なので、それよりさらに新しいことになる。

そこで…

かつては、どのような姿だったのか調べてみたら、

 「江戸名所図会」巻之三(第8冊)の「常盤橋」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937

の件に、「按に、此はしより二十歩ばかり東の方道より北側に松を植たる塚あり 是を常盤の墓と云 上に不動の石像あり 又同しく南の方にも塚あり 是なりともいへといつれか実ならん」(45コマ目。適宜空白挿入)*

とあります。

 しかし、「此はし」というのは、この場合、烏山川の支流を現・世田谷通りが渡る「常盤橋」を指していることは文脈上疑いようがなく、また。「二十歩」の「歩」というのは、昔の距離の単位で「間」と同じ1.82メートルですので、ここにいう常盤塚は常盤橋から36メートルほど東の、しかも道の北にあったことになります。

  「常盤橋」の方は地形的に位置がほぼはっきりしていますので、今「常盤塚」といわれている下図の場所は、距離的にも道路との位置関係の面でも名所図会の記述とは矛盾しています。

 Photo

 と、なると、今の「常盤塚」は、名所図会に「同しく南の方にも塚あり」とされている塚にあたると考えるられ、塚の上に不動明王の石像が安置されていたらしい塚は同書が出版された1834(天保5)年ころには残っていた十三塚中の一つ(上図)で、後に「エナ不動」*と呼ばれた場所ではないかと思われます。

なお、早稲田大学のライブラリにある精細版
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0045.jpg
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0008/bunko10_06556_0008_p0044.jpg

*三田善春・編著「世田谷の地名(上)」世田谷区教育委員会/昭和59年・刊 p.145【第90図】

この現・常盤塚の位置は…

上馬5丁目30番なので旧馬引澤村村内にあったことになり、かつては、先の「石神問答」のリストにあるように、旧若林村から「上馬引沢村の境に亙」って十三基の塚がランダムにちらばっていたうちの最南端のそれということになりますが、新編武蔵風土記稿でも

まず、風土記稿の巻之五一の「馬引澤村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同40-43コマ)では

「○塚 是モ上馬引澤ノ内若林村境二アリ 高五尺余ナリ若林及ビ當村ニテ十三塚アル其一ト云 コノ塚ハ始ニモシルセシ吉良頼康ノ妾常盤ヲ封ジタルモノトイヘリ 事ハ若林村ノ条ニモ出タレハ照シミヘシ」(42コマ目。適宜空白挿入)

と、高さが五尺余、つまり1.5メートルを越えるものだったことがわかります。

そこで、巻之五二の「若林村」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763982
の条(同49-50コマ)を「照シミ」すると

「○塚 村民勝右衛門ト云フ者ノ地内二アリ 塚上二高三丈圍五尺五寸許ノ古松樹アリ …<常盤伝説の解説が続く>…馬引澤村ヨリ此ノ邊二及フマデ十三人の塚アルハ常盤ヲ始メ残リ十二人ノ尸ヲ埋メシ塚ニテコレモ其一ナルヨリ人ノ口碑二ノコレリ 此ノ常盤ノコト素ヨリ疑ヒ多ケレハコノ塚ノ由來モ信シカタシ サレト土人ノ傳フルママ二シハラク置ヌ」

とあるのですが(要するに編纂者である幕府の「学芸員」さんも常盤伝説の信ぴょう性を否定している)、面白いのは、これに続けて

「アララギ塚 十三塚ノ外ナリ 由來ハ詳ニセス 側二死馬ヲ棄ル所アリ 或ハカノ十二人ヲ刑セシ所ニテ不潔ノ地ナレハ遂二馬死捨場ナリシナト 是モ土人ノ話ナリ」(以上50コマ目。適宜空白挿入)

とあることです。

 このアララギ塚の場所を直接示す史料はみつからないのですが、前掲・世田谷の地名(上)p.144【第88図 若林村絵図】によれば、「死馬捨場」は、烏山用水(川)の左(北)岸で、村の最東端の代田村との境にあったとされていますので、このアララギ塚もそのあたりにあったことになります。

 しかし、はるか昔、当地にあるめぼしい塚を数えたら14基あって、当時「はやり」の十三塚信仰と数が合わないので、無理無理「これだけは別」ということにした可能性も否定できません。

     【追記】
     「ランダムにちらばっている十三塚」の類例が、現・川崎市高津区/宮前区の旧・野川村にあったらしい
     ことがわかった

    Photo
    野川村「十三塚」江戸名所圖繪・巻之三(第8冊)<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994937>

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